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2008年12月 9日 (火)

朝鮮・韓国 14

 前回、日朝の国交が明治9年(1876)に「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」という条文を持つ条約で始まったことを書きました。日本が、ペリー来航時と同じ砲艦外交で強圧したこと、朝鮮の宮廷内権力闘争により王の実父から王妃の閔妃に実権が移って政策・人事の大転換があり、やや親日に向いたのです。

 ところが、そういった権力闘争や官吏の無能・腐敗、国内の騒乱、外国依存の悪弊は一向に改まりません。これを、すべて日本の経済進出による貧困化が原因などという荒っぽい分析をする向きがありますが、韓国の研究者の中にも、民族が乗り越えられなかった後進性を冷静に指摘している人が少なくないのです。

 まず、1882年の「壬午の軍変」です。動機は、日本の軍事指導を受ける部隊と、その他の国軍の差別待遇に怒った軍の反乱のようです。統制のとれたクーデターではないものの、やはり失権した大院君を担ぎ出すことにしました。

 反閔妃であるとともに反日です。宮廷は襲われ、閔妃は一時生死不明と言われながら地方で隠れていました。また日本の大使も間一髪のところで死をまぬがれ、日本逃亡に成功したものの、さんざんの体です。その間、閔妃は清に密使を送り軍事介入を要請しました。

 清は軍を派遣、なんと大院君を拉致して清に連れて行ったのです。そして暴動は鎮圧され閔妃は復権しました。そしてこれを「事大党」という一派が支えます。つまり大きなもの、すなわち清につかえる党です。日本国内はこの暴挙にわきかえりましたが、朝鮮には事態を深刻に受け止めた憂国の士もいました。

 金玉均といいます。この人は日本と縁が深く、日本の明治維新を手本に朝鮮の文明開化を進めようとしていました。日本では福沢諭吉をはじめ後藤象二郎や板垣退助など熱心な応援団がいました。そしてこの人もクーデターにのめり込みます。

 1884年の「甲申の政変」です。しかし、たったの三日天下の短命政権で失敗します。国王はそれに乗る気もあったようですが、大院君帰国を要求し清から独立しようとする金玉均の政策には閔妃が絶対反対です。またもや清国軍の力を借り、金玉均の追放に成功しました。金は日本へ命からがら逃げてきました。

 金も結局日本の経済的・軍事的支援を頼りにしていました。「改革党」を名乗りましたが、やはり日本という「大」の後ろ盾をあてにしたわけです。それに、エリート特有の自信過剰や慎重な準備を怠ったことも弱みになっていたでしょう。はっきり言えば日本の方も腰が引けていたのです。

 このあと、閔妃は清の協力が得られないとしてロシアに接近します。いずれも宮廷権力維持のためです。金玉均も今度は清の協力を得ようとして上海に渡ったところで暗殺されます。また朝鮮に送られた遺体は、閔妃一族の手で切り刻まれ、さらしものになりました。

 この頃です。福沢諭吉が主宰する「時事新報」の社説にいわゆる「脱亜論」が載りました。朝鮮・中国は文明に背を向け、狡猾であり残虐である、こういった人たちを友にしていると日本までその同類と見られる、こういった悪友たちとは手を切るべきだ、という趣旨のことです。

 これを、アジアを蔑視し西欧と同化しようとする「脱亜・入欧論」だとして諭吉の評判を落としたことがあります。誰が書いたものかは別として、金玉均に維新の志士を重ね合わせていた日本人が、「もうつきあいきれない」と投げだしたくなった気持ちだけはわかります。

 最近は「国際標準」という言葉を使いますが、明治時代には日本ほど国際的にそれが通用するかどうかを気にしていた国はないと思います。軍事力を外交のテコに使うことはあっても、当時の国際法を真剣に学び、すじを通そうとしたしたことも事実です。

 諭吉にとっては、日朝修好条規も文明開化も正義だったわけです。反面、金玉均と政治信条を異にする人から見れば売国奴になります。極端な比喩ですが、「中東を独裁者から解放し、民主主義を根付かせる」という「アメリカの正義」でイスラムの文化や風習が軽視され、イラクやアフガンなどイスラム教国民から総反発されているアメリカのブッシュ政権を思わずにはいられません。

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コメント

今回の御記事最後の塾頭様の指摘が、近代史をめぐる日朝間の齟齬の本質を表していると感じられてなりません。

>諭吉にとっては、日朝修好条規も文明開化も正義だったわけです。
>反面、金玉均と政治信条を異にする人から見れば売国奴になります。
>極端な比喩ですが、「中東を独裁者から解放し、民主主義を根付かせる」という「アメリカの正義」でイスラムの文化や風習が軽視され、イラクやアフガンなどイスラム教国民から総反発されているアメリカのブッシュ政権を思わずにはいられません

卑見では、そう極端な比喩ではないと思えます。この時代の日本の一連の行為は、かくして朝鮮の社会で大きな反発を受けたのだと思います。
金玉均の改革の失敗は単に閔妃一派や清の反撃だけで説明できないでしょう。金玉均らは当時の朝鮮社会で多くの支持を得られない、ごく少数の所詮「過激派」に過ぎなかったのではないか、と思います。日清戦争後の甲午改革政権があっけなく崩壊した理由も推してしるべし、です。

なお韓国で「朝鮮王朝末期の腐敗・無能」を厳しく反省する見解は、日本で思われているほど珍しいものではなく、むしろ昔から常識に近いもので、実態以上に悪く描く傾向すらあると思いますね。「自虐史観」(この用語自体嫌いですが)がよく見られるのは、日本よりむしろ韓国ではないか、などと感じます。日本の手で否応なく近代社会に引きずり込まれた韓国・朝鮮の人々が、自ら「近代化コンプレックス」の虜となってしまった証左なのでしょう。ちなみにそのことと日本の歴史的行為への厳しい評価とは、必ずしも矛盾しないものと思います。
ちなみに韓国で金玉均を高く評価するのは、どちらかといえば唯物史観に近い左派の歴史家に多いと思います(塾頭様がシリーズ末尾に例示された姜万吉氏も、大まかにいえばそうした範疇の人と理解しています。民主化運動華やかなりし1980年代頃、軍事政権に批判的な良識派知識人として学生にたいそう人気があったと記憶します)。唯物史観もアンシャンレジームを憎む進歩主義という点で、近代至上主義に通じますから。

投稿: ちどり | 2013年4月 6日 (土) 18時24分

ちどり さま

”恥ずかしながら”でお返しする言葉がありません。コメントのはしはしから「これは史学を相当研究された方」だと、ややビビッているところです。

私は商学部出で系統だった勉強をしていません。学者さん、特に最近はお医者さんがそうですが専門分野がが極端に狭くなりました。

その点、素人の強み、自著の関係もありますが前史時代から現代まで総なめの無節操さです。そんな関係で、明治維新は、吉田松陰や坂本竜馬より勝海舟や山岡鉄舟の方をひいきにしてます。

 日清戦争開戦当時、外相・陸奥宗光が、国内世論が「朝鮮の窮状を救い、清の干渉を断ち切るための”義侠心”」という方向に傾いているのを見て、これを使わぬ手はない、という判断をしたようですが、勇ましいことを言う人が多い中で、伊藤内閣に帝国主義的野望があったとはちょっと考えられません。ただ、日清・日露の勝利がその一里塚になったことは認めます。

 金玉釣は評価していませんが、姜万吉氏や金達寿氏など、いわゆる日帝時代、終戦処理、李承晩などよく知っている人ですよね。今の韓国人もそのあたりのことももっと勉強しておいてほしいと思っています。

投稿: ましま | 2013年4月 6日 (土) 20時50分

こちらこそ重ね重ね恐縮です。御推察の通り文学部出身で歴史学のゼミに出ていた経験がありますが、だいぶ昔のことで(塾頭様ほどではありません・・・笑)しかも酷いナマケモノの学生だったもので、専門知識など殆どありません。ただ、その後の仕事関係でしばしば韓国に行く機会があり、先方に知己も出来ていろいろ見聞していくうちに色々引っかかりを感じるようになり、学生時代に読みかけで放り出した本を引っ張り出すなどして現在に至っております。

塾頭様が勝海舟や山岡鉄舟好みとは嬉しいことで、私もこの人たちが贔屓です。勝海舟は何かと食わせ物(?)で測りがたいところがある上、明治になっても佐幕思想を捨てきれず時代に取り残されたという揶揄もあるのでしょうが、晩年の足尾銅山の鉱毒問題への評価など、今の原発問題にも通じる鋭い意見を言ってますよね。

近隣諸国への蔑視や強硬論が幅をきかせ、それが国内の政局に暗い影を落とす今の情況は、明治の半ば、自由民権派が足下を掬われて国権論になびいていった時代と妙に重なる気がします。そんな中で自説をそれなりに貫いた勝海舟は、今のような時代だからこそ、もっと注目されていいように思います。

投稿: ちどり | 2013年4月 6日 (土) 23時21分

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