戦争とは 2
「戦争とは 1」を書いてから10日以上もたってしまいました。実は、こんな題を立てて失敗したなあ、と思っているのです。「反戦塾」だから、ほとんどの記事は「戦争とは」になってしまうわけだし、そうかといって、大上段に「戦争論」を展開するほどの材料も能力も持ち合わせていないからです。というわけで、戦争論を書いた本でよく見かける定義のようなものをいくつか考えることにして、この題は終わりにしたいと思います。
戦乱に明け暮れしたヨーロッパでようやく近代国家が生まれようとしていた19世紀のはじめ、プロシア(ドイツの前身)の軍人・カール・フォン・クラウゼヴィッツが書いた『戦争論』にある言葉を取り上げてみましょう。
その一つは「戦争はわれわれの意志に従わせるように敵対者を強制する暴力行為である」です。ちょっと聞くと当たり前のような気がするのですが、ここから二つのことを感じ取るのです。一つは、軍隊が超法規的な暴力行為をするための暴力装置であるという位置づけ。そうしてもう一つは、「意志に従わせる」ための、説得・譲歩その他平和的手段を軽視する手段、ということです。
つづけてクラウゼヴィッツには、「戦争は政治における異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」というのがあります。日本の再軍備論者がよく取り上げるので、この方が有名です。しかしそれは20世紀はじめ、すでに過去の言説になってしまったと言っていいでしょう。
第一次大戦後の「不戦条約」、「国際連盟」、そして第二次大戦後の「国連」と東西対立の解消を見た現在、2世紀も前のクラウゼヴィッツの定義を額面どおりに唱える国はほとんどありません。あえて言えば、アメリカのアフガン侵攻がそれだ、と言えるかも知れませんが……。
また戦争論が語られる中で、「国民国家」という言葉がよく出てきます。これも王様が騎士を使ってあい争うのではなく、市民革命などで市民即国民という“国の形”ができてきたことによります。日本でも昔は戦うのは殿様と武士で、平民は迷惑こそすれ関係ありませんでした。
国民国家になるとそうはいきません。「国民皆兵」、「総力戦」、「国民精神総動員」、「一億一心、火の玉だ~」ということになるのです。だから久間さんじゃあないけれど、大勢の国民が殺されることになっても勝つためには「しょうがない」ということになるのです。
今までの大戦は、暴力装置という軍隊を持った国民国家の失敗例です。その過ちを繰り返さない工夫が国連憲章にあるのですが、悲しいかな国連というのは国民国家の集まりです。だから、民主党のいうように、国連決議があっても武力行使をすれば、「国権の発動たる……」になってしまうおそれが十分あるのです。
日本の憲法9条が、世界史に残る壮大な平和への仕掛け、テストケースになってほしいものですね。
(追記)「戦争とは」のシリーズは、カテゴリ(左帯)を新たに設けました。関連記事はそこでご覧ください。
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