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2008年12月 7日 (日)

朝鮮・韓国 13

日朝修好条規
 「日朝修好条規」は、日本と朝鮮が明治9年(1876)にはじめて結んだ国際条約です。前にも言ったとおり、朝鮮の鎖国政策は幕末の日本より徹底していました。天主教を弾圧・粛正し、アメリカ船を焼き討ち、フランス軍艦を追い払うなど過激さは日本の比ではありません。

 すでに開国した日本もその一味であり、「天皇」などという朝鮮王より統治者を上位に置く国は認められないとしていた朝鮮が、なぜ日本の要求に屈して開国に応じたのでしょうか。しかも、その内容は、日本がアメリカなどに認めたのと同じ不平等なものです。

 その最大の理由は、1873年11月に王朝の実権が大院君(国王の父)から、改革派の閔妃(ミンビ=国王の正妻)に移ったことです。それに相談をかけた清国が、列強との応対で手一杯なため、日本との国交に異論をとなえなかったことが加わります。

 日本は釜山からソウルの入り口にあたる江華島に軍艦を派遣、大砲をぶっ放すなどペルー顔負けの露骨な脅迫をしますが、かつての大院君ならこんな脅しには絶対屈しなかったでしょう。ここであまり詳しく説明する余裕はないのですが、大院君と閔妃の権力抗争は、以後日韓併合間際まで繰り返されます。

 大院君は実子の王・高宗が幼少だったため院政を敷いていたわけですが、高宗が21歳になり摂政の口実がなくなったわけです。大院君は、攘夷政策のほか急速な行政改革や宮廷の新築など有能ではあるが強引な政治をしていました。

 閔妃は、大院君が慎重に選んだ嫁ですが才媛のほまれ高く、政治感覚には図抜けたものがあったようです。大院君政治への不満を巧に利用し、夫の手に権力を移管して閨閥政治へ移行させたのは、閔妃の差配だとされています。そして大院君とは違う新たな政策、権力構造を模索することになったのです。

 日本はこの情報を手にして、今がチャンスと見たようです。また、生まれたばかりの閔妃の子を、王の後継者として清に認知させるため、日本を利用しようとしたふしもうかがわれるなど、開国が国益にどうかかわるのかは二の次だったような感じもします。

 日朝修好条規12か条の第一款は、「朝鮮国は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」ではじまることは有名ですが、今まで宗主国を清におき、国民国家としての外交を受け付けなかった隣国に扉を開かせたという点が大きいのではないでしょうか。

 もちろん欧米各国のように、通商利権の獲得を目指しており、またその成果も否定できません。しかし欧米各国のやりかたをまねて開国の先鞭をつけたというだけで、まだ、これをもって国土侵略、経済略取の第一歩だとするのは早いような気がします。

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