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2009年1月

2009年1月31日 (土)

日中関係史考6

 前回の張作霖爆殺事件から、次は満州事変のきっかけになった柳条湖鉄道爆破事件にもっていこうと思いますが、このブログですでに取り上げた事項のいくつかを知っていただくと参考になると思い、3件を要約してとりあげてみました。もう「知っているよ」とおっしゃる方はどうぞ飛ばしてください。

田中上奏文

 怪文書とは、ある目的をもって偽造、捏造された文書のことをいう。最近は文書に限らず映像までこれに加わった。怪文書はあくまでも怪文書であり、「歴史」とは無関係である。9.11の爆破自作自演説なるものもあるらしいが、通常ならこれは歴史になり得ない。
 
 しかし、世界各国の多くの人がこれを真実と信じるようであれば、その現象の背景にあるものを探索する意味はある。「田中上奏文」も、これと似た位置に置かれている。日本では戦前すでにこれが偽作であるということで決着しており、東京裁判でも「にせもの」という判断が下されている。

 歴史書でも全然触れないか触れてもわずかでしかない。そこでまずその概略を説明しておこう。昭和2年4月田中義一内閣が成立し、6月に外務・陸海軍当局者で構成する東方会議を開催して、対中国強硬策を決めた。その内容を天皇に上奏するためと称する厖大な文書がそれある。これには宮内大臣宛の代奏要請書簡がついているが、元来その任務は内大臣の担当であり、これが偽書説の有力な理由となっている。

 文書の内容は、満蒙政策を中心に21項目2万6千字にわたるもので、もし本物なら異例のボリュームと内容になる。そして問題になったのは、「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ず先ず支那を征服せざるべからず」という文言があり、その後の日本の行動がほぼその線に沿って進んだことである。

 このような露骨な征服野心丸出しの方針が、天皇を含めて昭和のはじめからあったとすれば、「追い込まれたためやむをえず戦争にまきこまれた」などという口実などスッ飛んでしまう。そして間もなく中国語、英語、ロシア語に訳されたものが出回りはじめ、各国の新聞にも掲載されだした。

 無論、日本の外務省はその存在を否定し、米国などでは偽作であることが次第に理解され始めたが、中国、ロシアではいまだに本物とする研究者があり、仮にそうでないにしても、日本のしかるべきところで作成された指針には違いないという解釈が根強く残っている。

 この文書の作成者や流出ルートなど、いろいろ研究されているが、これにもソ連の諜報機関関与説や中国人商人の暗躍など、怪文書にふさわしいいろいろな情報が交錯している。日本でも、その文脈から、日本人の手になる部分があることを否定しきれないと考えられている。

 張作霖爆殺後、期待?に反して後継者の張学良などが冷静で、反日騒動などの動きに出なかったことを陸軍の中枢が残念がった、という話があるぐらいなので、あるいは軍部の過激派が中国を挑発するために偽作したという線もなきにしもあらずである。陸軍出身の田中でさえ陸軍を抑えきれないという現象は、この時期に始まる。

 いずれにしても、日中両国の研究者にとってこの文書の持つ意味は大きく、今後、両国関係史を検討する中で単なる怪文書として捨てきれないものになると想像される。(参照文献『国境を越える歴史認識』ほか)

不戦条約

 昭和3年(1928)の流行語に「人民の名において」というのがあった。この年はスカートの丈が膝上になるとか、労働争議が続発するなど、大正デモクラシーの名残を残す一方、政府は治安維持法の強化をはかり共産党関係者1568人を検挙するなど、左翼の弾圧にも乗り出した。

 同じ年、パリ不戦条約が15カ国間で調印された。これが現行憲法9条1項の根源となっている。その中に「各国の人民の名において厳粛に宣言する」との表現があるが、当時、これは天皇主権をうたう我が国の憲法に違反する、という声が議会の中からでた。

 解釈次第ではどうにでもなることだが、そうはいかなかった。政府は、この部分に限り日本ヘの適用がないものと了解する、と勝手に宣言してその場をしのいだ。「人民」は、明治も最初の頃はpeopleの訳語として当然のように使われていたのだが、この頃から語感としてなんとなく体制と相容れないような位置に追いやられ、今では社会主義国だけが使う特殊用語だと思っている人も多い。

五・一五事件

 評論家・保阪正康氏の著書に『昭和史七つの謎』(講談社文庫)というのがある。その第一話が「日本の<文化革命>は、なぜ起きたか?」である。項立ては、「五・一五事件の減刑嘆願運動」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「国際連盟脱退と日本人の思考」・「中国の<文化大革命>との類似点」と続き、最後を「なぜ日本人は変調したか」でしめている。

 五・一五事件は、ご承知のように昭和7年(1932)、陸海軍将兵が犬養首相を襲い「問答無用」とばかり射殺したテロ事件である。氏は関与した陸軍の軍法会議の模様を、『日の出』という雑誌の昭和八年十一月号付録「五・一五事件の人々と獄中の手記」を次のように引用する。

  「公判前までは(減刑嘆願運動は)愛国団体以外にほとんど見るべきものが無かつたが、公判半頃より陸軍の論告求刑を境として、つひに大衆運動と化した。そして判決の九月十九日までに三十五万七千余通の嘆願書と、奇しくも被告人の人数と同数の十一本の指が公判廷へ運び込まれたのである」

  さらに、若い士官候補生が純情無垢で「赤裸々に吐露する態度を見る時、ただわけもなく涙ぐませるものがあった」という記者の感想をつけ加えている。この裁判の判決が禁固四年という予想外に軽いものだったことから、後の2.26事件を誘発するひとつのきっかけだったという分析は、ほぼ通説になっている。

 しかしテロ行為を国民が容認・支持しているということには結びつかない。指を送りつけたというのは、暴力団が脅迫に使う行為だ。庶民に指をつめるなどという風習はない。この事件を組織した黒幕は、一人一殺を唱えた井上日召傘下の極右である。同書は前述の資料をあげただけでその点についての分析はない。

  さらに、同氏は昭和8年3月、国際連盟脱退を宣言して帰国する松岡洋右代表について、次の一例を加えた。当時は、新聞各紙(十二紙)が「国際連盟諸国中には、東洋平和の随一の方途を認識しないものがある」との共同宣言を発表し、松岡の行動を讃えた。松岡が横浜に戻ってきたとき、埠頭には二千人余もの人びとが駆けつけ、歓声をあげた。松岡も喜色満面で手を振ってこれに応えている。

 この例は、マスコミの世論誘導と埠頭の二千人をあげているが、それをもって国民世論とするのは無理がある。大部分の国民は国際会議のかけひきなど関心外で、日常の生業に励んでいたはずだ。それから2.26事件、同氏はこれこそ日本の<文化大革命>と位置づけ、以後を国民は「錯覚と陶酔のなかに生きた時代」とする。

 同氏所論の最大の欠陥は、脚色されたマスメディアだけに頼り、発言を封じられたサイレント・マジョリティー、すなわち特高警察からふとした日常会話を咎められて、摘発・検挙された一般人の記録などに目を向けず、それらを「国民」から除外してしまったことである。

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2009年1月30日 (金)

品格ないのは横審委

 初場所で優勝した朝青龍が、土俵上で「ガッツポーズ」をしたといって、横綱審議委員が相撲協会に苦言を呈した。それで、協会の武蔵川理事長(元・三重ノ海)が、朝青龍の師匠・高砂親方(元・朝潮)を呼びつけて注意した。まるで、PTAの幹部が児童の親のしつけが悪いと校長にいいつけ、校長が児童いない留守を見計らって親を呼び注意したようなものだ。

 朝青龍のどこが悪いのかわからない。TV観戦していたが、あれは「ガッツポーズ」ではない。土俵を降りる際、観客からの割れんばかりの拍手・歓声に感極まり、両手を挙げて応えただけだ。誰も予想しなかったことを達成させた感激の場面、といってもいいだろう。

 横審委はそれが気に入らなかったようだ。3場所連続休場の上、けがの不安を残したままけいこ不足、場所前のけいこ総見でも頼りなさそうだった。これでは3日で連敗・休場、引退となるのではないかと、誰しもが思った。それが逆になり、最初こそかろうじて勝ったように見えたが、中日には一段と気力が加わって、最後は全く不安のない強さを発揮した。

 こうして、横綱の名にふさわしい「品格」を身を以て守り、大勢のファンに「やればできる」という勇気を与えて国技館は大にぎわいだった。それに対して横審委の行動には、なにか偏見を持ったこだわりがあるように感じられる。念押しのから振り、あれだって元横綱・曙は「それくらいの気構えがなければ相撲はとれない」といっている。

 狭量でどっしりと構えたところがなく、やんちゃな横綱の一挙手一投足にかまけている横審委の方こそ、日本の国技を守る品格に、どこか欠けているところがあるのではないか……。と思うのだが皆様はいかがです?。

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2009年1月29日 (木)

海賊対策

 アデン湾に出没するソマリア海賊に対し、海上自衛隊を派遣することが問題になっている。国民の立場から見て問題をわかりにくくしているのは、本質を離れた点で議論が行われているからである。

 「海賊がでて世界で困っている」、それならば海上自衛隊であろうが、海上保安庁であろうが行って商船などを護衛すればいいではないか。問題は簡単だ。それが議論になるのは、「護衛」だけでなく「戦闘」とか「逮捕」までしよう、というからだ。

 アテンドする商船が襲われそうになったら、それを妨害すればいいだけで、海賊を「撃沈」する必要はない。相手から撃ってくる?、相応にお相手すればいいので、それで撃沈されるようなヤワな自衛艦なら行かない方がいい。第一、対艦ミサイルや魚雷でも装備しているならともかく、海賊が軍艦に刃向かってくることなどあるだろうか。

 2番目の問題は、海賊というが、昔の伝統的なおいはぎ海賊と一緒にしていいのか。身代金目当てといわれるが、その出撃基地は広範囲で、人質を安全に確保する上でも相当組織的・計画的なオペレーションが必要だ。

 まず、バックがあることを考えなければならないが、それを示唆する報道は見あたらない。知られていることは、エチオピアの侵攻で、イスラム過激派の「イスラム法廷会議」を首都から放逐したあと「暫定政府」を擁立したが、国内を把握しきれていないことだ。

 エチオピアが撤退したあと、依然として無政府状態が続くソマリアに対して、アフリカ連合や国連が関与しようとしているが、ソマリア人は相手がどこであろうが外国人の関与には激しい抵抗を示す。アメリカもかつての武力介入で手痛い目にあっている。

 反面、イスラム会議が支配していた頃は、治安が維持され海賊も出没しなかったという。このイスラム過激派は、昔からテロリストの隠れ家になっていたとされ、エチオピアをはじめ周辺国、アメリカなどから敵視されていた。アフガンのタリバンと似ているところがある。

 この国で海賊出撃基地をコントロールできる安定政権ができない限り、この先もいたちごっこは続くだろう。日本では国連のPKO参加などが検討されているようだが、これも他国に追随するだけで、独自の解決策があるわけではなく、外交努力のあとも見えてこない。

 そして最後の問題が、民主党を含む防衛族の海自本格派遣を急いでいる不純な動機だ。これは、新聞報道されたが、中国海軍の派遣を見て対抗上日本の無力をさらしたくない、という隣人に対するみえみえのねたみである。さらには、これを機に改憲論議に引き込みたいという底意もうかがえる。

 たまたま、「日中関係近代史考」の原稿を考えていたので、1919年(大正8)の第一次大戦パリ講和会議で日本が突如提出した人種差別撤廃問題との類似性が浮かんだ。くわしく書く余裕はないが、人道上の一般問題ではなく、アメリカと中国のからんだ見栄の張りあいだったのである。

 これには参謀本部の強い意向が反映している。どういうことかというと、アメリカの日本人移民が「支那人」その他と同一の市民権しか得られないという、いわゆる排日移民法に抗議する意味があった。これを主張しないと日本の「武威」にかかわり、中国から侮蔑されるということだ。

 アメリカの州法にかかわり、公平を欠く意見が、アメリカに受け入れられるはずもなく失敗した。そのうえ、突然の提案の意図が各国から奇異の目で見られたこともつけ加えておこう。

 今、平和憲法を持つ日本が隣国と意地を張り合う姿は、改憲を迫ったブッシュの残党をのぞき、海自派遣問題を越えて世界から奇異に見られるのではないか。

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2009年1月28日 (水)

鳥インフルエンザこわい

 2009_01270011 この鳥はツグミです。窓ガラス越しで撮ったので白っぽいけと゛、本当は茶と黒に近い色です。いつも今頃でてきて収穫後のキャベツに群がります。この一角だけで100羽は優に超えるでしょう。4月にはシベリヤに帰る渡り鳥です。

 彼らは、彼女らはわが家のブロック塀をもって、公衆便所と心得ています。用をたすとしばらく休んでまた下のキャベツを食べにゆきます。それにしても緑あざやかのもあり、いつ消化するのだろう?。

2009_01270013  そう!、鳥インフルエンザ~。一応疑ってみるのかな、過剰反応かな、わかりません。鳥あえず、窓は絶対に開けず、バラにまく農薬の余りをかけて見ることにしました。

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2009年1月27日 (火)

原油価格のこれから

 このブログで「原油暴落の日」という記事を書いたのは、去年の5月31日である。その時がWTI価格で131.03/blドル、すさまじい高騰ぶりに、これはいずれ劇的な暴落になるぞという予感がした。

 アメリカでは既にサブプライム・ローン問題が取りざたされ、逃避した資金が商品取引に向かったという解説があった。また、原油価格の30~40%が投機資金によるもので、実勢価格は55ドル前後ともいわれていた。

 それをあざわらうように、7月3日、ついに145.29ドルの最高値をつけた。そして中国・インドの需要増、中東などの不安定をいいはやし、200ドル突破も視野に、などと予測する経済専門家もでた。しかし、これは供給力にフレキシビリティのある鉱物資源の特性や、波動する市場原理を無視したものといえよう。

 それが一転、昨年末には30ドル台、現在も45ドル前後を低迷している。いかに予想が当たったとはいえ、まさか100ドルも下がるとは思わなかった。もちろん100年に1度のリセッションが響いているが、またこれも将来を占うベースにはなりえない。

 昨年11月に、2008年版『IEAエネルギー白書』が発行され、例年のように価格予測が掲載された。それによると、2030年に122ドルとある。これは、2007年版から60ドル上方修正されているが、昨年のバブル価格が実績として上乗せされているからであろう。

 誰が予測するにかかわらず、不自然な投機の要素が加われぱ将来の予想など不可能としかいいようがない。湾岸産油国における井戸もとコスト3~5ドル、米国陸上における10ドル台後半から、バブルで見た145ドルまで、どの点でも取り得る。

 さらにどうしても石油系でなくては(今のところジェット燃料、石化製品など)という用途のためにいくら出してもという需要があれば、石油枯渇までに何百ドルでも出現するだろう。しかし上述の白書によるエネルギー需要の伸びは、06年から30年までの間年率1.6%と予測しており、そのような事態は当分なさそうだ。

 結論はひとつ。究極の原油価格は市場で決まるが、思惑やマネーゲームでは決まらない。エネルギーの需要、供給は自然現象ではなく、節約とか新技術、代替エネルギー開発そして市場の監視などで人為的に決まる、ということになれば、去年のようなことは当分起こらないだろう。

 これまでのこのカテゴリは、雑誌『石油文化』から求めた資料が多かったが、2009年1号を以て同誌の休刊が決まった。総合雑誌の不振休刊が続くが、57年間業界の指針となってきた同誌の休刊は、惜しまれるものがある。なお石油・エネルギー関連記事は、同名のカテゴリでご覧いただきたい。

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2009年1月26日 (月)

オバマは期待できるか

 オバマ大統領就任式は、空前のフィーバーぶりだった。それもアメリカ国内だけでなく、これまで敵視されていた国を含む世界の各地から期待のまなざしを受けての登場である。オバマが大統領に就任した翌日の21日から3日間、ギャラップ社が全米のおよそ1600人の有権者を対象に行った世論調査によると、オバマの大統領としての働きぶりを支持すると答えた人が68%、支持しないが12%、どちらともいえないが21%だったそうだ。

 この支持率を多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだろうが、日本の細川内閣発足時が75%、小泉内閣85%(毎日新聞)と聞くと意外に少ないと思う人がほとんどではないか。日本の識者の間でもお国柄からして過剰な期待は無理という抑制した論調が目立つ。

 その一方で、黒人大統領の出現をもって、「チェンジ」「イエス・ウイ・キャン」がアメリカの体質にまで及ぶ、また、及ばさなければならないとする意見も依然として根強い。率直なところ、この68%という数字は、アメリカの保守性と現状打破願望を加味したリアリティーを持つ数字ではないか。

 私が注目するのは、南米ベネズエラのチャベス大統領である。かつてはアメリカの裏庭であった中南米は、今世紀に入ってすっかり「反米大陸」に変貌した。チャベスは、長年にわたるアメリカ資本のあくなき浸食と、それを代弁するアメリカ政府の露骨な政治干渉に反旗をひるがえした中南米反米左翼政権の代表格である。
 
 2006年の国連総会で、ブッシュ米大統領を名指しで、8回も「悪魔」と呼んで非難した。それは、中南米で歴代繰り返されたような、卑劣で欺瞞にみちた力の政策が、ブッシュにより中東を中心に繰り返されていると見たからだ。そのチャベスが、一抹の警戒を解かないものの、オバマの出現に対しては歓迎の意向を示した。

 イランなどイスラム圏でも、オバマの出現による関係改善に期待を寄せている。オバマの公約に善意を感じているからであろう。しかし、中南米にふえた左翼政権各国は、身近な存在であるだけにもっと複雑だ。これまであまり世界に知られてこなかったが、CIAの暗躍、アメリカ軍学校によるクーデター要員の組織的養成、腐敗・買収、政治テロの繰り返しは、目に余るものがあった。

 アメリカのアメとムチによる過酷な干渉と搾取は、開国以来のものといってもよく、きのうきょうに始まったことではない。その手練手管をすべて知り尽くしており、また不信感も骨の髄までしみこんでいるのが中南米諸国だ。そして、近いからこそアメリカの国民性や政略がよく見え、分析も的確になる。つまり、アメリカの政権交代で劇的に変化したなどという歴史がないということだ。

 そのチャベスが、オバマから何を感じ取ったのだろうか。やはり、アメリカに変化の兆しを見たのであろうか。ロビーイストを排除し、軍需会社や石油会社、あるいは農業資本などの献金をあてにせず、大衆の零細な寄付で膨大な選挙資金を集めたオバマ、そのオバマ流の変化を高く評価したのだろうか。

 仮にそうだとすると、本塾からもオバマに期待票を一票投じたい気持ちになる。

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2009年1月24日 (土)

日中関係史考5

張作霖謀殺事件
 戦時中から戦後にかけ、傍若無人、独断専行、なんでも人にかまわず思った通りやってしまう人を俗に「関東軍」といいました。田母神元空幕長はそうではないと思いますが……。関東軍の「関東」は、日本の関東ではなく、万里の長城、山海関の東ということで、日露戦争以後の利権守備隊がそのはじまりです。

 その関東軍が独走し、謀略に精出すようになったのは、大正末期からです。中国は、辛亥革命後も各地の軍閥による勢力争いが耐えず、まさに戦国時代の様相を呈していました。関東軍は、関東(満州)の安全のためにといって、北京を中心に各軍閥に軍人をもぐりこませ、軍事援助、買収、裏切りなど、思いのままに謀略を繰り広げていました。

 今回は張作霖謀殺事件を取り上げますが、これは関東軍独走の一典型として、犯行の中味と結末だけをを書いてみたいと思います。主に参考にしたのは、防衛・外務両省の資料を精査し、中立的立場から書かれたとされる島田俊彦『関東軍』(講談社学術文庫)です。

 昭和3年(1928)6月3日夜、奉天と北京を結ぶ京奉線の鉄橋に爆薬を仕掛け、通りかかった満州を地盤とする軍閥・張作霖が乗った列車が爆破されました。その謀略の首謀者は、関東軍高級参謀・河本大作大佐で、張は間もなく死亡します。

 河本は、約半年前から鉄道爆破の予行演習を繰り返し、世間の反応を見るなどのケーススタディーを繰り返していました。それらが中国人の仕業と解釈されることも多く、各軍閥を挑発して混乱を招けば、満州の安全を理由とする関東軍の出動が可能になると考えたのでしょう。後の満州事変誘発と変わりありません。

 計画は民間商人の手も借りて進めました。遊郭経営の中国人の配下にいるモルヒネ患者のならず者2名と、王某の3名に100円から150円を与えて買収、当日の早朝入浴と散髪をすませ、サッパリした衣服に着替えさせました。

 その後、王某は危険を察知して逃亡、残る2人は、列車爆破のため爆弾を投げるのが役目だと教えられました。さらに反張派の爆破命令を書いたにせ密書3通を懐に入れさせます。そして河本大佐に引き渡されたのです。

 自動車で爆破予定現場に着くと、中国人の2名は日本兵に直ちに刺殺されました。そして、死体にはかねて用意の爆弾を抱かせ、現場に放置されました。爆薬は100~150㎏が装填され2人が持つには重すぎます。それは約200m離れた所と導火線でつながれました。

 爆破は、実に見事に実行されました。この一連の謀略について疑惑を持たれた関東軍は、陸軍次官に当てた電報で犯行を否定し、疑惑をほのめかすような新聞・報道は厳に取り締まるよう要請しました。それで国内ではこれを「満州某重大事件」などと言いかえてごまかしましたが、かえって軍関与を匂わせる結果になっています。

 しかし悪いことはできません。当時の野党・民政党の議員や中国側の調査で続々とボロが出てきました。爆薬の量が便衣隊の仕業にしては多すぎただけでなく、入手経路も明らかになりました。また、途中で逃げた王某の証言や、殺された2人の顔を見ている風呂屋の主人がまちがいないと証言するなど、政府も放置できなくなりました。

 田中義一総理は、天皇に「軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰します」と伝えていたにもかかわらず、閣議でうやむやにしておいた方が得策だという結論になり、河本を退役処分にしただけでした。それを天皇に報告すると、天皇は「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と強い言葉でたしなめました。

 それで、田中内閣は総辞職しますが、天皇の発言が理由で内閣が倒れたのは、あとにも先にもこれが始めてです。天皇はこの事を反省し、以後内閣の上奏したものは、反対であっても裁可するようにしたと戦後になって語っています。なお、余談ですが桜井よしこ氏などが、ロシア諜報機関のしわざだという史料が発見されたという主張をしていますが、専門家筋からは一笑に付されています。

 

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2009年1月23日 (金)

ドバイがヤバイ

 「ドバイがヤバイ」ある地方紙のコラムでこんな駄洒落を目にした。ドバイはUAE(アラブ首長国連邦)の中で面積は2番目だが経済大国である。日本の原油輸入もここからが一番多い。海を埋め立てて世界一高いノッポ・ホテル(宿泊料も高いらしい)や金融・物流拠点を槌音高く建設する光景は、TV映像でよく紹介された。それが今や閑古鳥が鳴く有様だという。

 アラビア半島の大部分はサウジアラビアだが、ペルシャ湾側には、クエート、バーレーン、カタール、UAE、オマーンなど、日本でいえば小さな島から地方自治体程度の広さの国がある。いずれも王様というか酋長というか特定の家柄が支配する国々である。

 いずれも、過去は沿岸貿易の拠点として商業で稼ぐか、海賊をなりわいとしていた。今は石油である。最大の埋蔵量を誇るサウジアラビアは、どちらかというと原油は売りまくらなくてもできるだけ温存しておきたい方である。しかし先行き枯渇すると見る国々にも、去年前半までの原油高でとうてい使い切れないほどのドルが舞い込んだ。

 砂漠しかなかった所へ、ポスト石油にそなえて、それこそ地域に不釣り合いな「国土改造」を始めたのだ。その頃から、ドバイはヤバイのではないかなあという気がしていた。別に経済分析や投資効率などを精査したわけではない。

 これは30年ほど前、知人の日本人ムスリムでアラビアで仕事をしていた人から聞いた話である。最初はカタール。

 石油輸出で思わぬ大金が入ってきた王様が何に使うか頭を悩ましていた。そこへやってきた商社マンはジェット戦闘機を買ったら、と提案した。王様は早速それに従ったが、さしあたり何に使うかのあてがない。そこで、お妃やお姫様たちを庭に集め、アクロバット飛行を見せてみんなで楽しんだ。

 ややガセっぽい話だが、次のサウジの話はありそうだ。

 真水に乏しいサウジでは、大規模な浄化装置を設備し、首都リヤドは緑に覆われ噴水までできた。王様は、次ぎに国民のために何に使うかを先進国の要人に相談した。要人は国民の大部分を占める貧しい遊牧民のために、リヤドに立派な集合住宅を作り、無料で住まわせて新たな仕事、例えば石油工場の運転監視などをさせてはどうか、といった。

 早速それを採用し、豪華マンションを作った。そして、遊牧民も入居したがしばらくするとみんな出ていってしまった。遊牧民にわけを聞くと「同じ場所にいるとゴミがたまり、よごれも出て不潔だ。それより砂漠の上のテントでも、次々と新しい場所を求めて新天地を開くのが砂漠の民ベトウィンの魂だ」といった。

 そういえば、リヤドで働くサウジ人は自動車運転手がほとんどで、石油工場の計器を朝から晩までにらんでいるような仕事は、インド人とかフィリピンなど外国人だという。ドバイも自国民は人口の20%しかいない。 

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2009年1月22日 (木)

中国政府の人権意識

 中国政府は、3月28日を「西蔵(チベット)100万人農奴解放記念日」とすることを決めた。これについて1月21日の「人民網日本語版」は、海外の一部の人々によって不断に訴えられてきたいわゆる「チベット問題」が、農奴解放を無視して過去に戻そうという間違った考えだという論文を掲載した。

 そして、欧州議会のチベット問題協調グループのトーマス・マン代表が記念日設定に対し「チベット人に対する最大の侮辱だ」という見方を示したことについて、人口の90%を占めていた100万人規模の農奴や奴隷を指していうならそれこそ逆に侮辱に当たると反論した。

 中国とダライ・ラマの会談の中味がサッパリわからないので、なんともいえない面があるが、ダライ・ラマ側の要求は、本文の中でも触れている「本当の自治」や「中間路線」で、農奴制の復活ではないだろう。

  もしそうであれば“人口の90%を超える農奴”の中からあれだけ大勢の人が“暴動”を起こすわけがない。たとえ農奴であろうとも犯し得ない思想信条の自由がある。それが封じられているからではないか。

 最後に次のように締めくくっている。こういった発想は、日本の侵略戦争に対する歴史認識問題、世界の少数民族問題にもかかわり、中国自体にも台湾や尖閣諸島の帰属に跳ね返ってくる。また、世界が持つ人権感覚とのズレが念頭にない。歴史問題で相互理解を深めようと意図する本塾にとって、中国政府のかたくなな態度は残念としかいいようがない。

 今日の欧州が500年以上前の中世の欧州に逆戻りすることはできない。今日の米国が南北戦争以前の米国に戻ることもできない。今日のチベットも同様に、政教合一の封建農奴制の旧チベットに戻ることはできないのだ。

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2009年1月21日 (水)

日中関係史考4

中国から見た日本
 前回までに、中国人(特に学生を中心に)を決定的に反日、排日に追いやったのは、第一次世界大戦のあと、中国にとつて屈辱的な「対華21カ条要求」を飲ませてからだといいました。それでは、過去の長い歴史の中で中国人が日本または日本人をどう見ていたか、両国の関係はどうだったかを、ここであらためて振り返って見ましょう。

 前の「朝鮮・韓国」シリーズでは記事の中でとりあげましたが、今回は前身のブログでもそうしたように、手抜きをして下記の浙江省大学の王勇氏の著書『中国史のなかの日本像』(社)農山漁村文化協会の目次を見るだけで想像していただきたいと思います。

 それによると、決定的に日本が嫌われていたのは、明の時代に和冦が沿岸を荒らしまくっていた頃ぐらいで、基本的にはよいイメージを持たれ続けたようです。また日本人の方からは「元寇」ということになるのですが、これは「朝鮮・韓国」シリーズでも述べたように、中国・朝鮮も被害者だったことを考慮すべきでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~
第一章 神仙の郷――幻想的な日本像
 日本の有史以前。徐福が目指した?君
 子不死の国、蓬莱の国などのイメージに
 ついて。
第二章 宝物の島――実像と虚像の間
 魏志倭人伝から黄金伝説まで。
第三章 器用な民――虚像から実像へ
 飛騨工の伝承や、輸入される日本扇、日
 本刀など精巧な工芸品への驚嘆、賛辞。
第四章 礼儀の邦――モノからヒトへ
 呉人の後裔という考えや中国ですたれた
(柏手による参拝など)遺風が守られてい
 るという考え。遣唐使の立ち居振る舞い
 のすぐれていることなど。
第五章 好学の士――華夷の壁をこえて
 唐代からあと、ことに仏僧を中心に、経
 典、書道、漢詩、絵画、彫刻などで日本
 の高いレベルが評価され、言語の障壁を
 乗り越えた相互の研鑽と交流が続いた。
第六章 白骨の山――日本像の豹変
 元寇で平和な関係が一転し、日本像が変
 わっていく。しかし、中国は日本への侵
 攻より敬遠、回避の道を選ぶ。
第七章 海彼の冦――海賊から妖怪へ
 元から明にかけての倭冦被害で、日本人
 の残虐性と狡獪性がクローズアップされ
 る。狡猾とされるのは、南北朝時代や室
 町時代の日本政権が約束を守れず、また
 公式船と見せかけておいて略奪行為をし
 たことなどがある。また豊臣秀吉は妖怪
 ・悪鬼の扱いをされていた。
第8章 西学の師――近代化の手本
 明治維新は中国近代化への先駆として注
 目された。
終章 幻想の破滅
~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 辛亥革命で清朝は倒れたものの、孫文が目指したような近代的な政権ではなく、軍閥が力を競い合うような不安定な状態が続きます。その中で真剣に日中の間のことを心配し、憂慮した人々がいました。もともと親日家だった孫文は1924年(大正13)に来日し、神戸大学で帝国主義と化した日本に迫る悲痛の演説をします。

 「日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか、はたまた、東方王道の干城となるを欲するか」

 これについて、孫文に支援を惜しまなかった右翼の大物、頭山満の発言は、このシリーズの1「日露戦争のトラウマ」編に記載しました。もうひとり、辛亥革命の協力者であった熊本県出身の大陸浪人・宮崎滔天の死に対し、孫文は上海で追悼大会を開催しました。

 現在の中国でも、「宮崎は中国人民の真の友人、傑出した国際的友人であり、同時に中国人民の革命隊列の中で思想が堅く、不屈であった一人の外国人革命戦士であったといえる。彼は中国人民の革命事業に対し、また中日両国民の友情あふれる交流に対して貴重な貢献をなした」と、最大級の賛辞が寄せられています。(前述書)

 こういうと、右翼に「媚中派」が多かったのかと思う人がいるかも知れませんが、そうばかりではありません。反戦を訴える文学や軍事拡張に批判的な社会主義者の存在もありました。また明治の元勲は、概ね中国との摩擦を避けたいという考えでした。同時に「幣原外交」と呼ばれ、欧米の潮流に従った中国への内政不干渉を打ち出す外務大臣の存在もありました。

 しかし、大正デモクラシーと呼ばれた自由の風潮は、国粋主義のもと次第に軍靴の足音にかき消されるような時代がやっくるのです。

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2009年1月20日 (火)

ビンラディンは自首せよ

 20日、日本時間では21日、アメリカ・オバマ大統領が世界の耳目を集めて就任式を行う。史上最大の盛り上がりを見せるだろうと言われている。

 サウジアラビア人・ウサマビンラディンに告ぐ。あなたはどうやら死んでいないようなので、この際自首して世にでてくるようお勧めする。人気最低のブッシュ大統領は引退する。あなたは、誰が見ても勝ったのだ。この機会を逃してはならない。

 あなたが9.11の同時多発テロを指揮し、金も出したのかどうか、証拠もないだろうから自首という言葉があたるかどうかは知らない。しかし、多くのテロリストを養成し激励し、その戦いの中で多くの市民が犠牲になったことは確かだ。

 あなたが自首すれば、アメリカがタリバンと戦争を続ける理由がなくなり、アメリカ兵がアフガンに増派されても話し合いを公約したオバマとなら話がつけやすくなるだろう。ついでに、ガザでハマスも勝ったといっているのだから、パレスチナ和平支持宣言もしたらどうだ。

 その上、誰かに捕まって裁判を受けるのだ。国際司法裁判所なら、筋違いのイラクで人を殺したブッシュの方はおとがめなしでは不公平という声が出るに違いない。それに、裁判を承認しない国のアメリカから出てくるはずはない。

 法廷はどこでもいい。茶番であってもなくいも判決は「死刑」。聖戦を戦って神に死を捧げるのは、あなたが身をもって手本を示すことになり、いとわないはずだ。ことにアメリカの法廷が最善だろう。アメリカが中東でやってきたさまざまな裏面工作を明らかにし、アメリカが再び同じ過ちを犯さないよう機能させれば、「凶悪なテロリストの首魁」の最後として最もふさわしのではないか。

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2009年1月19日 (月)

日中関係史考3

第一次世界大戦
 第一次世界大戦というのは日本にとって、あるいは中国にとって何なのだろう、こういうことについて、普通はあまり深く考えるということをしません。私は、この戦争が日本の中国侵略への第一歩であり、世界から日本の野心について警戒をされ始めた最初だと感じています。

 というのは、ヨーロッパでの勝者も敗者もない悲惨な結末に、各国が弱肉強食の帝国主義戦争を反省するようになり、お互いにその方途をさぐる動きになっているにもかかわらず、日本はそれに乗り切れず逆の方向へ走り始めたからです。日露戦争のトラウマが残っていたとすれば、何と根強いことでしょう。

 始まったのが1914年、大正3年ですがなんとも不思議な戦争です。まず、日本の敵は、ドイツ・オーストラリア-ハンガリー・イタリアの三国ですが、戦ったのはドイツだけ。味方はイギリス・フランス・ロシアということになります。そして日・独双方の戦場となったのが中国です。

 ヨーロッパで起きたこの戦争は、遠く離れた日本にかかわりのないことで、大隈内閣はまず中立宣言をしました。中国も同様です。ところが、中国の青島を基地にして英国商船を脅かすドイツ軍艦を追い払って欲しいという英国の要請がありました。

 しめた!、と思ったのは、明治の元老・井上馨です。山東半島にあるドイツの膠州湾租借地をあわよくば横取りし、辛亥革命後孫文から実権を奪ってダーティーな独裁政治で安定を欠く袁世凱政権に満蒙支配のくさびを打ち込みたいと思ったのです。イギリスには同盟国の義理があるということで、政府は早速ドイツに宣戦布告をしました。

 中国もそれを察し、ドイツに宣戦布告して租借契約を即刻破棄して日本が進軍する口実をなくし、ドイツも問題をあとに引くことをおそれて返還に応ずることにしたのです。頼んだイギリスの方もびっくりしました。なにも、日本にそこまで頼んだ覚えはないといって、取り消してきたのです。

 ところが、イギリスとの情義と青島を取り返して中国に返す、の一本槍で、ほかは一切聞こえないことにします。そのまま秋から冬にかけ、青島やドイツの支配下にある南洋諸島の占領を終わらせてしまいました。これで、第一次世界大戦の戦勝国になれたわけです。

 国民もよく知らないアッという間のできごとでした。また、ヨーロッパでは戦乱が続いていたので貿易の競争相手がいなくなり、重工業の発展も緒について大戦ブームが起きて明治以来の債務国が一転、債権国になりました。

 戦勝国といえば、中国だって同じ立場です。その中国にドイツを追っ払ってやったのだから、といって日本政府は対華21ヵ条要求を北京政府につきつけました。それには、返すはずだった山東省のドイツ権益は日独両国で決めたことを中国側が受け入れる、日露戦争で日本がロシアから接収した旅順・大連などの租借権や鉄道の管理権は、さらに99年延長する、満州や内蒙古での日本人の資産獲得などに便宜を与える、政治、経済、軍事などに日本顧問を招くなどが含まれ、属国扱いに近い内容です。

 火事場泥棒とか、漁夫の利という声が聞こえます。これは外国からではなく国内から起きています。なにも自虐史観ではありません。最終的には山東省の返還や顧問の問題など、譲歩も見せていますが、国民の間からは大きな疑問は起きませんでした。しかし、中国では要求に屈した1915年5月9日を「国恥の日」とし、日貨排斥など反日意識を固定化させることになったのです。

 最後に、日本のこういった拡張政策がすでに世界列強の間でも時代遅れになっていることを、パリの講和会議に広報官として出席した松岡洋右が、日本に対する各国の記者たちがどう見ているかという報告をしており、その一部を紹介します。なお、この引用は以前にもした覚えがありますが、加藤陽子『戦争の日本近現代史』によるものです。

 所詮我に於いて之を弁疏せんとすることすら実は野暮なり。我言う所多くは special pleading にして、他人も強盗を働けることありとて、自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは、畢竟窮余の弁なり。真に人をして首肯せしむるや疑問。

 また加藤は、松岡が政府の方針をヤボと言って批判したもので、special pleading 「特別訴答」という法律用語を持ち出して、自己に有利なことだけを一方的にいう議論ではとても理解されるものではなく、日本の国際的信用がレベルに達していないということを訴えたと解釈しています。 

 余談ですが、こういった国際感覚を持っていた松岡に対し、昭和天皇が第二次大戦で日独伊三国同盟を推進したことについて「松岡はヒトラーに買収されたのではないか」という極端な言葉で難詰したのは、まだ一縷の望みを松岡につないでいたのに裏切られた、という気持からなのでしょうか。

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2009年1月17日 (土)

日中関係史考2

 1905年(明治38)9月に日露戦争が終わってから9年後の1914年(大正3)8月、日本は次の戦争第1次世界大戦に突入します。この間、韓国は日本に併合され、中国も辛亥革命がおきて、両国とも古代から続いた王朝支配の政治は終わりをつげました。

 ここで注意していただきたいことがあります。現在、中国や韓国の指導者がよく「過去の歴史を鏡として」とか「歴史を教訓に」というコメントをしますが、この歴史というのは王朝が支配していた時代を含んでいません。韓国は国名を朝鮮から韓国に改めた直後に日本に併合され、中国は、辛亥革命で清国から中華民国になった頃を区切りとして、それ以後を今日に続く歴史のスタートと見ている点です。

 それは、学校教育で大正・昭和の歴史を省略してしまう日本とは逆です。日中関係も、そのあたりから見ていかなくてはなりません。日本は日露戦争の戦利品として、ロシアが中国から得ていた遼東半島南端の租借権と長春~旅順間の鉄道利権を接収しました。租借地は領土と同じだから軍隊の駐留は自由にでき、鉄道の方は沿線1㎞当たり15名以内の守備隊を置けるという特典つきです。

 中国としては、無理やりロシアに奪いとられた利権で、日本が肩代わりする理由は全くないわけですが、日本は力づくでそれを納得させました。清国代表で交渉に当たった袁世凱は、「ロシアが煙草を2本持ち去ったのを理由に、日本に一箱全部を持っていかれた」と嘆いたそうです。それから1945年の日本敗戦まで日本軍が中国大陸に居続けたのです。

 ロシアが獲得した旅順・大連などの租借期間は25年間で1923年に切れ、鉄道なども1940年までです。当面日本が管理するにしても、西欧列強の帝国主義的支配から東亜各国を独立・開放するという使命感のある日本ならば、遅くともそれまでに取り戻した主権は返すのが本筋だったわけです。

 そうにはならず、逆の方向に走り出したのが次ぎのテーマ第1次世界大戦と、その結果をふまえた「対華21か条要求」です。日清・日露戦争までは、開戦に「自衛」が色濃く反映していたのが、拡張・侵略路線に転換し始めたのはなぜか、当時も右翼主導の主戦論はありましたが、一般国民も日露戦争の犠牲があまりにも大きかったため、それに見合う報酬がなくてはならないと考えたのではないか、ということを前回書きました。

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2009年1月16日 (金)

派遣労働者と差別

 正月の日比谷派遣村報道で、派遣のありかたからさらに範囲をひろげて「労働問題」が議論さるようになった。それに反して、派遣村の発生が組織の宣伝活動であるとか、仕掛けられた作為あるイベントだなどとする暴論はもとより、セフティネットがあれば足りる、といった矮小化した議論にしてはならない。

 秋葉原の大量無差別殺人事件は、言語道断の犯罪事件であるが、その動機として浮かびあがったのが、派遣労働が持つ非社会性である。その前一昨年には、すでに赤木智弘氏が論文「希望は戦争」でこういった問題を提起をしている。

 これらは、もしかして大化改新、明治維新、戦後民主化に匹敵するような「労働のありかた」が問われている時代と考えるのは、おおげさに過ぎるだろうか。「階級」や「身分」という言葉や発想は、共産主義の退潮とともになりをひそめた。

 しかし、正社員と派遣、期間労働者などの区別は、新たな階級差別を創出するものではないのか。私には専門知識がないので、その分析や打開改善方策を提示することはできないが、戦中派の記憶に残る身分制について書いてみたい。

 わが家はサラリーマンの家庭だったので、農業における戦前の小作農と大・中農の差を身近に体験したことはない。ただ、40代に自宅を購入した際、近所の大地主のおばあちゃんが、孫の手をひいて遊びに来て、孫に「ここの家は家作持ちだよ」と教えているのを聞いた。あきらかに、近所に在住する旧小作人との区別をさしているように聞こえた。

 製造業会社の社員であった父の勤務先工場には、大勢の職工がいた。彼らは集合社宅に住んでいたが、社員のそれとは違って、家族の人数にかかわらず狭小で立地も悪かった。また、職階も組長とか職長という、軍隊で言えば下士官どまりで、社員との身分上の格差は歴然としていた。
 
 また、事務所にもボーイと呼ばれる使い走り的な仕事をする人がいた。この人達も「社員」とは呼ばれず「雇員」として差別された。ただし、会社との雇用関係には変わりなく、戦後労働組合が結成されると一体化し、一切の身分制職階は撤廃された(ただし実際には学歴格差などで温存された部分もある)。

 これには入らない勤務者がいた。嘱託である。社内に常駐している床屋さん、社員食堂賄い人、寮管理人、看護婦などである。つまり会社にとって必要な仕事は、すべて会社が雇った人の手にゆだねられていたのである。

 戦後10年もたつと、変化が出てきた。それまで社員がやっていた清掃、警備、廃棄物処理などについて、専門の下請け会社に委託するようになった。それらは、有能な定年退職者によって起業されたものも多く、民間の天下りはそんなところから始まっている。

 また時代が進むに連れて、現業部門の下請け業務は拡大し続け、労働組合も下請け労働者の組織化などを方針に掲げるようになったが、組織の命運をかけて取り組むようなことはなかった。賃金、福利厚生なとの歴然とした差は見過ごされていったのである。

 現在、大企業の労働組合は、製造業への派遣禁止措置などに消極的で経営者と歩調を合わせているように伝えられている。その中に「彼らとは身分が違う」という意識が全くない、と断言できる人が何人いるだろうか。

 戦中の人手不足、戦後復興、高度成長と続き、身分の差で雇用調整をするような場面はあまりなかった。また身分の差はあっても、日本固有の労働神聖視や終身雇用制度が労働者の精神的・経済的破綻を防いできた。このさき、日本が選ばなければならない「労働」のあるべき姿をどう定めていくのかが問われている。

 かりそめにも、身分を固定化して差別を助長するようなことがあってはならない。決してアメリカの真似をしてはならないのだ。そのためにこの問題にどう手をつけていくか、為政者の判断と責任は極めて重い。また、同時に労働者自身にも大きな責任があることを自覚しなければならないだろう。

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2009年1月15日 (木)

神田明神

2009_01150001  正月のTVニュースの初詣ロケに、珍しく神田明神が出た。明治神宮、成田山などの初詣定番社寺を押しのける映像効果があったのだろうか。100年に1度の不況キャンペーンの中で、商売繁盛祈願の参拝客が殺到、拝殿前の広場が満員電車並みのすし詰め状態だった。それから半月、15日の小正月は、このようにチラリホラリ。

 神田明神の祭神は、平将門である。歴史上ただひとり、自ら「新皇」を称した反逆者で、官軍に破れ京都で打ち首となりさらされたが、首が空を飛び関東に戻ったという伝説を持つ。徳川幕府の崇敬を受け、江戸っ子に人気のある神社だった。

 しかし、反天皇では具合が悪い。そこで、全国ブランドの大国主、すくなひこなの二神も祭神にしている。しかしこれとても、大和王朝以前から民衆の支持を受けて地方に根を張るアウトサイダーである。要するに、天孫族から見れば反権力的存在といってもおかしくない。

 明治維新後、将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが問題視され、逆賊であるということから明治7年(1874)に、教部省の指示により神田明神の祭神から外され、別に小祠を作って遷座されてしまう。それが第2次世界大戦後は、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱う風潮に乗って見直された。

 将門の祭神復帰への機運が高まり、昭和59年(1984)になって、平将門神はふたたび本来の神田明神に合祀される。と、いうことになると、靖国神社のA級戦犯合祀とか分祀などという話も、そんな重みのある話ではないことになりそうだ。

 いずれにしても、この反権力の神様が企業人(私は参拝者の多くが都心に本社を置く会社の役職員だとにらんでいる)にもてはやされるという現象は何かを意味するのであろうか。今日、ちょっと行ってみる気になった。

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2009年1月14日 (水)

日中関係史考1

日露戦争のトラウマ
 「朝鮮・韓国」シリーズを23回続け「日韓併合」で最終回としました。今度は「日中関係史考」です。これもこのブログの前身「反戦老年委員会」に書いた同じ題名のリニューアルになりますが、史論というよりできるだけくだけた内容にしたいと思います。

 日清・日露という明治時代の戦争は、朝鮮と戦争したわけではないものの、いずれも日本にとっての朝鮮問題がその発端でした。日本の安全とか利害に大きな影響をもたらすといういわゆる「利益線」が、日露戦争を契機に「満・蒙」へ広がっていった経緯もすでに書きました。

 日本は、日露戦争で何がどう変わったのでしょうか。いろいろありますが「朝鮮・韓国」から中国にテーマをバトンタッチする上で、ひとつ挙げておかなければならないのは、それまであまり顕在化しなかった「愛国心」という言葉です。

 「愛国心」の定義はいろいろありますが、このところヒラリー・クリントン次期国務長官が連発して有名になったスマート・パワーではなくハード・パワー、つまり相手と協調点を探るやりかたでなく、国家を表に立てて妥協を排し、力で解決していくという方向をとるということにしましょう。

 それには何時の時代でも共通する現象が現れます。それは、危機や脅威をあおり、軍の行動や方針を批判したり協力をしなかった場合、「非国民」とか「売国奴」といった攻撃を受けて、ほとんど言論を封殺してしまうことです。

 日露戦争の講和条約が明らかになった直後、その条件が不満だとして日比谷焼き討ち事件などという過激な抗議活動が起きましたが、その裏には膨大な戦死者を出し血税を費やしたことに対するぬぐい去れないトラウマがひそんでいたと思います。

 日清戦争では、三国干渉で「臥薪嘗胆」で我慢したものの、結局報われることなく日露戦争まで行ってしまったのです。今度はなにがなんでも払った犠牲に見合うものを取り返さなければ後に引けない、こういった気持ちが5年たっても10年たっても、あるいはそれ以上後にも残ったといえましょう。

 以下は、いずれも右翼から発せられた言辞ですが一般国民の気持ちを代弁している面もあります。最初は大正2年(1913)に起きた、外務省政務局長阿部守太郎暗殺犯人の斬奸状の一部分、次ぎに大物右翼を代表格する玄洋社の頭山満が、1924年(大正13)来日した孫文に語ったとされる言葉を紹介しておきましょう。

 曾(かつ)て弐拾億の巨財と拾万の同朋が屍山血河悲惨極まる努力に因て漸く贏(か)ち得たる満蒙を棄てて顧みざる而耳(のみ)ならず……民論を無視し、帝国をして累卵の危きに置きて顧みる所なく……(島田俊彦著『関東軍』より)

 貴国四億の国民を以てして、外国の軽侮と侵害を甘んじて受くるが如きは、苟も国家を愛する志士豪傑の之を憤るのは当然である。嘗て満蒙地方が露国の侵略を受けし時の如き、幸にして我が日本が相当の実力ありたればこそ、多大の犠牲を払って、唇歯輔車(相互に助け合う)関係にある貴国保全の為め之を防止するを得たのである。依って同地方に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還附すべきであるが、目下オイソレと還附の要求に応ずる如きは、我が国民の大多数が承知しないであろう。(藤本尚則『巨人頭山満翁』山水書房、松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読』岩波文庫、所載)

 なお、頭山満は孫文の支持者で、「西欧帝国主義列強がみんなやっていることだからわが国だけが非難されることはない」などという、破廉恥なことは言っていないことに注意してください。なお、この発言が出た時代背景などは追って触れることにしたいと思います。

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2009年1月13日 (火)

衆院候補者、9条改正反対55%

衆議院立候補予定者アンケート結果
(毎日新聞2009/1/6,9,13)
・回答者=9割強にあたる790人・数字は複数回答、無回答をのぞく%。-は言及なし。

--------------------
★憲法9条【全体】【自民】【公明】【民主】【共社】
改正反対   55% 12%  63%  67% 100%
改正賛成   38% 83%  28%  19%  0%

★集団的自衛権行使を禁じた憲法解釈見直し
       【全体】【自民】【公明】【民主】【共社】
必要はない 60% 20%  88%  70%  -
見直すべき 33%  74%  -   -   -

★日本の安全を守るためにより重要なことは
       【全体】【自民】【公明】【民主】【共社】
近隣諸国と
の平和外交 39%  -   -  28% 100%
国連中心   10%   -   -  26%   - 
日米同盟   37%  76% 59% 19%   -
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 解散がだらだらと先送りされています。政界再編もあるようなないような中途半端な状態も続いていま す。その中でのアンケート調査なので、当塾にとって関心の深い調査であるにもかかわらず、なんとなく 緊張感に欠けます。

 ご覧の通り、数字は文章化した記事から拾っているので、空欄になっているところがあります。党別を 見ても、真反対の意見が同居しているので、選挙民は自分の意見を代弁してくれる候補が誰なのかがわかりません。また対象は当選者でなく候補者なので、選挙後の趨勢を占うこともできません。

 そのせいか、新聞社は政党の枠をはずして政見の似通った候補をいくつかのグループに分類し、解析を 試みました。しかし、それとて抽象的で機械的な数字遊びのようで、参考にしたり実用になるにはほど遠 いといわざるを得ません。

 しかし、勇気づけられる数字や意外な数字もあります。それは、①候補者の過半数が9条改正反対派で あるということ。②自民党より民主党が勝った方が9条改憲から遠ざかること。③公明の改憲派は民主よ り多く、日米同盟重視が過半数を超すこと(小泉・安倍政権を支えたからね)。④自民党に護憲派が12 %も?いること(「自民党9条の会」が作れます)。⑤憲法をはじめ、前回、前々回の衆院選当時より 着実に対外強硬派より平和指向派がふえていることなどが挙げられるでしょう。

 当塾では右サイドバーにあるように、衆院立候補者メモを設けています。この記事はそこへもリンク しますが、候補者の政見が党公認のマニフェストまる写しで、アンケートの利用について、公職選挙法上 の窮屈な制約をまぬがれないとなれば、目隠をしたまま投票するようなものです。

もっと何とかならない ものでしょうか。アメリカの大統領選を見ていると、多くを知った上で選べるのがいいなあ、とつくづく 思います。

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2009年1月12日 (月)

地球温暖化主犯

温暖化の主犯は?…2009年・成人の日

     (人間活動) VS (自然変動
学者)→  1人   VS   4人  
             ↓
エネルギー・資源学会 http://www.jser.gr.jp/index.html

地気雪と成る弁…天保六年乙未秋

越後塩沢(鈴木牧之
     ↓
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 凡(およそ)天より形を為して下す物・雨・雪・霰(あられ)・霙(みぞれ)・雹(ひよう)なり。露は地気の粒珠(りふしゆ)する所、霜は地気の凝結する所、冷気の強弱(つよきよわき)によりて其形を異にするのみ。

 地気天に上騰(のぼり)、形を為して雨・雪・霰・霙・雹となれども、温気(あたたかなるき)をうくれば水となる。水は地の全体なれば元の地に帰(かへる)なり。地中深ければかならず温気あり。地温(ちあたたか)なるを得て気を吐(はき)、天に向(むかひ)て上謄事人の気息(いき)のごとく、昼夜片時も絶(たゆ)る事なし。

 天も又気を吐て地に下す、是天地の呼吸なり。人の呼(でるいき)と吸(ひくいき)とのごとし。天地呼吸して万物を生育(そだつる)也。天地の呼吸常に失ふ時は暑寒(あつささむさ)時に応ぜず、大雨大風其余さまざまの天変あるは天地の病(やめ)る也。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~
             ↓
      『北越雪譜初編 巻之上』

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2009年1月10日 (土)

新自由主義は悪か?

 日常見て回るブログには、左派系のものが多い。このブログもその片隅に位置しするのかも知れない。その左派系ブログでは、おしなべていわゆる「新自由主義」を諸悪の根元のように攻撃しまくっている。もちろん、アメリカ追従による不用意、無原則の小泉改革や竹中流の金融資本、市場原理主義的な政策は、新安保政策と共に当塾の相容れるところではない。

 このブログでは、23回にわたったシリーズ「朝鮮・韓国」を太古から日韓併合まで続け、ようやくこのほど一段落した。その中でいろいろ感ずるところもすくなくなく、今回は、明治の文明開化と新自由主義・小泉改革を取り上げてみたい。

 小泉改革のキャッチフレーズは、「改革なくして成長なし」であり、抵抗勢力を敵視して「自民党をぶっこわす」とまで言ってのけた。ひるがえって明治時代に飛んでみる。アメリカをはじめ西欧列強のガイアツを受けて開国を実現、明治クーデターを経て「文明開化」を定着させた。

 民間にあって改革開放の旗振り役は、福沢諭吉であった。日清戦争に当たり、彼の創刊した『時事新報』は、「文明開化の進歩を謀るものと其進歩を妨げんとするものの戦」と位置づけ、戦争による清兵の殺戮も憐れむべきだがやむを得ない、とした(1994/7/29)。

 また日露戦争では、大正デモクラシーに「民本主義」の言葉をあてたことで有名な吉野作造の論文がある。その主旨は、ロシアが領土拡張をしてもそこで外国の貿易を排除する非文明国であり、皇帝の支配する専制国を倒し、自由民権の勢力になればロシア人民の幸福である、とするものである(加藤陽子『戦争の日本近現代史』参照)。

 これも、グローバリゼーションに抵抗するのは文明の敵で、専制を廃し民主主義を樹立する正義をうたっている。そして悪は正義の前に駆逐されるべき存在だという発想である。

 再び現代に話を戻してみよう。アメリカと有志国がイラクに進攻した言い分とそっくり二重写しになってしまうではないか。文明開化と新自由主義を一緒にするな!、という声が聞こえる。私も実は同感なのだが、本質的な違いがどこにあるかといわれると、正直なところわからない。

 新自由主義は悪なのであろうか。私は共産主義も社会主義も悪だと思ったことは一度もない。文明を区別し、経済システムを峻別して、善だ、悪だと攻撃しあうことから、人類はそろそろ卒業した方がいいのではないか。自然保護についても同じことがいえる。これからは、共存と発展の折り合いをどうつけていくのかの知恵を競う戦争であってほしい。、

  

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2009年1月 9日 (金)

アメリカの胎動

 8日、パレスチナで人道支援物資を受け取りに行く途中の国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)車列が、イスラエル戦車の砲撃を受け、運転手1人が死亡した。同じ日、国連安全保障理事会は、イスラエル、ハマス双方に即時停戦を求める決議案を採択した。

 これは、棄権したアメリカを除く14カ国が賛成したもので、強い拘束力があり、違反すると制裁などの対象となる。拒否権を行使しなかったことで世界の世論に配慮したつもりだろうが、反面、イスラエルの肩を最後まで持ち続けてきたブッシュのユダヤ寄り政策が証明されることになった。

 孤立主義から抜け出そうとするオバマ就任が目前に迫っている。アメリカの指導力を維持するためには、どうせ同じ結果がでるのなら、変な義理立てなどせず、賛成に回った方がいいように思うのだが、外交の現場にはそれを許さない事情があるのだろうか。

 さらに同じ日、オバマ次期大統領はバージニア州で演説し、300万人超の雇用確保・創出を目指す総合経済対策の概要を明らかにした。それによると、今後3年で太陽光や風力など代替エネルギー生産を倍増させるような公共投資、1世帯当たり1000ドル(約90,1000円)の減税措置などが含まれる。

 総額は、日本円にして約70兆円規模になるというが、たかだか2万円前後の定額給付金を、受け取るとか取らないといった次元の低い国会議論に終始し、渡辺喜美議員ひとりがやめるとかやめないという1人芝居しかニュースにならない日本。アメリカのたくましい胎動がうらやましい。

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2009年1月 8日 (木)

朝鮮・韓国 23

 日韓併合をもってこのシリーズの最終回にしたいと思っています。太古からここまで見てきて、特に明治以降の日朝、日韓関係を追っているとためいきが出てしまいます。このような結末を招いた本当の原因は何でしょうか。実は誤解を恐れずにいうと「なるべくしてなってしまった」としかいいようがないのです。ここが、満州事変や日中戦争の侵略とはやや異なります。

 戦後の日本を風靡した唯物史観、発展史観による歴史の解釈は、皇国史観をたたきこまれた者から見ると大変科学的で魅力的な方法でした。しかし、どうも素人目から見て、その解釈に当てはまらないものについては、追求がなおざりになり、物足りない思いをすることがたびたびありました。

 結局日韓関係は、徳川300年の封建政治を経て大政奉還、西欧に習った立憲君主国という近代化を果たした日本と、古代から続く宮廷政治に固執する朝鮮・中国との感覚のずれ、次ぎに西欧列強による植民地拡大競争激化、特に日本は、ロシアから直接脅威を受けるいう自意識の強さにしばられていたということではないでしょうか。

 そして、最後は「戦争」です。「弱きを助け強気をくじく」などと「義侠心」で始まった日清戦争はお人好しでお節介だったかも知れません。しかしこの戦争が日露戦争を呼び、日露戦争はこのあとの日本がかかわったすべての戦争につながってゆく、つまり、「戦争が戦争を呼ぶ」という連鎖反応が東アジアに多くの不幸をもたらしたのではないでしょうか。

 ここに、韓国の有力な近代史の権威である姜萬吉氏の著書で小川晴久氏訳の『韓国近代史』を引用しておきます。その意図は、日韓両国の専門家の真摯な研究が進むことにより、お互いの立場や見方に違いがあっても、最近あるような「反日」とか「嫌韓流」などという心の狭い反発がなくなることを期待するからです。
 
 なおこの著書で、訳者が解説を加えていますが、姜萬吉氏の研究姿勢は「歴史を美化することではなく、自国の知識人に向けて統一国家への展望ができるような近現代史を構築する」という立場であり、さらに日本人読者を意識せずに書かれたものであるということを明らかにしています。(以下引用文末まで)

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【第一章 国民国家樹立の失敗 序説】より

 清日戦争後約十年間維持されてきた朝鮮半島をめぐっての露・日間の勢力均衡は、英国と米国が日本を援助することによって壊れた。その結果は露日戦争、日本側の有利な条件での戦争終結、そして大韓帝国の日本による保護国化および植民地化としてあらわれた。

 専制君主国家としての大韓帝国が内部の国民革命によって崩れず、外勢の侵略で倒れた事実は、植民地化のその時までも国民国家を持つことができなかった歴史的限界性を示すと同時に、以後の歴史にも大きな負担を与えた。

【同上第五節 植民地への道】より

 「合邦」に対する国際的な反応も一般的に冷淡であった。英国と米国は英日同盟、タフト・桂密約、ポーツマス条約を通してすでに日本の韓国支配を承認していたので、当然「合邦」を支持した。英国政府は「日本が韓国においてその勢力を増加するのに対して英国政府は何等反対する理由がない」といいながら、ただ自国の経済的利益問題と関連して関税率の不変、開港場および沿岸貿易の継続を要求した。

 米国政府も「日本の韓国における行政が非常に善意に満ちており、韓国民の幸福のために力を尽くしている跡が歴然である」といい、ニューヨーク発行の『東洋評論』も「韓国に利益関係にある総ての外国は韓日合邦から生ずる変動に対してなんら不安な考えをいだく必要はない。日本政府は細心に外国の一切の利益を保護するだろう」と論評した。

 第三国としては一番利害関係の深かったロシアの新聞も「朝鮮の運命はすでに露日講和条約で決定され、日本は事実上朝鮮を併合し、今回ただ形式的にこれを発表しただけだ。併合が朝鮮と利害関係がある英国の同意を受けて断行され、ロシアもこれに反対する理由がない」といい、ドイツのある新聞は「朝鮮人がその愛国的精神によって内心では日本の情深い文明統治よりむしろ腐敗した旧政府を選ぶ意思があるのはきわめて自然な道理である」といいつつも、将来日本の支配による朝鮮の経済的発展は疑問の余地がない」といった。ただ清国の所信分は韓国の滅亡を憂慮して満州や蒙古が将来同様な運命になることを警戒した。

 大韓帝国の無能と腐敗、そしてそのような政府を倒し国民政府を樹立できない国民的・歴史的条件、日本の野蛮な侵略主義とこれに対する帝国主義列強の援助および承認が、この時機の我々の歴史が失敗することになった重要な原因であるということができよう。

【第二章 反民族運動の展開】より

 朝鮮王朝の専制君主体制が国民革命によって崩壊せず、外勢の侵略で倒れたことは、以後の我々の歴史の大きな負債となったことは勿論、見方によっては二〇世紀初期のわが歴史が植民地に転落することになった第一次的な原因は国民革命が実現できなかった点にあり、またその原因中の一つがブルジョア運動としての愛国啓蒙運動の非戦闘性・非革命性にあったともみることができるのである。

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2009年1月 7日 (水)

愛国百人一首

 なつかしいものに出くわした。「愛国百人一首」。昭和18年に日本文学報国会が選定したものである。

  正月のカルタ遊びもこれならばよろしい、というお墨付きがあったのだろうか。ところどころ覚えている。

  結局、使えたのは昭和19、20年の正月2回だけしかない。教科書にのっているそんな歌は、20年の秋先生の指導で各自が黒塗りした。

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おほきみはかみにしませばあまぐもの
     いかづちのうえにいおりせるかも
              柿本人麻呂

みたみわれいけるしるしありあめつちの
      さかゆるときにあへらくおもへば
             海犬養岡麻呂

あをによしならのみやこはさくはなの
       にほふがごとくいまさかりなり
                小野 老

大君のみことかしこみ磯にふり
       海原わたる父母をおきて
               丈部人麻呂

今日よりはかへりみなくて大君の
        しこのみたてと出たつ吾は
               今奉部與曽布

山はさけうみはあせなむ世なりとも
        にふた心わがあらめやも
               源 実朝

かへらじとかねておもへばあづさゆみ
        なきかずにいるなをぞとどむる
               楠木正行

敷島のやまと心を人とはば
        朝日ににほふ山桜ばな
               本居宣長

身はたとひむさしののべにくちぬとも
        とどめおかまし大和だましひ
               吉田松陰

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2009年1月 6日 (火)

朝鮮・韓国 22

戦争が生み出すもの
 新年早々イスラエルとパレスチナ・ガザ地区の戦闘の報が続きます。国内の暗いニュースに押されがちですが、先の見えない不毛な戦争が続くことに心が痛みます。また、日本として、日本人としてなんら解決への手がかりをつかめないでいることに、もどかしさを感じます。

 右派勢力によるナショナリズム扇動プロパガンダ、武力威嚇と経済封鎖、貧困・生活苦、選挙対策としての強硬作戦、死の商人による武器密輸、背後を操る大国の論理などなど、武力衝突の火種は前回書いた日露戦争の頃から何も変わっていません。

 アメリカのオバマ・クリントン新外交がどう作用するのかによって、変化が得られるのでしょうか。いずれにしてもブッシュ時代とは変わった「歴史に学ぶ」「世界に学ぶ」アメリカでなければ、世界の指導者としての地位を維持し続けることは難しいでしょう。

 と、いうわけで、今回も標題のシリーズを続け、日韓併合に至るまでの総括を試みたいと思います。その前に、前回から急に「朝鮮」ではなく「韓国」という言葉が出てきたことの説明をしなければなりません。

 ロシアの公使館で政治活動をしていた朝鮮国王は、王宮に戻ると国号を突然大韓帝国に改めたのです(1997/10/16)。そして自らを光武皇帝陛下としました。従って1910年(明治43)8月22日の日韓併合までの13年弱の間が大韓帝国だったわけです。清の属邦ではなくなり日本やロシアと同等の地位を名乗るという気持ちはわかりますが、もはや遅きに失したようです。

 前回述べたように、日露戦争の発端は朝鮮問題そのものだったのです。したがって作戦の最初の目標が陸軍による京城の占領でした。ロシア軍が展開している満州で戦う上うとなると、朝鮮を足場にする以外にありません。

 「日韓議定書」や「日韓協定」など、韓国の主権を大幅に制限する条約を問答無用といった強圧をもって結ばせたのは、戦争遂行上の支障を一切取りのぞいておこうということでしょう。後ろから鉄砲をうたれるようなことがあれば、ロシアと戦うこと自体、無理というものです。戦争には「日常」など一切通用しません。

 日露戦争は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つて大勝し、陸軍も肉弾戦で多くの犠牲を払ったが旅順を占領、アジアの小国がロシアにうち勝った記念すべき戦争、と教えられてきました。ところが実際は、ロシアは機を見て反抗する余力を残している反面、日本は戦費も兵力も使い果たし、樺太の南半分は得たものの、賠償金も取れないという苦渋に満ちた講和だったのです。

 日清戦争後の失敗は、朝鮮王朝が清の代わりにロシアを頼りにするなど、旧弊をあらためず、日本を追いつめてしまったこと、日本側では閔妃暗殺で、朝鮮内部に「目的のためには手段を選ばない」という悪感情を定着させたことがあると思います。しかし、もはや日清戦争の失敗の二の舞を踏むことは絶対にできないという、追い込まれたところに来ています。

 日露戦争で一切のバックを失った朝鮮、いや大韓国王朝はそれから日本の意に逆らうことができなくなりました。しかし宮中に権力を集中して置きたいため、面従腹背の小細工が依然として止みません。そこにいわゆる「ハーグ密使事件」が起きたのです。

 1907年6月、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に、韓国皇帝が密使3人を送り、外交権を日本に委任することを決めた日韓協約などが無効であるというアピールをさせたのです。これらの両国間の条約は、日本の強圧のもとで結ばれたものだとしても、一連の経過の中で列強各国に認証されていたものです。

 韓国皇帝のゲリラ作戦は、ようやく安定しかけた極東の平和に混乱を与えるものとして、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどいずれも門前払いにしました。しかし驚いたのは日本です。韓国皇帝はついに退位して責任をとらされました。

 もう一つ、前にも書きましたが、明治を支えた大政治家・伊藤博文が、1909年10月にハルビン駅頭で韓国人安重根にピストルで射殺されたことです。比較的韓国に理解があるとされていた伊藤の死は、日本国民にとっても悲痛なできごとでした。日韓併合条約が調印されたのは、その翌年8月22日のことです。

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2009年1月 5日 (月)

「東アジア共同○」が社説に

 今日の毎日新聞社説は大きく1本立て。標題・見出しも3本で「09年チェンジ--世界同時不況」→「協調こそ回復の処方せんだ」→「東アジアで共同プロジェクトを」というものである。当塾では、究極の平和追求の中からEUの前身である「欧州石炭鉄鋼共同体」が誕生した事実をふまえ、反戦の立場から東アジアにその芽生えができないものかと期待をしていた。

 そのため、「東アジア共同体」というカテゴリまで設け、気づいたことを取り上げてきた。去年は、福田前首相がその方向を模索しているものとしてあえて当塾で支持を表明し、最近では、与謝野大臣が言及していることにも気づいて記事にした。

 毎日社説は「共同プロジェクト」といっているが、中味はあきらかに共同体構想である。大不況対策に日中韓が大規模投資で需要を創造し、これを内需扱いにしようという趣旨になっている。「東アジア共同体」というと、それだけでアレルギー反応を起こす人がいる。

 中韓を「反日国家」として敵視するネット右翼はもとより、彼らが教典と仰ぐ右翼雑誌常連の学者も反対のようだ。それでなくても、昔の「大東亜共栄圏」の連想や、ASEANまたは、アメリカ、オーストラリアなどを加えた環太平洋ネットワークとの関連、あるいはNATO、日米同盟など軍事同盟との混同などもあって、実のある議論が進まない。

 民間の組織として「東アジア共同体フォーラム」というのがある。中曽根康弘氏が会長で、財界のそうそうたる大物が幹事に顔を揃えている。かつて、「日本はアメリカの浮沈空母」といった人が会長ではうまく行きそうもないが、永遠の平和を目指すものなら前科はとあえて問わない。それにしても野党系からあまりその声があがらないのが不思議だ。

 それはともかく、仮に毎日が掲げる構想が実現するなら、ヨーロッパの鉄鋼・石炭に匹敵する経済効果があるだろう。またEUから多くのものを学べば2度とアジアが戦火にまみえることがなくなるはずだ。福田首相の置きみやげだった日中韓の3首脳会議も、昨秋に開かれたばかりだ。こればかりは、政治家が動かなければどうにもならない。

 ヨーロッパ共同体発足に、水面下で大きな役割を果たしたイギリスのチャーチル氏の役割を福田康夫氏に求めるのは無理だろうか。元総理であれば、池田大作氏よりスケールの大きいことをやってほしい。この問題は、EUに対する勉強不足もあって理解されにくく、すこしづつ気長に取り組むしかないことはたしかだ。

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2009年1月 2日 (金)

朝鮮・韓国 21

日露戦争
 前回述べたように日清戦争は明らかに失敗でした。なぜならば朝鮮を清から開放したのはいいが、清の弱体化でロシアの満州進出を許し、朝鮮宮廷も日本の行政改革要求をかわすのにロシアの力を利用しました。日本の安全確保に必要な「利益線」はむしろ後退したと見ていいでしょう。

 国内で、ロシアとはいずれ戦争を避けられないという空気が強くなったことは、自然の勢いかも知れません。しかし、兵力といい装備といい世界屈指の強国で、常識的には対抗できる相手ではありません。伊藤博文をはじめ、井上馨、山県有朋、大山巌など維新政府を支えてきた元老などには、なんとか衝突を回避したいと考えていました。

 一方で、主戦論の先頭に立ったのは、右派政治家と結びついた右翼団体、一部の東大教授、若手・中堅の軍人と官僚などであり、日清戦争後に高まってきた「愛国心」を支えに、「膺懲(ようちょう)」などちいう言葉が吉野作造から飛びだすなど、太平洋戦争前の構図の原型を見るような気がします。

 日本をそこまで追いやった原因はやはり朝鮮の不安定さが第一です。この祖国の惨状を見て、一般の朝鮮人の中から自主的な改革と独立を目指す運動も起きましたが、宮廷勢力からたちまち弾圧されてしまいました。日露間の交渉が行き詰まった翌1904年はじめには、ロシア、アメリカ、イギリス、イタリアなどの軍隊が京城に入るなど騒然とした状態におちいります。

 日清戦争と同じように、戦争の経緯は箇条書きにしました。

明治37年年表より(『20世紀年表』小学館・準拠)。

2.6 日本政府、日露国交断絶を宣言。
2.8 陸軍先遣部隊仁川に上陸開始。連合艦隊、旅順港外の露艦隊を攻撃。
2.10 日本、ロシアに宣戦布告
2.23 日韓議定書調印。日本は韓国皇室の安全ならびに領土保全を図り、軍事上の便宜を獲得。
2.24 第1次旅順港封鎖失敗。3.27 第2次封鎖失敗
5.1 陸軍第1軍が鴨緑江を越え、九連城を占領。
5.3 第3次旅順港封鎖実施。
5.5 陸軍第2軍が遼東半島上陸。
5.26 第1軍、金州を占領。日本側の死者4287人。旅順包囲を開始。第2軍は南山を占領。
5.30 大連を占領。
6.20 満州軍総司令部を編成、総司令官に大山巌参謀総長、総参謀長に児玉源太郎参謀総長山県有朋を任命。
8.10 露艦隊旅順を出撃し黄海で連合艦隊と海戦。露艦隊敗退、戦力の半数を失い旅順に逃げ込む。
8.19 乃木希典率いる第3軍、第1回旅順総攻撃、24日までに1万5860人の死傷者を出して失敗。
8.22 第1次日韓協約調印。韓国は日本推薦の外交・財政顧問を雇用。外交は日本政府と事前協議。
8.28 遼陽で開戦以来最大の会戦。9.4 一進一退の死闘の末占領。日本軍の死傷者2万3533人。
9.29 徴兵令改正公布。陸軍後備兵役を5年から10年に、補充兵役を3年間延長して12年4カ月に。
10.10 日露の大軍が沙河で会戦。
10.20 日本軍、弾薬不足で砲撃中止し、両軍対峙。日本軍の死傷者2万497人。
10.26 第2回旅順総攻撃失敗、31日までに死傷者3830人。
11.26 第3軍、第3回旅順総攻撃を開始。
12.5 203高地を占領、日本軍の死傷者1万6935人。旅順港内の露艦隊に砲撃開始。

 明けて明治38年。
1.1 旅順の露司令官ステッセル将軍、降伏。
1.28 竹島を島根県に編入。
3.1 奉天に向けて総攻撃開始。
3.20 日本軍勝利、日本側死傷者7万28人。
5.27 日本海海戦で露バルチック艦隊を破る。
6.8 米、ローズベルト大統領、日露講和会議を呼びかけ。
9.5 日露講和条約調印。

 この戦争による死者・廃疾者は11万8千人、死傷者にするとその約倍にのぼります。民間人の死傷者は不明ですが、その十分一にも満たないでしょう。現在のイラクでは米軍の死者がこれまでに4200人、イラク民間人はその10倍を越えても不思議ではありません。昔と今は逆ですね。

 日露戦争のような兵員消耗戦は、だんだん過去のものになりつつあります。しかし、それだけに新たな戦争は民間人に犠牲を強いるものとなるでしょう。日露戦争は、前述のようにそれまでになかったナショナリズムの昂揚と、その対極にある反戦の言論が公然と叫ばれた非常に示唆に富む時代でした。

 そして帝国主義的な野望を隠さない列強が、東アジアでどう覇権を争い合ったのか、それが後の時代にどんな影響をもたらしたのか、またそこから何を学ぶかについて、特に韓国をふくめ真摯な検討が必要な時期に来ていると思います。

一と足ふみて夫思ひ ふたあし国を思へども

三足ふたたび夫おもふ 女心に咎ありや
                   (大塚楠緒子) 

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2009年1月 1日 (木)

夜明け前

2008_12270005_3   こういう時代こそ若い方にチャンスがあります。

 写真をクリックしてください。

 明るくなります。今年もがんばりましょう。

          塾頭

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