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2008年12月28日 (日)

日・中協業

『日本書紀』を書いた中国人
 『日本書紀』は2人の中国人と3人の日本人が書いたという研究がある。1999年に出版された森博達著『日本書紀の謎を解く』(中公新書)がそれを明らかにしてくれる。教科書にはでてこない意表をつく結論だが、示された難解な諸データを我慢しながら読んでいくと、「なるほどな」と納得できる。

 まるで、探偵小説の犯人捜しのようだが、地道な科学的捜査の積み重ねで追いつめた結果と言っていい。従来も『書記』の本質を解明するために、本居宣長から津田左右吉に至るまで多くの学者がこれに迫ってきた。しかし、著者執筆分担や実名をあげここまで迫ったものを見るのは初めてだ。

 近代に入って『書記』の見方ははっきり2つに分かれる。一つは神社が他の宗教が持つ経典に似た由緒を『書記』に持たせたこと、一方は、学者が日本最古の文献として研究対象にしたことである。前者は、万世一系の皇国史観を作り上げ、明治以降天皇を現人神(あらひとがみ)とすることにも利用された。また、後者は「天皇支配を合理化するため編纂されたもの」という津田史学が戦後の主流を占め、最初から『書記』を疑ってかかるというのが現在でも続く傾向である。

 私は津田博士の『書記』に対する位置づけや、偉大な業績に賞賛を惜しむものではないが、『書記』の編者については、「造作」「虚飾」などの言葉のほかに、「深い意味のない書記の編者の思ひつきにすぎなかろう」「或は書記の編者のしわざであるかも知れぬ」などの表現でこきおろされている。これは、私が企業史や団体史のいくつかに手を染めたからいうわけではないが、筆者、編者に対する偏見であり侮辱であるる。

 企業史ならば、企業目的の一環として企業主の意に添った歴史を書こうとするのは当然である。しかし、史実をまげて歓心を買うとか、ありもしないことを創作で歴史に仕立てるなどのことは通常考えられない。仮に企業主がそれを強制すれば、筆者・編者の協力が得られず、完成したものからは必ずボロが出る。

 最近、聖徳太子や藤原鎌足の業績を否定してかかる論述が多いが、『書記』が完成した時期にはそれらの人物が生存していた時期から2~3代後でしかなく、すぐばれるウソなど書けるわけがない。権力者の権威失墜を招くようなことが、いくら昔でも横行したとは思われない。

 前置きが長くなりすぎたが、前述の図書を簡単に紹介しておこう。まず結論からいうとこうだ。『書記』30巻の後半、雄略紀以降のほとんどを続守言と薩弘恪という2人の唐人が書いた。前半部分は山田史御方という日本人である。唐人が死亡したためか、後半の一部未完の部分と全体の潤色作業を、御方ほか後で加わった日本人2人、計3人で仕上げた、というものである。つまり、唐人と日本人の合作なのだ。

 どうしてそれがわかるかというと、唐人の書いた部分は、歌など日本語の歌詞を正確な唐北方音に従った漢字を用い、漢文の使い方も間違いがない、ということ、また日本人なら常識的なことにわざわざ注釈を加えているなどである。

 また、日本人の書いた部分には漢字の誤用や、日本語風の漢文が多いといったことだ。ところが、唐人が書いた巻の中にも、日本人が書いたような間違った漢文が発見される。しかし、その部分はすべて出典を明らかにした日本人が作った文章の引用で、間違いを訂正せず忠実に原典を写しとった証拠だという。

 つまり、原史料を如何に尊重しているかがわかるのである。唐人のうち1人は、唐・百済の戦争で百済から贈られた唐人捕虜だという。すると、戦争の記録を忠実に残すための従軍記者のような任務を負ったプロではなかろうか。

 中国で正史と呼ばれる各時代の史書は、それを作った王朝が如何に正統性があるかを示す目的で書かれている。しかしその一方で権威を疑われるようなものも作れない。それには、史料の扱いやできるだけ真実に近い記述ができるかというノウハウも必要である。

 『日本書紀』を、日本最初の正史として完成させるため、このような技術導入や協業が行われたのであろう。日本独自の「国体の精華」なるものも、案外こんな所から生まれてきていることを認識しなければならないのではないか。要は、色めがねをいろいろ掛け替えてみることである。 

 

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コメント

お邪魔します。
盗まれた神話 記・紀の秘密 古田武彦/著
を読まれましたでしょうか?
九州王朝説を基にしているから、異論があれば抵抗感が有るでしょうが、その分析はそれだけで面白いと思います。
なお、書いてある事は、日本書紀はそれ以前に成立していた本(帝記、日本旧記など)の内容を大量に引用してあるとのこと。
例えば国産み神話には1書にいわくが多くあります。そんな話です。

投稿: 飯大蔵 | 2008年12月29日 (月) 01時54分

飯大蔵 さま
いらっしゃい。
古田武彦--そう最初の出会いは『邪馬台国はなかった』で、本を買ってむさぼるように読みました。文献史学に興味を持った最初の本かも知れません。
しかしその後の彼の軌跡を見ると、すこしかたくなにすぎるのではないかなあ、と思います。
憶測や仮説より原典重視は共感するのですが。
なお、上述書では「一書曰」が書記の前半では59、後半0、「或本曰」が前半1、後半53の頻度で現れるなどの表現の違いにも言及しています。

投稿: ましま | 2008年12月29日 (月) 09時56分

記紀の編纂に中国の人が関わっていたからこそ辛亥革命思想が伝わり21回目の辛亥の年(1260年後)が社会の根底から揺るがす大変革に見舞われる年と考えられ聖徳太子の政務に携わった西暦600年から1260年溯った紀元前660年を天皇家の始祖、神武即位の年と記されたのです。
http://www.isao-pw-okinawa.ecweb.jp/isao-pw/wazin.htm

投稿: isao-pw大城 勲 | 2008年12月29日 (月) 23時45分

大城 さま
「魏志倭人伝」おもしろく拝見しました。私は邪馬台国畿内説ですがなかなかやりますね。感心しました。

 だだ神武即位の年は、明治になってから決めたもののようです。検索「皇紀」で(Wikipedia)などを見てください。

 また、『書記』では中国人が雄略以降の後半を担当しているので、神話や神武は多分ノータッチとちがいますか。辛亥年などの知識はそれ以前から日本にあったと思います。

 またおいでください。

投稿: ましま | 2008年12月30日 (火) 10時56分

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