« 安倍首相の火遊び | トップページ | 青年歌集 »

2007年5月 1日 (火)

この頃の新聞

「反戦老年委員会」復刻版

「ふと思ったのですが、読売さんや毎日さんは、憲法記念日を前に、どういった切り口で憲法を語っているのでしょうか?ご存じの方教えて下さい。m(_ _)m

 「お玉おばさん」からこういう呼びかけのTBをいただいたので、答えにはならないかも知れないがそれに便乗したエントリにした。わが委員会は、すでに文面でも告白しているとおり、購読紙の「毎日新聞」からの引用が多い。

 しかも、「わが意を得たり」というような社説や報道を取り上げることになるので、「毎日新聞のまわしもの」と思われはしないかと時々気になる。お玉おばさんの質問の趣旨は憲法問題だが、やや古いものの、1/18付のエントリ「争点かくし」をあげさせてもらう。

 毎日新聞に限らず、今年に入ってNHKなども現行憲法成立の経緯などを肯定的に伝える報道が多くなったような気がするが、基本的には読売さんのような「旗幟鮮明」というわけにはいかない。ただ、毎日新聞の売り物である「記者の目」その他の記名コラムを見ていると、「毎日の記者は全員護憲派じゃないか」と思えてくるのである。

 しかし油断は禁物。1週間前に別件で引用したばかりの前坂俊之氏著『言論死して国ついに亡ぶ』で目にした教訓を後段に掲げておく。

 『中央公論』(一九三六年三月号)は「混迷せる新聞界の現状を論ず」という特集を組んだが、このなかで、稲原勝治「この頃の新聞」の冒頭部分――。

「この頃の新聞は、誠にダラシがないと、十人寄れば、七、八人までは言って居る。ここに政党に対すると同じく、慢性的不信任の声が、挙げられて居ると見るべきであろう。

 ……この間も或る席で、政治家と、新聞記者との間に、一場の問答が行われた。記者の方では、この頃の政党のザマは何だ。なっていないではないかと言ったところ、政治家の方では、新聞記者だって、個人的に話して見ると、多く傾聴すべき議論を持って居るのに、それが少しも紙面に反映されて居ないのは何ういう訳なのだ。……結局水掛け論に終った。斯るイタチごっこ的心理作用が横行している間は、政治も、新聞も断じて善くなりっこはない」

 広津和郎も、この特集のなかで「八百長的な笑ひ」と題して次のように書いているが、内容は静かな口調だが胸に刺さる。

「第一の不満は、今の時代に新聞がほんとうの事を言ってくれないという不満です。……日本のあらゆる方面が、みんなサルグツワでもはめられたように、どんな事があっても何も言わないという今の時代は、……新聞が事の真相を伝えないという事はたまらないことです。――信じられない記事を書く事に煩悶している間はまだいいと思います。併し信じられない記事を書かされ『何しろこうより外仕方がないから』と、いわんばかりに八百長的な笑いをエヘラエヘラ笑っているに至っては沙汰の限りです。――最も尊敬すべき記者諸君が、これでは自分で自分を墓に埋めてしまう事になると思います」

 二・二六事件で言論の自由は完全に息の根を止められた。

 1936年すなわち昭和11年2月26日早朝、2・26事件が起きた。ちょうどこの雑誌が市中に出回った頃であろう。マスメディア最後の「煩悶」の記事であった。

2007年5月12日

海ゆかば(増補)

 今日は、旧暦を無視すれば大伴家持が「海ゆかば」の歌を作ってから、ちょうど1258年目にあたる。このブログのアクセス解析を見ると、06/10/21に記事にした「海ゆかば」への検索によるアクセスが、他を引き離して圧倒的に多く、首位を保っている。この一週間だけで25件というのは、弱小ブログにとって決してすくなくない数字だが、コメントもなくその動機はわからない。

 せっかくおいで下さった方にとって、不十分な内容であったかも知れない。そこで、作詞者である大伴家持の歌全文を収録し、歌そのものが家持自身の覚悟を歌ったものでなく、陸奥の金鉱発見にことよせた、大伴家の先祖の功績を宣伝するためのものであったことを、あらためて確認する機会としたい。

 なお、そんなことにはかかわりなく、美しい時代の美しい詩であり曲である、と感じられる方の気持ちを裏切ったり、戦死者の鎮魂の歌と信じられている方の心情を踏みにじる気は毛頭ない。ただ、自分が水ぶくれの土左衛門になったり、死体から草が生えたりするのはいやだな、と戦時下に思っていただけである。

 陸奥より金(くがね)を出せる詔勅を賀(ことほ)く歌一首並に短歌

葦原の 瑞穂の国を 天降り
しらしめしける 天皇の
神の命の 御代重ね 
天の日嗣と しらし来る
君の御代御代 敷きませる
四方の国には 山川を
広み淳(あつ)みと 奉る
御調(みつき)寶は 数へ得ず
尽しも兼ねつ 然れども
わが大君の 諸人を
誘(いざな)ひ給ひ 善き事を
始め給ひて 金かも
たしけくあらむと 思ほして 
下悩ますに 鶏が鳴く 
東の国の 陸奥の 小田なる山に 
金ありと 奏し賜へれ 御心を 
明らめ給ひ 天地の 神相うづなひ皇御祖の
御霊助けて 遠き代に かかりし事を
朕(わ)が御代に 顕してあれば
食国(をすくに)は 栄えむものと 神ながら
思ほし召して もののふの 八十伴の雄を
まつろへの むけのまに 老人も 女童児も
其(し)が願ふ 心足ひに
撫で給ひ 治め給へば ここをしも
あやに貴み うれしけく いよよ思ひて
大伴の 遠つ神祖の その名をば 
大来目主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて
仕へし官(つかさ) 
海行かば 水漬く屍 
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
顧みは せじ
と言立(ことだ)て 丈夫の 清きその名を
いにしへよ 今の現に流さへる
祖(おや)の子どもぞ 大伴と
佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立
人の子は 祖の名絶たず 大君に
奉仕(まつろ)ふものと 言ひ継げる
言の職ぞ 梓弓 手に取り持ちて 
剣太刀 腰に取り佩き
朝守り 夕の守りに 大君の
御門の守護 吾をおきて
また人はあらじと いや立て 
思ひし増る 大君の 
御言の幸の(一云、を)聞けば貴み
(一云、貴くしあれば)

  反歌三首

丈夫の心思ほゆ大君の御言の幸を(一云、の)
聞けば貴み(一云、貴くしあれば)

大伴の遠つ神祖の奥津城は著く標立て
人の知るべく

天皇の御代栄えむと東なるみちのく山に金花咲く

   天平感宝元年五月十二日、越中国守
   の館にして大伴宿祢家持作れり。  

佐佐木信綱編『新訓万葉集下巻』岩波文庫による。

2007年530月日

バターン死の行進

 従軍慰安婦問題で「強制連行を証明する記録はなかった」という発言に、「軍は不利な記録を全部焼却した」という主張をして、だから、その事実は「なかった」とか、また「あった」という結論を導き出すのはまちがっている。

 戦後、主流に躍り出た津田左右吉史学の信奉者が、『日本書紀』に書かれていることは、すべて虚妄であり、書かれていない憶測こそ真実である、という説をたてるのが、さも権威的であるかのような風潮があった。以上のようなことを、学者の肩書きを持つ人が今なお公言する。私に学はないが、こういった学際的でない答えは信用しないことにしている。

 市の図書館に、清水寛編『戦争と障害者』という図書購入申請をしたが、「高額になり予算の関係で……」と断られ、その後忘れていた。ところが3ヵ月もたって「県立図書館で購入したので取り寄せた」という連絡があり、行って取り敢えず流し読みをしてきた。

 これは、旧・国府台陸軍病院の入院患者関連記録をそのまま写真版で載せたもので、史料価値としてはほぼ完璧に近い。その中に、アメリカ側で日本軍の残虐行為の代表例としてよく取り上げられる、フィリピン戦線の「バターン死の行進」(←検索オススメ)関連で、当時の日本兵がわの記録があったので採録する。なお、これをどう見るかは読者におまかせする。(当用漢字を代用、カッコ内引用者注)

---------------------------
 事 実 証 明 書
  陸上勤務□□中隊
  補充兵役陸軍一等兵 □□ □□□

一、内地港湾出発年月日 昭和十六年十月十九日(宇品港)<br />一、事変地到着 年月日 昭和十六年十月卅一日(海口)
一、勤務ノ概要<br /> 自昭和十六年十月四日至昭和十六年十月十七日<br />  歩兵第四十二連隊補充隊ニ於テ動員業務

 自同年十月十八日 至同年 十月三十日
 輸送業務
 自同年十月卅一日至昭和十七年三月四日
 南支那海南島海口市ニ於テ待機、訓練並ニ駐屯地勤務
 自同年三月五日 至同年三月十三日
 海口出発、十一日比島上陸、十三日サンフエルナンド着、輸送業務

 自同年三月十四日 至同年四月十一日
 第二次バタアーン攻略戦ニ参加シ貨物廠ニ於ケル追送品運搬、残敵掃蕩、鹵獲兵器弾薬ノ蒐集、道路交通整理、俘虜護送
 自同年 四月十二日 至五月廿二日
 コレヒドール要塞攻略戦ニ参加、鹵獲兵器弾薬ノ蒐集、交通整理、俘虜護送、追送品輸送、患者運搬、戦場掃除

 自同年五月廿三日 至同年八月一日
  俘虜護送、カバナツアン第一俘虜収容所警備
一、発病年月日 昭和十七年七月三十日<br />一、発病場所  比律賓呂宋島ヌエバモシバ州ガバナツアン
一、病名 (空白、ただし別紙で「マラリア精神障害兼癡愚」とある)

一、発病状況
  バタアーン戦に於ケル乾天酷熱ノ日夜ヲ砂塵膝ヲ没シ蒙砂トナリテ渦巻キ天ヲ覆フジヤングル行ニ将亦身ヲ海中ニ沈メテノ敵前上陸部隊ヘノ追送品運搬患者揚陸海中鉄条網ノ撤去等ノ諸難作業ニ昼夜ノ別ナク従事シ常ニ夾雑物多キ河水ノ使用不規則ナル食餌剰ヘ夜ハ天幕露営ニ雨露ヲ凌キ為ニ疲労次第ニ累積ス而ルニ其後ニ於ケル部隊ノ移動ニ次ク移動ハ其身ニ寸時ノ休養オモ許サス俘虜警備ニ就クヤ不穏ナル四周ニ配慮シツツ寡兵以テ能ク警戒シ身ノ疲労ハ顧ミルコトナク重且大ナル任務ノ遂行ニ心ノ悦ヒオ満シツツ日夜奮励セシモ醸サレシ疲労困憊ハ完ク抗病力消失セシメ遂ニ該病誘発スルニ至ル之全ク非衛生的環境ニ於ケル激務ニ依リ発病セルモノニシテ公務ニ起因セルモノト認ム

  右 証 明 ス

 昭和十七年八月二日
  陸上勤務□□中隊長 陸軍中尉 吉岡  信
  同 隊 附     陸軍軍医中尉 高田 秧一
--------------------------

2007年5月31日

戦時知能テスト

 前回の「バターン死の行進」の続きである。バターン作戦参加日本兵に対する戦地罹病の「証明書」は、明らかに「戦争神経症」の典型のように見える。しかし九死に一生を得て帰還できた(送還された)のは幸運であった。マッカーサーの反攻で制空権、制海権を奪われ、戦死日本兵のほとんどが餓死であったという悲惨から逃れられたからである。

 陸軍病院には、当時「戦争神経症」という言葉はなく、先天的な精神障害を含め「癡愚」などと分類されていた。その診断に際しては下記のような質問が用意され、それで「小学生○年程度」という判定を下していた。称して「大阪方式」といったらしい。(引用前掲書)

(1939/10/6)

「何ノ為支那ト戦フノカ」
「忘レマシタ」

「警察ハ何ヲスル所カ」
「悪イコトヲ為タ人をシラベル」

「悪イコトトハドンナ事カ」
「泥棒、人殺シ……」

「御前ハ悪イコトヲシテ居ラヌカ」
「隊ヲ抜ケマシタ、スミマセン」

「忠孝ドチラガ大切カ」
「忠義デス」

「不忠トハドンナコトカ」
「忘レマシタ」

天長節トハ「四月二十九日」

伊勢山田ハ「天照大神様ヲ祭ツテアリマス」

楠正成ハ如何ナル人カ「天皇ヲ助ケテ勤皇ノ為ニツクシタ人」

明治維新トハ「明治天皇ガ位ニ即カセラレテカラ明治維新ト云フ」

一・五銭ノ蜜柑十五箇買ヘト云つて五十銭渡サレタラオ釣リハ幾程カ「二十八銭……二十八銭五厘」

軍隊ハ嫌ヒダ内務班デ殴ラレルカラ家ニ帰シテ呉レト云フ

 次は、入院の知らせを受けた老父(母はすでに死亡)からの手紙の一部と見られるもの。

(1942/3/30) とても兵隊に出るのを待っていました。令状を受け取った時にはこれで自分も男として仕事が出来る、体は国に捧げたものだで父さんは決して帰ると思ってくれるな今度の帰りは白木の箱の中だと笑ひ顔を致してました。後に残るは父だけ妻も子もなく思う残しはないと言っていました。とても神仏を信仰する子供です 行って見てやりたいのは山々ですがそれも出来ませんくれぐれも宜しく頼みます こちらに届いたのは十一月十日頃 南支より三本はがきをお□しました元気に勤務致して居るから安心せよと言って来ました。

|

« 安倍首相の火遊び | トップページ | 青年歌集 »

戦中・戦後」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/468248/51342542

この記事へのトラックバック一覧です: この頃の新聞:

« 安倍首相の火遊び | トップページ | 青年歌集 »