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2008年10月

2008年10月31日 (金)

朝鮮・韓国 7

 前回は、1597/5に秀吉が呂宋(ルソン)の壺を買い占めた話をした。武力侵攻で脅迫するアジア政策から、徳川家康は善隣友好政策に一転させた。朝鮮に関しては、対馬藩・宗氏が両国の国書を改竄するなど渾身の努力もあって、1607/5に最初の朝鮮信使を迎えることができた。

 対馬の宗氏とは事情を異にするが、2国間をふたまたかけて生き残りをかけていたのが琉球王である。日本での扱いは、薩摩島津家にあずけるという形になっているが、一方で琉球王は明の冊封も受けており、この影響の方が大きかった。

 幕府は、明との勘合貿易復活を琉球王が仲介するよう要求するが、琉球王はこれに応じず、1609/2島津藩が遠征軍を派遣して琉球を制覇した。そのため明はいよいよ日本に不信感をいだき、国交回復は遠のいた。しかし、民間貿易や僧侶等による文化交流に支障はなく盛行する。

 同じ頃、家康はポルトガル(主要基地・マカオ、以下同じ)に加え、オランダ(インドネシア、台湾)、イギリス(ジャワ島)、スペイン(フィリピン・ルソン島)などにも優遇策を示して、貿易の活性化を図ろうとした。ただしキリシタン布教は別で、厳しい態度を貫いた。

 また、日本から出る交易船には免許を証する「ご朱印状」を公布し、取引の円滑を図った。行き先はマカオ、シャム(タイ)、交趾(ベトナム)その他東南アジア各地である。そこには日本人町が栄え、カンボジアのアンコールワットには、寛永9年(1632)の日本人夫婦参詣記念という落書きも残っている。

 シャム(タイ)といえば、おなじみの山田長政の話しがある。戦中の昭和17年、国民学校の教科書に採録されたり、「大政翼賛会推薦」の紙芝居ができたり、長谷川一夫主演の映画ができたりしておおはやりだった。これが、当時日本政府の南進政策にそった歴史教育の一環で、確定史料のない伝説程度のお話しだっということである。

 朝鮮から離れて余談になるが、歴史の捏造とまは言わないにしても、二宮金次郎キャンペーン同様歴史教育の国策利用の好例である。ここにその山田長政に関する教科書の前半部分を紹介しておく。

 今から三百二十年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムといふのは、今のタイ国のことです。
 そのころ、日本人は、船に乗つて、さかんに南方の島々国々に往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本人町といふものができました。シャムの日本人町には、五千人ぐらゐ住んでゐたといふことです。
 二十何歳でシャムへ渡つた長政は、やがて日本人町の頭になりました。勇気にみち、しかも正直で、義気のある人でした。
 シャムの国王はソンタムといって、たいそう名君でありました。
 長政は日本人の義勇軍をつくり、その隊長になって、この国のために、たびたびてがらを立てました。
 国王は、長政を武官に命じ、のちには、最上の武官の位置に進めました。
 日本人の中で、武術にすぐれ、勇気あるもの六百人ばかりが、長政の部下としてついてゐました。長政は、これらの日本人の武士と、たくさんのシャムの軍兵をひきゐて、いつも、堂々と戦に出かけました。長政が、ひをどしのよろひを着け、りつぱな車に乗り、シャムの音楽を奏しながら、都にがいせんする時などは、見物人で、町といふ町がいつぱいだつたといふことです。

【 2006-08-22「反戦老年委員会」記事一部再録】

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2008年10月30日 (木)

本日の国際数字比較

163:4
163=国連総会第1委員会核兵器全廃を目指す決
    議賛成国(日本は議案提出国になっている)
  4=同上反対国。米国・インド・北朝鮮・イス
    ラエル(核兵器を威嚇の道具にしたい国)

286:163
286=オバマ確実、および優勢の選挙人合計
163=マケイン確実、および優勢の選挙人合計
    (クック・ポリティカル・リポートによる
    選挙人獲得分析、5分5分が89人)

0.5:1.5:3.75:4.5:6.66
0.5=日本、1.5=米国、3.75=ユーロー圏、
4.5=英国、6.66=中国
    (政策金利。コンマ以下なのに日本だけ円
    高、だから経済ってわからない。これから
    まだ下がりそう。アッ米国は下がりました
    1..0。明日は日本も追随か)

6,655,751:7,501,029
6,655,751=トヨタ、1~9月期世界販売台数
7,501,029=GM、1~9月期世界販売台数
    (トヨタが初の世界一になったんだそうだ
    がどうということはない。GM・クライス
    ラーが合併すればまた抜かれる)

【以上10月30日の新聞から】

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2008年10月29日 (水)

爆弾かかえる公明党

 公明党は、長く続いた自民党との蜜月時代がこのところ怪しくなっている。創価学会と自民党の政策基盤が違っても「それ、首相にかけあって見ます」ポスターでわかるように、支持者である学会員は、与党であることに大きな価値を認めている。それを維持するために、公明党は最大限の精力を費やしてきた。

 しかし参院選の敗退、安倍、福田内閣の不人気が続き、このまま座視すると与党の席からすべり落ちることを覚悟しなければならない。そこで、学会に不人気なテロ対策法案の3分の2可決に難色を示したり、予定にない減税の補正予算を押しつけて福田政権を追いつめ、麻生人気に乗って選挙に優位な自公体制を築く心づもりだった。

 早期解散は、その仕上げに欠かせない絶対要件である。だからテロ対策法案の3分の2可決もあえて煮え湯を飲む覚悟をし、選挙態勢もそれに合わせた体制づくりをした。ところが大きな見込み違いが同党を襲った。麻生人気は上滑りで予想を裏切り、その上100年に一度といわれる世界経済危機の波に飲み込まれた。

 せっかく総理の座を射止めたのに、在任最短記録を作りたくはない。経済危機は千載一遇のチャンスとばかり、麻生が解散を先送りしたくなるのは人情だ。おまけに創価学会は、「それも仕方ないか」という意見のようで、なにかはしごをはずされた感じになっている。

 以前から、公明党の早期解散要望の裏に来年7月の都議会議員選挙があるといわれている。一方、衆院選戦は任期満了の来年9月までにしなければならない。公明党は選挙運動に全勢力を割くため都議選と衆院選にできるだけ間隔をとりたいという説明になっている。

 ちなみに、都議の現有勢力は自民48、公明22で自公計で70、民主34、共産13、その他8である。前回の知事選のあと民主が野党化したため、国会以上に与党に重きをなしており、党の存亡をかけた選挙になる。127の過半数を維持するためには自公で5人以上減らすことはできないのだ。

 自民党は、石原人気の賞味期限をすこしでものばしてそれにすがりたいようだ。しかしいかにお人好しの都民でも、石原構想で作った「新銀行東京」のずさん経営で、本年度一般会計の補正予算935億円のうち約6割にあたる540億円を死に体になった銀行救済に投じ、おまけに暴力団がらみの5000万円融資詐欺事件まで発覚したとなれば、不問にはできないだろう。

 都立墨東病院が関連する妊婦たらいまわしによる死亡事故でもそうだが、まるで幼児がふてくされてでうような、「ボク悪くないもん」といった責任逃避発言ももう聞きあきているはずだ。民主党は選挙戦術で銀行設立に賛成したことを率直にわび、知事の責任追求にまわれば、自民の看板も神通力を失うことになる。

 もちろん公明党も、知事支持で創価学会員の協力を得られるかどうか疑問となるだろう。そうすると、公明党は衆院選で作戦失敗の爆弾をかかえ、都議選でも別の爆弾を抱えることになる。しかもその爆弾は片方が爆発すれば、残ったもう一つも容易に誘爆する性質のものである。政界再編劇を含め選挙対策や党運営に太田代表が取りうる選択には、これからも神業的なテクニックが必要となるだろう。

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2008年10月28日 (火)

宝篋印塔

2008_10280003  近くの寺にある宝篋印塔(ほうきょういんとう=写真右)は、有名な守護大名千葉常胤の5男の墓という伝承がある。1基は明徳2年(1391)、もう1基が応永5年(1398)のものと判読されている。しかし「墓」というのは正確ではない。そもそもは、中国南部・呉越国から伝わってきたもので、『宝篋印陀羅尼』を納めて先祖をまつり、百病・貧窮から逃れられるという呪文の塔である。

 だから、個人の名をかぶせてもその人の寄進によるものか、供養の目的で建てられたもので「墓」とはすこし違う。しかし誰々の、というと「墓」になってしまう。各地でも宝篋印塔を「昔この地方を治めた誰々の墓」と伝えられているものが少なくない。反面、注目されることもなく墓地の片隅にころがっているようなものもあるだろう。

 2008_10280002 やはり近くの小さい寺に、もっと古い室町時代初期の作ではないかと思われる宝篋印塔を発見したという記録を目にした。しかし現物が確認できないので、市の歴史博物館に問い合わせたら係員から「石造物は担当しているが墓石は所管外なので」という応答が帰ってきた。

 民俗学専攻出身の方かも知れないが、俗人にはそんな専攻の区切りなどない。故事来歴や歴史を知りたいだけなのだ。こういうのをセクショナリズムというのだろう。文化行政に変なところで線を引かないでもらいたいものだ。

 最初に書いた寺にもう一基、堂々とした宝篋印塔(左)があった。この方は元文3年(1738)とある。ずーとくだって8代将軍吉宗の時代である。かつては、ご家人、地頭、守護といった身分ある人しか作れなかった石塔であるが、この頃は地域の有力者が有志連名で建造できたのかも知れない。調べてないのでわからない。

 この塔は、本州の端から端まで存在しており、それぞれの時代や関西型・関東型など地域によるデザインの変化が観察できる。また石材の原産地を調べることで建造にいたる流れを知ることもできる。そんな意味で五輪塔、無縫塔、板碑などと共に文献におとらぬ歴史の証人になることも可能になる。日本の伝統と文化を守るのはこんなところから始めたいものだ。

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2008年10月27日 (月)

チベットと妥協の機会を逃すな

 アサヒ・コムによると、今月末に北京でダライ・ラマ特使と中国側の対話が予定されているという。一方で11月17日から22日にかけ、各地から数百人の亡命チベット人を集めた緊急会議がダライ・ラマの提唱で開催される計画もある。

 ここで、ダライ・ラマの対話路線を総括し、これまでの方針を継続するか変更が必要なのかが議論されるらしい。73歳に達したダライ・ラマのあとを継ぐ亡命政府が、今後執るべき方向を模索することになる。緊急会議にはダライ・ラマと路線を異にし、独立を求めるチベット青年会議も参加する予定だ。対話路線以外にどんな道があるのか、難しい議論が予想されている。

 またダライ・ラマは、今月31日来日し福岡・東京などで講演をする予定があるという。そこでは、北京会談の結果を受けての発言・動向などに、大きな注目が集まるだろう。ダライ・ラマの対話路線は中国政府はもとよりチベットに同情を寄せる人の間でも十分理解されていないように思う。

 文末にダライ・ラマの説教講演会の一部を引用するが、その内容は明らかに中国政権との折衝を意図したものと思われる。中国は建国当時チベットが国民党政権の逃亡先になり、共産党政府の宗教弾圧を予想して対敵していた事情がある。それに宗教を麻薬をみなして軽視した過去の土壌も残っているだろう。

 また、共産党の一党支配の体制の中で、一部にコントロールの利かない権威を認めると、全体主義的なシステムがこわされるという心配があるのかも知れない。さらに、少数民族に特別な保護政策が採られたいることも知っている。しかし、四川地震の災害を乗り越え、オリンピックを成功させた国だ。

 これが、自由と人権で世界のレベルに達していないという疑念を払拭する最後のチャンスになるかも知れない。仮にチベット青年会議など妥協を拒否する強硬派に口実を与えるようなことをすれば、東洋の安定に悲観的な火種を残すことになる。イスラム圏各地で起きている「文明の衝突」を思わせるような果てしない抗争がいい教訓だ。ダライ・ラマと妥協和解を目指すよう中国政府に強く求めたい。

 
 人から不当な扱いを受けたなら、第一にその状況を分析しなくてはいけません。自分がその不当な扱いに耐えられると思え、そうしてもさほど悪い影響が出ないと思えば、容認するのがいちばんだと思います。

 しかし冷静に判断して、容認すればさらに悪い結果につながるという結論にいたったら、その時は適切な対策をとらなくてはなりません。この結論は、状況を正しく認識した上で出されるべきで怒りに任せて出すべきではありません。怒りや憎しみは自分にとって、その問題を引き起こした人よりも有害なぐらいです。

 あなたの隣人があなたを憎んでいて、いつもその人に問題を起こされているとしましょう。それに頭にきて憎しみをつのらせれば、あなたは食欲を失い、眠れなくなり、精神安定剤や睡眠薬を使わなければならなくなります。そのうち服用量が増えてきて体に毒となります。気分もすぐれません。

 その結果、古い友人もあなたを敬遠するようになります。しだいに白髪が増え、しわが増え、最後には深刻に健康を害するかも知れません。そうなったら、あなたの隣人はじつに満足でしょう。自分ではまったく手を下さずに望みをかなえられたのですから!

 彼に不当なことをされても、心穏やかなまま、幸せに、平和にすごしていたら、あなたは健康を害することもなく、前と同じように楽しくいられます。友人たちもちょくちょく訪ねてくるでしょう。これこそ隣人の心に不安をもたらします。これが隣人を悩ませる賢明な方法だと思います。

(塩原通緒訳『ダライ・ラマ世界平和のために』ハルキ文庫、1999/8/15ニューヨーク市セントラル・パークでの講演より)

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2008年10月26日 (日)

朝鮮・韓国 6

 鎌倉時代に入って貿易は続くものの、朝鮮・日本の往来は古代のような緊密感がなくなり、なんとなくよそよそしく他人行儀なものになっていた。やがて南北朝時代、戦国時代など動乱の時代を迎えるが、朝鮮も李王朝に変わっても相変わらず内憂外患の種がつきず、日本からは和冦が収束したあと豊臣秀吉による2度の侵略を受ける。

 朝鮮にとっては、高麗の時代に元寇で塗炭の苦しみを味わっている。そして大陸の方からの侵入は、胡人(女真・野人)の後金国、それに続く清国などが続き国土荒廃の絶え間がなかった。これは古代以来、国境を接する国のの宿命でもあるが、秀吉の朝鮮派兵は、秀吉の誇大妄想であり、朝鮮にとっては降ってわいた災難のように見られがちである。

 しかし、これは失敗したものの、日本が犯した満州事変以前の唯一の帝国主義的侵略を実行に移したものといえよう。古代には『書記』でいう神功皇后の新羅征伐があるが、まだ国家といえる段階になく、斉明朝の白村江決戦は朝鮮3国と中国をめぐる軍事介入である。

 歴史区分では古代・中世・近世などというが西洋史用で、日本や東洋史にはそのまま適用しがたいのだが、私は日本の近世は、秀吉に始まったのではないかと思っている。秀吉は、宣教師などを通じて、西欧の帝国主義競争、植民地政策をすでに知識として持っていたはずだ。そのためにキリスト教布教が侵略の先兵になると見て、厳しい禁令や弾圧を加えることにしたのだ。秀吉は、朝鮮を先導役にして帝国である日本が明国を制圧するつもりでいた。

 続・私本善隣国宝記として前身の「反戦老年委員会」に書いたことだが、秀吉の遠征は思いつきではなく東南アジアに向けても次のような手だてをしている。冗長をさけ、時代を確かめる意味で、年表にメモを貼るような方法でここに転記する。

【1510/4 三浦(さんぽ)の乱(南朝鮮における日本人の暴動)を機に朝鮮貿易下火に】それまで、足利将軍家、朝鮮出身と自称する大内家、倭冦を制御するご家人、あるいは倭冦から転向した土豪などが権利を得て交易した。日本は戦国の世の中。輸入品として兵士が着る衣服用の木綿、戦勝祈願に寺院へ寄贈するための木版刷り仏教典などが珍重された。

【1549/7 ザビエル、日本にキリスト教を伝える】

【1582/6 本能寺の変】5年後には秀吉が九州遠征で全国制覇を完成。伴天連追放令に続き、海賊取締り令、刀狩令を発布して強い権力を手中にする。これにより長年跳梁してきた倭冦も終息する。また長崎を拠点に、生糸を買い占めるなど、貿易に強い関心を持ち始める。

【1586/4 在日イエズス会副管区長ガスパル・コエリュ一行、秀吉に謁見】秀吉、朝鮮・中国征服の構想を語り協力を求める。

【1591/7 インド副王に書簡、禁教と貿易奨励の二本立て外交を表明】その年の9月フィリピン総督に書を送り、降伏をすすめる。1592年文禄の役、1597年慶長の役の朝鮮出兵と平行してマニラ征服計画を捨てず、再三勧降交渉をする。また台湾にも入貢をうながす。明はこの動向を察知、日本に密偵を送り、福建地方の防備をかためるため澎湖島に戦艦・兵員を配備するなど南方沿岸の警戒を強化する。

【1597/5 秀吉、呂宋(ルソン)の壺を買い占める】フィリピンでは原住民が日常使う稚拙な二束三文の壺を独占的に買い占め、千利休などに茶器として値をつけさせ高価で売りさばく。縫い針で小銭をかせいだ子供の頃の商才そのもの。翌年、秀吉没す。秀吉の外交方針は、帝国主義的な恫喝による重商主義にほかならなかった。

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2008年10月24日 (金)

株と原油と相場

 前にもふれたが、当ブログの過去記事「原油暴落の日」への検索件数が依然として多い。それはそうだろう。今年7月3日につけた最高値145.29ドル(WTI)が、このところ70ドル前後になってしまい予想が当たってしまったからだ。

 当ブログの前身「反戦老年委員会」までさかのぼって、原油価格高騰関係の記事を探してみたところ06年4月21日が最初のようだ。そこには「遂に73.5ドルをつけた」と書いてある。それから約1年2か月かけて倍額近くになったのを、たった3か月余で元に戻したのだから暴落といっていいだろう。

 ことのついでに、失われているログの2編を再録し、9編ほどある関連記事を新カテゴリ「石油・エネルギー」として整理した。それらを振り返って見てすべて当たっているとはいえないが、実際の需給を無視した相場はいずれ妥当な額に戻すこと、あと何年あるかという可採年数は、原油価格、採掘・精製技術、代替エネルギー開発などにより変動するものであること、などの基本的な要因は変わっていない。

 それに、アメリカ発の金融不安の逃避先として上記の要件を顧慮しない安易なマネーの流入であるとすれば、ちょっとしたきっかけで暴落するともの思っていた。しかし3か月前は、中国・インドの需要急増とか、油田枯渇の日が近いような論調で200ドル突破は目前、といった予測が多く、楽観論の私は肩身が狭かった。

 一方の株の方である。世界同時金融不安・世界同時景気後退は原油暴落より深刻である。原油高価格を予想した論者は、もっぱら原油暴落の理由をこのせいにするだろう。私は石油については以前の職業に関連があるが、金融・経済については全く素人である。

 そこで、毎日新聞福本容子記者が今日のコラムに書いたこんな話題を提供したい。

 79年前のきょう、ニューヨークの株価が、取引開始直後に暴落した。世界大恐慌の始まりともいわれる「暗黒の木曜日」だ。
 東京日日新聞(現毎日新聞)の1面記事によると、あまりにも激しい下げ方だったので、証券取引所の仲買人12、13人が気絶し病院に運ばれたという。

 アービング・カーンさんは株のトレーダーとして働き始めたばかりだった。102歳の今も株関係の仕事をしている大恐慌の生き証人だ。そのカーンさんがBBCのインタビューで「あのころに比べ、今はマシもいいところだ」と断言していた。

 「でも、みんな不安がってませんか」。インタビュアーが聞くと、「違う。派手な見出しで悪い悪いと記事を書いて目立ちたい記者がおるだけだ」ときっぱり。「今は恵まれすぎ。全く甘えきってしまったもんだ」(以下略)

 経済部のベテラン記者である福本さんは最後に、――厳しい景気は続きそうだけど、平常心を失い恐怖の奴隷になるのが一番危ない。軽々しく「大恐慌」などと言うなかれ――としめくくっている。福本さんはそれ以上のことを言っていないが、カーンさんの記者批判は、メディアの本質を鋭く突いている。

 犯罪報道の扇情的な私的周辺事情暴露、劇場型政治への同調と追従、個人であろうと団体であろうと国家であろうと特定対象に集中した非難中傷報道など、至る所に見られる現象である。これが行き過ぎるといつのまにかファシストにとりこまれ、熱狂的昂奮の中で戦争へ突き進むなどという愚を犯すことになるのだ。カーンさんの教訓は重い。

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2008年10月23日 (木)

2008_10230006

 近所の池にくるカワウである。この池の定員は2羽まてでそれ以上は採飼にやってこない。

      (新古今251)前大僧正慈円
 鵜飼舟あわれとぞ見るもののふの
        やそ宇治川の夕闇のそら

          (蕉翁句集)芭蕉
 おもしろうてやがてかなしき鵜飼かな

 鵜飼の鵜は、ウミウである。中国ではカワウを使う。
鮎などを丸呑みしてはき出す習癖をあわれと見る歌だが、その顔や陸にいるとき大きく広げた羽を乾かすさまなどは、ひょうきんである。

 たしかに、鵜飼が日雇い派遣のワーキングプアーのように思えなくもない。人材派遣会社が鵜匠役をする。金儲けの方法を鵜の目鷹の目でさがしかせぎまくる。

 痛ましい事件があった。給食のパンをのどにつまらせ、小学校6年生が窒息死したそうだ。ご両親の無念はいかばかりだろう。ご冥福を祈るしかない。

 小学生諸君!。パンであろうとなんであろうと決して鵜呑みにしてはいけません。よく噛んで食べるのが一番です。その方が必ず幸せになれます。本当ですよ。

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2008年10月22日 (水)

地域諸国連合

 今日の毎日新聞国際面にASEANと南米諸国連合のことが出ていた。私は第2次世界大戦後EUが果たしてきた平和への貢献を高く評価している。多くの試行錯誤を重ねてきたEUだが、理想実現までの道のりはこれからも決して平坦ではない。

 国連が加盟国数で地球規模の組織に発展したが、大きすぎることや大国の利害が一致しないことなどで紛争防止に有効な手だてが無く、そのうえアメリカの一極主義や多極主義に左右されるなどほんろうされ続けてきた。

 私は、日本が究極の平和と経済の安定を目指すためには、EUをモデルにした「東アジア共同体」(日・中・韓、地域としては北朝鮮・台湾を含む)の構築が必要だと感じている。政治家の中で、前・福田首相がそのような抱負をひそめていたのではないかと内心思っていた。しかし、客観的に自分を見ることのできる前首相は、その披露すらできない自分を知っていたのだろう。投げだしてしまった。

 ここで、EUをのぞく各地域の主な諸国連合をカテゴリ「データ・年表」にメモしておく。

☆東南アジア諸国連合(ASEAN)
[設立]1967年8月
[加盟国]インドネシア・シンガポール・タイ・フィリピン・マレーシア・ブルネイ・ベトナム・ミヤンマー・ラオス・カンボジア
[コメント]
・08/10/21 インドネシアがASEAN憲章を批准。全加盟国が批准完了。
・2015年目標で共同体機構に移行・
・ASEAN+3で東アジアサミット(日・中・韓)が参加する機会がある。

☆南米諸国連合(UNASUR)
[設立]2008年5月
[加盟]南米10カ国(全体)
[コメント]
・2004年12月設立の経済ブロック南米共同体を改編移行。
・ほとんどが左派系政権となり、ボリビアの政情不安を仲介したり、米国発の金融危機に団結して対処するなど存在感を高めている。

☆米州機構(OAS)
[設立]1951年
[加盟]北米2カ国、中米8カ国、カリブ海13カ国(キューバは権利停止)、南米12カ国。
[コメント]反共同盟として発足したが、南米諸国連合などが事実上離反し影響力低下。

☆アフリカ連合(AU)
[設立]2002年7月
[加盟]モロッコを除くアフリカ52カ国。
[コメント]まとまりきらず弱体であるがスーダン西部ダフールへ平和維持部隊を派遣。

☆上海協力機構
[設立]2001年6月
[加盟]中国・ロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタン
[コメント]グルジア紛争でロシアが求める自治州の独立承認要請に結論がだせなかった。

☆地中海連合
[設立]2008年7月
[加盟]EU+地中海沿岸諸国
[コメント]フランスのサルコジ大統領の個人プレー色が強いが、対立するシリア・イスラエルの首脳が同席したことで注目された。

☆湾岸協力会議(GCC)
[設立]1981年5月
[加盟]アラブ首長国連邦・バーレーン・クウェート・オマーン・カタール・サウジアラビア
[コメント]親米国が多くイスラムスンニ派が主の加盟国が、シーア派で脅威とみなしていたイランの首脳を招待し注目された。

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2008年10月21日 (火)

妖怪・小沢原理主義

 またぞろ小沢原理主義が頭をもたげている。前に述べたことがあるが民主党代表小沢氏の国連決議万能の「原理主義」は菅代表代行が表現したもので、外部がそう言っているわけではない。憲法解釈で、国連決議があれば武力行使ができるという小沢氏の主張がそれである。

 このところ解散総選挙風を吹かせているのは、総理大臣ではなくて功をあせる民主党の方である。政権担当能力を誇示するため、党内にあるさまざまな異論は封じ込め、小沢一極集中に専念しているように見える。しばらくは、右と言えば右、左と言えば左の状態が続くのであろう。

 そんな時、同党の直嶋行正政調会長は20日の衆院委員会で、「民主党が政権を取ればそういう方針(小沢原理主義)で作業に着手する」と、法整備する考えを示した。小沢代表は昨年来アフガンのISAF(国際治安支援部隊)参加に積極姿勢をとっており、現在の自民党政策以上に危険な発想だ。

 憲法をどう読んでも、国連決議があればいいとか武力行使をしてもいいなどと解釈できるところはない。むしろ憲法の精神はそういったことを強く戒める表現になっている。湾岸戦争の頃、そういった発想を持った一学説があったからといって依怙地なまでにそれにこだわられては、国民はたまったものではない。

 まして、現今のアフガン情勢は、過去の国連決議のはるか先を走っている。米英の現地指揮官はタリバンには勝てないといっている。またアフガン政府はタリバン勢力との妥協を考えており、すでに治安維持を妨げるならず者という地位ではなくなっている。

 また、アルカイダ追討を計る米軍はパキスタンに越境攻撃をかけ、民間の犠牲者激増を招いている。それでも、これらが国際紛争を解決する手段としての武力行使ではない、と誰が言えるであろうか。イラク、アフガンでの経緯・結末は、アメリカをはじめ世界をあげて反省の時期にきている。

 そういったとき、政局というといつも小沢原理主義の古証文が姿を現わし、民主党内の良識派や自民党を含む他党にまで怪しい波紋を広げるところが妖怪さながらなのである。その妖怪を断ち切るためには、憲法9条をすなおに解釈できる新人議員を一人でも多く当選させることである。

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2008年10月20日 (月)

朝鮮・韓国 5

 新羅国から高麗国に変った朝鮮が、刀伊の乱の始末で日本に好意的な対応をしたことを前回は書いた。しかし、この先同国は苦難の道をたどる。まず和冦のはじまりである。歌人・能筆家で有名な藤原定家の日記、『明月記』から嘉禄2年(1226)10月17日の項を見よう。

 朝天に片雲無し。宰相吉田事の次いでに参る。(中略)。高麗と合戦一定と。鎮西の凶党等[松浦党と号す。]数十艘の兵船を構へ、彼の国の別島に行きて合戦し、民家を滅亡し資材を掠め取る。[行き向ふ所、半分ばかり殺害さる。其の残り、銀器などを盗み取り帰り来たると。朝廷のため太(はなは)だ奇怪なる事か。]

 朝廷のため、というのは、中国(宋)との交易は朝鮮を経由するケースが多く、高麗と事を起こせば朝廷で奢侈品を入手できなくなるということのようだ。現地出先の大宰府は素早く行動を起こし、2か月もたたないうちに犯人90人を捕縛、高麗の抗議使節の前で首をはねて見せた。

 抗議文はその後中央に届けられたが、わび証文はすでに大宰府の名で相手にわたっている。これは、多分大宰府の権限を高麗国に過大に印象づけようとする工作で、貿易をめぐる利権がらみだろう。斬首された悪党もあて馬に相違ない。なぜならば、あとで真犯人らしいグループが検挙された記録があるからだ。

 その頃から、和冦の規模は漸次増えはじめ、前回言ったように、最後は高麗政権を転覆させる原因のひとつにもなる。日本は南北朝時代に入っており、九州における権力構造もめまぐるしく変わり、大宰府も機能不全となる。和冦の犯人もその装備・戦術からみて、南朝の最後を支えた、いわゆる「悪党」ではないかという見方がある。

 もうひとつ、触れなくてはならないのが「元寇」である。これを朝鮮と蒙古の連合軍が二度にわたり九州に大軍を向けて侵略してきた「国難」である、との解釈が一般的で、戦中は、神国日本の「神風」が吹いてこれを追い払ったという教育がなされた。

 いろいろな要素があり、また解釈があってもいいのだが、侵攻失敗の理由としてあまり知られていないのが攻撃側の致命的な弱点である。それは、大陸を馬を駆って征服する術に長けている蒙古も、海や船には全く弱いことと、高麗や宋の人民を奴隷のように扱ったため、連合軍を組織しても意思疎通や戦意に欠けており、長期戦に不利だったことがあげられる。

 蒙古が高麗を襲ってきたのは1231年である。他のケース同様、電撃作戦でたちまち開京を落とされ王朝は降伏した。ところが王室と百僚百官は隙を見て目と鼻の先にある江華島(現在は700m近くの橋続き)に逃げ込み、そこで本土人民に徹底抗戦を指示した。  
 
 それに怒った蒙古は、断続的に朝鮮全土を荒らしまわり略奪をほしいままにした。それが30年も続くのだが、蒙古は川ほどの海に隔てられて王室を滅亡させることができなかった。しかし内紛が原因で遂に降伏する。

 この間死をまぬかれた人民20万6800は、蒙古兵の捕虜となり、次ぎに目標とした日本攻略のため兵船900隻の建造を高麗に命じた。この時に動員された兵士・水手などは1万5000人である。それも高麗人の抵抗で7、8年遅れて1274年、いわゆる文永の役となる。

 つづく2度目の弘安の役(1281)にも兵船900隻、兵士・要員など2万5000人、食料20万石の供出を強いられる。収奪は徹底し、百姓は草の実や木の葉で餓えをしのぐしかなかった。また3年前に元(蒙古)に屈した南宋の兵10万を江南軍として加えたものの、総勢14、5万という膨大な兵員は、陸戦のただ荒らせばいいという戦いと違い、船戦としての統率を欠いた。

 そして、約100年後の1388年、和冦を撃退して名声をあげた李成桂が高麗王朝を倒し、李王朝による「朝鮮」国となる。

  

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2008年10月18日 (土)

即位礼20年を祝日に?

 「毎日新聞(08/10/17)」のベタ記事である。

 超党派の「天皇陛下御即位二十年奉祝国会議員連盟」(会長・森喜朗元首相)の設立総会が16日、開かれた。来年11月12日に天皇陛下が「即位の礼」から20年を迎えることを記念し、その日を1年限りの祝日とする法案を今国会に議員立法で提出することを決めた。顧問に民主党の小沢一郎代表、公明党の太田昭宏代表、国民新党の綿貫民輔代表らが就任した。

 共産党と社民党は、呼ばれなかったのか、断ったのか参加していない。念のため「即位の礼」で天皇がどう宣明されたかたしかめておこう。

 さきに、日本国憲法及び皇室典範の定めるところによって皇位を継承しましたが、ここに即位礼正殿の儀を行い、即位を内外に宣明いたします。
 このときに当り、改めて、御父昭和天皇の六十余年にわたる御在位の間、いかなるときも、国民と苦楽を共にされた御心を心として、常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い、国民の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。

 憲法遵守を誓われたのである。この限りにおいて社・共は反対する余地がない。ただし、何のために1日だけ国民の休日にするのだろう。皇室儀式の何年目に当たるから国をあげて奉祝の休日にしようなんという前例は聞いたためしがない。

 いや、そういえばありました。太平洋戦争開戦の前年、昭和15年の「紀元2600年奉祝」である。休みがあったかどうかまで覚えていないが、臨時の物資特配(北朝鮮のようだね)があり「祝ひ終わった、さあ働こう」といって戦争遂行にハッパをかけたのだから多分休みもあったのだろう。

 上記の奉祝計画は「9条の会」を目の敵にする右派連合の「国民会議」が提唱していたし、「日本は天皇中心の神の国」の問題発言で有名な森元首相が会長の議連であれば、そのねらいはだいたい察しがつく。やはり改憲して戦前のレベルまで引きもどす準備として、休日を設け国民を引き込みたといういことであろう。

 そもそも、実際の即位から2年近くもたって行われた即位の礼は、10日あとに行われた神事の大嘗祭とセットになっており、天皇家の私的儀式である。このような宗教的な色合いの強いものを国家・国民の休日にすることにはもともと批判があったし、政教分離の憲法の精神にも反する。

 タイトルに?をつけたのは、今上天皇が護憲宣言をされた日を、改憲派の人が主導して奉祝しようという逆転の発想と、こんな前例無視の突飛な意図にやすやす乗ってしまう民主党代表の無原則ぶり、戦時中天皇の名のもとで弾圧を受けた創価学会をバックにする公明党の健忘症ぶりである。

 いずれにしても、こんな根拠薄弱で問題含みの公休法案は党議拘束などかけず、議員の良識をもって葬ってほしい。なお、今上天皇が遵守を誓われた現行憲法の前文、第一章天皇、第二章戦争放棄まで、日本の歴史や伝統に照らして最高のものと信じているが、これについてはいずれ稿を改めよう。 

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2008年10月17日 (金)

「老」の字

 日頃拝見させていただく「狸便乱亭ノート」さんに、「一句鑑賞」という投稿があった。なんでも俳句の先生から、「老」と「孫」の詞は使うな、という指導があったそうで、以来忌みことばのような扱いをされていたらしい。

 私は、「老」についてはやや見解を異にする。なぜならば、このブログの前身に「反戦老年委員会」という名をつけていたからだ。ベトナム反戦の頃の「反戦青年委員会」をもじったものであることはたしかだが、別にそんな活動をしていたわけではない。

 また、韓国では「老」がいまだに権威を持ち続け、消極的、否定的な意味で使われることがすくないと聞く。儒教に権威のあった江戸時代、幕府では最高執政官が「大老」で、「老中」や「家老」があり「老」は尊称だった。

 漢和辞典を引くと、いい意味が半分、残りは悪い意味と中立が半々のように見えた。その私も「老人」という言葉は好きでない。なんとなく(人)種差別をするような響きがあり、老年や老齢とはすこし違う。できれば「老成」とか「老熟」を目指したいものだと思っている。

 保険制度で問題の「後期高齢者」には「老」の字が入っていない。しかし具体的な実年齢を、差別するために持ち込んだので天下をあげての不評判になった。桝添厚労大臣の右往左往ぶりは、決して「老練」ではない。

 私は考古学ファンなので、「後期古墳時代」などという言葉にはなじみがある。しかし、そのあとは「終末期古墳時代」なのである。それを判定する学者先生は、別に西暦何年以前・以後などと区切っていないし、およその時期にもいろいろな意見があって一定していない。

 保険制度を全くもとに戻せというのは、混乱に輪をかけることになり、いいのか悪いのか判断に苦しむが、やはり、政策目標の根幹、方向性が見えない限りいつまでたっても改善に向かわないだろう。自民党と民主党の若手政策担当が「中福祉・中負担」で意見一致したとどこかで見たが、どうも迫力に欠ける。

 ここは、故池田首相の「所得倍増」ではないが、「高成長・高福祉」または「高負担・高福祉」を目指すとうたいあげた方が、国民を奮い立たせ、経済回復にもいいのではないか。若手政治家に「老獪」はあっても「老成」は不要である。老婆心ながらつけ加えておこう。
 

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2008年10月16日 (木)

うそをつく

 「あなたはうそをついている!」。国会の委員会討論を聞いていると野党委員からよくこんな罵声が飛ぶ。「うそを・・つく」は、このところ相撲の八百長証言でも頻発されている。これは、総理大臣など地位の高い人に対する言葉にしては相当過激に聞こえるが、それは失言を引き出すためのテクニックで、うっかりこれにはまるようでは閣僚はつとまらない。

 中山成彬国交大臣など、予算委員会に出る間もなく軽率発言でたった5日でクビになった。彼は文相の経験があり始めての閣僚ではない。どうやら確信犯で自爆テロだったようだ。意図がどうあろうと、閣僚の器でないことだけは確かである。

 「うそを・・つく」というのが一番フラットで標準。さらに穏便にいえばは「うそを・・いう」で、以下悪質なうそに対しては、方言にもよるが「うそを・・こく」、「・・たれる」、「・・ひる」、「・・まける」などと下品な動詞をともなう。

 相手を非難する意味からすると「うそを・・つく」は、なんとなく衝動的で愛敬をこめたウソに聞こえるが、「うそを・・いう」というと、あらかじめ相手をおとしいれるため計画した物語があり、陰険な含みが感じられないこともない。

 「つく」は、息をつくなどもあり、首より上の感じだが、「こく」以下は、屁や糞など下半身の排泄物と同じ扱いだ。「まける」は、全部まき散らすや放り出すというのが原意だそうで、これまで「まける」総理大臣が2代続き、まける・・ものかとばかり中山大臣までそれに続いた。

 もう国民はうんざりしている。いいかげんに「まける」ことのないまっとうな政治家が国会で議論し、行政府を指揮するようになってもらいたいものだ。

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2008年10月15日 (水)

朝鮮・韓国④

 前回、菅原道真が遣唐使打ち切りを提案したことを書いた。しかしそれまですでに60年も中断しており、明らかに海外に対する関心は低下している。その頃の新羅王朝は、わが律令国家と同様、衰退期にはいって久しく、百姓は疲弊し、内乱が続き、民情はきわめて険悪になっていた。

 新羅南部の沿岸の流民あるいは海賊と思われるものが、八世紀以来、かなり頻繁に対馬さらに北九州を襲い、財物の略奪を行うという事件があった。さらに、893年5月には、新羅人の武装した小集団が肥後国飽田郡に侵入して民家に放火し、肥前国松浦の方面にむかって姿を消した。その翌年にも対馬がおそわれている。

 それに対して政府は、対馬への防人の配置・博多警固所の増員、さらに越前・能登・越中・越後の諸国で弩師(大弓に長じたもの)強化しているが、新羅と直接外交を通じて解決しようとした形跡は見られない。

 なぜこのことを取り上げるかというと、このブログで中国・朝鮮への侵略に言及すると、このあとに述べる刀伊の乱や元寇で日本も被害を受けている、あいこではないかなどという、どうやら国粋学者の受け売りらしい書き込みがあったので、ふれておくことにした。

 ただそのような主張は、13世紀から14世紀にかけてほとんど朝鮮の全地域で400件近く和冦が猛威をふるい、ついに高麗王朝崩壊の一因を作ったり、中国の広域にわたる沿岸への和冦は16世紀まで続き、明帝国がいわゆる「北虜南倭」という難局に立たされたこととは、量質ともに比較にならずヤブヘビになるのでやめた方がいい。

 以下は刀伊の乱の模様で、拙著『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』に『小右記』と『朝野群載』を参考にして書いた記事を引用する。これで見るように賊は朝鮮人ではなく、最後は高麗王朝が摘発して日本に友好的な対応をしていることがわかる。

-----以下引用
 寛仁三年(1019)四月七日、太宰府に対馬守遠晴が駆け込んできた。そして「対馬に刀伊国の者が五十艘あまりの船でやってきて殺人・放火をはじめました。彼らは隼のように迅速で数が多くとても対抗できません。壱岐では壱岐守理忠が殺害されほとんど全滅状態です。彼らは博多警固所と目と鼻のさきの能古島まできています」と報告した。京都へは、即刻緊急事態を伝える飛駅便を飛ばした。

 しかしその時すでに賊は怡土郡(福岡県西部)に上陸し、志摩、早良郡などをへて博多の方まで来襲、人や物を奪い民家を焼くなど被害が拡大していた。賊の船の全長は十二尋と八、九尋(一尋は両手をひろげた長さ)。一船の櫂は三、四十ばかり。五、六十人または二、三十人が乗る。

 彼らは白刃をかざし、次ぎに弓矢を帯びた者が続き、楯を負う者など七、八人で行動する。これらの十から二十隊が山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食ったり、老人や子供は皆殺しにする。さらにおびえる男女は追いかけてゆき、四、五百人を捕らえて船にのせた。また、かず知れない米穀類も略奪された。不意をつかれて急遽遣わした兵士と戦闘になり、双方に負傷者を出したが、八日に賊は海へ逃れ能古島に去った。

 九日朝、賊船は官軍の本拠である警固所を焼こうとして来襲した。奮戦した結果前に進めず、生き残った者はまた能古島に帰還した。その後二日間は波風強く、攻撃できなかった。十一日酉時(午前六時)に上陸してきたので応戦、賊徒四十余人に矢があたり、生き残った者二人、一人は傷つき一人は女だった。

 十三日、賊徒は肥前国松浦郡に至り、村里に攻めてきた。ここには前肥前介・源知がいて。郡内兵士を率いて合戦、数十人に矢をあて、生存者は一人だった。賊船は進攻不能となり遂に帰った。(中略)

 刀伊は帰路朝鮮沿岸を襲ったが、警戒していた高麗(九一八年建国の統一王朝)軍に撃破され、その時救助された日本人二百七十人が九月になって送還されてきた。拉致された人数との差は、体が弱っているといった理由で海に投げ込まれた人が大多数という拉致被害者の証言を裏づけており、結局約千五百人が殺害されたことになる。

 なお、刀伊とは高麗語で蛮夷の意味で、女真すなわち、かつて粛慎、靺鞨などと呼ばれた沿海州方面のツングース系民族ではないかといわれているが、真相は不明である。

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2008年10月14日 (火)

守ってくれない

りょけん【旅券】外国へ旅行する者の身分・国籍を証明し、その便宜供与と保護を依頼する文書。発行者は外務大臣または領事。これを所持しない者は出入国を禁止される。旅行免状。パスポート。
     -----(『広辞苑』より)

 三浦和義氏(「元社長」というマスコミ流の呼称は不自然でどうもひっかかる)自殺の報道が各方面にさまざまな波紋をまき起こしている。同氏がサイパンで長期にわたる拘束を受けている時から理解できなかったことがあった。

 おことわりしておくが、同氏にかかわる過去の事件や裁判などについての知識や関心は、それほど高くない。特に週刊誌報道などの伝える周辺情報は知らないことが多い。わかっていることは、アメリカで起きたさまざまな疑惑は、最終的に日本で裁かれ殺人事件では無罪が確定したということである。

 この結果については、日米両国間で正規の手続きにより進められたものである。三浦氏は今や誰はばかることのない日本国民である。だから、善良な公民として出国を許可され、外国に「便宜供与と保護」を依頼した公文書を手にした。

 過去に疑惑があった人だからということで、政府が手を抜くことは決して許されない。日本にない共謀罪や20年も前の出来事に未公開の新証拠などという理由で勾留、ロサンゼルスまで[拉致]され、不審な自殺を遂げたのだ。

 この間、日本政府から身分の保全や長期拘留に抗議したとか、説明を求めたという報道を目にしたことがない。それどころか、中曽根弘文外相は「アメリカの法律に基づいてやっているので」というような我関せずの発言をしていた。

 三浦氏はアメリカから逃亡して日本にきたわけでなく、アメリカの保護領に密出国したわけではない。好ましくない人物なら入国拒否をすればいいのだ。また日本政府には日本人の保護義務があるのに、属領以下の無責任ぶりである。これでいいのだろうか。アメリカは日本人だからといって特別扱いをしない。

 北朝鮮のテロ支援国家指定解除も、拉致問題で日本の立場をふまえ、特別扱いをしてくれるのではないかという楽観があったのではないか。「価値観外交」などといって、居心地のいい「仲良しクラブ」外交をこのまま続けるととんでもないことになる。

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2008年10月13日 (月)

日常と非日常

 毎日のように株価がストンストンと3桁4桁単位で落ちていく。世界中どこの国も。生まれてこの方経験したことのない不安。2008_10120019

 同じところを歩き、いつもと同じ買い物を。それなのに意味もなく刃物が襲いかかり殺される不安。匿名の悪意が電話や自宅の機械にひそみこむ不安。

 もっとも信頼していた役所、教師、弁護士などが不正確と悪徳の温床という不安。年金も貯金も親も子もあてにならないという不安。

 好き勝手に引っかき回し、責任もとらずに姿を消すアメリカや日本の政治家たちにまかせなければならない不安。不安にあふれた「非日常」の不安。

2008_10120002_3    そんな中に、散歩道の日だまりに金木犀が咲き散る日常。連休に親子・男女連れでにぎわう水族館の日常。日本に戦争のない日常があることしか救いがない。

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2008年10月11日 (土)

恐慌と清き一票

 昭和恐慌、金解禁当時銀行業務(三十四銀行)にたずさわった一瀬粂吉氏のメモ『銀行業務改善隻語』より。

 十八、他行を凌駕せんとし、若しくはこれと平行せんがために、急激なる拡張をなすときは、その間、所謂無理を生じ、之が根源となりて遂に困厄に陥ることあり、実例少しとせず。故に急がず、焦らず、休まず、進むを以て、最後の勝利者となす。

 四二、普通選挙において、清き議員は清き一票を叫べり。吾人は清き預金と、清き貸金と、而して清き経営者を絶叫してやまず。(以上第1章)

 七二、米国の繁栄は、何人にても、何時にても、何等の情実に囚われず、直ちに解雇し得ることによりて競争心を鼓舞し、以て能率を増進するにありと云えり。

 七三、米国は能率の増進を主眼として、最小の時間を以て、最大の効果を挙ぐべしと高唱しおれり。人の能率機能を発揮する処に合理化現わる。

 七四、合理化とは、度合いを計りて宜しきに処するの謂いにして、内的あり、外的あり、立体的あり、平面的あり。

 七五、なお詳言せば、政治の合理化、消費の合理化、経営の合理化、生産の合理化、分配の合理化を要求するに至れり、要するに結局は「人の問題」たり。(以上第4章)

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2008年10月10日 (金)

朝鮮・韓国③

 ここで、古代についてのしめくくりをしておきたい。先住者縄文人に水耕稲作ををもたらした弥生人の先祖が中国大陸や朝鮮から海を渡って渡来した、という説にトラックバックいただいた方から異論が出た。

 たしかに、中国から遼東省や北朝鮮の寒冷地を経て水耕稲作が伝播したとは考えにくい。しかし、長江沿岸から山東省あたりまでこの方法が盛行していたことと、弥生人の形質が山東省あたりの人骨に似ているという研究結果もあるので、そこから伝播したと見るべきであろう。

 そうすると、海路では山東半島から最短距離の朝鮮中部を経て日本、または直接日本ということになる。(琉球列島経由の痕跡はない)。後者の場合ならそのまま秦始皇帝が命じた徐福コースということになり、単なる伝説とはいいきれないことになる。

 研究はこのさきまだ続きそうだが、先を急ごう。古代における朝鮮と日本の関係に大きな転機は3度ある。最初が4世紀末の倭国による朝鮮大侵攻である。日本では『日本書紀』の神功皇后による伝説的記録しかないが、中国に現存する広開土王碑や奈良の石上神宮にある七支刀で、日本が大きな権勢を確保したことは事実だろう。

 ここからいわゆる応神王朝時代で、古墳は超大型化副葬品も豪華な武具・馬具が多くなった。土木技術を駆使し、文字も使われだした。雄略天皇が中国・斉から新羅を含む南朝鮮6カ国鎮東大将軍の称号をせしめるなど、威張っていた時代である。

 これが6世紀後半にあやしくなり、倭の権益はどんどん後退する。推古女帝や聖徳太子の時代の直前、580年頃には、朝鮮海峡に国境を考えざるを得なくなった。それは記事にしたことがある。そして聖徳太子は隋を相手に「日出ずる国」の国書を作成した。

 これが2度目の転機である。スパイや伝染病患者の入国を水際でくい止めたり難民を審査したりする出入国管理は今と同じになり、この時代にナショナリズムや自立国家の意識が高まったようだ。その後も『書記』の新羅、百済、任那などの朝貢記事は続くが、朝鮮3国対立の戦略バランスを意識したためで、日本の権勢が及んだためではない。

 そして古代最後の転機が、663年にやってくる。斉明天皇と中大兄皇子が派遣した倭兵が朝鮮白村江で唐・新羅連合軍に大敗したことである。これは朝鮮にとっても統一国家を作る第一歩となったできごとで、弥生時代から続いた日本と朝鮮の関係は、668年成立の統一新羅との国交関係樹立という新しい環境に変わった。

 その後渤海国との国交も開始されるが、外交は、奈良・平安時代を通じて遣唐使による中国文化導入を中心に進め、菅原道真が遣唐使の停止を建言する894年まで続いた。その後、鎖国ではないが朝鮮との間も次第に没交渉となって中世に向かっていく。

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2008年10月 9日 (木)

とくらさん衆院選立候補

 民主党は8日、次期衆院選公認候補として山口4区、県連副代表、戸倉多香子(49)を内定した。(毎日新聞9日朝刊)

 安倍晋三と一騎打ちだ、かねてそうならないかと内心思っていた。報道でもトップクラスの扱いになるだろう。勝利を目指してがんばってほしい。がんばってほしい。

 こうふんしてダブルクリップがうまくできない。おまけに最初、安倍晋三を晋太郎としてしまった。

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2008年10月 8日 (水)

アフガン情勢

日本は孤立のウソ

 幾多の国々はアフガニスタンへの関わりを、むしろ増やそうとしております。この時に当たって、国際社会の一員たる日本が、活動から手を引く選択はあり得ません。
 民主党は、それでもいいと考えるのでしょうか。見解を問うものであります。

 これが先月末行われた麻生首相の所信表明演説の中味である。最近、アフガン情勢をめぐっていろいろなニュースが入って来るようになった。それらの情報は、首相の演説以前から断片的に報じられていたが、首相の分析はますます的はずれなものになっている。まず、その一例を引用する。

【欧州総局】5日付の英紙サンデー・タイムズ(電子版)は、駐アフガニスタン英軍最高司令官がイスラム原理主義勢力タリバンとの戦闘について「我々はこの戦いには勝てない」と悲観的な見方を示したと報じた。

 カールトンスミス司令官はインタビューで「英国民は決定的な勝利を期待すべきでない。その期待値を下げることが必要だ」と主張。「我々の戦いは、アフガン軍が対応できるレベルまで(タリバン勢力を)弱めるのが目的。タリバンが交渉の席に着く用意があるなら、それこそが戦闘終結に向けた前進だ。国民も不愉快には思わないだろう」と述べた。

 駐アフガン英軍部隊は現在、南部ヘルマンド州を中心に約8000人が展開。01年の駐留開始以降、英兵の死者数は100人を超えている。同紙によると、ヘルマンド州知事は「英軍が展開しているのに、タリバンは州の半分以上の地域を支配している」と指摘した。「毎日新聞」(08/10/6 東京夕)

増派は米仏だけ
 NATO 諸国で最もアメリカびいきのイギリスでさえそうだ。ドイツをはじめ各派兵国があとずさりしていることはたびたびニュースで紹介されている。外務省はアメリカ政府以外の情報は無視するのだろうか。麻生・元外相のオツムもその程度らしい。

 現在、NATO主体のISAF(国際治安部隊)約4万8000人のうち半分近くの2万2000人が米兵で、さらに5700人を増派、フランスも800人規模の追加を決めた程度で、他は縮小の機会をねらっている。アメリカもそれを知っているから、代わりに米軍増派費用の170億ドル(1兆7300億円)出せと各国に圧力をかける方針だ。

 モレル国防総省報道官は、「戦闘部隊の派遣に消極的な国が貢献できる分野の一つだ」と恩着せがましくいっているようだ。テロ特措法が通らず洋上給油中断にでもなれば、日本政府はまっ先にそれに飛びつくだろう。オバマ大統領候補もアフガン増派は公約の中に入っているから当選すればご祝儀にもなる。

 しかし、アメリカ発の世界恐慌寸前の経済危機に見舞われている各国が、スンナリこれに応じるだろうか。脅かせば通るといった、ブッシュ流がいつのまにか張り子の虎になっていることに、アメリカ人はおそかれ早かれ気づくことになるだろう。

再びタリバンの国へ
 現在のカルザイ政権は、金も力も国民の支持もないアメリカの傀儡政権である。しかし最近は、イスラム原理主義の武装勢力、タリバンと本格的な和解交渉をするため、同勢力の最高指導者オマル師との接触に成功し、すでに交渉に入っているようだ。

 政権側は、武装解除と女子教育の容認の条件を出し、アルカイダなど外国人武装勢力との交渉をしない態度をとっているという。タリバンはアメリカの侵攻を受けるまでアフガンを支配していた。イスラムの戒律には厳しかったが汚職を一掃し、麻薬生産に依存する経済を改善するなど、一定の国民の支持があった。

 アメリカは、タリバンがアルカイダやビンラディンをかくまっているとして電撃的な侵攻を開始してから7年がたったが、今も9.11の首謀者とされるビンラディンは捕まっていない。オマル師も当然犯人隠匿の罪で追求の対象だった。

 オマル師は一時死亡説が流れたことがある。どうもアメリカの謀略情報の疑いが強い。生きていたとすればそれだけでアメリカの「負け」が印象づけられる。ハリリ・アフガン副大統領は「支援国の中には(タリバンと)戦え戦えという国があるが、受け入れられない」と暗に米国の姿勢を批判している。武装解除には応ずるはずがないが、アメリカの要求に違いない。

 それはそうだろう。アメリカの敵はアルカイダとタリバンである。タリバンを敵から除外したら何のためにアフガンに侵攻したか、理由がなくなる。それではこれから増派する目的は何だろう。タリバンとの和解をめざす現政権であっても、これを崩壊させるわけにはいかない。

 米軍増派は国民の反米感情を高めるだけだが、米大統領は「なにもかにも全部失敗でした」とは言えない。もう一つの理由はパキスタンに潜伏するアルカイダを徹底的にたたきのめすことである。しかしそれには国境を越えて隣国に攻め込まなければならない。

 これはもう始めているが、パキスタン国民はもとより、政府も猛反発している。国境を越えた軍事行動は、国連の存在を頭から無視している。パキスタンは建国以来ヒンズー教国のインドと対立している。安全保障上は、以前のように反対側の隣国、アフガンが強固なタリバン政権の方がいいのだ。

 こう見るとアフガンの出口は全く見えない。アメリカに率先資金協力をしようという行為は、アジアの西端に位置し比較的親日的な両国が、東端に位置する日本を敵視する要因を招くことになる。民主党は小沢理論は棚上げにして、日本の外交に今何が必要かを正面から与党にぶつけることで、自民党とは外交でどこが違うかを鮮明にしてほしい。

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2008年10月 7日 (火)

石破陳謝大臣

 衆院予算委員会も2日目になり、追求のベテラン菅直人氏なども登場して野党追及が佳境に入ってきた。鬼門の農水省担当は、イージス艦が漁船を沈没させた当時の防衛大臣・石破氏である。防衛省は、その前にも事務次官の汚職をはじめ不祥事を重ね、根本的な組織改編が課題になっていた。同氏は、その課程で弁解はあっても妙になっとくできるような形で言語明瞭に陳謝してきた。

 7日午前の予算委員会で、同大臣は、農水省で野党からの資料請求提出に自民党が事前調整をするかのような文書をだしていた件と、事故米処理の農水省チェックが業者となれあいが疑われるような処置をしていたことについて、短時間に2度も「歯切れよく」陳謝したのだ。

 すくなくとも、桝添厚労相のように、いいまわしに技巧をこらしてすりぬけようとしたり、麻生首相のように「所管大臣の答弁のとおりでございます」と、陳謝しているのかどうかわからないような答弁ではなかった。

 この委員会開催の途中、株価が前日までの世界同時暴落への抵抗が見られず、日経平均はあっさり1万円を切った。早速世界金融危機と国内景気への影響に対して質疑が行われたが、この件では与野党ともに、アメリカや欧州のことで日本として即効的な対策なしで一致し、それまでのようなヤジもなく緊張を欠いた。

 結局残ったのは解散時期への関心だけで、早く衆院での審議を終わらせ参院を決戦場にしたいような印象を持った。政府与党は、そのため「場慣れ」した石破大臣の陳謝で不祥事などの幕引きをしようとしているのだろうか。

 選挙管理内閣だとしても、なんとも無責任で軽い内閣だ。どさくさまぎれであろうとも、相手の失投をねらって解散、ヒットが打てればいいというような態度では、生活破綻の瀬戸際に立たされている国民があまりにも可哀想だ。

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2008年10月 4日 (土)

ホームレスの生活

 大阪の個室ビデオ店で15人の焼死者が出る惨事があった。放火犯人は生活破綻による自暴自棄からだ、と報じられている。マンガ喫茶、ネットカフェなどともに、こういった店が簡易宿泊所として機能していることを、実は長い間知らなかった。

 かつての、日雇い労務者のいわゆるドヤ街の方がまだ暖かみがある。それより悲惨な、ウソで固められた施設である。テレビで見る民間刑務所の方が何十倍も快適そうではないか。これならば、懲役刑希望者がでてもおかしくないと思った。

 ここに来て、このような貧困ビジネスが広がりをみせているという。その例に、2畳に満たない個室にパソコンを置いた机と座椅子、洗面台があるという点まではネットカフェと外見上同じだ。違うのは1時間300円、24時間1500円の時間貸し制である。

 また、サービスとして30日分を支払えば住民票がとれるようにしたり、郵便物受け取りもできるようにもしてある。過酷な労働につく人も日銭が入る場合は、割高になってもこの方がいいようだ。だけど生活から離れたウソはますます高まる。

 一方で3日、最高裁は、大阪市の公園でテント暮らしをするホームレスが、公園を住所とする住民票の転居届け受理を拒まれたことについての上告を棄却した。1審では認められた主張が高裁で逆転し、最高裁がそれを認めたものだ。

 最高裁小法廷は、原告が都市公園法に違反して不法にテントを設置し公園の水道を使って生活していたという点をとらえて、原告敗訴としたものだ。最高裁は憲法の番人である。基本的人権を定めた憲法22条、同25条を読み返してほしい。

 たしかに、22条には「公共の福祉に反しない限り」とある。そのために、都市公園法などという端末の法律にこだわり、憲法の本旨である大原則、住居の自由や生存権に正面から目を向けなかったようにとられても仕方あるまい。このところ立法、行政それに司法まで劣化しているような気がしてならない。

憲法
第二十二条[居住・移転・職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由]何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
第二十五条[国民の生存権、国の社会保障的義務]すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

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朝鮮・韓国②

呼称の問題
 すでにお気づきのように、前の記事では朝鮮半島とか朝鮮南部といった使い方をしている。韓国は北朝鮮を「北韓」と言ったりしているので、韓国・朝鮮を公平に使い分けなければならないとすれば、半島の地理的概念や民族を表すのに英語のコリアとでもするしかない。

 「朝鮮」は非常に古く、神話伝説の時代から西暦紀元前にかけて使われていた言葉である。ただし中国の一部まで含めた半島北部のイメージが強く、全体の呼称として使ったのは、1392年から1987年の李王朝による595年間で、歴史上最も長く続いた。

 ちなみにその前の統一国家としての名称は、「新羅」が267年間「高麗」が457年間であり、その前がいわゆる百済、新羅、高麗の三国時代だ。これで見ると韓国というのがないようだが、日韓併合直前のわずか13年間、もはや国家の体をなさぬ状態になってから、李王朝は突如国名を大韓帝国と改め、国王は自ら光武皇帝と称した。

 それが併合前の最後の国名であったため、独立を回復したとき旧国名を継承して今の大韓民国ができたものと思う。朝鮮が北の方に由来する国名であるのに対し、韓は、『魏志』に書かれているように馬韓、辰韓、弁韓(以上を三韓という)といった南の方に根拠を持つ民族名である。

 日本の古代では、三国時代の国名を使う場合以外は「韓」を総称として使っていたらしい。読みは「から」であり、「あや」「かや」「あら」などいろいろな読み方で、南朝鮮の特定の場所を指す場合もあったようだ。

 大化の改新は、中大兄や藤原鎌足らの蘇我入鹿暗殺で幕を開けたが、『書記』では、この事件の目撃者である古人皇子が「韓人(からひと)が殺した」といい、その注釈として「韓政(からひとのまつりごと)」が原因と書いている。

 蘇我家がそもそもが渡来系の子孫ではないかといわれることがあるが、周辺の人材は渡来系氏族で固めていた。その代表として漢(あや)氏がある。字は違うが三韓の出身であろう。また中大兄の方にも蘇我の一派である石川麻呂が加担しており、新政権の組閣には渡来系の学者などを顧問に迎えている。事件が渡来人同士の権力争い、ととれないことはない。

 日本では、統一に成功した新羅・高麗のあとの呼称が、ずっと「朝鮮」である。最後に「日韓併合」とは言ったけれど、併合後の統治機関は「朝鮮総督府」であり「朝鮮銀行」も設立した。日本人にとっては韓より長くなじんできた朝鮮の方が使いやすかったのだろう。歴史的に見ても、また韓国内でも「朝鮮日報」などと使われており、全体を朝鮮で表すのに特段の不都合はない、という結論にしている。

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2008年10月 3日 (金)

朝鮮・韓国①

複合民族・日本
 隣邦、朝鮮・韓国を語るシリーズを考えてみた。前身のブログ「反戦老年委員会」で「私本・善隣国宝記」や「日韓近代史考」などと題した歴史シリーズを、あらためて物語り風にして採録しておきたいということである。それは新たなことを論ずる場合、こういった下地があってのこと、ということを知っていただければ、便利だという意味もある。前講釈はそのくらいにしておいて早速太古から……。

 日本の歴史に関心を持つ人なら、必ず日本人のルーツをさぐりたくなる。天から雲に乗って山におりてきたことを信じない人だけ、この先を読んでいただきたい。また、進化論は子供に教えるな、と言う人にも不向きである。

 結論からいうと、化石の形態やDNAの調査・研究から、ネアンデルタール人や北京原人の子孫ではなく、現在の人類の共通の祖先・アフリカ起源のホモ・サピエンスがおそらく3、4万年前頃から、北は樺太、南は島づたい、そして西は朝鮮半島を経て大陸からやってきたのである。

 いわば3種混合で、大陸から海をわたったやってきた。単一民族どころか、先祖は非常にバラエティーに富んでいる。おそらく最初は南から、すこし遅れて北から入り、1万2千年前には本州中程で合体し、縄文人・縄文文化が栄える。

 その頃、海上交通に先端技術を持っていた縄文人は、逆に朝鮮半島へ進出した。彼らは釜山あたりから洛東江ぞいに居住したものと見られる。時を同じくして大陸から南下した北方民族なども朝鮮中南部に定住をはじめた。

 この考えを明記した文献はまだ目にしたことがないが、日本神話や魏志倭人伝、朝鮮の古代史・三国史記、さらには下って日本書紀の任那関連記事、またはなにがしかの考古学的発掘物などで、いわゆる「倭人」が朝鮮南部に多く居住していた状況証拠は数多くある。

 朝鮮や中国大陸からの移住者が増えたのは、水耕栽培による稲作技術をもたらした人たちで、それが弥生時代の幕開けとなる。これが弥生文化の発祥であり、縄文人とやや骨格など形質を異にする弥生人の出現である。

 以後、書記では神功皇后時代、続く応神王朝の土木技術や文字の伝来、欽明朝前後のいわゆる「今来の才伎(いまきのてひと)」による工芸や仏教などの伝来、さらに百済滅亡による7世紀の大量難民など波状的な大量移住があった。

 平安時代初期に『新選姓氏禄』という氏姓の調査報告があり、畿内だけであるが、ハイソサイエティー1182氏姓のうち漢系163、百済系104、高麗系41、新羅系6、任那系3(Wikipedia)と、帰化人の諸蛮に分類された氏姓が4分の1を超えている。

 もちろん、この中には弥生時代の人など入っていない。平安時代初期の諸蛮を外国人などという人も現在はいない。そんなことを言うと天皇家まで外国出身者となる可能性が高いのだ。「特定アジア」などという分類がどこから来るのか、まことに不思議である。 

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2008年10月 2日 (木)

陽光

 こう毎日、さきゆき暗い話題でグロブに向かうことには、つくづく飽きがきた。なにもかも退歩退行ばかりである。政治、経済、社会、生活、……。雨や曇りの日が何日続いただろう。悲観することはない。いつかこんな日もくる。

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【10月2日天気概況】本州付近は高気圧に覆われ、各地とも青空が広がる。快適な陽気となる。

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2008年10月 1日 (水)

御名御璽

 新首相・麻生太郎のどことはない「軽さ」が気になっていたが、それが具体的には何なのかわからなかった。それをはからずも露呈してしまったのがこのたびの所信表明演説である。「畏くも御名御璽をいただいて」総理大臣を拝命したというくだりである。

 御名御璽というのは、天皇のサインとはんこのことで、それを「いただく」といっても文法的にあやまりではないが、このような使い方を聞くのははじめてである。読売のコラムで、彼の祖父・吉田茂元首相が「臣・茂」と言ったのをなぞったつもりだろうと書いていたが、私もそれに気づいていた。 

 吉田の発言は、今上天皇の立太子の礼の祝辞の中にでてくる天皇家に対するお祝いの言葉である。つまり定型化された祝詞(のりと)のようなものだ。明治・大正に育ち、白足袋を愛用する一方、大使として英国の貴族趣味を仕込んだ吉田ならば、自然にでてきそうな言葉である。

 それでも、時代錯誤で封建思想とさんざん叩かれたものだ。それと麻生発言は全く違う。天皇家に向かっていう言葉ではなく、国民に向かって言っているのだ。戦中は「畏くも」と言っただけで、国民は立ち上がり不動の姿勢をとるよう仕込まれた。

 次ぎに、首相に選んだのは天皇でなく国民(衆議院)である。憲法に疑義をいだかせる中山発言におとらない失言だが、誰も問題にしない。戦後は遠くなりにけりで不感症になっているのがこわい。安倍元首相の「戦後レジーム」一掃、戦前回帰にも結びつきかねないという不安さがあるからだ。

 この言葉は、尊敬してやまない亡き祖父と自らを支える右派勢力に捧げたつもりなのであろう。しかし言葉そのものは、すべて中国にその原典があり、「臣・茂」などの使い方は、すでに室町時代に大問題になっていることを、右派の方はご存じだろうか。

 使ったのは、「媚中派」足利義満である。明あて国書に「日本国王臣源表す、臣聞く……」と書いた。それで勘合貿易を許され、元・明時代の文物が入ってきた。この多くは現在国宝に指定され、日本文化の形成に役立っている。

 この義満に対し、宮中筋の評判はよくなかった。しかし、こういった文物を一番欲しがっていたのも宮中筋である。麻生首相の「軽さ」は、結局こういった歴史や文化に対する知識の裏づけのない、言葉は悪いが「品格」を欠く発言や行動のせいではなかろういか。

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