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2009年1月31日 (土)

日中関係史考6

 前回の張作霖爆殺事件から、次は満州事変のきっかけになった柳条湖鉄道爆破事件にもっていこうと思いますが、このブログですでに取り上げた事項のいくつかを知っていただくと参考になると思い、3件を要約してとりあげてみました。もう「知っているよ」とおっしゃる方はどうぞ飛ばしてください。

田中上奏文

 怪文書とは、ある目的をもって偽造、捏造された文書のことをいう。最近は文書に限らず映像までこれに加わった。怪文書はあくまでも怪文書であり、「歴史」とは無関係である。9.11の爆破自作自演説なるものもあるらしいが、通常ならこれは歴史になり得ない。
 
 しかし、世界各国の多くの人がこれを真実と信じるようであれば、その現象の背景にあるものを探索する意味はある。「田中上奏文」も、これと似た位置に置かれている。日本では戦前すでにこれが偽作であるということで決着しており、東京裁判でも「にせもの」という判断が下されている。

 歴史書でも全然触れないか触れてもわずかでしかない。そこでまずその概略を説明しておこう。昭和2年4月田中義一内閣が成立し、6月に外務・陸海軍当局者で構成する東方会議を開催して、対中国強硬策を決めた。その内容を天皇に上奏するためと称する厖大な文書がそれある。これには宮内大臣宛の代奏要請書簡がついているが、元来その任務は内大臣の担当であり、これが偽書説の有力な理由となっている。

 文書の内容は、満蒙政策を中心に21項目2万6千字にわたるもので、もし本物なら異例のボリュームと内容になる。そして問題になったのは、「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ず先ず支那を征服せざるべからず」という文言があり、その後の日本の行動がほぼその線に沿って進んだことである。

 このような露骨な征服野心丸出しの方針が、天皇を含めて昭和のはじめからあったとすれば、「追い込まれたためやむをえず戦争にまきこまれた」などという口実などスッ飛んでしまう。そして間もなく中国語、英語、ロシア語に訳されたものが出回りはじめ、各国の新聞にも掲載されだした。

 無論、日本の外務省はその存在を否定し、米国などでは偽作であることが次第に理解され始めたが、中国、ロシアではいまだに本物とする研究者があり、仮にそうでないにしても、日本のしかるべきところで作成された指針には違いないという解釈が根強く残っている。

 この文書の作成者や流出ルートなど、いろいろ研究されているが、これにもソ連の諜報機関関与説や中国人商人の暗躍など、怪文書にふさわしいいろいろな情報が交錯している。日本でも、その文脈から、日本人の手になる部分があることを否定しきれないと考えられている。

 張作霖爆殺後、期待?に反して後継者の張学良などが冷静で、反日騒動などの動きに出なかったことを陸軍の中枢が残念がった、という話があるぐらいなので、あるいは軍部の過激派が中国を挑発するために偽作したという線もなきにしもあらずである。陸軍出身の田中でさえ陸軍を抑えきれないという現象は、この時期に始まる。

 いずれにしても、日中両国の研究者にとってこの文書の持つ意味は大きく、今後、両国関係史を検討する中で単なる怪文書として捨てきれないものになると想像される。(参照文献『国境を越える歴史認識』ほか)

不戦条約

 昭和3年(1928)の流行語に「人民の名において」というのがあった。この年はスカートの丈が膝上になるとか、労働争議が続発するなど、大正デモクラシーの名残を残す一方、政府は治安維持法の強化をはかり共産党関係者1568人を検挙するなど、左翼の弾圧にも乗り出した。

 同じ年、パリ不戦条約が15カ国間で調印された。これが現行憲法9条1項の根源となっている。その中に「各国の人民の名において厳粛に宣言する」との表現があるが、当時、これは天皇主権をうたう我が国の憲法に違反する、という声が議会の中からでた。

 解釈次第ではどうにでもなることだが、そうはいかなかった。政府は、この部分に限り日本ヘの適用がないものと了解する、と勝手に宣言してその場をしのいだ。「人民」は、明治も最初の頃はpeopleの訳語として当然のように使われていたのだが、この頃から語感としてなんとなく体制と相容れないような位置に追いやられ、今では社会主義国だけが使う特殊用語だと思っている人も多い。

五・一五事件

 評論家・保阪正康氏の著書に『昭和史七つの謎』(講談社文庫)というのがある。その第一話が「日本の<文化革命>は、なぜ起きたか?」である。項立ては、「五・一五事件の減刑嘆願運動」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「中国の<文化大革命>との類似点」と続き、最後を「なぜ日本人は変調したか」でしめている。

 五・一五事件は、ご承知のように昭和7年(1932)、陸海軍将兵が犬養首相を襲い「問答無用」とばかり射殺したテロ事件である。氏は関与した陸軍の軍法会議の模様を、『日の出』という雑誌の昭和八年十一月号付録「五・一五事件の人々と獄中の手記」を次のように引用する。

  「公判前までは(減刑嘆願運動は)愛国団体以外にほとんど見るべきものが無かつたが、公判半頃より陸軍の論告求刑を境として、つひに大衆運動と化した。そして判決の九月十九日までに三十五万七千余通の嘆願書と、奇しくも被告人の人数と同数の十一本の指が公判廷へ運び込まれたのである」

  さらに、若い士官候補生が純情無垢で「赤裸々に吐露する態度を見る時、ただわけもなく涙ぐませるものがあった」という記者の感想をつけ加えている。この裁判の判決が禁固四年という予想外に軽いものだったことから、後の2.26事件を誘発するひとつのきっかけだったという分析は、ほぼ通説になっている。

 しかしテロ行為を国民が容認・支持しているということには結びつかない。指を送りつけたというのは、暴力団が脅迫に使う行為だ。庶民に指をつめるなどという風習はない。この事件を組織した黒幕は、一人一殺を唱えた井上日召傘下の極右である。同書は前述の資料をあげただけでその点についての分析はない。

  さらに、同氏は昭和8年3月、国際連盟脱退を宣言して帰国する松岡洋右代表について、次の一例を加えた。当時は、新聞各紙(十二紙)が「国際連盟諸国中には、東洋平和の随一の方途を認識しないものがある」との共同宣言を発表し、松岡の行動を讃えた。松岡が横浜に戻ってきたとき、埠頭には二千人余もの人びとが駆けつけ、歓声をあげた。松岡も喜色満面で手を振ってこれに応えている。

 この例は、マスコミの世論誘導と埠頭の二千人をあげているが、それをもって国民世論とするのは無理がある。大部分の国民は国際会議のかけひきなど関心外で、日常の生業に励んでいたはずだ。それから2.26事件、同氏はこれこそ日本の<文化大革命>と位置づけ、以後を国民は「錯覚と陶酔のなかに生きた時代」とする。

 同氏所論の最大の欠陥は、脚色されたマスメディアだけに頼り、発言を封じられたサイレント・マジョリティー、すなわち特高警察からふとした日常会話を咎められて、摘発・検挙された一般人の記録などに目を向けず、それらを「国民」から除外してしまったことである。

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