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2007年11月29日 (木)

千里山で昆虫採集

 “多文化・多民族・多国籍社会で「人として」”ブログのコメント欄に、表題のような体験を書きました。京都には、幼少の頃からなんとなくあこがれのようなものがあり、「京都議定書」ではないが世界に向けた日本文化発信の地であり続けてほしいと思っています。

 ところが、なぜか民主党が右傾色鮮明な市長候補を擁立しそうだとのこと、やはり気になります。まあ、そんなことは抜きにして、気楽にその頃の話を聞きたいという、三介さん・うきさんのリクエストがありました。それをいいことに、今回は昔語りでお茶をにごさせてください。

 先々週の土曜は、孫娘の七五三のお祝です。妻が和たんすから晴れ着を出し、聞いていた寸法に合わせています。御所車や菊の花模様はにぎやかですが地がグレー基調、ちょっと子供が着るには地味ではないかな、と思いました。

 電車とバスを乗り継いで2時間、孫の家で妻と嫁とで着付けてみると、なんとキリリッと引き締まってえも言われぬ上品さです。赤の多い貸衣装などとは違うのです。実は亡くなった私の妹のために、父母が京都の呉服屋に注文した60何年も前のものだったのです。おさがりの5段かざりのひな人形も京都製です。緋もうせんは人絹ですが、ひなの顔立ちもさすがです。

 千里山に昆虫採集に行ったのは、小学校5年か6年、6年なら昭和18年です。住んでいたのは、阪神電車武庫川駅近くで、父は海辺にある軍需工場で石炭から石油を作る担当をしていました。隣には火力発電所があり数本の煙突から日夜を問わず真っ黒な煙を吐き出していました。当時はそれが大阪工場地帯繁栄の象徴だったのです。

 千里山には1人で行きました。父は過労もあってか肺病にかかり枕があがらない状態でした。大阪の天六に良い薬を売る店があると聞き、ここへも1人で買いに行きました。千里山はその何年か前、一家で紅葉狩りに行き「あそこなら珍しい昆虫がいるだろう、夏休みの宿題はこれにしよう」というわけです。地元にはシオカラ、とかギンヤンマしか(それでもいたんだ!)見られず、オハグロとかイトトンボなどをとってきた覚えがあります。 

 家の隣にはベソリックというドイツ人が住んでいました。工場で石炭液化の技術指導に来た人です。ただほとんど家族同士のつきあいはありませんでした。そういう人と話をしているだけで、スパイとまちがわれたくない、ということかも知れません。

 工場の方も、要員をだいぶんインドネシア・パレンバン製油所などに取られ人手不足になっていました。また専属の高級軍人がやって来て物資の配給などの支配権をにぎり、工場長などあってなきが等しい状態だったようです。

 その年の暮れようやく最初の石油が採取でき、同僚の方がサンプル瓶に入れて病床へ見舞いにこられました。父は感慨深そうにそのにおいを嗅ぎ、それからまもなく息を引き取りました。コメントにも書きましたが、今度は父の部下の人と京都、大谷霊廟へお骨をおさめに行きました。

 翌年4月、母と妹と私の3人は、夫を戦地へ送り出した叔母と同居するため、梅田駅から青森行きの夜行列車に乗り関西をあとにしました。退職金、餞別その他5万円は、その後のインフレで2年と持ちませんでした。また、終戦までに父のいた工場は空襲で全滅し、叔父はフィリピン戦線で妻子4人を残して戦死しました。

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コメント

ましまさん、早速の執筆有り難うございます。
うちの母がS10年生まれで[その頃は和歌山の橋本に疎開してたって言ってました]、伯母と同世代なんですね。
こうして色んな話が聞けて、光栄です。
いろんな戦争本、手にしたことありますが、肉声がまだほんの少しですが聴けたようで、もしかしたら、その頃の光景が浮かばれて、つらい気持ちをぶり返されたかもって心配もしてます。
青森へ旅立つ時の名残惜しさとか、これって今もある寝台特急「日本海」でしょうか?。あれ「北斗七星」だったかな?
フィリピン戦へ行かれたおじさんは、遺骨とかは帰られたのでしょうか?

>高級軍人がやって来て物資の配給などの支配権
おお、やはり防衛利権?!の根は深い。

どうしても僕ら戦争知らない世代は、景気の好い戦争話にコロッと行かれやすいので、隅に置かれがちな『暗いお話』、これからも語ってくださいね。
>とんぼ
60年代までは大阪市内でも、結構居たんですけどね。小学校の小さな池でヤゴ見つけたりも出来ました。いまや市内ではめったにツバメさえ、見かけない・・。NTTの光ファイバー線に穴あけるクマゼミだらけ・・。

投稿: 三介 | 2007年11月29日 (木) 23時13分

ましまさん、ありがとうございます。

同時に、三介さん同様、つらい思い出を揺り起こしてしまったのかもと、申し訳ない気もしています。

私の父が昭和10年生まれで、戦時中、神戸で暮らした時期があるみたいです。疎開で、祖父の実家がある大分の片田舎に越したそうですが、こういう話もまだきっちり聞けていません。年末、久しぶりに里帰りする予定なので、ちょっと聞いてみようかなという気になってきました。ぼーっと紅白を見て過ごす年末もたまにはいいけれど、そんな話を聞くのもいいかなあ、と。

それだけでは地味に見える着物が、着てみると言葉どおり見違えて見えるというのは、まさに長い年月をかけて培われてきた美が職人の技によって受け継がれてきた証しですよね。こういうものこそ伝えていかねばならないのでしょうけれど、和服業界の友人の話を聞いてもなかなか厳しさが増しているようでして(個人消費の落ち込みを強く感じているそうです。「あの前前首相のせいだ」ってところで意見が一致しました)、しかもかくいう私自身、浴衣ひとつ持っていません。う〜ん、やばいかも。恰幅良くないんで、なかなかうまく着こなす自信がないというのもあるんですが。それと値段も。。。悩ましいです。。。

京都の戦時中の話は、以前、とある同族経営の会社の社史をつくる仕事に関わったとき、当時を知る方にインタビューをしたのですが、三介さんの話にもあるように、戦中も戦争直後も防衛利権というか軍人の闇の特権のようなものがあったと聞き、いろいろ考えさせられました。どこまで社史に書いてよいものやら、とか。軍隊は武力を持っているので外からその横暴を止めようとするのはものすごく勇気がいりますし、上命下服の世界なので上の横暴に対する内からの歯止めも効きづらい。ほんと、厄介な性質の組織なです。だからこそ、平時からの厳しい文民統制、法による統制が必要なんだと思います。

と、反戦塾の名に似つかわしい話を少しして、話は子ども時代へ飛びます。私の子ども時代は大分の山を切り開いてつくられた新興住宅地で過ごしたのですが、シオカラとんぼやオニヤンマに赤とんぼ、よく捕まえて遊んでました。イトトンボもたしかいたはず。田んぼでオタマジャクシの卵を山盛り採取して、バケツに入れて持ち帰り、料理して食べた、ではなく、庭先に置いて眺めたりしてました。アリの巣を手を替え品を替え攻撃したり。振り返ると、小動物にとっては迷惑な、でも幸せな子ども時代だったと思います。

今暮らしている京都の町外れ(大文字山の近くです)では、近所の庭先でプチトマトを食してる野生の猿を見ることはあっても、トンボはほとんど見ません。でも沢ガニのような珍客がふいに訪問してくれることがあり、けっこう楽しめます。今年か去年か、物干し場に置いたちりとりの下で雄のカブトムシが一休みしてるのにも会ったけど、あれは誰かが飼ってたのが逃げ出したのかも知れませんね。

P.S.京都市長選は、自公民主相乗り候補となったようでして、ため息こぼれます……。

投稿: 仲@ukiuki | 2007年11月30日 (金) 02時19分

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