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2008年9月 4日 (木)

大正デモクラシー②

 前回に続き、安倍元首相と麻生総裁候補におじいさま若かりし頃(大正9年)の本を紹介します。

『現代思潮と教育の改造』
       第一章 教育学風の変遷

前回のつづき~~~~~~~~~~~~

菊花御紋章の事 もっともそれは忠孝ばかりではありませぬ。諸君が皆もって非常に立派な花とし、また殊に貴い花だと敬われるのは菊の花でしょう。しかしこのキクという言葉は日本の言葉でありませぬ。

 日本の語では「オキナグサ」(翁草)とか、「モモヨグサ」(百夜草)とか「チヨミグサ」(千代見草)と言うのじゃそうですけれども、さればとて誰も畏くもわが皇室のご紋章は、翁草であるとかあるいは十六弁の百夜草であるとか言う者は無かろうと思う、やはりキクというのが普通一般であります。

 これなども訳のわからぬ人たちは、神代のはじまりから菊は皇室のご紋章であったかのように思うているでしょうけれども、そもそも菊が皇室のご紋章になったのは比較的新しいことであって、従来国学者連中の調査したところによれば、後鳥羽天皇の前後を出ないのであるということであります。

 こういう事を考えてみると、日本人は何でも今現にある事は昔から変わらなくあった事のように思うているが、それは大間違いであって、教育の風なども昔から非常に変わってきている。即ち今日わが国固有の古風の教育、即ち私の言う古めかしい教育は、全く徳川氏三百年の教育の風であるのだと言う事を、最初に掲げておきまする。

学風七変論の発表 そのことにつきましては、ちょうど明治三十年頃と思います。私はオーストリアのオット・ウイルマンという人の教授論に述べられていることを参考に、教育学風変遷論を立てたことがあります。

 すなわちオット・ウイルマン氏がヨーロッパの教育はギリシャ、ローマの昔から今までに七たび変わっていると言われておりますので、それを非常におもしろく思い、それと同じ事を日本で見たらどうなるかと思い調べて見たところが、やはり日本のも七たび変わっていると言うことがわかったのであります。(発表の経緯などの記述を省略)

第一神習式 わが国において開闢より大化の頃まで……つまり聖徳太子ご出世の前後までの教育主義は神習式というものである。それは今の言葉に直すと伝統主義であります。くわしく申しますると、つまり昔からあるしきたりをただそのまま随神(かんながら)に習えといったのである。

 別にむつかしいことはない、ごく質素で、文字も何も無くして、ただ随神に習ったのが神習式であったのである。そういったところがおいおいと朝鮮、支那というような順序で、大陸の文明が輸入してきましてからは、万事非常に立派になり、遂にかの絢爛たる奈良の文明を作り上げたのであります。

第二文華式 それは、ただいまでもあるいは春日神社あるいは大仏といって、国宝に指定していますが、これを名付けて文華絢爛でありますから文華式ということにする。そのうち日本の経済事情が変わり、国情が変わって、遂に外国との往来が途絶えたのであります。

 菅原道真公は教育史の上においても非常に立派で、重要な地位を占めたお方ではありまするけれども、実は日本と海外の交通を杜絶したことについては、この菅原道真公の建白が非常に力があったので、遣唐使は止めになったのであります。これはわれわれの今なお非常に遺憾に思うことであります。

第三情操式 右のようにして外国文明の輸入が杜絶してしまうとなると、今まで追々発達してきておった文華的文明はたちまち爛熟して、自ら大変に感情に走りまするようで、平安朝末期の文明、即ち最も感情に走った情操式の文明ができたのでござりまする。その一例は『平家物語』によく表現されています。

 ところがそれでは余り女々しい、すこぶる婦人的である、すこぶる女性的であるということで、鎌倉幕府が興ってからは昔のように京都や奈良を中心とはせず、もっとも依然京都に都は置かれましたが、幕府は置かれなかった。

第四質実式 即ち幕府は遠く辺鄙な鎌倉の方に持っていって、そこに勢いよく興ったのがいわゆる武士道の教育であります。私は妙な字ですけどこれを質実式の教育と申します。つまり奢侈を嫌い、倹約を奨め、無礼尾籠の振る舞いを禁じて、なるべく実意あるようにという質実式の教育が行われました。

 それはまことに結構であります。したがって引き続いて南北朝の時には楠公父子のような大忠臣をだすようになったのじゃが、その流れのあとが戦国時代であります。

第五意気式 戦国時代というてもまた非常に面白いことがあって、およそ人が意気を貴ぶというような日本男子の特色は、実は戦国時代にことに培養され、ことに発揮されたものであると思います。意気という意味は非常に説明しにくく、ドイツ語にしても英語にしてもフランス語にしても適当な訳ができない。

 それぐらい意気というようなことは日本人固有のものでありますが、それは実は戦国時代に培養されたものでありまして、いわゆる男伊達、侠気であります。日本人にはこの侠気が非常に強い。それは戦国時代の結果だと思う。

 しかし意気とか侠気とかいうことは非常に結構なことではあるけれど、まかり間違えれば花火線香のように怒ってすぐけんかをする。まことに剣呑でありまするから、一旦天下を取った人はなるだけこれをなだめようとするのが当然でしょう。

 即ちまず最初に豊臣秀吉公が彼の桃山文明を以て、あるいは茶の湯の会とか連歌とかいうようなものを盛んに挙行されたが、不幸にして浪花の春は長う続かなんだのであります。

第六道徳式 代わって徳川家康公はごく隠忍で、しかも深く考えられて、馬上で取った天下を文を以て治め、徳を以て治めるということからして、遂に徳川氏三百年間は道徳式の教育となったのであります。即ち最初に藤原惶窩先生、引き続いて林家の人たちをはじめとして種々学者を優遇せられ、主として孔孟の教え、それも朱氏派の孔孟の教えを以て、道徳によって五倫五常で以て治めようとしたのが、江戸幕府の教育主義であります。

 そのことは何によってわかるかというと、江戸幕府時代にはしばしば法度というものがでております。武家や士人に対するいろいろの掟書です、心得です。その武家の法度というものを読んでみると、年月を経るごとにだんだん道徳主義を鼓吹することが盛んになっています。

 ことに忠孝ということを劈頭第一に掲げることも、その回を重ねる毎に盛んになったようなのです。例えば慶長の時に出ました法度と元禄の時に出ました法度とをくらべてみますと、元禄の時の法度には一層盛んに忠孝と言うことが述べられてあります。

 その反応として赤穂四十七士の浪人なども出ているのであります。これは実は全くその時の時代思潮に投じたものであります。ただそれは役所から定めたもの、お上から決めたものであるということと、今日の現代思潮の世界の大勢だというちがいはありますけれども、道徳主義、忠孝主義ということが慶長の頃より発達して元禄の頃は非常に盛んになった思潮であったのだということは、諸君に申して差しつかえござりますまい。

(蜀山人の話略、以下次回へ続く)

 
 

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