朝鮮・韓国 22
戦争が生み出すもの
新年早々イスラエルとパレスチナ・ガザ地区の戦闘の報が続きます。国内の暗いニュースに押されがちですが、先の見えない不毛な戦争が続くことに心が痛みます。また、日本として、日本人としてなんら解決への手がかりをつかめないでいることに、もどかしさを感じます。
右派勢力によるナショナリズム扇動プロパガンダ、武力威嚇と経済封鎖、貧困・生活苦、選挙対策としての強硬作戦、死の商人による武器密輸、背後を操る大国の論理などなど、武力衝突の火種は前回書いた日露戦争の頃から何も変わっていません。
アメリカのオバマ・クリントン新外交がどう作用するのかによって、変化が得られるのでしょうか。いずれにしてもブッシュ時代とは変わった「歴史に学ぶ」「世界に学ぶ」アメリカでなければ、世界の指導者としての地位を維持し続けることは難しいでしょう。
と、いうわけで、今回も標題のシリーズを続け、日韓併合に至るまでの総括を試みたいと思います。その前に、前回から急に「朝鮮」ではなく「韓国」という言葉が出てきたことの説明をしなければなりません。
ロシアの公使館で政治活動をしていた朝鮮国王は、王宮に戻ると国号を突然大韓帝国に改めたのです(1997/10/16)。そして自らを光武皇帝陛下としました。従って1910年(明治43)8月22日の日韓併合までの13年弱の間が大韓帝国だったわけです。清の属邦ではなくなり日本やロシアと同等の地位を名乗るという気持ちはわかりますが、もはや遅きに失したようです。
前回述べたように、日露戦争の発端は朝鮮問題そのものだったのです。したがって作戦の最初の目標が陸軍による京城の占領でした。ロシア軍が展開している満州で戦う上うとなると、朝鮮を足場にする以外にありません。
「日韓議定書」や「日韓協定」など、韓国の主権を大幅に制限する条約を問答無用といった強圧をもって結ばせたのは、戦争遂行上の支障を一切取りのぞいておこうということでしょう。後ろから鉄砲をうたれるようなことがあれば、ロシアと戦うこと自体、無理というものです。戦争には「日常」など一切通用しません。
日露戦争は、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を迎え撃つて大勝し、陸軍も肉弾戦で多くの犠牲を払ったが旅順を占領、アジアの小国がロシアにうち勝った記念すべき戦争、と教えられてきました。ところが実際は、ロシアは機を見て反抗する余力を残している反面、日本は戦費も兵力も使い果たし、樺太の南半分は得たものの、賠償金も取れないという苦渋に満ちた講和だったのです。
日清戦争後の失敗は、朝鮮王朝が清の代わりにロシアを頼りにするなど、旧弊をあらためず、日本を追いつめてしまったこと、日本側では閔妃暗殺で、朝鮮内部に「目的のためには手段を選ばない」という悪感情を定着させたことがあると思います。しかし、もはや日清戦争の失敗の二の舞を踏むことは絶対にできないという、追い込まれたところに来ています。
日露戦争で一切のバックを失った朝鮮、いや大韓国王朝はそれから日本の意に逆らうことができなくなりました。しかし宮中に権力を集中して置きたいため、面従腹背の小細工が依然として止みません。そこにいわゆる「ハーグ密使事件」が起きたのです。
1907年6月、オランダのハーグで開かれていた万国平和会議に、韓国皇帝が密使3人を送り、外交権を日本に委任することを決めた日韓協約などが無効であるというアピールをさせたのです。これらの両国間の条約は、日本の強圧のもとで結ばれたものだとしても、一連の経過の中で列強各国に認証されていたものです。
韓国皇帝のゲリラ作戦は、ようやく安定しかけた極東の平和に混乱を与えるものとして、ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどいずれも門前払いにしました。しかし驚いたのは日本です。韓国皇帝はついに退位して責任をとらされました。
もう一つ、前にも書きましたが、明治を支えた大政治家・伊藤博文が、1909年10月にハルビン駅頭で韓国人安重根にピストルで射殺されたことです。比較的韓国に理解があるとされていた伊藤の死は、日本国民にとっても悲痛なできごとでした。日韓併合条約が調印されたのは、その翌年8月22日のことです。
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