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2008年6月 3日 (火)

古史、古伝、偽書

 先月、日本語化した「原理主義」につてい書いた。私がブログを始めた05年4月から「原理主義」を何回使ったか検索してみた……暇だなあ(^^)。結果は31回、「共産主義」の36回とほぼ肩を並べる。原理主義の躍進と共産主義の凋落というわけでもないだろうが、改めて「原理主義」を考えてみたくなる。

 すでにいろいろ論じられているように、ファンダメンタリストすなわちキリスト教の原典を忠実に解釈し実践する信徒の考えから発し、中東におけるイスラムとの文明の衝突に妥協のない立場をとる人、転じてイスラム教強硬派にも「イスラム原理主義」など同じ言葉をつけたのが、「原理主義」流行の発端である。

 キリスト教の原典といえば新旧の聖書である。なにしろ古い古典なので「これが本物」というものはない。仏教はそれ以上で、仏陀の弟子達が作った多数の経典がいろいろな言語に姿を変えて今に残る。だから、「これが根本だ基本原理だ」といっても、幾通りものもの解釈がでてきて当然なのだ。要は、その思いこみが強いかどうかで決まってくる。

 日本にはそういった宗教的古典はないが、『日本書紀』と『古事記』という古史、古伝の集大成がある。両書とも江戸時代が始まる頃に活字化されるまで筆写するしかなかったわけで、幾種類もの異本がある。しかし『日本書紀』は国が編纂した正史である。720年の成立直後から精読、勉強会が継続して開かれ、これを偽書だという人はいない。その都合のいい部分だけをつないで軍国主義に役立てようとしたのが皇国史観だ。

 ファンダメンタリズムは対立するものがあってこそ、はじめて存在しうる。その点、一切の異論を封じ込めた皇国史観には原理主義の資格すらない。ただ、独善的な解釈で政治目的に利用する点が類似しているといえば、その通りだろう。

 日本にはこのほかに、いろいろな古史、古伝、偽書と言われる物がある。一時ブームだったこともある。曰く「竹内文献」「宮下文書」「秀真伝」「上文」「九鬼文書」「東日流外三郡誌」などなどで、日本独自の「神代文字」が存在したという説もあった。

 しかし現在は、ほとんどが後世になってねつ造された「偽書」であるという評価になっている。そして、そういった偽書が生み出された背景や目的に研究の目が向けられているようだ。そういった偽書には、氏族の神がかり的な伝承由来や未来の予言、暗示を含むものが多く、それぞれ不安定な時代背景負いながら、一定の支持、信用を獲得する要素を持っている。

 史書ではないが、前に記事にしたことがある「世界征服計画」と騒がれた『田中上奏文』も偽書である。その一方、海外の一部では依然本物と信じられている謎の文書である。そして現在、9.11をはじめさまざまな偽書・疑伝の類が横行してもおかしくない時代にある。はげしい思いこみがはた迷惑にならない限り、古史、古伝、偽書で想像の世界に遊ぶことは悪いことではない。

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