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2008年10月26日 (日)

朝鮮・韓国 6

 鎌倉時代に入って貿易は続くものの、朝鮮・日本の往来は古代のような緊密感がなくなり、なんとなくよそよそしく他人行儀なものになっていた。やがて南北朝時代、戦国時代など動乱の時代を迎えるが、朝鮮も李王朝に変わっても相変わらず内憂外患の種がつきず、日本からは和冦が収束したあと豊臣秀吉による2度の侵略を受ける。

 朝鮮にとっては、高麗の時代に元寇で塗炭の苦しみを味わっている。そして大陸の方からの侵入は、胡人(女真・野人)の後金国、それに続く清国などが続き国土荒廃の絶え間がなかった。これは古代以来、国境を接する国のの宿命でもあるが、秀吉の朝鮮派兵は、秀吉の誇大妄想であり、朝鮮にとっては降ってわいた災難のように見られがちである。

 しかし、これは失敗したものの、日本が犯した満州事変以前の唯一の帝国主義的侵略を実行に移したものといえよう。古代には『書記』でいう神功皇后の新羅征伐があるが、まだ国家といえる段階になく、斉明朝の白村江決戦は朝鮮3国と中国をめぐる軍事介入である。

 歴史区分では古代・中世・近世などというが西洋史用で、日本や東洋史にはそのまま適用しがたいのだが、私は日本の近世は、秀吉に始まったのではないかと思っている。秀吉は、宣教師などを通じて、西欧の帝国主義競争、植民地政策をすでに知識として持っていたはずだ。そのためにキリスト教布教が侵略の先兵になると見て、厳しい禁令や弾圧を加えることにしたのだ。秀吉は、朝鮮を先導役にして帝国である日本が明国を制圧するつもりでいた。

 続・私本善隣国宝記として前身の「反戦老年委員会」に書いたことだが、秀吉の遠征は思いつきではなく東南アジアに向けても次のような手だてをしている。冗長をさけ、時代を確かめる意味で、年表にメモを貼るような方法でここに転記する。

【1510/4 三浦(さんぽ)の乱(南朝鮮における日本人の暴動)を機に朝鮮貿易下火に】それまで、足利将軍家、朝鮮出身と自称する大内家、倭冦を制御するご家人、あるいは倭冦から転向した土豪などが権利を得て交易した。日本は戦国の世の中。輸入品として兵士が着る衣服用の木綿、戦勝祈願に寺院へ寄贈するための木版刷り仏教典などが珍重された。

【1549/7 ザビエル、日本にキリスト教を伝える】

【1582/6 本能寺の変】5年後には秀吉が九州遠征で全国制覇を完成。伴天連追放令に続き、海賊取締り令、刀狩令を発布して強い権力を手中にする。これにより長年跳梁してきた倭冦も終息する。また長崎を拠点に、生糸を買い占めるなど、貿易に強い関心を持ち始める。

【1586/4 在日イエズス会副管区長ガスパル・コエリュ一行、秀吉に謁見】秀吉、朝鮮・中国征服の構想を語り協力を求める。

【1591/7 インド副王に書簡、禁教と貿易奨励の二本立て外交を表明】その年の9月フィリピン総督に書を送り、降伏をすすめる。1592年文禄の役、1597年慶長の役の朝鮮出兵と平行してマニラ征服計画を捨てず、再三勧降交渉をする。また台湾にも入貢をうながす。明はこの動向を察知、日本に密偵を送り、福建地方の防備をかためるため澎湖島に戦艦・兵員を配備するなど南方沿岸の警戒を強化する。

【1597/5 秀吉、呂宋(ルソン)の壺を買い占める】フィリピンでは原住民が日常使う稚拙な二束三文の壺を独占的に買い占め、千利休などに茶器として値をつけさせ高価で売りさばく。縫い針で小銭をかせいだ子供の頃の商才そのもの。翌年、秀吉没す。秀吉の外交方針は、帝国主義的な恫喝による重商主義にほかならなかった。

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