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2008年1月 8日 (火)

歴史編・戦争とは

「日韓近代史考」日清戦争 2
 前回の「日清戦争 1」(シリーズについては、カテゴリ「戦争とは」をクリックの上さかのぼってください)を補足する意味もあって、日韓がはじめて外交条約を結んだ1876年以降、日清戦争までの韓国事情を年表にしてみた。

・1876 (明治9)日鮮修好条規締結(江華条約)
 鎖国政策の強硬政策をとった大院君から、実子・高宗の即位で王后・閔氏系の開化派に権力が移ったことと、清国の意向にそって不平等条約を受け入れた。

・1882 壬午の軍変         
 軍の不満分子が大院君を担いで反乱、宮廷や日本公使館を襲う。逃亡した閔妃はひそかに清軍の出動を要請。首都を制圧した清軍が大院君を拉致して天津に監禁。

・1884 甲申の政変
 在日経験豊富な金玉均が、明治維新を手本に朝鮮の改革を目指して蜂起。事大派(大きい強い方に仕える派)と開化派の権力闘争。日本軍も高宗の要請をたてにこれに関与。優勢な清軍の攻撃を受けクーデター失敗。金玉均らは海外逃亡。

・1885 天津条約
 日清が朝鮮出兵する際に相互に連絡、調整しあうことを協定。またこの年、ロシアの朝鮮進出を警戒してイギリスが巨文島を占拠。各国の力が均衡したこの時機が、朝鮮の中立と自主的な改革をめざす、1882年に次ぐ2度目のチャンスだった。

・1894 東学党の乱・日清戦争
 宮廷の腐敗に自浄能力なく、農民等の反乱が10年ほど前から各地で発生。首都を脅かす規模のものが発生してまたもや清国に出兵を要請。日清戦争のきっかけを作る。

 詳細に触れる余裕はないが、明治新政府が軌道に乗りはじめてから日清戦争までの朝鮮の動きは、以下の繰り返しであった。すなわち、決断力に欠け飾り物的な国王をよそに、その父・大院君と、頭脳明晰で美貌の王后・閔妃の血みどろの権力闘争。支配層である両班(ヤンパン)官人の無能と功利優先主義。それらが民衆の不満を組織化できず、外国の力を頼りに目的を遂げようとする主体性のなさ。などである。
 
 作家・金達寿氏がなげく「李朝名物党争」に明け暮れした期間で、結局日韓併合直前までこれが続く。こういった状態は日本の安全にとっても憂慮すべき問題と考えられていた。清国の宗主国意識とは違った意味で日本もその都度軍事的圧力を加えたり干渉をしてきたのである。

 このような背景のもとで起きた日清戦争については、既に多くの著述があるのでその方にゆずるとして、概略を次のように箇条書きにしてみた。

【開戦のきっかけ】
・1994年(明治27)2月 全羅道の農民蜂起を発端とする「東学党の乱」は朝鮮南部一帯に拡大する勢いとなる。
・6月1日 朝鮮政府は清国に出兵を依頼。翌日日本政府も派兵決定(双方事前通告、両軍は京城・牙山間で対立)。

【仕掛けたのは】
 日本である。両軍が朝鮮で対峙した頃、東学党の乱は沈静化し派兵の根拠を失った。日本は撤兵を拒み、朝鮮の改革を日清が協同してやることを清に提案した。清はもとよりその必要を認めず、応ずる気はなかった。日本はさらに大軍を派遣し、引退していた大院君をかついで清軍の撤退を迫った。こうして一触即発の状況に持っていった。

【戦争の経緯と結果】
・1994年7月25日 豊島沖の海戦で戦闘開始。
・8月1日 宣戦布告
・9月 陸軍が平壌を占領、海軍は黄海海戦に勝ち制海権握る。
・11月 中朝国境の鴨緑江を渡った陸軍が遼東半島を制圧。翌年にかけて山東半島威海衛攻撃、北洋艦隊全滅させる。
・1995年3月 台湾、澎湖島に進攻。
・3月20日 下関で日清講和会議。
・4月17日 講和条約調印(清国が朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲、軍費賠償金2億両=約3億円の支払い、開市・開港の増加など)。
・4月23日 露・独・仏、日本の遼東半島領有に反対(5月5日日本政府これを受諾=三国干渉)。  

【日本の真意は?】
 歴史を語る上で、例えば「さきの戦争は侵略戦争である」とか、「自衛のための戦争である」として反論を封ずることは、公正な歴史の判断を狂わせる非科学的な態度といわざるを得ない。しかし「後世の学者の判断にまかせる」といった無定見や逃避も、決して許されるべきではない。裁判と同じで、両論併記はしても、あくまでも判決はひとつしかない。

 日清戦争についてはどうか。厖大な史料を渉猟し、結論をだす能力もいとまもないが、結論から先にいうと、「日本の安全をはかる上で、朝鮮の独立と安定が確保され、中立地帯化することが必要。そのためには、まず清国の属邦体制排除が第一」であり、「朝鮮を占領し、領土化する意図」はなかったということになる。ただし、隣国で不当な軍事行動を誘発した日本を正当化することはできない。

 当時、個人的な心情あるいは扇動的な言動として朝鮮の領有、大陸進出への野心をあらわにする者があったことは事実だ。それは吉田松陰以来のことで、帷幕にあった山県有朋など、松下村塾門下生にその気が全くなかった、とはいいきれないだろう。

 そのあたりを、時の外務大臣・陸奥宗光は外交秘録『蹇蹇録』の中で、次の3通りの意見を「個々人々の対話私語に止まる」と切り捨てた。
①朝鮮の改革を名分に日本の版図を拡張、または保護国として権力の下に屈服せしめる。
②朝鮮の改革を進めまがりなりにも独立国の体面をそなえさせ、清・露の緩衝地帯にする。
③ベルギー、スイスのような列国保障の中立国とする。
 
 そして、社会凡俗の与論は「弱きを扶け強きを抑ゆるの義侠論」であるとし、これを利用し強引な開戦持ち込んだのである。しかし陸奥の真意は、「我が国朝野の議論が如何なる事情、源因に基づきたるが如きはこれを問うに及ばず、とにかくこの一致協同を見たるのすこぶる内外に対して都合好きを認めたり」としている。

 かいつまんでいうと、開戦について「いろいろ議論はあるが、そんなことはどうでもいい。与論が『義侠論』にあるのだからそれでいこう。それが内外に対して一番都合がいい」という、かなり無責任な言い方をしている。あとのことは「国益第一で考えればいいんだ」ということである。

 「内外に対して」というのは、戦端を開く1カ月前に、難航を極めた日英通商航海条約改定の調印にこぎつけ 海外からの非難の緩和が見込めたことと、その前に対外硬派から出されていた衆議院内閣弾劾上奏決議および衆議院解散による政府への攻撃をかわす意味があったのだろう。

 ところが、開戦前に朝鮮の行政改革を清と協同でやろうと提案、清からこれをこばまれたため、日本は単独で改革推進を引き受けるはめになった。「義侠論」に乗ったことと西欧の反応を気にした陸奥は、結果として上記②の方向に進まざるを得なかったのである。
 
(この稿は、このブログの前身「反戦老年委員会」のエントリーを一部修正の上再録したものです。投稿日 2006-11-03 ほか)

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