« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月29日 (月)

日・中協業 2

 同じ題の前回は、1300年も前のことを書いた。660年頃、日本と唐の間は一時的とはいえ、百済をはさんで最悪の関係にあった。『日本書紀』を執筆した中国人の一人続守言は、その頃百済から献上された唐人捕虜だという。

 『書記』が完成したのは720年で、続は700年頃には死亡したのか仕事から離れている。すると『書記』編纂の最盛期の10数年間、日中協業に精出していたことになる。捕虜というと、立場は拉致被害者のようだが、日本政府は「音博士」などの名誉とそれに見合う位階を与えて処遇している。

 さて今回は、一挙に現代に飛んで、「中国人民日報」に掲載された「中国青年報」の論文「日本がなければ改革開放は異なっていた」を(人民網)でチェックしてみた。内容は、トウ小平氏訪日(日中平和友好条約締結)30周年に寄せる形になっているが、その概要は次のようなものだ。

 オリンピックの開かれた今年は、中国の改革開放政策の30周年でもあり、今や国際情勢や世界経済と切り離せない存在となったが、この2つは、決して偶然ではなく日中の緊密な結びつきと、日本が果たした役割を肯定的にとらえている。

 トウ小平氏の訪日は、敗戦後の苦境から、わずか7年で経済水準を戦前の最高水準にまで回復させ、わずか25年で世界第2位の経済大国の王座に登り詰めたノウハウを学ぶ意味もあり、「私が今回日本に来たのは、日本に教えを請うためだ」「科学技術の発展における日本の進んだ経験を持ち借りたい」といった談話も紹介している。そして「日中協業」の成果を次のように指摘した。

 1人当たりGNPが約350ドルで、外貨準備高がわずか1億6700万ドルだった30年前の中国に、日本政府は500億円(2億2000万ドル)の円借款を提供した。日本は中国にとって最大の援助国で、中国が外国から受けた援助の66.9%、金額にして2000億元余りが日本からのものだ。これらは中国の鉄道・道路・港湾・空港などのインフラ整備、および農村開発・環境保護・医療・教育などに幅広く用いられている。日本側が中国に派遣した専門家は2002年までに1万2000人を超える。日中の貿易額は9年連続で記録を更新し、07年には2366億ドルを超えて、中国は米国を抜き日本にとって最大の貿易相手国となった。両国間の人的往来も延べ512万人に達した。

 また、これからの日中関係について「中国は日本の受動的な被支援国から日本経済の復活を促す国となった。日本経済が長期的な衰退と低迷から転換し、復活を成し遂げる上で、《中国要素》は重要な力となっている」と自信のほどを示している。

 この記事は、毎日新聞の「グローバル・アイ=中西恵」が紹介しているが、その中で「青年報は胡錦濤・国家主席が基盤とする共産主義青年団の機関紙。その論文が最も権威あると見られている人民日報のネットに転載されたことは論文が胡政権の考えを反映したものといえる」と評している。
 
 私がブログを始めた最初の記事が「反日デモ」であっただけに、この中国側の変化を「平和の礎」として歓迎したい。その点、「中国脅威論」から抜けきらない日本側の変化ははかばしくなく、政府の腰が定まらない外交戦略がもどかしくてならない。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2008年12月28日 (日)

日・中協業

『日本書紀』を書いた中国人
 『日本書紀』は2人の中国人と3人の日本人が書いたという研究がある。1999年に出版された森博達著『日本書紀の謎を解く』(中公新書)がそれを明らかにしてくれる。教科書にはでてこない意表をつく結論だが、示された難解な諸データを我慢しながら読んでいくと、「なるほどな」と納得できる。

 まるで、探偵小説の犯人捜しのようだが、地道な科学的捜査の積み重ねで追いつめた結果と言っていい。従来も『書記』の本質を解明するために、本居宣長から津田左右吉に至るまで多くの学者がこれに迫ってきた。しかし、著者執筆分担や実名をあげここまで迫ったものを見るのは初めてだ。

 近代に入って『書記』の見方ははっきり2つに分かれる。一つは神社が他の宗教が持つ経典に似た由緒を『書記』に持たせたこと、一方は、学者が日本最古の文献として研究対象にしたことである。前者は、万世一系の皇国史観を作り上げ、明治以降天皇を現人神(あらひとがみ)とすることにも利用された。また、後者は「天皇支配を合理化するため編纂されたもの」という津田史学が戦後の主流を占め、最初から『書記』を疑ってかかるというのが現在でも続く傾向である。

 私は津田博士の『書記』に対する位置づけや、偉大な業績に賞賛を惜しむものではないが、『書記』の編者については、「造作」「虚飾」などの言葉のほかに、「深い意味のない書記の編者の思ひつきにすぎなかろう」「或は書記の編者のしわざであるかも知れぬ」などの表現でこきおろされている。これは、私が企業史や団体史のいくつかに手を染めたからいうわけではないが、筆者、編者に対する偏見であり侮辱であるる。

 企業史ならば、企業目的の一環として企業主の意に添った歴史を書こうとするのは当然である。しかし、史実をまげて歓心を買うとか、ありもしないことを創作で歴史に仕立てるなどのことは通常考えられない。仮に企業主がそれを強制すれば、筆者・編者の協力が得られず、完成したものからは必ずボロが出る。

 最近、聖徳太子や藤原鎌足の業績を否定してかかる論述が多いが、『書記』が完成した時期にはそれらの人物が生存していた時期から2~3代後でしかなく、すぐばれるウソなど書けるわけがない。権力者の権威失墜を招くようなことが、いくら昔でも横行したとは思われない。

 前置きが長くなりすぎたが、前述の図書を簡単に紹介しておこう。まず結論からいうとこうだ。『書記』30巻の後半、雄略紀以降のほとんどを続守言と薩弘恪という2人の唐人が書いた。前半部分は山田史御方という日本人である。唐人が死亡したためか、後半の一部未完の部分と全体の潤色作業を、御方ほか後で加わった日本人2人、計3人で仕上げた、というものである。つまり、唐人と日本人の合作なのだ。

 どうしてそれがわかるかというと、唐人の書いた部分は、歌など日本語の歌詞を正確な唐北方音に従った漢字を用い、漢文の使い方も間違いがない、ということ、また日本人なら常識的なことにわざわざ注釈を加えているなどである。

 また、日本人の書いた部分には漢字の誤用や、日本語風の漢文が多いといったことだ。ところが、唐人が書いた巻の中にも、日本人が書いたような間違った漢文が発見される。しかし、その部分はすべて出典を明らかにした日本人が作った文章の引用で、間違いを訂正せず忠実に原典を写しとった証拠だという。

 つまり、原史料を如何に尊重しているかがわかるのである。唐人のうち1人は、唐・百済の戦争で百済から贈られた唐人捕虜だという。すると、戦争の記録を忠実に残すための従軍記者のような任務を負ったプロではなかろうか。

 中国で正史と呼ばれる各時代の史書は、それを作った王朝が如何に正統性があるかを示す目的で書かれている。しかしその一方で権威を疑われるようなものも作れない。それには、史料の扱いやできるだけ真実に近い記述ができるかというノウハウも必要である。

 『日本書紀』を、日本最初の正史として完成させるため、このような技術導入や協業が行われたのであろう。日本独自の「国体の精華」なるものも、案外こんな所から生まれてきていることを認識しなければならないのではないか。要は、色めがねをいろいろ掛け替えてみることである。 

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年12月26日 (金)

国会開会定例日

 暮れも押し詰まってきた。多分霞ヶ関は選挙区に走る先生が多く空っぽだろう。政治ブログも来年1月5日の通常国会開会まで種切れである。ところが、今日26日は、敗戦前まで通常国会開会の定例日のようになっている。昭和になってから19年まで、この日以外だったことは1回もない。

 戦後も10日とか20日が多いが、年を越してというのは珍しかった。異例中の異例が1966年(昭和41)の第54回通常国会である。明日にあたる12月27日に通常国会を召集、佐藤栄作首相はその当日に解散したのだ。会期はたった1日。これを「黒い霧解散」といったが、こういうこともあるから油断できない。

 黒い霧とは、国有農地払い下げ、バナナ汚職、防衛庁長官の自衛隊機を使ったお国入り、その他もろもろで、12月1日に行われた総裁選も党内の批判票が1/3を超えるなど、党内基盤もしっかりしていなかった。野党4党が解散を迫っていた点でも今の麻生政権と似ている。

 その翌年1月に行われた総選挙では、自民277、社会140、民社30、公明25、共産5、無所属9で与党の議席は減らしたものの社会も振るわず、自民政権の安泰を確保して求心力も高まった。ついでながらこの選挙で社会の退潮が始まり、公明が第3勢力となるきっかけをつかんだといわれている。

 すこし前の話だが、麻生首相がこの解散の前例にあやかりたいような発言があったという。それならば佐藤首相のように年内に国会召集と同時に解散すべきだった。すこし前に「枕草子」の「近うて遠きもの――十二月のつごもりの日、ついたちの日のほど」というところを紹介したが、日本の正月休みの間隔は、いろいろな意味で感覚の改まる期間なのだ。

 その機会を自ら逸した麻生首相より、佐藤元首相の方が役者が1枚も2枚も上だったということか。もっとも、年内解散でも麻生内閣には救いがなかったかも知れない。ただ、ますます結果が悪くなるということにつきる。
 

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2008年12月25日 (木)

朝鮮・韓国 20

俄館播遷(アクワンパチョン)
 前回記事にした閔妃暗殺事件発生からほぼ4か月後、指南役だった妻を亡くした国王高宗は、息子や女官を連れて突然王宮を抜け出し、ロシア公使館に逃げ込みました。もちろんロシア側とあらかじめしめし合わせてあったことです。そしてロシア軍の保護のもと、親露政権を樹立して約1年にわたりここで政治をとりました。これを朝鮮語では「俄館播遷」といいます。

 国内にある他国の公使館で亡命政権が実権をにぎっている、これはもう「国家」ではありません。王様も王様ならロシアもロシアです。これで日本は手も足もでなくなりました。しかし、国王を非難するわけにもいきません。妻があのような形で惨殺されたのですから、明日はわが身、と思っても仕方がないでしょう。

 それに、閔妃暗殺で日本の悪者ぶりが、しっかり朝鮮国民にしみついてしまいました。各地で起きる反日暴動に手を焼く日本軍の弾圧で犠牲者の数もふえるばかりです。その間、朝鮮政権は日本の独占を妨げるようにロシアや欧米にどんどん利権をばらまきます。

 ことにロシアには、03年9月に日本が拒否するよう要請していた鴨緑江河口の竜岩浦租借契約を締結、砲台建設を許します。この時は、すでに次ぎに述べる北清事変に悪のりしたロシアが、旅順から満州全体に勢力圏をつくり一歩も引かない体制でしたから、日本が日清戦争以前にもまして危機的な脅威にさらされたと言っても過言ではないでしょう。

 北清事変とは、中国に対する西欧列強(英・仏・独・ロ)のあこぎな利権獲得競争の中で、貧困にあえぐ民衆が「義和団」という組織にのって大規模な暴動に発展したことがきっかけです。最初は自然発生的なものでしたが勢いを増すにつれ、清国政府がこれを応援、1900年6月に至り列強に宣戦布告して政府軍も居留地を襲う事態になりました。

 これに素早く対応したのが、地理的に間に合わない英国などから要請を受けた日本軍と、満州占領の機会を狙っていたロシア軍です。日本軍はよく組織され、規律もとれていて、たちまち天津、北京の秩序を回復しました。

 各国は清国と賠償交渉をするとともに、各国軍の引きあげなどを協議しました。その中でロシアだけが抜けて独自に清と交渉し、旅順や奉天を軍事基地化すると共に、満州から軍隊を段階的に引きあげる約束を守らず、居座り続けたのです。この状態は日露戦争が始まる前年(1903年)まで続きました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月24日 (水)

朝鮮・韓国 19

閔妃暗殺
 前回、日清戦争は失敗だったということを書きました。なぜならば、朝鮮を清の属国から救って自主独立の国とするどころか、歯車が全く逆の方に回転し始めたからです。その最たるものが「閔妃暗殺」です。私は、日本人としてどうしても朝鮮の方に頭が上がず、謝罪しなければならないと思うのがこの一件です。

 日本は日清開戦を前にして、1万の軍隊で京城を占領状態におきました。そして、志士とか浪人と呼ばれる民間人を使って隠とん中の大院君かつぎだし、閔政権を倒して親日政権を作らせました(1894.7.23)。さらに、内政改革の要求と戦争遂行を前提とした「日朝攻守同盟」を結ばせたのです。

 しかし改革は日本の思惑通りに進まず、再蜂起した東学党と内通しているという口実をもって大院君をしりぞけ、国王を表にだして親日政権をてこ入れしました。ところが、清に大勝はしたものの三国干渉に屈してしまった日本を見た閔妃がロシアに接近、国王を操って親日派を強引に追放しました。そこでまた大院君の登場です。日本は公使館が中心になって巻き返しをはかります。閔妃暗殺の陰謀にも進んで加担しました。

 こうして95年10月8日、閔妃暗殺事件が起きます。時の公使は三浦梧楼でした。外相経験のある大物公使・井上馨が、脅迫や懐柔、それに札びらまでみせびらかせての工作が失敗したあとを受けての就任です。角田房子著『閔妃暗殺』によると、三浦は陸軍予備中将で、自ら「外交や政治は素人」だといい、陸奥なども反対したが「剛気果断の人物」ということで任命されたようです。

 犯行の黒幕は、公使自身と公使館員、領事警察に民間人が加わわっています。実行犯は軍人、警官を含む民間人計40人ほどです。民間人は志士、浪人、壮士、暴徒などと呼ばれた日本人で、その狼藉、残虐ぶりから「ごろつき」とも呼ばれました。

 犯人たちは、顔を知らない閔妃を判別できないため宮女をかたっぱしから斬殺、死体を庭にに運び石油をかけて焼却しました。報告書には「誠にこれを筆にするに忍びない」行為まであったと書かれています。まさにごろつき以下の破廉恥行為です。この事件は多くの外国人に目撃されており、政府はあわてて公使以下を召還、逮捕の上裁判にかけることにしました。

 しかし、処刑されたのは参加していたという3人の朝鮮人だけで、ほかの日本人は全員無罪か免訴とされました。後、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根に暗殺されますが、動機は「国母虐殺の恨」をはらすためだったと安が供述しています。

 日本の政権は、外国からの批判をかわすため、手続きを経て国家の犯罪ではないことにしました。また、それが曲がりなりにも通ったのは、列強各国それぞれの思惑があつたり、ロシアに対する警戒心があったのかも知れません。

 仮に、当時の国際標準をクリアーできたにしろ、朝鮮宮廷の行動が日清戦争の結果を台無しにするものであったにしろ、実権をにぎる王母を、官憲を含む外国人が首都の中心で暴力を振るって虐殺することが正しいことだ、などとはどうして言えるでしょうか。

 後の日韓併合を、法的な手続きを経て行った妥当なもの、などという右派の主張は、私はこの一事をもってすべて帖消しになると考えます。歴史に「もし」は許されませんが、このような行動を事前に防止することが不可能だったとは思えません。「痛恨事」とはこのことをいうのだと思います。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2008年12月23日 (火)

朝鮮・韓国 18

 前回の続きとして日清戦争の経緯と結果を箇条書にします。

【開戦のきっかけ】
・1994年(明治27)2月 全羅道の農民蜂起を発端とする「東学党の乱」は朝鮮南部一帯に拡大する勢いとなる。「斥倭」つまり排日をスローガンにしていたのに、なぜか志士と称する日本人が潜入、あおっていた。これを開戦工作と見る謀略論はちょっと考え過ぎ。
・6月1日 朝鮮政府は清国に出兵を依頼。翌日日本政府も派兵決定。天津条約(「朝鮮・韓国 15」参照)に基づき双方が事前通告。両軍は京城・牙山間でにらみあいとなる。

【仕掛けたのは】
 日本である。両軍が朝鮮で対峙した頃、東学党の乱は沈静化し派兵の根拠を失った。日本は撤兵を拒み、朝鮮の改革を日清が協同して当たることを清に提案した。清はもとよりその必要を認めず、応ずる気はなかった。日本はさらに大軍を派遣し、引退していた大院君をかついで清軍の撤退を迫った。こうして一触即発の状況に持っていった。

【戦争の経緯と結果】
・1994年7月25日 豊島沖の海戦で戦闘開始。
・8月1日 宣戦布告
・9月 陸軍が平壌を占領、海軍は黄海海戦に勝ち制海権握る。
・11月 中朝国境の鴨緑江を渡った陸軍が遼東半島を制圧。翌年にかけて山東半島威海衛攻撃、北洋艦隊全滅させる。
・1995年3月 台湾、澎湖島に進攻。

・3月20日 下関で日清講和会議。
・4月17日 講和条約調印(清国が朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲、軍費賠償金2億両=約3億円の支払い、開市・開港の増加など)。
・4月23日 露・独・仏、日本の遼東半島領有に反対(5月5日日本政府これを受諾=三国干渉)。  

【戦争の評価】
プラス
・台湾ほかの割譲(第2次大戦後既得権を認められなかったので結果的にはマイナス)。

マイナス
・朝鮮を日清両国で改革するという日本側提案がほごになったので、行きがかり上、日本だけでこれを実施せざるを得なかった。
・敗北により弱体化した清国政権に、英仏独ロなど各列強は傷ついた獲物にたかるハイエナのように中国を浸食、朝鮮問題は開戦前より不安定化した。イギリス、ロシア、フランス、ドイツは財政難の清の弱みにつけこみ、日本への賠償金などを貸し付けることで鉄道敷設、租借権などの利権を獲得した。

・三国干渉を受け入れさせられたことにより日本が見くびられ、相対的にロシアの存在が強くなって朝鮮の背後をおびやかした。
・日本の世論「義侠心」は結果的に全くから振りに終わった。それが日本軍の快進撃を見て国民の間で「愛国心」に転化する傾向を見せ、陸奥宗光を心配させた(注参照)。三国干渉の結果、「利益線」確保はむしろ大きく後退、「臥薪嘗胆」の世論工作となった。
・朝鮮宮廷は日本の改革要求に抵抗し、ロシア接近でこれを妨害した。

 したがってこの戦争で、日本の強さはある程度世界に示せたが得るものほとんどなく、朝鮮政策はむしろ後退した。 
 
【注:陸奥宗光の心配】『蹇蹇録』から意訳

 平壌、黄海開戦以前には勝てるかどうか心配していた国民が、今はもう勝利疑いなしということになり、いつ旭日軍旗を持って北京城門に進入するのかを問題にしている。一般の気性は壮快になり、おごり高ぶり欲望をふくらませている。(略)もし、深慮遠謀の人人がいて妥当中庸の説を唱えれば、あたかも卑怯未練、いささかの愛国心もないという非難を浴びせ、だまらせてしまう。

 (略)その愛国心なるものが如何にも粗豪尨大であっても、これを事実に適用する上で注意を欠けば、往々かえって当局者に困難がふりかかる。スペンサーは露国民の愛国心を蛮俗の遺風と言った。これは酷評だろうが、いたずらに愛国心を持ち上げてこれに依存、前後を考えないと、往々にして国家の大計と相容れない結果を生む。

 この「愛国心」が後の日露戦争や大陸進出に影響していないとは言えません。最初の動機に意味があったにしても、戦争はいつしかその範囲を逸脱し、収拾を困難にします。勝ったにしても、戦争が国または国民の利益になったという例はすくないのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月22日 (月)

予想的中?

2008_12220002_3   土曜日に「拝啓 麻生総理大臣閣下」という記事をエントリーした。その中で「公明党が消費税でぐずぐず言う、そう、そんなのけっ飛ばせばいいのです」と書いたら、今日の毎日新聞のトップに写真のような見出しがでている。まさか、このブログを……見るわけはないよね(^^)。

 また、同紙の別の面で、 

8月1日の内閣改造で経済財政担当相に就任した与謝野氏は、当時の福田首相から総合経済対策の策定を指示される。これに対し公明党は定額減税の実施を要求。与謝野氏が難色を示すと、公明党の山口那津男政調会長は「我々には重大な決意がある」と連立離脱をにおわせた。

 結局、8月28日夜から29日未明にわたって麻生太郎、北川一雄両氏の自公幹事長会談で年度内実施が決まり、福田首相はその4日後に退陣を表明した。

 という因縁話をのせている。

 当塾は、福田前首相のアジア重視政策が安倍・麻生のような表面上だけのものではなく、日中韓中心の東アジア共同体まで念頭に置く、つまり究極的には軍事対立の要因をなくする方向の外交理念を持っていると見て支持をした。

 これは、自民党嫌いの方の反感を買ったようだが、民主党の和製ネオコンよりはましだ。しかし、やりかけの仕事を放り出して辞職したのでショックを受けて、9月1日に「敵前逃亡辞任」という記事を書いた。辞任の主因は公明党と断じたものだが、見事に的中したようだ。

 意地悪く言えば、福田さんは、公明と次をねらう麻生さんにはめられたのだ。それなのに、政敵である与謝野さんを留任させたのは、人気のためなら政策はどうでもよかったということか。消費税で筋を通したい与謝野さんが、公明党に寄り切られそうな総理に首をかけて抵抗した。それが今回の3年後増税明記なのだろう。

 与謝野さんに今辞表など出されたら、即、政局だ。今度は与謝野さんに花を持たせなければならない。増税時期明記を発表したあとで、与謝野さんに「これていいんだろ」と総理が言ったというが、そのあたりの事情を物語っているようだ。

 昨日21日のサンデープロジェクトに出演した与謝野さんの増税時期の説明は、それなりに説得力があった。ゆっくりした語り口がそれを助けていたのかも知れない。また、日本経済を活気あるものにする長期的な構想として、IMF依存ではなくアジアを共同化する方向に持って行くべきだ、というような発言をしていた。

 こんどは、与謝野ファンになろうかなあ~。happy01

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年12月20日 (土)

拝啓 麻生総理大臣閣下

 景気と閣下の人気の低下がこれでもかこれでもかと繰り返し報道される昨今、国民のため日々のご活躍感謝に耐えません。

時事通信社が12~15日に実施した世論調査で、内閣の支持率が22.1ポイント落ちて16.7%になったことを、毎日新聞が他社の調査であるにもかかわらず伝えています。

 一週間前に自社が行った調査が21%なので、この急落ぶりに多分びっくりしたのでしょう。それでも閣下は動じてはいけません。すくなくとも一国の総理です。前回や前々回の総理のようなショボイ辞め方はしないでください。

 閣下のお爺さまも国民からあきられ、最後はさんざんの人気でした。「曲学阿世」など読み方は正しかったものの学者をバカにする問題発言もありました。党内の混乱に加え野党攻撃にも、予算通過のためひたすら耐え忍んだお爺さまは、予算委員会の途中でつい質問者に対し「馬鹿野郎」とつぶやいてしまいました。

 これが暴言だとし、いわゆる「馬鹿野郎解散」になります。しかし、カッコよかったです。白足袋に舶来の葉巻をくゆらす姿。庶民にはわからなくてもにくまれても意地がありました。それで今は戦後の名宰相で通ります。

 支持率を上げる簡単な手を教えて差し上げます。来年早々にも「解散する」とひとこと言えばいいのです。きっと株価も上がるでしょう。「続・鬼が笑う政局予測」のような解散の仕方をすれば支持率数%上昇することうけあいです。

 公明党が消費税でぐずぐず言う、そう、そんなのけっ飛ばせばいいのです。「責任政党の総裁として」の一本槍でいいのです。それでも、選挙は野党に負け、結局下野することになるでしょう。もう、この先は自民で過半数など望んでもあり得ません。

 それならば、カッコよく麻生総裁善戦の実績を残せばいいのです。それが相撲じゃないが次の場所につながるというものです。まだお爺さまからみてもズーットお若い。ここはひとつ、カッコよかったお爺さまを見習ってください。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2008年12月19日 (金)

朝鮮・韓国 17

日清戦争に至った背景
 このシリーズは、第1回の太古からはじめてここまでで17回になりました。ふりかえって見ると、最初は「である調」で、近代の徳川時代に入ると「です、ます調」に変えています。いま気がついたのですが、現代に近づくにつれ複雑な事情が加わり、読みにくくなることを避けようとしたのでしょうか。

 近代はいろいろな史料・文献も増え、人によって考えも違ってきます。評価に問題のある特定史料を使ったトンデモ史観や、あらかじめ敷かれたレールの上でしか解釈をしない硬直史観はとりたくない、というのはなかなかしんどいことで、イラクじゃないけど出口をさがすのになかなか時間がかかりそうです。

 今回はいよいよ明治27、8年、朝鮮を舞台にくり広げられた日清戦争に入ります。これは教科書をはじめいろいろな参考にすべき書物があるので、項目を上げて簡単にしたいと思います。まず、開戦に至った背景を日・朝それぞれ3つずつあげてみました。

【朝鮮側の背景】
1.進まない宮廷改革
 大院君と閔妃による骨肉の政権争奪戦はこのあとも続きます。また、宮廷をとりまく特権階級両班(ヤンバン)官人の利権あさり、貧官汚吏ぶり、豪奢な生活も一向に変わりません。

2.事大主義・外国依存体質
 巨大国清の冊封国になっていれば保護が受けられるという長年の習慣がしみついています。すでに見てきたようにクーデターなどが起きると毎回のように清に出兵を要請しました。それはクーデターを起こす方も同様で、強いとなると日本やロシアでさえ頼ろうとします。日本と日朝修好条規を結び、自主独立の国という契約をしたのに、それを守ろうという気はあまりありません。清王朝にもそういったところがありました。つまり、近代的な外交常識や世界の動向にうといということです。

3.指導力・組織力不足
 農民、庶民の暴動や宮廷政治の改革を目指す勢力も現れますが、それを実現させる試みはいつも妨害や妥協で失敗します。日清戦争の引き金も「東学党の乱」という農民蜂起と清への出兵要請でした。これに対抗するため、日本も出兵して衝突を起こしたわけです。 

【日本側の背景】
1.お節介
 日本が尊王攘夷から開国・近代化に転換した経験をふまえ、朝鮮も清の属国扱いから抜け出して早く文明開化を進めた方が日本にとってもいいという気持があります。そして、日本は列強の圧力を受けながら、国際公法を楯にいわれのない侮蔑や侵略をかわしている、と言いたかったのでしょう。しかし、相手がそれを望まないのなら是非もありません。

2.危機感から自信へ
 すでに述べてきたように、欧米列強による帝国主義的植民地競争は一向におとろえません。ことにイギリスとロシアはアフガニスタンなどで激しい争いになっています。東洋では、南下に熱心なロシアと中国での優位を失いたくないイギリスが朝鮮をめぐってにらみ合い、イギリスはいち早く巨文島を占領しました。

 宗主国を自認する清は、朝鮮のことはどうぞご自由にという無責任な態度で、日本政府をあわてさせます。しかし、日本をどうしても味方にしておきたいイギリスは、長年日本が念願としてきた日英条約を平等なものにすることを認めます。これが日清戦争開戦に自信を持った一因となったようです。

3.政争
 その前に、衆議院内閣弾劾上奏決議が可決されたり、衆議院の解散があったりて政局が流動的になり、伊藤内閣も危機的な状況のもとありました。日清戦争突入はこれを一気にかわす意味があったのです。

 そのあたりを、時の外務大臣・陸奥宗光の外交秘録『蹇蹇録』で見てみましょう。まず、次の3通りの意見を「個々人々の対話私語に止まる」と切り捨てました。

①朝鮮の改革を名分に日本の版図を拡張、または保護国として権力の下に屈服せしめる。
②朝鮮の改革を進めまがりなりにも独立国の体面をそなえさせ、清・露の緩衝地帯にする。
③ベルギー、スイスのような列国保障の中立国とする。
 
 そして、社会凡俗の与論は「弱きを扶け強きを抑ゆるの義侠論」であると判断し、これを利用して強引な開戦持ち込んだのです。しかし陸奥の真意は、「我が国朝野の議論が如何なる事情、源因に基づきたるが如きはこれを問うに及ばず、とにかくこの一致協同を見たるのすこぶる内外に対して都合好きを認めたり」と表現しています。

 かいつまんでいうと、開戦について「いろいろ議論はあるが、そんなことはどうでもいい。与論が『義侠論』にあるのだからそれでいこう。それが内外に対して一番都合がいい」という、かなり乱暴な言い回しで、あとのことは「国益第一で考えればいいんだ」ということです。

 「内外に対して」というのは、戦端を開く1カ月前に、難航を極めた日英通商航海条約改定の調印にこぎつけ 海外からの非難の緩和が見込めたことと、その前に対外硬派から出されていた衆議院内閣弾劾上奏決議および衆議院解散による政府への攻撃をかわす意味があったことを指しています。まさに朝鮮から清を切り離す「チャンス到来」だったわけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月18日 (木)

多極化時代に日本は?

 前回、前々回に続いて、世界の潮流の中で日本がとり残されないかの心配である。16日、ブラジルで中南米・カリブ海地域33カ国の首脳による初めての首脳会議が開かれた。この会議の歴史的意義は、これまでこの地域とカナダを含めた米州機構(OAS)の主人公であったアメリカの姿がなく、かわりにOASからはじかれたキューバが加わっているという、脱アメリカ会議になっていることである。

 安倍政権時代に合憲化を試みようとした「集団的自衛権」という国連憲章上の文言は、実は1945年すなわち日本敗戦の年に、中南米諸国の自衛権に関連して生まれたものである。かいつまんでいうと、これらの小国が自衛権を行使しようと思っても、国連の安保理で大国が拒否権を発動すれば、効果的な自衛が阻害されるという心配を持ったことによる。

 これに乗ったのがアメリカで、他国であっても同盟国が攻撃されれば武力行使ができるという「集団的自衛権」を条文に付け加えることに成功した。「朝鮮・韓国15」のエントリーで述べた「利益線」の概念が強国の間で根強く残っており、中南米は文字通りアメリカの利益線だったのである。

 現在、集団的自衛権が云々される大きな存在がNATOである。これは冷戦時代のソ連に対峙する戦力として大きな意味を持ったが、イラク戦への不参加やアフガンなどでのばらばらな対応、グルジアの加盟に対する意見の対立と、このところの軍事同盟としての金属疲労現象が目立つ。

 ここでひとり日本だけが、田母神前幕僚長など安倍残党のような人を中心に「集団的自衛権」に魂を入れようなどと画策することがいかに無意味であるかに気がついていない。前述の中南米諸国はいずれはEU型の地域共同体をめざすことになるだろう。

 同会議に親米国であるペルーとコロンビアは参加していない。また、共同体指向を宣言したASEANもタイの政治混乱などもあって前途遼遠である。しかし、ヨーロッパの統合には最初の着想から何百年もかかっているし、試行錯誤の積み重ねの中で育っている。

 日本はどの方向に進もうとしているのか、アメリカは日本にとってかけがえのない重要な国である。その理由は何かをまず分析してみなければならない。評論家・岡崎久彦のいうような「これからの100年、アングロサクソンにつくのが国益である」は、人種差別がにおう暴論であるが、太平洋をはさんだ隣邦であることは第1にあげなくてはならないだろう。

 次ぎにややあやしくなってきたものの、開放された民主主義国であること。日本と深い関連を持つ経済大国であること。安全保障上の有益な同盟国であることなどである。そして、安全保障については、何が有益で何が有害かをさらに分析しなければならない。

 その上で、当塾がかねて提起している「東アジア共同体」についての検討が必要になってくる。それがこの地域の安定に貢献することになればアメリカにとって反対する理由はない。すこし前のパクスアメリカーナの時代には、経済ブロックとしてのASEAN接近にも反対したが、もはやその力はない。

 こういった検討を経て、日本の進むべき道を一刻も早く国民に示してもらいたい。現状のように小泉時代から一歩も進歩していないというのでは困る。与党ができなければ何党でもいい。経済・福祉の問題と共に、オバマ時代に対応する外交政策も最優先されてしかるべきだ。 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年12月17日 (水)

核軍縮を輸出せよ

日本は変身できるのか

 世界の新潮流、アメリカ・オバマ大統領の出現などを前に、日本はこれから何をすべきかというテーマは、前回のエントリー「民主党の防衛政策」と同じである。空前の世界不況と麻生内閣の支持率凋落のなか、政治は解散含みの離合集散ばなしと小手先の財政措置に関心が集まるだけで、国民に訴えるものが何もない。

 自動車、電機といった日本の得意とする輸出産業が軒並み消費減退、リストラ、首切り、失業という暗いニュースばかりだ。そこでこれからの有望分野として、唯一の被爆国で平和憲法を持つわが国特産、核軍縮を輸出産業にしたらどうだろう。

 昨年10月、大統領候補としてオバマ氏は始めて「核前面廃絶」を政策として掲げる宣言をした。当時は、他の候補との差別化をねらった、などという観測報道が主だったが、オバマ氏は多くのアメリカ人に共感をもって迎えられるという自信に裏打ちされてのことだという。

北朝鮮が見た悪夢

 日本では、近い問題として北朝鮮の「核」がある。これをノドン・テポドンとセットにして脅威をあおり、片や拉致問題の膠着で制裁強化を叫んできたのが、小泉から安倍へと引き継がれた路線である。また、被害者家族会が脱退まで言いだした6カ国協議は、封印されたままオバマ就任まで持ち越されようとしている。

 6カ国協議が無能力状態になっているのは、米・朝の相互不信であるが、大もとは、悪の枢軸、ならず者国家などの表現を用い、テロ支援国家と北朝鮮などを名指ししたことによる。そして、そのような国には、先制攻撃(場合によれば核兵器を含め)をしてもいいというブッシュ・ドクトリンから発しているのである。

 イラク進攻は、国連の同意がないままそれを実行に移し、単なるおどしでないことを証明してしまった。北朝鮮も、なにかのきっかけでそうされる危険を感じただろう。もちろんアメリカの膨大な「核」がおどしであることは、北でも承知しているし対抗できるものではない。

 ブッシュ登場により冷戦後続いてきた核軍縮指向をストップさせ、戦術核兵器の開発や部分的核実験を復活させる動きにでて、世界に核大国として圧倒的優位を維持し続けることに専念した。だから核はこわいものと言い続け、信じさせておかなければならなくなる。

 しかし、相手がその手を使うならこっちも同じ手を使おうというのが北朝鮮の手口だ。まずテロ支援国家指定解除をして攻めてこない保障が得られることが第1、それから、査察をするならこちらも同じ査察するならともかく、イスラエル、インドは全く黙認、イラクがそうだったように隅から隅まで見て回ってスパイをし、それでなおかつ攻め込んだではないかというのが不信のもとだ。

 前置きが長くなったが、オバマが核兵器廃絶を目指すのは、「いい国」「悪い国」のダブルスタンダードではない、自国を含め世界をその方向に向かわせるのだ、ということになると局面は大きく変わってくる。

 北朝鮮にとってブッシュなら切れたカードがオバマには利かなくなるかも知れない。北朝鮮にとってこわいのは、世界から孤立し無視されることだろう。オバマが交渉相手として決して有利といえない由縁である。さて、ここでまた日本にもどろう。

核軍縮の先頭に立つ夢

 本塾ではこれまで、核開発、核兵器研究などに言及することさえ許されないという、いわゆる核アレルギー的反応を批判してきた。わが国は、世界唯一の被爆体験を持つ国であり、地震列島上に多くの原発をかかえ、放射能汚染対策にも一定の水準を維持している核先進国である。もはや核問題から逃げることは許されない。これを核軍縮や環境保護技術に生かさない手はないからである。

 わが国が核兵器を持つ必要はないが、そういった知識・経験が豊富にあることだけで、いつでも対抗できますよという隠然とした核抑止力になっているはずだ。また、これからオバマに協力して世界の核軍縮の先頭に立つことがあれば、ブッシュに協力するよりはるかに国際貢献になる。

日本進出のさきがけに

 天野之弥さん(61)という方がいる。外務省で軍縮不拡散・科学部長を経て、05年からウィーン国際機関代表部大使を努めた。この方は、ロシアの原潜解体や米国の宇宙開発など多くの現場に立ち会ってきた。また、ウクライナ・チェルノブイリ原発の現場を検証、事故炉は運転台のボタンが欠落、重要部品を使い回すという状態で、事故後も隣の原子炉が不安定で危険な運転を続けたため、先進7カ国(G7)原子力グループの議長として交渉にあたり、完全閉鎖を要求、00年に実現している。

 その外交経験と人柄に、日本政府が国際原子力機関(IAEA)の次期事務局長候補に推挙した。核兵器の拡散を防ぎ、原子力の平和利用を促進するIAEAの使命は不変だ。核テロの脅威やエネルギー危機など「時代の変化に対応できる体制に」と説き、北朝鮮やイランの核問題に「力ずくでなく辛抱強く交渉を」と調整役に自信を示す。

 選出には理事国35カ国の3分の2の支持が求められ、来年秋の正式決定まで長く厳しい選挙戦が続く。唯一の被爆国、そして科学技術で最先端を行く日本を代表する思いはひときわ強く、「日本人は世界で活躍できると示したい」という。<この項、08/11/5毎日新聞より>

 核軍縮が軌道にのれば、核兵器解体をはじめ日本の核関連技術が立派な輸出産業として成り立つ可能性がある。環境立国とともに、その日の来ることを夢見たい。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年12月16日 (火)

民主党の防衛政策

  毎日紙が報ずるところによると、民主党はオバマ次期米政権との人脈をつくるため、クリントン政権時に国防次官補代理だったカート・キャンベル氏、ジョセフ・ナイ元国防次官補、マイケル・グリーン元国防総省アジア太平洋担当特別顧問ら米民主党系の国防関係要職経験者らが来日する機会をとらえ、19日に鳩山由紀夫幹事長らと会談する予定だという。

 民主党からは、ほかに菅直人、岡田克也それにこの会談をセットした前原誠司各氏が出席し、沖縄の基地問題などを話し合う計画だ。本来ならば、日本からアメリカへ出かけていって、しかるべき要人と接触すべきなのだろうが、いつ解散総選挙の爆弾が投じられるかわからない状況下で、とてもそんな余裕がないということか。

 前回のエントリー「朝鮮・韓国 16」で、山県有朋が長い船旅をいとわずスイスまで行って日本の外交・安全保障問題、そして将来の展望を築くため、識者と意見交換をしていたことを書いた。それにくらべ、いかにも「泥縄」の感がするが、亀井静香氏のいう「まぜごはん」党では、多くを望む方が無理だと言われそうだ。

 前原氏が今年6月に訪米した際、親交があるキャンベル氏らと会った結果「日米関係は大統領選の争点ではなく、白地に絵が描ける」と伝えられている。それならば、日米関係重視、安保条約堅持を前提に、日本国憲法尊重、安保条約の運用、指針や地位協定の新情勢に向けた見直しなど、これまで自民党政権が築いてきた隷属路線の「チェンジ」をはかる絶好のチャンスではないか。

 私は、それがアメリカを含む世界の潮流から見て、極端にはずれた空論とは思えないのだが、集団的自衛権容認、9条改正、中国敵視など、小泉・安倍路線に親縁性のある前原的なものを民主党から清算しない限りは、とても「チェンジ」を国民にアッピールすることができないだろう。

 沖縄基地問題で普天間飛行場の県外移設などを盛り込んだ「沖縄ビジョン」などの民主党案があるが、その程度の発想ならば自民党でも可能なことで、ブッシュ後をにらんだ案としてはなんら新鮮味がない。むしろ、小沢一郎代表が今月5日に表明したという「沖縄にそんな大きな軍事力は不必要」という言葉の方に、かすかな期待を持つしかない。

 これだけ大勢いる政治家の中で、世界的視野で物事を判断し、指導力を発揮できる政治家が一人や二人は必ずいる、こう信じなければ当塾はもとより、「日本人」をやっていけなくなる。wobbly

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2008年12月15日 (月)

朝鮮・韓国 16

山県有朋の利益線論
 山県有朋といえば、長州藩の出身で松下村塾から奇兵隊、明治時に入ると政府の中枢にいて各大臣から首相まで歴任した元老として有名です。中でも陸軍とのかかわりは深く、帝国陸軍の生みの親といっていい存在でした。

 前回記事にしたイギリスの巨文島占拠のあった後の1988年(明治21)、山県は内務大臣ながら伊藤博文首相に対して、ロシアのシベリア鉄道が開通すると英・ロの朝鮮を舞台にした戦争の可能性が高まることを上申し、軍事費増強を主張しました。そうして、このように締めくくっています。

 我国の政略は朝鮮をして全く支那の関係を離れ自主独立の一邦国となし、以て欧州の一強国、事に乗じて之を略有するの憂いなからしむるに在り。(軍事意見書)

 山県は、日清戦争で第1軍司令官をつとめ、中国本土まで進軍させた張本人ですが、この頃は、朝鮮侵略の意図がなかったようです。また、1890年(明治23)首相になった山県は、意見書「外交政略論」の中で、日本の独立自衛のためには、「主権線」と「利益線」を守ることが必要だと主張しました。

 「主権線」とは、我が国の領土・領海そのもので、「利益線」とは「主権線」と密接な関係のある隣接地域だといっています。そして、ズバリ「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」と断定しました。この発想はどこから来たのでしょうか。

 加藤陽子氏の研究によると、伊藤博文の憲法起草準備に大きな影響を与えた、当時ウィーン大学教授のローレンツ・フォン・シュタインではないかといいます(『戦争の日本近現代史』講談社現代新書)。山県は1988年に欧州派遣を命じられました。その際シュタイン氏に細部にわたり質問した事項に対する89年6月付の解答書が史料として残っており、上記の主張とよく符合するからです。

 山県は、それに自らの発想も加え、第1回帝国議会の施政方針演説に取り込みました。このシリーズ14でわずかに触れましたが、朝鮮でも外交、安全保障に欧州人の知恵を借りています。それは、清国の推薦で朝鮮の外交顧問となったドイツ人のパウル・ゲオルグ・フォン・メレンドルフです。

 ところが、メンドルフはロシアと朝鮮をロシアの保護下に置こうとすることを画策、同国と密約を交わしたことが国際的に暴露されました。これは、当然日・清をはじめその他の各国からも猛反発を受けます。朝鮮の宮廷ではメンドルフにこの責任すべてをかぶせ、解任・追放することでこの件の幕引きをはかったのです。

 こういった日本と朝鮮の違いが、後々の両国関係に不幸をもたらしたとはいえないでしょうか。朝鮮が独立を果たせなかった原因に、日本の資本による経済支配をあげることがありますが、次元が違う話でやはり直接結びつけるのは無理があるように思います。

 それにしても、「利益線」というのは、その次の時代の松岡洋右が「満蒙は我が国の生命線」という発言をして姿を変えました。さらに太平洋戦争直前には、大本営が満蒙から中国、東南アジア、インド、南洋諸島、オーストラリア、ニュージーランドにまで「利益線=生命線」を拡大させたことは、さすがの山県も想像できなかったことでしょう。

 日米同盟でかつて論じられた「極東の範囲」とか、アメリカの軍事戦略に関係する「不安定の弧」などという言葉も、この利益線の概念に相当するのかも知れません。ブッシュの戦略のように、地球をひと周りしてしてしまえば、もはや意味をなさなくなってしまいますね。イラクの新聞記者に靴を投げつけられるのも、むべなるかな――と思います。
  

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年12月13日 (土)

枕草子

近うて遠きもの

 近うて遠きもの 宮の前の祭。
 思はぬはらから、親族のなか。
 鞍馬のつづらをり といふ道。
 十二月のつごもりの日、正月のついたちの日のほど。

                 清少納言

近うて遠きもの

 近うて遠きもの 隣に住む人。
 民主党の天下 小沢一郎首相。
 ブッシュ後の中東和平と北朝鮮。
 日頃コメントをいただく ブログの友。
 清少納言が 生きてた時代。
 
                塾 頭

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2008年12月12日 (金)

朝鮮・韓国 15

巨文島
 1885年(明治18)は、日本が朝鮮をどう考えるかについて、とても大切な年だったと思います。前の年には甲申の政変(日本では京城事件といった)で、親日改革派の金玉均が起こしたクーデターが失敗し、バックで軍事介入をしている日・清両国間の緊張が高まりました。

 前回、福沢諭吉の話をしましたが、学生をはじめとする知識階級や政財界には相当危機意識があったと思います。しかし、伊藤博文の積極外交が功を奏し、事件後約4か月後に日清両国ともに朝鮮から撤兵し、出兵の必要があればあらかじめ通告するという「天津条約」の締結に成功しました。

 朝鮮にすれば一見中立の立場で、独立国を主張する絶好の機会だったかも知れません。しかし、ドイツ人の顧問に外交を頼るなど、外交にうとく人任せはよりひどくなったようです。天津条約妥結の直前、こんなことも起きました。イギリスによる巨文島占領です。

 「巨文島問題」?、驚いたことには私の愛用している日本史年表には載っていません。また、どこにあるのかと思って、家にあるいくつかの地図をさがしてみました。「巨」の字があるからある程度大きくて、有名な島だからすぐ見つかると思っていたのです。ところが見あたりません。

 しかしありがたい世の中になったものです。ネットで検索する(Wikipedia)と地図でも歴史でもすぐにわかります。また、太平洋戦争後の連合国との平和条約には、その島の名前が載っています。

 第2条(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する

 済州島は、韓国最南端の大きな島で観光開発も進みおなじみの島です。鬱陵島は問題の竹島の韓国寄りにある島で、これもよく知られています。それでは地図で探しても発見しにくい小さな島がどうしてここに登場するのでしょう。

 それは、朝鮮海峡にあって、対馬と同様日本海への出入り口を往来する艦船が監視できる戦略上非常に重要な位置にあるからで、帰属を明確にしておく必要があったのではないでしょうか。1885年3月、イギリスの東洋艦隊が、突然この島を不法占領し要塞工事を行うとともに、清国政府に対し、朝鮮でロシアにどのような譲歩もするなと圧力をかけたのです。

 ロシアは1860年に清の隙をついて沿海州を領有、ウラジヴォストークを拠点にその艦隊を南下させて朝鮮の東海岸に出没していました。その翌年、文久元年に対馬にロ艦1隻がおしよせ、兵を上陸させて土地を不法占拠しました。しかも、これに抗議した島民1人を射殺し2人を拘束するなどして居座るかまえを見せたのです。巨文島より21年も前の事件ですが、日本人はこのことを忘れていません。

 イギリスは当時、ロシアのアフガニスタン南下で激しく争っていました。ロシアの南下は、いつになっても警戒される宿命を持っています。この時も日清間の力の空白をロシアで埋めようという、朝・ロの密約に気づいたイギリスの先制行動で、その後2年間も占領が続きました。

 こんなところで、ヨーロッパの抗争の火をつけられたら日本もたまりません。壱岐・対馬をはじめどんな禍が国土に及ぶか計り知れません。また、朝鮮が日・清以外の影響下に入るようでは、これまでの努力も水泡に帰すことにもなります。朝鮮が自主独立の国になることに、日本はまだ一縷の望みを捨て切れていませんでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月11日 (木)

続・鬼が笑う政局予測

 本当は、ジャーナリストでも評論家でもないのに政局予測などしたくない。だけどこの混迷ぶりをみていると、せめて来年に年越しの夢をかけたくなる。前回この題を使ったのは11月26日だった。自民は「自壊寸前」と書いたが、内閣支持率が21%などという数字も出て、もはや無政府状態に近いと言い換えなくてはならないのか。

 小泉元首相は、「改革」の旗振り役をしていた議員が集まる集会で、「こういった時こそジーット我慢が必要」というようなことを言ったらしい。政局は、来年通常国会まで多分これでいくだろう。ジーット我慢するのは、麻生首相をはじめ、自民党の若手・中堅・ベテランの議員、苦悩の公明党、さらに小沢率いる民主にまで及ぶ。

 我慢しきれないのは、渡辺喜美。しかし彼に続くものはなく、また孤立の道を行くしかない。次ぎは公明党。もうここまでくれば自民に三くだり半(離縁状)は出せない。公明発案のばらまき政策不人気もあり、同居離婚同然となる。

 そこで麻生の我慢が臨界状態になる。通常国会を前に新年挨拶などあらゆる手を使って「責任政党」を喧伝する。その上で解散権を行使する。自民党が比較第一党になれば最善、なれなくても解散の大義名分を手にする。いかに楽天家でも不況はより深刻化するだろうし、支持率が9月までに劇的に改善するとは思わないだろう。

 首相のクビをつなぐにはこれしかない。したがって、野党が内閣不信任案を出す→過半数で否決する→参院で野党が問責決議案上程→採決前に解散、というきっかけがほしい。それで、負けてもともとの大勝負が打てる。そうなる前提は、国民が一番我慢しきれなくなっていることを感じさせることだろう。

 年を越せば、もう史上最短の麻生内閣などと言われなくてもすむし、再起不能の歳でもない。また、巷間言われている政界再編は、それほどドラマチックに展開することはないだろう。なぜならば、保身第1の昨今の政治家は、「ジーット我慢の子」が似合っているからだ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年12月10日 (水)

リストラ

 2008_12100009_3 今年は公園に飛来する鴨の数が目立って減っている。去年、「野鳥にエサを与えると野鳥の種類がかたより、自然の環境がこわされますのでエサを与えないでください」という市の看板が立てられた。

 多分これだ。休日になるとパンくずを持った親子づれでにぎわったのに、その風景がほとんど見られなくなった。ほかに、鳥インフルエンザ・キャンペーンで公園を敬遠している人がいるのかも知れない。

 急に減ったので、少子化は関係ないだろう。鳥の数にして約3分の2ほどにリストラされた感じだ。環境保護ならほかにまだまだやることがたくさんありそうなもの。野鳥のリストラとは淋しい限りだ。

2008_12100003  ハシブト烏君は、エサを与えなくても新タイプの電柱の上で今日も健在だ。しっかりとくわえたものを落とせないので、「アソー、アホー」とは鳴かないようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年12月 9日 (火)

朝鮮・韓国 14

 前回、日朝の国交が明治9年(1876)に「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」という条文を持つ条約で始まったことを書きました。日本が、ペリー来航時と同じ砲艦外交で強圧したこと、朝鮮の宮廷内権力闘争により王の実父から王妃の閔妃に実権が移って政策・人事の大転換があり、やや親日に向いたのです。

 ところが、そういった権力闘争や官吏の無能・腐敗、国内の騒乱、外国依存の悪弊は一向に改まりません。これを、すべて日本の経済進出による貧困化が原因などという荒っぽい分析をする向きがありますが、韓国の研究者の中にも、民族が乗り越えられなかった後進性を冷静に指摘している人が少なくないのです。

 まず、1882年の「壬午の軍変」です。動機は、日本の軍事指導を受ける部隊と、その他の国軍の差別待遇に怒った軍の反乱のようです。統制のとれたクーデターではないものの、やはり失権した大院君を担ぎ出すことにしました。

 反閔妃であるとともに反日です。宮廷は襲われ、閔妃は一時生死不明と言われながら地方で隠れていました。また日本の大使も間一髪のところで死をまぬがれ、日本逃亡に成功したものの、さんざんの体です。その間、閔妃は清に密使を送り軍事介入を要請しました。

 清は軍を派遣、なんと大院君を拉致して清に連れて行ったのです。そして暴動は鎮圧され閔妃は復権しました。そしてこれを「事大党」という一派が支えます。つまり大きなもの、すなわち清につかえる党です。日本国内はこの暴挙にわきかえりましたが、朝鮮には事態を深刻に受け止めた憂国の士もいました。

 金玉均といいます。この人は日本と縁が深く、日本の明治維新を手本に朝鮮の文明開化を進めようとしていました。日本では福沢諭吉をはじめ後藤象二郎や板垣退助など熱心な応援団がいました。そしてこの人もクーデターにのめり込みます。

 1884年の「甲申の政変」です。しかし、たったの三日天下の短命政権で失敗します。国王はそれに乗る気もあったようですが、大院君帰国を要求し清から独立しようとする金玉均の政策には閔妃が絶対反対です。またもや清国軍の力を借り、金玉均の追放に成功しました。金は日本へ命からがら逃げてきました。

 金も結局日本の経済的・軍事的支援を頼りにしていました。「改革党」を名乗りましたが、やはり日本という「大」の後ろ盾をあてにしたわけです。それに、エリート特有の自信過剰や慎重な準備を怠ったことも弱みになっていたでしょう。はっきり言えば日本の方も腰が引けていたのです。

 このあと、閔妃は清の協力が得られないとしてロシアに接近します。いずれも宮廷権力維持のためです。金玉均も今度は清の協力を得ようとして上海に渡ったところで暗殺されます。また朝鮮に送られた遺体は、閔妃一族の手で切り刻まれ、さらしものになりました。

 この頃です。福沢諭吉が主宰する「時事新報」の社説にいわゆる「脱亜論」が載りました。朝鮮・中国は文明に背を向け、狡猾であり残虐である、こういった人たちを友にしていると日本までその同類と見られる、こういった悪友たちとは手を切るべきだ、という趣旨のことです。

 これを、アジアを蔑視し西欧と同化しようとする「脱亜・入欧論」だとして諭吉の評判を落としたことがあります。誰が書いたものかは別として、金玉均に維新の志士を重ね合わせていた日本人が、「もうつきあいきれない」と投げだしたくなった気持ちだけはわかります。

 最近は「国際標準」という言葉を使いますが、明治時代には日本ほど国際的にそれが通用するかどうかを気にしていた国はないと思います。軍事力を外交のテコに使うことはあっても、当時の国際法を真剣に学び、すじを通そうとしたしたことも事実です。

 諭吉にとっては、日朝修好条規も文明開化も正義だったわけです。反面、金玉均と政治信条を異にする人から見れば売国奴になります。極端な比喩ですが、「中東を独裁者から解放し、民主主義を根付かせる」という「アメリカの正義」でイスラムの文化や風習が軽視され、イラクやアフガンなどイスラム教国民から総反発されているアメリカのブッシュ政権を思わずにはいられません。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年12月 8日 (月)

南北分断国家の悲哀

 67年前の今日、朝の臨時ニュースを聞いて日・米英開戦を知った。小学生である私は父親に聞いた。「勝てるの?」。負けるとは言わなかったが、勝つのも難しいといったような返事だったのだろう。よく覚えていない。

 とにかく、私にとって世界が一変するようなショッキングな話だった。表に出て家の前の塀によじのぼり世間を見渡した(まるで猫だね(^。^))。しかし、人影もなくいつもと変わらない平凡な朝だった。「朝鮮・韓国」をシリーズで書いているが、どうもこのところ筆が進まない。

 そういう時は過去のことを忘れて現在に飛んだり、全く違うテーマを考えることも手だ。たまたま、クラスター爆弾禁止条約に日本が積極的な態度で調印式に臨んだ影で、調印にはほど遠い韓国の現実についてのレポートした記事を読んだ。

 それによると、南北朝鮮を分ける軍事境界線周辺の地雷は、韓国側だけで推定百数十万個あるという。そして、北朝鮮の陸上戦力は約100万人。その兵力の3分の2を境界線付近に展開し、長距離砲やロケット砲なども常時配備しているとみられている。

 特殊部隊員も10万人。ただそこにいるだけではない。日頃厳しい訓練を重ねているのだ。「ソウルを火の海に」という北朝鮮の表現にはそれなりの現実味がある。このような場所で、短時間に広域を制圧でき、北朝鮮兵の南進を食い止めるのには、クラスター爆弾が有効とされてきた。

 その説明は十分納得ができる。また境界線近くなら人家もないし一般への影響は少ないだろう。オスロの著名式には韓国外交官の姿があった。世界の趨勢をとらえるため、賛成・調印はできないがオブザーバーとしての参加だという。

 国連総長を出している国だ。率先調印したい気持ちだろうが現実が許さない。このブログでも、日本政府の当初の日米共同作戦上とか、上陸部隊を殲滅させるためという理屈にもならない反対意見を攻撃し、福田首相の賛成決断を手放しで評価してきた。

 しかし韓国の苦渋と心情を、私を含めどれだけの日本人が理解しているだろうか。今、シリーズにしている「朝鮮・韓国」の明治時代は、現在以上に隣国人をわが身に置きかえ理解しようとしていたように思える。クラスター爆弾も、日本の仲介で南北の軍縮に寄与できたらどんなにいいだろうか。

 9条に命を吹き込み、日米同盟の組み立て方を変えれば決して絵空事ではない。拉致被害者家族会の代表が「6カ国協議を脱退しても経済制裁を」などと、まるで大戦前の国際連盟脱退のような孤立主義を公言する。そこまで事態を追い込んだのは、日本政府の怠慢以外にない。

 読売・毎日の世論調査では、内閣支持率がそろって21%と発表された。そして大多数の国民が早期の解散総選挙を望んでいる。選挙になれば、日ごろの言動からして小沢民主党代表の方が、私の理想論に一歩近いような気がする。

 その方向に向けて日本が動いていくように、無神論者ではあるが、開戦記念日にあたり神や仏に祈りをささげたい。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2008年12月 7日 (日)

朝鮮・韓国 13

日朝修好条規
 「日朝修好条規」は、日本と朝鮮が明治9年(1876)にはじめて結んだ国際条約です。前にも言ったとおり、朝鮮の鎖国政策は幕末の日本より徹底していました。天主教を弾圧・粛正し、アメリカ船を焼き討ち、フランス軍艦を追い払うなど過激さは日本の比ではありません。

 すでに開国した日本もその一味であり、「天皇」などという朝鮮王より統治者を上位に置く国は認められないとしていた朝鮮が、なぜ日本の要求に屈して開国に応じたのでしょうか。しかも、その内容は、日本がアメリカなどに認めたのと同じ不平等なものです。

 その最大の理由は、1873年11月に王朝の実権が大院君(国王の父)から、改革派の閔妃(ミンビ=国王の正妻)に移ったことです。それに相談をかけた清国が、列強との応対で手一杯なため、日本との国交に異論をとなえなかったことが加わります。

 日本は釜山からソウルの入り口にあたる江華島に軍艦を派遣、大砲をぶっ放すなどペルー顔負けの露骨な脅迫をしますが、かつての大院君ならこんな脅しには絶対屈しなかったでしょう。ここであまり詳しく説明する余裕はないのですが、大院君と閔妃の権力抗争は、以後日韓併合間際まで繰り返されます。

 大院君は実子の王・高宗が幼少だったため院政を敷いていたわけですが、高宗が21歳になり摂政の口実がなくなったわけです。大院君は、攘夷政策のほか急速な行政改革や宮廷の新築など有能ではあるが強引な政治をしていました。

 閔妃は、大院君が慎重に選んだ嫁ですが才媛のほまれ高く、政治感覚には図抜けたものがあったようです。大院君政治への不満を巧に利用し、夫の手に権力を移管して閨閥政治へ移行させたのは、閔妃の差配だとされています。そして大院君とは違う新たな政策、権力構造を模索することになったのです。

 日本はこの情報を手にして、今がチャンスと見たようです。また、生まれたばかりの閔妃の子を、王の後継者として清に認知させるため、日本を利用しようとしたふしもうかがわれるなど、開国が国益にどうかかわるのかは二の次だったような感じもします。

 日朝修好条規12か条の第一款は、「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」ではじまることは有名ですが、今まで宗主国を清におき、国民国家としての外交を受け付けなかった隣国に扉を開かせたという点が大きいのではないでしょうか。

 もちろん欧米各国のように、通商利権の獲得を目指しており、またその成果も否定できません。しかし欧米各国のやりかたをまねて開国の先鞭をつけたというだけで、まだ、これをもって国土侵略、経済略取の第一歩だとするのは早いような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 5日 (金)

朝鮮・韓国 12

近代国家の体裁
 明治6年10月、西郷隆盛らの「征韓論」は退けられました。そのあと佐賀の乱や西南戦争も起きるわけですが、国内では一揆や暴動があとを絶たず、維新が軌道に乗ったとは言いきれない状態です。西欧列強を見てきた政府首脳は、維新で生まれた国の姿は「国民国家」(封建制の身分制的枠組みを破り国民的同一性を基礎として成立した近代的中央集権国家。近代国家。民族国家)でなければならないということを痛感します。

 列強の仲間入りをするためには、まず姿を整えることから、よく言えば猛勉強、悪く言えば猿まねをはじめたわけです。士農工商の身分は撤廃しました。そしてこれまで兵役のない農民も、国民皆兵で徴兵制度のもと軍隊に取り込みました。

 もうひとつ、国民国家の姿として統治権の及ぶ範囲、つまり国境を明らかにしなければなりません。そのため政府は、琉球・台湾(明治7年10月)と樺太・千島(8年5月)問題を短期間で決着させました。そのあと、朝鮮開国のきっかけとなった江華島事件(8年9月)が起きます。

 朝鮮を相手に、国民国家としての体裁を持つ条約を、はじめて日本主導で結ぶわけですが、これは国境問題ではなく、やや性格が違うので次回に譲ります。その前に北方領土や琉球などの国際交渉を簡単に見ておきましょう。

【樺太】南樺太は、幕末の頃には奥蝦夷として漁民などが進出していた。そのころ北樺太に進出したロシア人が逐次南下して紛争を生じるようになり、日・ロ雑居状態が続いた。両国の国境交渉はあったものの進展せず、ロシア軍の投入が進んだ。これを見て、北海道開拓使の黒田清隆は、樺太全土を放棄しかわりに千島全島を確保して北海道防衛に全力をあげる案が現実的であると考えた。なお、日露戦争の結果、日本は樺太の南半分を回復させた。

【千島】国論はさまざまであったが、明治8年5月、政府は榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、樺太・千島交換条約を締結させた。当時の国力から見てこれで精一杯だろうが、樺太の漁民を見捨て、樺太に比べ経済的価値が格段に劣る千島を押しつけられるようにして領土と確定したのだ。したがって千島はどこから奪ったものでもない。

【琉球】琉球は古来独立国で、中国に朝貢し冊封を受けていた。徳川家康が大御所として実権を振るっていた1609年、島津藩に琉球を与えるとしたため、同藩は軍隊を差し向け属国として支配した。幕末に至ってもこの体制は変わらず、琉球は中国の冊封国であるとともにアメリカやフランスと和親条約を結んだりしていた。  

【台湾】明治4年11月、琉球の漁民66人が台湾に漂流し54人が殺されるという事件が起きた。政府は清国に責任を問うたが「犯行は化外の民の蛮族の行為で政教の及ばぬところ」という責任回避の態度だった。それをいいことに、「それならこちらで行ってこらしめてやりましょう」とばかり、7年2月に日本政府は台湾征討を決定し、6月には犯人達を降伏させた。

【清国】清国もそこまでされては、心穏やかではない。日本はすでにアメリカなどに根回しをして琉球が領土であることの了承を得ていたので、清国と事後処理の交渉に入った。その結果、「台湾は清国の領土」、「日本の行動は住民保護の義挙」という了解が成立し日本軍は撤退した。これにより日本は琉球が日本領であることを清国が認めたものと解釈した。なお、日清戦争の結果、台湾は日本領となる。

【沖縄県】7年10月に清国との協定が成立した後も、琉球藩王や高官・士族は清国との関係を維持する独立志向が強く、清国に援助を求めた。そのため、政府は12年4月に400人の兵と160人の警官を送り込み、強引に沖縄県設置を公布した。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2008年12月 4日 (木)

市民主導

2008_12040034_2 「クラスター爆弾禁止条約(オスロ条約)」の署名式が3日、オスロで開かれた。署名国は日本を含む約90カ国。30カ国の批准後、約半年で発効する。有志国と市民主導のNGO築き上げた軍縮条約としては、対人地雷禁止条約(99年発効)に続き2例目。大量に所持する米・ロ・中・イスラエルなどは参加していない。

2008_12040013  

2008_12040011 同じ日、市民主導のささやかな「文化祭」が開かれていた。9条が世界に広がる日がきっといつかやってくるだろう。以下にクラスター爆弾禁止条約の要旨を記録しておく。
 
■禁止事項
 いかなる場合も使用、開発、製造、入手、貯蔵、保有、移転(輸出)せず、条約で禁止された行動を支援、助長しない。
■定義
 重量20キロ未満の爆発性の子爆弾を散布する爆弾を指す。子爆弾が10個未満で、1個あたりの重量が4キロ超あり、攻撃目標探知機能、電子的な自己破壊・無能力化装置を備えたものは例外。
■在庫の廃棄
 条約発効後8年以内に、保有するクラスター爆弾すべてを廃棄する。最長4年までの期限延長を締約国会議などに要請できる。
■不発弾処理
 条約発効後10年以内に、自国管理地域に存在するクラスター爆弾の不発弾処理を完了する。最長5年の期間延長を締約国会議などに要請できる。使用国は処理への技術的、財政的、人的資源の援助提供が求められる。
■被害者支援
 被害者に年齢、性別に配慮した援助(医療、リハビリ、心理的支援を含む)を適切に提供し、社会復帰を支援する。
■国際協力
 国際機関やNGO(非政府組織)などを通じ、在庫廃棄、不発弾処理、被害者支援などで(支援を必要とする国に)協力する。
■透明性
 発効後180日以内に自国内のクラスター爆弾の情報、廃棄計画の進展状況などを国連事務総長に報告する。
■国内実施
 条約で禁止されている行動の国内での防止、抑止のため、立法上その他条約実施のための適切な措置をとる。
■発効の要件・留保
 批准国が30カ国に達してから6カ月目の月初めに発効する。特定条項を留保(して署名・批准)することは認められない。
■非加盟国との共同軍事作戦
 加盟国の軍人、国民は条約で禁止された行動を行う可能性のある非加盟国との軍事協力・作戦に関与することができる。ただし、クラスター爆弾の開発、貯蔵、使用などは認められない。

毎日新聞 2008年12月4日 東京朝刊

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年12月 3日 (水)

「日本軽視」歓迎

 外電には、現地と国内の意識や言葉のずれか、記者の感情にふたをするせいかわかりにくいことがよくある。タイの空港占拠デモなどもそうである。このたび裁判所で「首相が料理番組に出て謝礼をもらったのは違法で政治活動を禁止」という決定により、選挙で選ばれた首相が退陣、封鎖が解除されるようだが、それで誰が得をするのだろうか、大勢の人が何日も座り込みを続けた忍耐力はどこから来るのか、よくわからない。

 今日はそのことではない。「同盟国」アメリカがオバマ大統領に替わることにより、日本の軽視が進むか、といったワシントン特派員のレポートである(毎日新聞12/3)。

 オバマ氏は会見で「世界中で同盟の再建と強化」を推進する方針を示した。中国やロシアなど新興国の台頭に伴う国際秩序の流動化、温暖化問題、対テロ戦争の行き詰まりなど「地球規模の挑戦」は、「米国だけでは解決できない」(クリントン氏)との認識を強めているためで、日米同盟への影響も避けられない見通しだ。

 オバマ次期政権の対日政策では、ブッシュ政権が推進した「日本強化論」が見直されるとの見方もある。ロンバーグ元国務省日本部長は超党派の対日戦略文書「アーミテージ・リポート」(00年)で提唱された「米英同盟のような日米同盟」を「地域の安定につながらず、非現実的」と切り捨てる。

 ブッシュ政権では日本の集団的自衛権行使容認や国連安保理常任理事国入りなどを後押しし、強固な日米同盟を基軸に世界戦略を描いてきた。しかし、オバマ氏の外交顧問の間には「日本が嫌がることは強要しない」(ジャヌージ上院外交委上級スタッフ)との考えが強く、米外交の中国重視傾向が強まる中、日米の二人三脚による世界戦略がしぼむ可能性もある。

 日本を重視するということは、どうやら「日本が嫌がることは強要」するというということだったらしい。これで小泉・安倍路線の化けの皮がはがされたようなものだ。麻生首相を含め、彼らはやはり「重視」し続けてもらいたいのだろうか。また、防衛族は「地域の安定につながらない」ことを望み続けるのだろうか。

 また、軽視されると、かつての保護主義的なジャパン・バッシングになると困るという、財界などの思惑があるかも知れない。もうそんなのを頼りにする時代ではない。アメリカ発の原油高騰や大不況到来など、世界中が振り回され十分痛めつけられているではないか。

 いかにアメリカ離れを達成するか、日本がもたもたしている間に、これが世界各国の重要な課題になっている。太平洋をはさんだ隣国・アメリカとの協力関係は重要だ。しかし上記のような「日本強化論」ならば、何も心配することはない。「軽視」こそ歓迎されるべき方針だ。

| | コメント (4) | トラックバック (3)

2008年12月 2日 (火)

田母神発言と符合?

 全く違うテーマを考えていたのだが、田母神前空爆長が日本外国特派員協会で講演した新聞記事の内容でひっかかってしまった。当然のことながらどの新聞も扱いが小さく、正確にはわからないが、このブログがかねて言ってきたことと符合するような内容があるようだ。

 それは、「核兵器に触れたり研究することを禁止するような風潮はおかしい」「非核3原則は守られるべきだが、事実をまげてウソをつく問題ではない」「核開発能力は暗黙の抑止力であり、核軍縮を主導するためにも、アンタッチャブルであってはは困る」などといったことである。

 また、「もしさきの戦争で日本が核爆弾を開発していたら、当然使っていただろう」などという要旨のことも以前書いた。これは、久間元防衛庁長官の「しょうがない」発言に関連して、「殺さなければ殺される」という戦争の非情さと、「戦争なのだからしょうがない」という庶民感情を言ったもので、上記の要旨とは違う。

 いずれにしても、当塾としては、<気味の悪い>符合なので、この際はっきり断っておきたい。その概要は、過去10回にわたった「反戦・護憲の行く手」シリーズで明らかにしているが、憲法9条に「原則海外派兵禁止」の項を補強し、自衛隊の専守防衛義務を鮮明にした上で、という前提がついている。

 今の自衛隊がかかえている矛盾撞着、つまり現行憲法と日米同盟を軸にこれまでの歴代政権がとり続けた政策に明白な欠陥があることを、田母神発言は見事に突いているのだ。また、アメリカから合同訓練などで仕入れた軍事知識だけでは、それをこえる発想を持てといっても無理だろう。

 田母神発言には、このほかの大きな問題がある。文民統制背反に全く気づいていない無反省な態度と、幼稚な歴史修正主義の受け売りである。前者は、政府に拘束されない紛争地の過激派武装組織の親玉と変わりがないし、後者は「みじめでありたくない」という感情論で無知をカバーしているに過ぎない。

 このブログ(塾)は、歴史についてもシリーズ化して勉強を重ね、田母神流史論には簡単にひっかからないだけの自信はある。いずれにしても、人を殺し、心を破壊し、自然も生活も肉親も奪った過去の戦争に何の反省もなく、ただ戦争を合理化すればいいという手合いが、田母神の上にのさばっていることを忘れてはならない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年12月 1日 (月)

朝鮮・韓国 11

 シリーズ10の最後で、西郷隆盛の「征韓論」といいましたが、最初は「道義に反する」といって反対していた隆盛らが積極的になります。その真意がどこにあったのか、いろいろな説があってまとめきれません。パスさせてください。経緯は次のように進みました。右大臣岩倉具視をはじめ大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など政権幹部一行が欧米視察に出発し、留守中のことです。

 留守を守る西郷や板垣退助、江藤新平など武断派が中心になって、朝鮮派兵を三条太政大臣のもと閣議決定にまで持っていくことに成功しました。しかしそこへ帰国した岩倉右大臣、木戸孝允、大久保利通参議らは「今の日本にそんな消耗は許されない、まず国力をつけなければ」という意見です。辞職をちらつかせるなど、猛烈な巻き返し運動を展開しました。

 結局明治6年10月に征韓論はひっくり返され、西郷は田舎にひっこむことになるのですが、全く奇怪なことに、海軍卿の勝海舟はまったく知らされていなかったようです。次の勝海舟の談話は、25年もあとのことですが、それだけに真相を突いている部分があるかも知れません。

 今の伊東[祐亨]ネ。この間も来たから、話して笑ってやったのだが、アレが、軍艦に兵粮まで積み、すっかり用意をして朝鮮征伐に行こうというのだ。もう五、六日で行くというようになった。すると三条[実美]から、「お前は知っているか、どうだか、こういう訳だ」というから、『ナニ、私が海軍卿だから、安心して任せていらッしゃい』というてやった。

 それから、内へ五、六人呼んで、『お前達は、朝鮮征伐をやらかそうというそうだが、それは男らしくて面白い、お遣んなさい。だが、その跡はどうするのだ』と聞いてやると、みンな弱ってしまった。「それではどうしましょう」というから、『それよりまずシナから台湾の方へ行って見ろ』と命じてやった。

「それが出来さえすればありがたいが、どうでしょう」と言うから、『ナニ、己が許すのだから、構うものか、行け』と言った。その頃は、まだあの辺りへ行くことは出来なかったのだからネ。それでみンなが喜んで、行って、初めて外国を見て、驚いてしまって、朝鮮征伐は止んだよ。それから帰って来たから、みンな賞めてやって、官を上げてやった。すると、勝はどうひッくりかえるか知れぬというのて、大層嫌われて、己は引込んだよ。(巖本善治編『海舟座談』ワイド版岩波文庫)

 あとでも触れますが、富国強兵の明治新政権は、西欧先進国の実情や国際間のルールを学び取ることが第1で、他国への侵略・奪取など国際法に反するような行為はすべきでないという気持ちがあったことだけは確かのようです。明治政府が最初から侵略国家を目指していたという性悪説には、にわかに賛成しかねるのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »