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2009年4月21日 (火)

異説・天智天皇6

 斉明天皇の6年9月、百済は正式な使者をたてて、百済滅亡の経緯を天皇に奏上した。7月に新羅が強力な軍事力をバックに隣国のよしみを捨てて唐人と結託して百済を転覆させた。国王や重臣は捕虜となりほぼ残るものはいない、と言う趣旨である。

 これで見ると一方的に百済が犠牲者の立場にいるようだが、中国や朝鮮の文献を見ると抗争の根は深く、女帝が皇極として即位した頃から20年近くも続いている。すなわちこの間、百済が高麗と結託し、新羅をたびたび侵略していたのだ。

 そのため、新羅は唐に救済を求め、また唐も隋の時代から失敗を繰り返していた高麗攻略に転機を求めていた。それには百済・高麗同盟にくさびを打ち込み、南北に兵力を分散させたいと願っていた。日本は三国鼎立の状態で安定的に交流できるのが一番いい。日本国内でもぞぞれの文化や移住者を受け入れており、国内に抗争の要因を持ち込まれるのが一番困る。

 したがって、開明派が主流であった孝徳時代は、シリーズ3で述べているように保守・主戦派の巨勢徳陀古臣の積極策などは採用されず、積極介入を避けるのが賢明な方策だとしていた。それが一転、朝鮮出兵にかじが切られたのは次の事情である。

 百済でかろうじて唐の手から逃れていた鬼室福信という将軍が残党を募り、最初はほとんど素手で抵抗組織を立ち上げた。それで新羅の武器を奪い百済に精鋭軍を再建、王城を確保した。国民の人望は一挙に福信に集まり、唐もあえてこれを排除しなかった。

 その報告は、10月唐の捕虜100余人を引き連れた福信の使節によりもたらされた。そして、日本に質として滞在する王子・豊璋を帰国させ国王に擁立するとともに、軍事援助も求めてきた。これにすぐ反応したのが斉明女帝である。

 こんな要旨の詔勅をだした。「軍事援助を求められ、危機を救い、絶えたものを復活させることは昔から常道とされている。今国が亡び窮状を告げるところもなく、臥薪嘗胆して遠くわが国を頼ってきた。その志は無にできない。わが将軍に命じ、多くの道から進軍し新羅に向けて集まり雲の如く会い雷の如く動けばそのあだを返し、苦しみをやわらげよう。すぐ王子に礼をもって出発させよ」。

 女帝の堰を切ったような好戦的な宣言はどこから来たのだろう。暮れもせまっているのに出兵のため自ら難波宮に移り、出兵準備のため造船を指示し、兵糧の集積を命じた。『書記』はここでも、批判の童謡、わざうたや不吉な前兆のいくつかを紹介している。つまり世論は「反対」だったのだ。

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コメント

記事中の『保守・主戦派の巨勢徳陀古臣』とは山背大兄王を殺して上宮王家を滅ぼした巨勢 徳多と同一人物でしょうか。?
巨勢 徳多は乙巳の変後に出世して左大臣になっていますが、日本国内の勢力争いに、朝鮮半島の百済・新羅などの争いが連動していた可能性(代理戦争)は有るのでしょうか。?
可能性が少しでも有ると、これまでの歴史の見方が随分と違って見えてきます。

投稿: 逝きし世の面影 | 2009年4月22日 (水) 16時26分

同一人物でしょう。彼は乙巳の変の時、蘇我本宗家の親衛隊・漢直(あやのあたい)の説得に成功していますが、これは上宮王家攻撃以来の顔が利いたからでしょう。左大臣に取り上げた孝徳も若い頃この襲撃に参加しています。
おっしゃるように、けっこう有名な史家が「代理戦争説」をいろいろ書いていますが、『日本書紀』では説明がつかず、「書いていないことが本当」的な史料にもとずかない憶測が多いので賛成できません。
 乙巳の変の現場から逃げ帰った古人皇子が「韓人(からひと)が殺した」という、謎の発言が、いかにも代理戦争の存在を暗示しているようなことだけは認められます。

投稿: ましま | 2009年4月22日 (水) 17時06分

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