« 中東和平と日本 | トップページ | いつか来た道 »

2008年7月 4日 (金)

インパール作戦

 さきの大戦で、フィリピン戦線などと共に最も悲惨な結末を生んだのが、最後の援将ルート(連合軍による中国蒋介石政権救援ルート)阻止のためのインパール作戦である。敗戦の理由を日米の物量の差や科学応用力の差で片づけるケースが多いが、この場合は、大風呂敷を広げすぎた作戦の無謀さと指揮系統の乱れによるものだった。

 54年前の今日、7月4日は大本営が同作戦の中止を決意、命令した日である。2週間後の18日、東条独裁体制の批判が高まり、重臣・皇族らの工作が成功して東条内閣は総辞職する。以下の引用は「たむ。たむ(多夢・太夢)ページ」によるが、同作戦での体験記は、インパールで検索できるので閲覧願いたい。
 

  第2次世界大戦中インパール(インド東北の辺境、マニプール土侯{どこう}国の首都)作戦ほど悲惨な戦闘はなかった。作戦開始以来第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給されなかった。無謀極まりない東条の作戦開始であったが、その撤退の決断も遅すぎた。

  大本営が第15師団に退却命令を出した1944(昭和19)年7月15日は、時すでに雨期に入っていた。日本軍の、ぬかるみの中飢えと寒気と英印軍の追撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。ジャングル内の道は、軍服を着たまま白骨となった死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72,000人。生き残った兵士はわずか12,000人にすぎなかった-『決定版昭和史第11巻138頁』)、兵士達はこの道を「靖国街道」・「白骨街道」と呼んだ(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻333頁)。

  食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31師団長佐藤幸徳は、独断でコヒマへの撤退を命じ、5月には第15軍司令官牟田口廉也(むだぐちれんや)のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却した。この判断は全く正しく退却した部隊は助かったが、佐藤は直ちに罷免され、敵前逃亡罪で軍法会議にかけられたそうになったが、「精神錯乱」を理由に不起訴処分となった(『新聞集成・昭和史の証言』第18巻499頁)。

|

« 中東和平と日本 | トップページ | いつか来た道 »

戦中・戦後」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/468248/22065403

この記事へのトラックバック一覧です: インパール作戦:

» 7月4日アメリカ独立記念日 [逝きし世の面影]
今日7月4日はアメリカの独立記念日である。 アメリカ独立の原因は、フレンチ・インディアン戦争(1754 - 1763)によるイギリス本国の財政危機だった。 1764年に砂糖法等を成立させて植民地からの税収増を図るが反対運動が燃え上がる。 1773年12月、船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件が起こる。 1774年に13植民地は大陸会議を開く。 1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、大陸軍(実質的には民兵隊)を発足させた。 1776年7月4日、大陸会議はアメリ... [続きを読む]

受信: 2008年7月 4日 (金) 18時10分

« 中東和平と日本 | トップページ | いつか来た道 »