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2008年11月29日 (土)

ペルリ来航の裏側

 日本が受けた最初の直接的な外圧であるペルリの来航、これをアメリカ側から見るとどうだったのでしょうか。シリーズ「朝鮮・韓国」とも関連するので、ここで見ておきましょう。最初に星条旗をつけた船が日本にやってきたのは1790年で、ペルリより63年も前になります。

 しかしその頃は、北からのロシアを追い払うことに手一杯のほか、長崎で公認されていたオランダ船以外に、イギリス船、フランス船なども頻繁に接近してくるようになります。幕府がアメリカを意識せざるを得なくなったのは、さらにそのあと、アメリカ商船・モリソン号がやってきた1837年(天保8)になってからです。

 モリソン号は民間の船ですが、浦賀に寄港しようとしたところ浦賀奉行の命により砲撃を受けました。次いで鹿児島湾に入ろうとしたが、ここでも砲撃を受け追い返されました。それは、鎖国政策と攘夷論に根ざした文政の打払令に基づく行為です。モリソン号がやってきたのは、交易もさることながら日本の漂流民(音吉ら7人、入国断念)を送り届ける意図があったのです。

 幕府は後になってオランダ領事からこれを聞き、大いに驚きます。これまでの強硬政策だけでは通用しなくなり、道義に反する行為で次ぎに何を強要されるかわからなかったからです。現にそのすぐ後の1840年、清はアヘン戦争でイギリスから侵略を受けています。

 アメリカでもこのモリソン号事件が報道され、大きな反響を呼びました。米国政府は、日本の排他主義を「人道的な善意の行動をさえ許さぬ態度」と激しく攻撃(アメリカ史)し、日本の開国を強く迫る動機となりました。

 モリソン号がやってきたのは、勝海舟14歳、西郷隆盛10歳、篤姫はまだ満1歳になっていない頃です。
ペルリが来航したのはそれから13年後になります。その頃、アメリカは、太平洋横断航路開拓を切望していました。

 目当ては中国における綿製品市場です。日本を寄港地にできれば、イギリスと十分競争できるとみていました。もう一つの大きな目的が捕鯨です。ランプの発明で植物油に代わる燃料として鯨油の需要が急速に伸びたのです。

 大西洋のクジラを捕りすぎ、広く豊かな太平洋に回った捕鯨船は500隻にものぼりました。アメリカの開拓魂は、「神の造り給いし最も大いなる生き物」を追って大洋を旅する勇壮ななりわい「捕鯨」を高く評価していました(『白鯨』)。

 日本の太平洋沿岸近くでも多くの捕鯨船が目撃されるようになります。日本に寄港できないばかりか遭難漂着しても満足な待遇は受けられず、犯罪者扱いされていると思われていたわけです。ペルリの開国要求は、このように必要に迫られていた面があります。

 ところが、開国後まもなく捕鯨業はみるみるうちに廃れました。アメリカで鯨油より安く光も強い鉱物油、すなわち石油が発見され、急速に取って代わったからです。すでに太平洋の鯨も数が減りつつあり、それがなければ絶滅していたかも知れませんね。欧米人の「反捕鯨キャンペーン」は、とても言えた義理ではないと思うのですが。

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