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2007年3月 5日 (月)

日中関係史考

[反戦老年委員会復刻版]

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【満州】
 このシリーズの最初に、現代史の視点(スタートといってもいい)は、中国の場合清王朝の崩壊、辛亥革命からであり、朝鮮の場合は韓帝国が日本に併合される時点からである、と言うようなことを書いた。それから、日中関係では、対華21ヵ条要求や田中内閣の強硬策などで感情悪化が決定的になり、遂に1931年(昭和6)の満州事変突入につながっていく。

 この間、要人暗殺などの政治テロや軍事クーデター未遂事件、治安維持法による言論や思想統制、昭和恐慌などの国内情勢激変があり、国際問題でも、中国国内の不統一と混乱、イギリスをはじめ;列強の中国干渉、そしてワシントン軍縮会議など、後の事態を招く大きな出来事が続発するが、詳述することを避けた。とても言い尽くせるものではないし、このシリーズの趣旨でもない。

 満州事変、満州国設立、国際連盟脱退、そういったことが当時最善の選択であったにしろ、満州が太平洋戦争の起点となり、日本の敗戦に結びついたことは否定しようがない。その中で、一般国民が「満州」をどう考えていたかということは、非常に大事なことであるがあまりとりあげられない。

 今と違ってマスコミの大規模な世論調査もなく、女性をのぞいた普通選挙も、官憲による露骨な干渉や翼賛選挙のもとで、とても民意をはかる役に立ってたとは思えない。そこで「満州国」と同時期に生まれた少年の目からはどのように見えたかをまず思い出してみる。

 満州と言えば広野の大地を駆ける流線型の特急・亜細亜号であり、歌曲「満州娘」の甘いメロディー、♪私ゃ16満州娘 春よ3月雪解けに……、などである。酷寒の厳しさはともかく、リズミカルで明るい夢の未来が約束されている新開地を想像した。

 親たちも、満州事変のはじまりは「暴戻な支那兵が柳条溝で満鉄線路を爆破したしたため」との報道を真に受けるしかなかった。国際的な目が日本に厳しくなると、「上海で日本人僧侶などが支那人に虐殺された」という理由で上海事件を起こして軍隊を増派し、目をこちらにそらしておいて、その間に満州全土の支配を完了させてしまった。

 まさか両事件とも、黒幕が関東軍とかその手先が手配した、自作自演の陰謀だったことなど、夢にも知らないことだった。国民の関心は、日露戦争で満州に侵入したロシアを追い払い、中国・朝鮮に対する列強の野心を心配しなくてもよくなれば、あとは経済の安定と発展であった。

 満州国のモットーは、「五族協和」「王道楽土」であった。五つの(日、漢、満、蒙、鮮)各民族が対等の立場で協力しあい、軍事に頼る「覇道」ではない民衆本位の「王道」で幸福を追求する理想郷にするという趣旨がうたわれた。

 中国では果てしない権力争いや混乱が続いており、日本の善意を理解しないわからずやがまだ沢山いる。ひと足さきに手本を作ろう、という意気込みで官民競って新天地を目指した。満蒙開拓団という農民も多く含まれている。日本はジャワに次いで人口密度が高い、したがって広大な満州に眠る資源を開拓してお互いが幸せになれる、という考えがあったのだ。

 愚妻は満州生まれで、名前に「満」の一字がつく。そういった名前を持つ人は多い。そして幼稚園には、お付きの中国人車夫が曳く人力車で通ったそうだ。五族協和といっても日本人は一つ上に立つという意識が一般人の間でも最後までついて回ったのだ。軍事力を根に据えておけばどうしてもそうなってしまう。

 しかし、敗戦で境遇が逆転し、いまだに「残留孤児」という問題まで残してしまった。満州の位置づけは、一般人の発想・感覚と、日本政府、ことに軍部の思惑は必ずしも一致していない。もちろん、中国人にはまた別の見方がある。ここで問われなければならないことは、戦争責任とか日中問題を語る際、左右を問わず民衆の立場を疎外して、画一的な抽象論だけが飛び交う危うさである。

2007年3月6日

満州事変とアメリカ

 前回、「日中関係史考」で満州のことを書き終えてから、アメリカのイラク侵攻が日本の満州事変突入とよく似ていることに気がついた。満州事変では、アメリカが日本に一番警戒心をつのらせていたこと、また、事変に先導的な役割を果たした関東軍の石原莞爾参謀が、いずれ想定される「世界最終戦」でアメリカとの戦争になり、そのための資源確保には満州支配が欠かせない、という政策を描いていたことはよく知られている。

 それは別として、ブッシュ・ジュニアは日本の満州事変を手本にしてイラク侵攻をはかったのではないか、と思えるほど似てる点が多い。まず、軍事行動開始にあたって国連のしばりを無視したこと、日本は連盟の調査団・リットン報告に反発して連盟を脱退、アメリカは安保理決議のないまま戦闘を開始する。アメリカは脱退しないで、利用できるところはシッカリ利用するのだから利口と言えば利口だ。

 日本は、ありもしない「暴戻な支那兵」を鉄道爆破の犯人にし、アメリカは、架空の「大量破壊兵器情報」で軍事行動を起こした。満州では地方に跋扈する匪賊、イラクでは武装テロリストの攻撃から治安を維持するため軍の駐留を続ける。

 日本は、ラスト・エンペラー溥儀氏を連れてきて傀儡政権・満州国を樹立。アメリカもフセイン大統領と対立関係にあったシーア派主体の政権を作ったが、それなりに機能していない。このところ待ちきれずに軍を増派してテコいれをしている。

 日本の目標は「五族協和」と「王道楽土」だった。アメリカは「自由と民主主義」をこの国に定着させるためだ。どちらも現地住民にとってありがた迷惑な押しつけにしかすぎない。しかし、ここからがアメリカは違う――(と思いたい)。中間選挙で民主党が勝利し、ブッシュは軌道修正せざるを得なかった。民主主義が正しく機能するところを是非見たい。

 そう――。ひるがえって……ということになる。安倍政権がどこまで歴史の教訓をわがものとし、アメリカの強圧をはねかえしていけるか。満州支配に辣腕をふるった岸お祖父さまだけが教訓ではない。無理とは思うが、ここで真の「国益」が何かを見極めてほしいのだ。

2007年3月8日

従軍慰安婦問題

 いわゆる従軍慰安婦問題について米国議会の動きがあることに関し、読売、朝日、毎日の社説がでそろった。わが委員会はこの問題にふれてはきたが、正面から取り上げたことはない。その理由は、調査能力や取材能力が限られていることにもよるが、戦中戦後を知る者として、どうしてもお互いを傷つけあう、あるいは恥部をさらす話となり、建設的な議論から逸脱するおそれを感じたからだ。

 しかし戦争や歴史を叙述する1アマチュアとして、沈黙すればいいというものでもないので、社説を借りて感想を述べてみたい。それぞれの掲載日、および題名は次の通りである。

6日・朝日 「慰安婦」発言―いらぬ誤解を招くまい 
7日・読売 [慰安婦問題]核心をそらして議論するな
8日・毎日 「従軍慰安婦」問題「河野談話」の継承は当然だ

 それぞれ各紙の特徴が出ているが、結論からいうと、歴史認識では読売の解釈が最も正しいと思う。米国議会の議案に対し、

  日本軍が組織的に「慰安婦狩り」をしたしたかのように決めつけている。だが、日本政府の調査でも、これを裏付ける文書はない。歴史家の間でもこうした事実はなかった、というのが「定説」だ。この決議案を提出した議員らは、これらを覆すだけの確かな資料があるのか。といっている。

 河野談話のあいまいな表現が誤解を生む原因になっているから、自民党有志議員のいうように、不正確な談話を見直すのは当然、と結論づけている。ただ、これではちまたの兄ちゃんの喧嘩に買ってでるのと同じであり、朝令暮改は国の威信にもかかわる。

 河野談話のあいまいさは、募集の際、官憲等の関与があったにしても例外的なものとしながら「その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」などと矛盾を含む大雑把な表現に現れている。朝日の社説は、こういっている。

     募集や移送、管理などを通じて、全体として強制性を認めるべき実態があったことは明らかだろう。河野談話もそうした認識に立っている。細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない。

 河野談話のあいまいさをそのまま貼り付けている。歴史に対する無定見さは、大本営発表を無批判に報道する態度と変わりない。これは、日頃朝日が歴史に関して論及していることではないか。

 「河野談話」を継承すべきという主張は毎日新聞も同じだが、「要らぬ誤解を招く(首相の)発言は避けるべきだ」というだけで、歴史の真相や流れを無視した態度でいることが「潔い態度」だとするのは、読売の結論と五十歩百歩といわざるを得ない。

 毎日新聞は、「従軍慰安婦問題で謝罪してきたわが国の立場をていねいに説明すること」が必要とし、さらに談話があいまいなのは、政治決着をはかったことによるもので「この種の問題での政治決着には、あいまいな部分が残るのはやむを得ないと指摘している。そして史実を争うなら、歴史研究者に委ねるのが一番だ」という主張には妥当性があり、歴史の解釈を政治で改竄させることのないよう釘をさしている点を評価したい。

 ここで「総じて」のあいまいさを指摘しておこう。まず募集と移送・管理を一緒にしていることである。戦地において邦人の移送・管理に軍隊が安全の責任を負うのは当然である。二番目に募集は、女衒(ぜけん)と呼ばれる専門職の任務で、朝鮮を含む日本全国から女性を集めた。売春宿の経営も民間専業者でこのシステムは戦前から合法的に存在する。

 次に「性的奴隷」という表現についてである。戦時中の前線における環境の劣悪さ、危険性、不自由については言語に絶するものがあったと思う。しかし日本人(内地出身)慰安婦も同じ環境のもとにあったしそういった人も含めて奴隷扱いするのは、逆に人権無視である。公娼制度はかつて文化でもあった。

 最後に朝鮮人差別である。慰安婦要員を暴力的に連行したり、だまして勧誘したりすれば不法行為である。とぼしい知識ながら、当時の小学生は「朝鮮人も同じ天皇の赤子(せきし)」ということで差別をしないよう教わった。また、朝鮮人の部落があり、賭博など治安は決して良くなかったが「法」の秩序を最優先させるため、官憲は慎重な気遣いをしていたことなど覚えている。

 以上ではあるが、国内(朝鮮)での不法行為や戦地での不法行為が絶無だったとは思わない。しかし、国がこれを防止こそすれ政策として指示、奨励したことはないというのが結論である。なお、歴史というのは、自分がその時代に生きているような目で追っていく必要がある。戦前から戦中、そして敗戦から現在まで、日本、朝鮮を問わず生活・文化も含めた変遷が改めて問われるべきであろう。

2007年3月15日

日中関係史考

【南京アトロシティズ(残虐事件)】
 このシリーズも、前回の「満州」まで進めてきた。冒頭の回は、『国境を越える歴史認識』(東京大学出版会)のはしがきから劉傑教授の見解を紹介することから始めた。そこで、同書からジョージワシントン大学准教授・楊大慶氏の叙述「南京アトロシティズ」を一部を引用することで、シリーズの終回としたい。

 南京アトロシティズのような戦争犯罪であっても、歴史学的に理解を共有することは確かに可能である。単一の統一した見解を各国の人々に押し付けるという意味ではなく、歴史研究のための建設的な枠組みを構築することである。ここには歴史的な意味合いが含まれる。南京アトロシティズは日本の中国に対する侵略戦争のなかで起こった事件であると同時に、人類の歴史上発生したすべての戦争や組織的な暴力と犯罪に共通する性質を持っていることをまず認識すべきである。

 ここで重要なのは、南京アトロシティズのような戦争犯罪は、戦争と暴力の普遍性と特殊性の両方から考える必要があるということだ。つまり、南京アトロシティズに代表される、中国における日本の戦争犯罪の加害責任を十分に認識しながら、単に「中国対日本」の視点だけでなく、もっと広い視野で人間と戦争と暴力のレベルで考える必要がある。要するに、国と国の間の歴史認識の共有は、人道主義に基づく価値観の共有に繋がるだろう。

 そして、その事件がどのような名称で呼ばれようと、日本軍が南京で起こしたさまざまな形式の大規模な残虐行為であったことを認識しなければならない(組織的か否かは別として)。このような認識は、現在日本と諸外国の権威ある学問によって認められている。このような「暫定的な事実」を受け入れることは、新しい証拠の探求、及び現存の証拠(公式の記録と口頭の証言を含む)を批判的に評価することと矛盾しない。

 また、この事実をいましばらく受け入れることは、以前の解釈に対する責任ある再評価や、南京の真実を探求する努力を放棄することも意味しないのである。このような姿勢で研究に臨むことによって、中国人歴史学者が既定の結論を修正することに対する「心理的障害」を克服することを助け、国境を越えた歴史学者の真の対話が実現するだろう。

2007年3月24日

EUを知る 1

 あす25日は、EU(欧州連合)発足のもととなったローマ条約調印50周年に当たる。これに関連して毎日新聞が中1面をさいて平和への貢献を中心にした特集を組み、産経新聞も複数の見出しを立てて扱っていたが、他の全国紙では目立つものがなく、読売、日経からは見いだすことができなかった(それぞれ電子版)。

 わが委員会は、中国・朝鮮との対立軸を解くためには、究極的にEUを手本にした東北アジア共同体を目指すべきだと考えるので、よりくわしいEUに対する知識と情報を日本にもたらすよう、各マスコミに要望したい。

 ここに、かつて知遇をいただいたことのある元・西日本新聞論説委員長・小屋修一氏の著『欧州連合論』(非売品)があるので、それを引用させていただきながら、知識を深めるよすがとしたい。《 》引用部分。

 《欧州連合の理念は、ドニ・ド・ルージュヒンによれば、美王フイリップの顧問法学者ピエール・デュボアが欧州の全ての君主に、トルコ軍に対して団結するよう訴えた、一連の公開書簡を送った1308年に始まるとされる。》

 日本では鎌倉時代、強国・オスマントルコが勃興して間もない頃で、いかにも早すぎる。なぜならば王侯貴族が争い、民族・宗教間の攻防はあっても、主体となる近代国家、国民国家がまだ成立していなかった時代だからだ。しかし現在、トルコ加盟の是非をめぐって独・仏など西欧諸国民の間で、イスラム国に対する違和感がぬぐい去れないという。当時の皮肉な遺伝子を今に残しているからだろうか。

 具体的議論となるのはそれから数世紀先になる。第一次世界大戦後の巨大な人的・物的損害による勝者なき惨禍の中から、「欧州平和維持機構」としてのヴェルサイユ体制が築かれ、1929年の国際連盟総会にフランスのブリアン外相が「欧州統合」を提案した。しかしこれは、折からの世界恐慌勃発や英・独・伊の消極的態度で実現しなかった。

 第二次世界大戦は、またしても欧州を激しい戦火にさらした。そして世界の兵器庫の役割を果たしたアメリカが主導する「バックス・アメリカーナ(米国の軍事力により保たれる平和)」と、東欧と極東で領土を拡大したソ連軍事大国の二極化の時代に入った。

 反面、戦いには勝ってもかつて英・仏をはじめ世界に雄飛した欧州植民帝国の姿はすでになく、《「冷戦」の中で一定の発言権を確保するためには、バラバラの欧州ではなく、『統合された欧州』『政治的・経済的・軍事的一単位としての欧州』が必要であることは、誰の目にも明らかであった。》

2007年3月26日

EUを知る   2

 EU加盟27カ国首脳は昨25日、ベルリンで欧州統合の原点となったローマ条約調印50周年を祝い、結束を再確認する「ベルリン宣言」を採択した。今回は、もうひとつの組織で、最近麻生外相などが接触を深めつつある軍事同盟・NATO(北大西洋条約機構)をからめたクイズを出してみたい。(Yes,Noで答えてください)。
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 ① ローマ条約が契機となり、集団的自衛権をうたった相互防衛機構・NATOが誕生した。
 ② NATOの調印式は、本部のあるベルギーの首都・ブリュッセルで行われた。
  ③ トルコはEU同様、北大西洋から遠く欧州と見なされないのでNATO加盟を許されていない。
 ④ ベルギーに本拠を置く欧州連合軍総司令部の総司令官は、各国軍持ち回りで任命される。
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 NATO創設50周年首脳会議は、1999年4月、ワシントンで行われた。折からNATO初の軍事行動てあるコソポ紛争が長期化し、連日連夜のようにNATO軍によるユーゴ空爆が続行されている最中であった。

 前述からわかるとおり、EUの前身発足より8年も早い1949年、アメリカの主導でワシントンの国務省講堂に12カ国(米国、カナダ、英国、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベネルクス三国)を集めて条約調印したものである。さらにそのあと、ソ連封じ込め作戦として1952年ギリシアとトルコの加盟を実現させ、1955年に再軍備が認められた西独も加盟した。

 人事については、「米国人が、NATOの“征服組”のトップの欧州連合軍総司令官(SACEUR)のポストにつく不文律になっている見返りに、事務総長は欧州同盟国の少なくとも外相か国防相経験者というのが不文律」とされている。(谷口長世『NATO』岩波新書)

 以上のように、答えはすべて「No」である。わが委員会も関心を持たなければ正解率ゼロだったかも知れない。EUによる平和維持機能との関連で、イギリスを含む欧州各国は、冷戦後のNATOのありかたを大きく見直す気運にある。ここでもわが国がアメリカのメッセンジャー以上の意見を持てるのか、はなはだ心もとないといわざるを得ない。

2007年3月27日

EUを知る 3

 前回、思いつきでクイズを入れてしまったので、第1回とのつながりが途絶えてしまった。ブログ文のこわいところだ。そこでもう一度流れを作り直してみる。

 戦乱、抗争が絶え間なく続いたヨーロッパでは、中世から「王侯連合」を提唱するような発想があった。近代に入って、1847年に文豪ヴィクトル・ユーゴーが「欧州合衆国」の創設を提言し、悲惨な結果をもたらした第一次世界大戦後の1923年には、オーストリアのクーデンホーフ伯爵が「汎欧州運動」を開始した。なお同伯の母親は日本人・青山光子である。

 この趣旨が活かされ、動きが本格化したのは第2次世界大戦後である。元イギリス首相・チャーチルの提唱で1948年5月、オランダのハーグで19カ国およそ1000人の欧州統合推進論者を集めて決議を採択した。

 《決議は『国家主義を基礎にした欧州再建は不可能』だとしたうえで、欧州の安全保障、経済的独立と社会的進歩を確保するために「経済的・政治的連合の結成」を訴えるとともに『各国の主権の一部統合に同意することが肝要である』とした(ハーグ決議)。》

 NHKの「その時歴史は動いた」ふうに言うと、「欧州共同体の萌芽ともいうべき欧州石炭鉄鋼共同体(CECA)の誕生まであと3年、EEC(欧州経済共同体)設立のためのローマ条約調印まであと9年であった」となる。

 欧州石炭鉄鋼共同体の構想を推進したのは、フランスのシューマン外相である。欧州人にとって長年にわたる平和への悲願を、国家権力の中枢をにぎる1現職大臣が、理想実現のために行動したのだろうか。この計画は、次の趣旨でフランスの経済・設備投資官僚が慎重に検討していたものだった。

 《冷戦のメカニズムによって、東西ドイツの軍事力が、米ソ両陣営によって強化される事態を強く懸念し、『軍事化されたドイツによる脅威の問題を解決することが、欧州平和にとって必要』だとし、問題解決の一手段として、フランス、ドイツ両国の石炭・鉄鋼を「共同化」することを考えだした。当時は石炭と鉄鋼は、一国の経済力の「カギ」を握るとともに戦争のための武器生産に不可欠の生産財であった》

 こう見るとたしかに現実的な国家戦略がひそんでいるように見えるが、やはり根底には長い時間をかけて、欧州人が国の垣根を越えて平和を希求する、という土壌がなければ成立しなかっただろう。またそれが国家への圧力になっていたはずだ。

 CECA条約はその前文で高らかに宣言した。

 《古来の敵対に代えるに、諸国の本質的利害関係の融合を以てし、経済共同体の設立により、多年、血なまぐさい対立によって離間していた諸国民の間に、一層広く一層深い共同体の最初の礎石を据え、かつ将来の共通の運命を方向付けることのできる制度の基礎を気付くことを決意して、欧州石炭鉄鋼共同体を創設することを決定(以下略)》

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