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2008年6月18日 (水)

続・地震の命名

 前回のエントリーでは、Runner さまから補強のおもしろいコメントも頂いた。それに、震源地に近い奥州市のみなさまに「聞いたことがない」などと大変失礼なことも書いてしまった。その罪滅ぼしに同市の紹介をさせていただく。同市のホームページによると、平成18年2月に水沢市、江刺市、前沢町、胆沢(いさわ)町、衣川村の5市町村を合併してできた市で、人口は13万人余、岩手県では盛岡市に次ぐ第2位である。

 水沢は、友人の出身地でもあり以前から知っていた。最近、ポスターの絵柄で物議をかもした「裸の男と炎のまつり」蘇民まつりの黒石寺も同市にある。それより、かねがね一度は行って見たいと思っていた地名が、「胆沢」なのである。

 北上側の中流域を占めるかなりの広い盆地である。多賀城からはむろんのこと、北上側方面への前線基地である伊治城の地点から考えても、まさに文字どおり胆沢は蝦夷集団の「奥区」であった。胆沢の土地と人間を征服できれば蝦夷征伐は大半の成果をおさめたことになろう、というのが桓武とその政府の多年の思惑であり、執念でさえあった。

 胆沢の地域はゆたかな流水と土質に恵まれていた。蝦夷の集団は、あとでふれるような技術をもって、その労働力をこの原野の開墾に集中し、水田または陸田をひろげていった。この地域の山また森、あるいは河川は、かれらに漁撈・狩猟の対象を無尽蔵といってもよいほど豊饒に提供した。

 以上は、北山茂夫『日本の歴史4平安京』(中公文庫)からの引用である。大和朝廷が都を京都に移して最初に行った領地拡張政策はここでストップ、蝦夷の楽天地攻略に手間取った。ところが、ここにはもうひとつの不思議がある。それは日本最北の前方後円墳「角塚古墳」があることである。その築造が上述の桓武天皇の時代より300年以上も前の450~475年頃だという。

 前方後円のスタイルと発掘された埴輪類は、どう見ても大和王朝の息がかかった設計と見るしかない。おそらくこのなぞは永久に解き明かすことができないだろう。また、前記にある多賀城は、奈良時代に築かれ(仙台市の北東約10キロ)その跡に有名な石碑が現存する。

 多賀城 去京一千五百里
     去蝦夷国界一百廿里
     去常陸国界四百十二里
     去下野国界二百七十四里
     去靺鞨国界三千里

 これを一里560メートルで換算するとほぼ正確と言ってよく、蝦夷国界はまさに「胆沢柵」を指すと見られる。また私見では、靺鞨国はサハリン経由の沿海州岸と見ている(拙著『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』)。胆沢は、日本人にとって「この先、夢いっぱい」の土地柄だったのである。

 

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コメント

平成の大合併で出来た奥州市は、揉めないように処理した役人的発想の命名ですね。
何で、水沢、江刺、前沢、胆沢(いさわ)、衣川などいずれか歴史と伝統が満ち溢れた名前の市にしなかったんでしょうか。?
前九年の役の話を思い出す胆沢市なんか夢とロマンがある。
私なんか、奥州の衣川市なんか、好い名前だと思いますよ。
今の日本では古いもの、よき権威と伝統を守る『保守』の本来の役目がないがしろにされています。

アナログ停止まであと少しですが、デジタル放送の方が従来のアナログに比べて地震予測放送がシステム的に2秒の遅れが出るらしい。
緊急時に2秒は大きいですよ。新しいモノが何時でも優れているわけではない。古いものでも特定の分野では新しいものより優れている場合はいがいに多い。

投稿: 逝きし世の面影 | 2008年6月22日 (日) 14時39分

今日便器のボルタップが利かなくなり、メーカーのメンテナンス係を呼びました。すると、チェックもせずに箱から部品を取り出して交換しウン千円を取られました。
昔はこんな水回りは亭主がチョイチョイと直せて存在価値を示せたものです。
何を変えたんだ、といったらダイヤフラムだという。そんなものがなんでいるんだ。pout昔の方が簡単で好かった。

投稿: ましま | 2008年6月22日 (日) 21時45分

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