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2007年3月

2007年3月16日 (金)

「外交内弁慶内閣」

[反戦老年委員会復刻版]

 やや旧聞に属するが、6日付の韓国紙「東亜日報」にこんな記事がのっていた。平壌市内にある中国大使館が4日突然騒々しくなった。金正日総書記が、党書記、外務次官、人民軍大将など側近をつれて大使館にやってきたからだ。

 訪問の理由は、小正月(旧暦1月15日)を迎え「両国の代わらぬ友誼を固めるため」ということに表向きなっている。それより、もっと驚くべきことは中国大使館がその翌日、ホームページで金正日大使館訪問のもようを突然公開したことだという。

 そこには、団体写真の撮影や宴会シーンなど合わせて5カットの写真が掲載されている。その迅速さも異例のことだが、北朝鮮当局の事前の了解を得ずには不可能な写真公開が、ほぼ同時にできたという点が大きな変化だと観察している。さらに、同紙はこう解説している。

 確かに、昨年9月に「米国通」の劉曉明(51)大使が赴任し、大使館のムードが変わりはした。大連外国語大学英語科を卒業し、駐米大使館に長く勤務した彼は、中国外交部内の「国際派新世代」だ。韓国戦争を記憶するこれまでの「北朝鮮通大使」たちとは違い、彼は平壌の情報を積極的に知らせると公言するなど、開放的な姿勢を示してきた。このため、今回の金総書記の大使館訪問の公開も、その一環であると考えられる。

 つまり、ミサイル発射・核実験の後、6カ国協議を進める中で、中・米・北朝鮮の間に大きな地殻変動が生まれつつあることを、韓国のマスコミですら驚いているのだ。日本の外務省もすでに何かを嗅ぎとっているはずである。これに対して、拉致問題解決のために何をすればいいのか、首相周辺は考えているのだろうか。

 制裁の継続強化、NHKへの放送命令、在日団体などへのイジメ、被害者家族と面会、そして「拉致問題の解決なくして国交回復なし」の遠吠えだけしか目に映らない。オーストラリアと軍事同盟を強化する前に、もっと近くでしなければならないことがいっぱいあるのではないか。名付けて「外交内弁慶内閣」と名付けたい。

2007年3月17日

目くそ鼻くそ

 朝、新聞受けから新聞を取りだして最初に目にする活字は、一面の上半分か下半分だ。上半分はトップ見だしかその左、下半分の場合、多くは最下段横一列に並んだ書籍広告ということになる。今日は下半分。そこで目にしたのは、
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石原慎太郎の老残
佐高信 石原慎太郎を退場させれば、安倍晋三も力を失うはずだ。時代錯誤の戦争仕掛け人たちを粉砕する、戦う時評集!
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 なんという、不躾で見苦しい題名だ!。読者ご存知の通りわが委員会の主張は、二行目以下の内容説明文そのままであり、コメントにも似たようなことを書いたこともすくなくない。

 だが、わが委員会が「老年」を標榜しているだけに「老残」は断じて許せない。「生殖機能を失った云々のババー」というのと意味は同じではないか。慎太郎より年上のオレが私的な席でいうのならまだしも、10歳以上年下で、言論に責任を持たなければならない佐高のいう言葉ではない。猛省をうながす。

 お口直しに、その真上の欄に掲載された毎日新聞の《余録》を紹介しておく。

 江戸時代初め、京都所司代の板倉重宗は白州にのぞむ障子を閉め、茶臼をひきながら障子越しに訴訟を裁いたといわける。理由を聞くと答えた。「人は心騒げば手元が狂う。茶をひくのは、訴えを聞く自らの心の動静を粉の精粗で見、判断の確否を知るためだ」

▲では閉まった障子はどうか。「人の容貌(ようぼう)は一様でない。美醜によって愛憎が起こり、愛憎あれば判断が偏るのは人情だ。訴訟関係者の顔を見ないのはそのためだ」(穂積陳重著「法窓夜話」)。天秤(てんびん)と剣を持つ正義の女神が目を隠すのと同様の理屈だ

▲ただし障子の外側では、白州の人物の相貌をめぐり評価が真っ二つということもある。ある人がそれを秩序とモラルの破壊者の顔となじれば、別の人は既得権と偽善に挑戦した新世代の旗手の顔と持ち上げる。(以下略)

 都知事選には関係ない。ホリエモン判決のことだ。

2007年3月21日

象徴制天皇

「小倉侍従日記」その1
 国の「象徴」である天皇は、敗戦で新憲法受け入れと同時にはじまった。それまでは専制君主とまではいわないにしても、一天万乗の君、神聖にしておかすべからさる地位、現人神といった絶対的権威を持つ存在と見なされがちであった。

 最近、保守系右派の人から、日本の天皇は古来象徴的存在であった、という発言がよく聞かれる。その真意は測りかねるが、実は、昭和天皇こそ「象徴天皇」の極致にあったのではないか、と思うようになった。

 それは、月刊『文藝春秋』4月特別号で「小倉侍従日記」を読んだことにもよる。この日記の要点や政治的・歴史的意義づけは既に報道されており、他の史料との整合性もあってことさら「新事実か」と驚くようなものはない。

 反面、天皇の私生活、公務にからむ私情、象徴としての天皇を際ただせる宮内庁の諸工作、またそれを最大限利用したい政治家や官僚達が見てとれるという新発見があった。そこには、いじましいほど周辺に気を遣い、自由を制限され、自らの意志を無視されるという、お気の毒としかいいようのない弱々しい天皇の姿があった。

 今、憲法改正論議が起ころうとしている。天皇の章については内容変更の大きな流れはないが、皇室典範の改正や解釈改憲で天皇のありかたを大きく変えることは、可能であろう。9条には大きな関心を抱いても、天皇については無関心派が多い。

 上記の「小倉侍従日記」は、抜粋編集されたものである。今後全文が明らかになり、さらに戦後についても同種のものが発表されて、いまだに残る「菊のカーテン」を取り払い、今後の天皇制のあり方について研究・討論が進むことを期待したい。以下にその一部を紹介する。《 》引用部分

【「困ったな」】
昭和14年 一歳年下の弟宮で意見の違う秩父宮殿下 秩父宮殿下来訪の申し入れを受けた。《五月十一日 明日御対顔のお申入れあり。聖上「困つたな困つたな」と仰せらる。防共協定等、重要案件に付ての為めと御想像ありての故と拝す。広幡大夫[皇后宮大夫・広幡忠隆]を御召しあり、如何すべきや御下問あり。(以下略)》

【「後始末はどうするのだ」】
 《七月五日 (前略)陸軍人事を持ち御前に出たる所「後始末は何うするのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり。人事上奏、容易に御決裁遊ばされず。漸くにして御決裁、御前を退下す。内閣上奏もの持て御前に出でたるも、御心を止らせざる御模様に拝したるを以て、青紙の急の分のみを願ひ、他は明日遊ばされ度き旨言上、御前を下る。今日の如きお忿怒に御悲しみさへ加えへさせたるが如き御気色を、未だ嘗て拝したることなし(以下略)》
 この件の決裁は、一週間後に下りた。

【白鳥に会いたくない】 
《十月十九日(木)白鳥[敏夫]公(ママ)使、伊太利国駐箚より帰国す。軍事同盟問題にて余り御進講、お気分御すすみ遊ばされざる模様なり。従来の前例を調ぶるに、特殊の例外を除き、大使は帰国後、御進講あるを例とす。此の際は、却つて差別待遇をするが如き感を持たしむるは不可なり。仍つて御広き御気持にて、御進講遊ばさるやうお願ひすることにせり》
 去年七月に発見された富田メモにより、昭和天皇が靖国合祀問題で松岡とともに名をあげた白鳥大使である。

2007年3月20日

象徴制天皇

「小倉侍従日記」その2
 小泉元首相が、女性天皇を容認する方向を示したことに対し、それに反対する右派や宮中勢力を「最後の抵抗勢力」といって、闘志を燃やしていた、という情報をどこかで見た。前回指摘しておいたように、昭和天皇は、戦前・戦中と戦後、立憲君主と象徴天皇の双方を経験し、憲法改正で大きく変貌したように見えるが、「小倉侍従日記」で見る限り皇室自体はなにも変わっていない。

 その不自然さ、アナクロニズムが皇太子妃の健康問題などを引き起こし、健全な天皇制の継続・発展をさまたげているのではないか。小泉氏が、天皇の靖国参拝復活などを画策したものでなく、郵政に次ぐものとして皇室改革を考えていたかどうかは疑わしいものの、考えてみなければならない時期にきていることはたしかである。前回に続き要所を引用する。

【子育て】
 昭和14年12月に、義宮(この時4才の第2皇男子、現在の常陸宮)をしきたりどおり親元から引き離すことについて、再三これに抵抗する天皇・皇后と宮内庁の間のやりとりが記録されている。12月5日の日記は特に長文であるが、箇条書きになっている部分だけも雰囲気をよく伝えており、次に引く。

  一、宮城を出ることになれば、東宮[皇太子]と一緒か。
  

 以前に左様に申し上げたることあるかに聞き及ぶも、過去の経験に徴し、教育上、御一緒は不可なり。青山御所の一部を御使用願ひ度し。

  二、東宮と同居と云ふことを考へてゐたが、同居になれぬ位なら宮城の方がよくはないか。

   秩父宮、高松宮の例に関し、石川[岩吉]傳育官の意見を述べ、弟宮には特にいかぬと云ふことを奏上す。

  三、宮城内に設備しては何故いかぬか。義宮は呉竹寮[内親王=皇女の住居]と同一の取り扱いにて可と思ふ。

  義宮様の御身位上、内親王様と御同様には参りませぬ。

  四、宮城外だと一寸呼ぶにも警衛上面倒であり、夜間などやりにくくなる。何の為に参内するかなど思われ面白くない。

  五、東宮よりは度多く参内せねば不満足である。  

 度々御呼び寄せ遊ばされては、御移居の本来の目的が破壊せられる。内親王様方も御参の直後は御宜しくない様に伺っている。

  六、青山御所の建物は、修理を加へても陰気だ。絶対反対である。明るい気持ちのよい御殿を新築してほしい。

   この際は修理にて、出来るだけ思召に副ふ様出来ると思ふ。

  七、御殿が気に合ふ様に出来ればよい。

   修理と申しても、一部新築することも可能なるべき旨、申上ぐ。

  八、青山御所は大宮御所、秩父宮御殿に近か過る。そちらにおなじみになりはせぬか。淋しい。

 どちらが使用人かわからぬようなやりとりである。天皇の発言もまるで懇願といっていい。にもかかわらず冷たく部下から却下されている。この教育方針は、天皇を肉親からも遠ざけ、孤立をはかって官僚が御しやすい天皇を作ろうとしている、と邪推されても仕方がないではないか。

 こうして戦争終結派政治家が、国家統一の「象徴」として天皇を高度に利用し、敗戦処理にあたったほか、アメリカの占領政策を成功させる大きな支柱ともなった。天皇が孤独の中でわずかに心の支えとしたのは、明治憲法であり、戦後は新憲法であったに違いない。安易な改憲論議は、皇室の在り方をさらに荒廃させる原因となるだろう。この2日後の日記をつけ加えておく。

12月7日 聖上より大夫へ、「英国皇室に於いては宮中にて皇子傅育をしてゐるが、日本では何故出来ぬか」の御下問あり。大夫は英国の詳細は存ぜざるも「ナース」が相当専制的にはげしく育てる様に聞き及べり。我が皇室に於ては、左様のことは不可能と存ずる旨奉答す(大夫より)。(以下略)

2007年3月21日

象徴制天皇

「小倉侍従日記」その3
 戦争責任論争は最近やや下火になった感がしないでもないが、昭和天皇が戦後一段落した時点で退位していれば、いまだに同じ問題がむしかえされる、といったことがすくなかったと思う。しかし、前2回のエントリーで述べたように、自ら重大な決断を実行に移したくても、そのシステムがなかった。

【教育方針】
 前回、子どもの養育に関連し、天皇の口から「淋しい」とまでいわせた孤独な環境について書いた。子どもを特別扱いすることなく、わずかでも一般国民と同じ情操が持てるよう願っていたことがわかる。以下《 》内が引用部分

 昭和15年《四月八日(月)東宮、本日学習院御入学。目白学習院へ行啓、始業式に加はらせる。御態度、御動作、誠に御立派に遊ばされたる由、この趣き女官長より皇后宮に申上げたる所、御涕涙遊ばされたる御由なり。如何に東宮様の御事を御案じ遊ばされ居るか、拝察するだに畏し》

 《一月十九日(金)聖上より大夫へ、「自分は他の者と違ひ、学習院時代に免状がもらへなかつた。あれは欲しかつた。東宮[皇太子]に付ては考へるやうに」との仰せあり。又、御学友は御作りせざるも同級生が時々、御相手に出ることは必要なるべき旨、仰せありたり。》

 《四月十八日(木)東宮様、学習院の体格検査は御受けになられず。侍医寮にて検査申上ぐる由聞きたるを以て、東宮様を一般学生と御同様に御教育申上ぐると云ふ原則上、又、世間に兎角の事を言触らされざるやう、形式的にても格別御支障あらせられざれば検査御受けになりては如何か(以下略)》

 小倉侍従は、初の平民出身の侍従であるためか、天皇の方針を理解し、東宮当局の慎重主義と衝突している。三十日付日記でも、入学早々ちょっとした風邪で一週間も休校することがあったので、少しは無理にでも通学願うよう、あらかじめ天皇の諒解を取った、とある。

【虫(バグ)】本題から離れて。
 昭和14年《七月三十日 本日、御服上中、御袍の下襲(したがさね)の袖口破れたるを見付けらる。虫喰ひたるなり。「見えない所だからこの儘でいいよ」と仰せらる。畏き極みなり。(以下略)》

【夫婦げんか?】昭和15年《八月五日(月)午前九・四〇-一一・〇〇、小磯へ出御。近衛首相拝謁の為め、早めに御帰り。后宮には内親王を御同伴、曳船にて敷島に成らせらる。聖上の御命にて御代りに採取し成らせられたるものと拝す。之には些か、コンフリクト在らせられたるやに拝す。》

 昭和17年《一月九日(金)(前略)皇后宮、家ダニやうのものにお螫(さ)され遊ばさる。第二期庁舎に御写りりたる関係か否か取り敢へずネズミを駆除し、ご寝室を消毒申上ぐることとす。》

【やらせ】
 昭和15年6月19日、天皇は近衛師団営庭に乗馬で現れた。当日は、師団の出征部隊が出発する日である。宮内省は「御運動のおついでに部隊を御親閲」と公表した。事実は、「運動のついで」ではなく、「わざわざ」なのだ。そう言わないと他の師団との公平を欠くという理由になっている。小倉は《折角の臨御を軽からしむもの》と言い、《若し御手厚すぎるを避くるならば、臨御を願わざるが可。願ふ以上は事実を公表するが可にあらざるか》と書いている。

 昭和17年  《四月二十七日(月)一昨二十五日の靖国神社御参拝の新聞写真は、今回の分にあらざる模様に付、取調べたる所、昨年の四月分にて、今回の御分が不出来に付、昨年分の掲載を宮内省にて許可したる由なり。天知る、地知る、何処よりかは現るるものにして、便宜主義は不可なるべし。一億国民をあざむくものにして、御上に申訳なきことと愚考せらる。》

2007年3月23日

古代に遊ぶ

【『日本書紀』】
 このところ、朝鮮・中国を中心に近現代史のシリーズを書いてきた。しかし、正直なところ近現代史というのはそれほど好きではない。なにしろ未整理未発見の史料が山ほどあって、それにすべて接することなどとても不可能である。テレビでよく見かける諸先生のように、偉そうな断定的なことを言えるわけがない。

 従軍慰安婦、南京虐殺いずれを見てもそうだ。それぞれの主張があって、どっちを見ても最初から結論を決めてかかっている。そして相手の話には耳を貸さない、あるいはあしざまに相手を非難することから話をはじめようとする。

 古代であろうが近現代であろうが、歴史には冷徹な資料判定による認識が必要である。それを、美しい美しくないで取捨することは許されない。美しいところだけ取って教育する結果がどうなるかは、すでに経験済みである。なにも、「偉大なる」北朝鮮の真似をすることはない。

 ブログ界の女王「きっこ」氏は古代に造詣をお持ちのようで、時々テーマにされる。ご近所の多摩川沿いの古墳群のことなどを拝見すると半端な知識じゃない。最近も舒明天皇の長歌をもとに「美(うま)し国ニポン」というのがあった。

 古代の日本文献は、極端に言うと『日本書紀』と『古事記』だけである。したがってその解釈をめぐっていろいろな仮説や憶測が乱れ飛び、しばし想像の世界に遊ぶことができる。そして発達した考古学がその決着をつける、などということがある。

 『日本書紀』といえば、津田左右吉博士の日本書紀批判が有名である。戦前、日本神話の虚構を指摘し、同書が天皇の正当性を主張するために編纂されたもので、虚飾、改作、作為にみちたもの、という評価をした。

 なにしろ「皇国史観」のバイブル的存在である同書に疑問符をなげかけたわけである。津田は右翼から攻撃を受け当局の弾圧の対象となった。それだけに戦後は古代史解釈の主流をなしたのだが、それにもまた行き過ぎがあった。『日本書紀』は色めがねをかけず、そのまま素直に読めばいい。

 なにも「美しい」ことずくめではない。素朴な性描写があるかと思えば、裏切りあり謀略あり兄弟殺しありで、皇統をそれほど美化して書いているとも思えない。幸いにして古墳発掘などの相次ぐ新発見により、ますます磨きのかかった古代史で遊ぶことが可能になった。

 『日本書紀』を持つ日本は幸せである。

2007年3月25日

不信感・不審感

 外交交渉関係の報道で「誠意が見られない」とか「不信感をつのらせる」という文言をよく見る。特に多いのが北朝鮮とイランに向けた表現だ。もう何度くりかえされたかわからない。最近の例では、また北朝鮮をめぐる6カ国協議が頓挫してしまったことだ。日朝2国間では、最初から双方にまとめる気がない(としか思えない)のだから不審ではない。

 しかし、マカオのバンコ・デルタ・アジア銀行の口座凍結解除の方法など、事前に米・中・朝の専門家が外交筋とは別に事前交渉しているのだから、すぐに解決しないことぐらいわかっていたはずだ。ヒル国務次官捕が「技術的問題が残るだけ」といっておきながら、現実にお金を手にすることができないでいる北朝鮮の方が、こういう方法を選択したアメリカに対して不信感を持ったのだろう。

 新聞報道などでは、戦術の誤りとかつめの甘さといった、いかにも「子どもの使い」的な失敗であるかのような表現になっているが、本当にそうなのだろうか。豊富な人材と予算を持ち、組織や情報に関しては世界に冠たるアメリカ当局が、結果の予測もせずにそんな単純ミスをおかすものだろうか。

 その最大のものが、アメリカのイラク侵攻である。国連決議のないまま、フセイン大統領に対する不信感と、裏のとれてない大量破壊兵器のガセネタ情報で軍事行動をおこした。イラクのフセイン政権を倒しても内部の混乱で、ベトナムのような泥沼に足をとられるだろうということは、素人のわが委員会でさえ察しがついた。

 ブッシュ自身が単純で発言通りの幼稚さがあったにしろ、その決断ひとつでアメリカ、ひいては世界の運命を左右することになるのだ。次元の低い「不信感」や軽々しい判断ミスひとつで戦争のタネをつくってしまう。アメリカの外交とはそんなに頼りないものだろうか。

 続発する「不信感」には「不審感」を抱かざるを得ない。くりかえすが日本は、このことですららち外の存在なのである。

2007年3月30日

大和民族

 「反戦老年委員会」と名付けたからには、その内容が「政治」指向になるのはやむをえない。しかし政治文書を作っているわけではないので、たまには政治から離れたことも書きたくなる。カテゴリ「まち歩き」の「民間信仰」シリーズもその例である。

 「古代に遊ぶ」というのを1週間ほど前にエントリーしたので、その2回目を考えているうちに、 伊吹文明文部科学相の「大和民族発言」というのが頭にひっかかってしまった。文科相にしてはなんともこなれていない(学際的でない)言葉づかいだなあ、と思ったが発言の全容がわからない。

 報道によると、長崎県長与町で25日に行われた自民党の支部大会で、「日本は大和民族が歴史的に統治してきた。日本は極めて同質的な国」とか、「人権だけを食べ過ぎれば、日本社会は人権メタボリック症候群になる」 などと言ったらしいが、政府は、辻元清美代議士の質問趣意書による全文要求に対しても「内容を把握していない」というだけで、発言そのものを追求してみようがない。

 他のブログでも多く論じられているように、「ヤマト」というのは、もともと奈良県天理市を中心にした地名でヤマトの国といっても、奈良県を超えることはなかった。そこから出た大和朝廷が歴史的に日本を統治(実際には統治していない期間の方が長い)した、という意味だろうか。

 だとすると、出身とされる天孫族を形質学的に見た場合、ほとんどが弥生時代に朝鮮半島か大陸からわたってきた人々の子孫に違いないのだ。文化相は多分そんなことを言いたかったのではない。おそらく次の明治天皇下賜の「教育勅語」の太字のところだろう。

 朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

 現代語訳のかわりに、読み方を記す。「チン思うに、>我が皇ソ皇ソウ国を始むること宏遠に、徳を立つること深厚なり。我が臣民、よく忠によく孝に億兆心を一(いつ)にして、代々その美を為せるは、これ我が国体の精華にして、教育の淵源また実にここに存す

 さらに付言するなら、「代々大和民族が統治してきた。そうでないのは、終戦後の連合軍の占領統治の期間だけである。したがってその間に制定された憲法は変えなくてはならない」。どうです。ズバリ安倍内閣の閣僚としてはハナ○の発言になる。

 そんなヒネた解釈をしたくないのだが、敗戦という犠牲を払ってやっと手にすることのできた、人権や主権在民をコケにするような「メタボリック症候群」云々。そのほか日頃の発言をみると、いきつくところはここしかない。歴史を知らず、歴史をないがしろにして恥じるところのない面々、軍事評論家・田岡俊次氏の表現を借りれば、タカ派ならぬ「バカ派」は一刻も早く退陣して欲しい。

2007年3月31日

古代に遊ぶ 2

【ヤマトの3世紀】
 「ヤマト」。実は、昨日考えた題だ。それが伊吹文科大臣の「大和民族発言」の方に行ってしまった。それこそ「メタボリック症候群」にならないよう、春を惜しんで「そらにみつヤマト」で遊んでみたい。

 昨日も言ったように、「ヤマト」の古地名を残すのは奈良市の南、天理市近辺である。お散歩コースとして最高のおすすめ品「山の辺の道」はここを通って櫻井市の方まで続く。車を気にせずに歩け、途中で疲れたら平行して走るJR桜井線に出て最寄りの駅から電車に乗ればいい。

 このコースの特徴は、「出現期古墳」が多く見られることだ。ほとんどが卑弥呼が生きていた頃の3世紀中頃(248年頃死んだ)から4世紀にかけて作られたもので、大阪郊外の大山陵(伝・仁徳陵)の全長486㍍にはおよばないものの、2~300㍍級の巨大古墳がごろごろある。

 古墳の名称は、学術的呼称と宮内庁が天皇名をつけて指定した呼称または言いならわした俗称があるが、ここは通りのいい名称でいきたい。崇神陵から景行陵に向かう。景行陵の後円部を回って南側に出ると、急に視界が開ける。

 ここがヤマトで一番お気に入りの風景である。まず西南1㎞ほどにこんもり森に覆われた、見てすぐそれとわかる箸墓古墳がある。それから東南には三輪山。高くはないが、形がやわらかく整いすぎている。なにかそれだけで人わざとは思えない神秘さがある。

 西方遠く、大阪との境をなす二上山の姿がかすみ、南に全部は確認できなかったが、飛鳥の入り口となる大和三山の天香具山、耳成山などが見える位置にきた。万葉集でおなじみの地名が続出である。さらにこの地が脚光を浴びざるを得ないのは、どうやらここが日本発祥の地らいしということがわかってきたからだ。

 それは、そのすぐ西の平地に展開する纏向遺跡、最古といわれた箸墓古墳、そしてその前身らしいやや小振りのホケノ山古墳を従え、卑弥呼のなぞ、古墳時代のはじまり、大和王朝の姿などに迫るカギが、手のとどく範囲に集まっているということである。

箸墓古墳解説
http://inoues.net/club/hashibaka.html

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2007年3月13日 (火)

鉄拳制裁

[反戦老年委員会復刻版]

ろくな授業も受けられなかった終戦前後の中学校。軍隊の蛮行を真似した「鉄拳制裁」なるものがはやった。古参兵が新兵をというのと同じパターンで上級生が下級生を襲う。「○○一歩前」「足を開いて上体を曲げろ」「歯をくいしばれ」なんていうのも、どこから仕入れたのか軍隊そのまま。

 生徒ばかりか先生まで「整列ビンタ」愛好家がいたのだから始末におえない。生徒の場合は、放課後校舎の裏など、人目につかないところに集める。制裁の理由は、「敬礼をしなかった」とか「帽子のかぶりかたが悪い」とか、軍隊の予備体験みたいなものでまあ何でもいいわけである。

 そのどれでもない場合は、「態度が悪い」というのが多用される。これがどうにも困るのである。なにがどう悪いのか皆目見当がつかない。反抗的な目つきをした、といったことかも知れないが、いわゆる「にらまれた」状態で反復攻撃を食らう危険性にさらされるのである。

 だから、教育基本法で「勤労を重んずる態度」だとか「公共の精神に寄与する態度」だとか「わが国と郷土を愛する態度」などと繰り返し「態度」が出てくると、震えが止まらなくなるのだ。「態度が悪い」の一言が内申書や勤務成績表について回り、絶対服従を是とする暗黒社会に突き進むのではないかと。

 反戦の言論を貫いたことで有名な軍人・水野広徳はこんなことを言っている。(「戦争」一家言、『中央公論』大正13年夏期増刊号)

 個人の喧嘩の原因はおもに色と慾と顔である。もっともたまには意見の衝突からなぐりあったり、思想の相違からあまかすったり、はなはだしきは貴様の面が癪にさわるとて、イキナリ通行人の横っ面をはりとばす乱暴者もないではない。国家の戦争の原因もまた個人の喧嘩と同様で、ただ色恋の戦争がないだけである。慾すなわち利害の衝突と、顔すなわち体面の保持とが、多くの場合における戦争の原因である。

 「態度が悪い」というのは「面が癪にさわる」というのによく似ている。態度がいい悪いなどという判断は個人的感情で左右される。つまり上官や上級生の体面を維持するうえで欠かせない道具になっているということだ。そういった「ガンをつけたな」的ないいがかりで、果ては戦争まで始めてしまう好戦政治家が、今でも某超大国にいるということである。

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2007年3月 5日 (月)

日中関係史考

[反戦老年委員会復刻版]

:
【満州】
 このシリーズの最初に、現代史の視点(スタートといってもいい)は、中国の場合清王朝の崩壊、辛亥革命からであり、朝鮮の場合は韓帝国が日本に併合される時点からである、と言うようなことを書いた。それから、日中関係では、対華21ヵ条要求や田中内閣の強硬策などで感情悪化が決定的になり、遂に1931年(昭和6)の満州事変突入につながっていく。

 この間、要人暗殺などの政治テロや軍事クーデター未遂事件、治安維持法による言論や思想統制、昭和恐慌などの国内情勢激変があり、国際問題でも、中国国内の不統一と混乱、イギリスをはじめ;列強の中国干渉、そしてワシントン軍縮会議など、後の事態を招く大きな出来事が続発するが、詳述することを避けた。とても言い尽くせるものではないし、このシリーズの趣旨でもない。

 満州事変、満州国設立、国際連盟脱退、そういったことが当時最善の選択であったにしろ、満州が太平洋戦争の起点となり、日本の敗戦に結びついたことは否定しようがない。その中で、一般国民が「満州」をどう考えていたかということは、非常に大事なことであるがあまりとりあげられない。

 今と違ってマスコミの大規模な世論調査もなく、女性をのぞいた普通選挙も、官憲による露骨な干渉や翼賛選挙のもとで、とても民意をはかる役に立ってたとは思えない。そこで「満州国」と同時期に生まれた少年の目からはどのように見えたかをまず思い出してみる。

 満州と言えば広野の大地を駆ける流線型の特急・亜細亜号であり、歌曲「満州娘」の甘いメロディー、♪私ゃ16満州娘 春よ3月雪解けに……、などである。酷寒の厳しさはともかく、リズミカルで明るい夢の未来が約束されている新開地を想像した。

 親たちも、満州事変のはじまりは「暴戻な支那兵が柳条溝で満鉄線路を爆破したしたため」との報道を真に受けるしかなかった。国際的な目が日本に厳しくなると、「上海で日本人僧侶などが支那人に虐殺された」という理由で上海事件を起こして軍隊を増派し、目をこちらにそらしておいて、その間に満州全土の支配を完了させてしまった。

 まさか両事件とも、黒幕が関東軍とかその手先が手配した、自作自演の陰謀だったことなど、夢にも知らないことだった。国民の関心は、日露戦争で満州に侵入したロシアを追い払い、中国・朝鮮に対する列強の野心を心配しなくてもよくなれば、あとは経済の安定と発展であった。

 満州国のモットーは、「五族協和」「王道楽土」であった。五つの(日、漢、満、蒙、鮮)各民族が対等の立場で協力しあい、軍事に頼る「覇道」ではない民衆本位の「王道」で幸福を追求する理想郷にするという趣旨がうたわれた。

 中国では果てしない権力争いや混乱が続いており、日本の善意を理解しないわからずやがまだ沢山いる。ひと足さきに手本を作ろう、という意気込みで官民競って新天地を目指した。満蒙開拓団という農民も多く含まれている。日本はジャワに次いで人口密度が高い、したがって広大な満州に眠る資源を開拓してお互いが幸せになれる、という考えがあったのだ。

 愚妻は満州生まれで、名前に「満」の一字がつく。そういった名前を持つ人は多い。そして幼稚園には、お付きの中国人車夫が曳く人力車で通ったそうだ。五族協和といっても日本人は一つ上に立つという意識が一般人の間でも最後までついて回ったのだ。軍事力を根に据えておけばどうしてもそうなってしまう。

 しかし、敗戦で境遇が逆転し、いまだに「残留孤児」という問題まで残してしまった。満州の位置づけは、一般人の発想・感覚と、日本政府、ことに軍部の思惑は必ずしも一致していない。もちろん、中国人にはまた別の見方がある。ここで問われなければならないことは、戦争責任とか日中問題を語る際、左右を問わず民衆の立場を疎外して、画一的な抽象論だけが飛び交う危うさである。

2007年3月6日

満州事変とアメリカ

 前回、「日中関係史考」で満州のことを書き終えてから、アメリカのイラク侵攻が日本の満州事変突入とよく似ていることに気がついた。満州事変では、アメリカが日本に一番警戒心をつのらせていたこと、また、事変に先導的な役割を果たした関東軍の石原莞爾参謀が、いずれ想定される「世界最終戦」でアメリカとの戦争になり、そのための資源確保には満州支配が欠かせない、という政策を描いていたことはよく知られている。

 それは別として、ブッシュ・ジュニアは日本の満州事変を手本にしてイラク侵攻をはかったのではないか、と思えるほど似てる点が多い。まず、軍事行動開始にあたって国連のしばりを無視したこと、日本は連盟の調査団・リットン報告に反発して連盟を脱退、アメリカは安保理決議のないまま戦闘を開始する。アメリカは脱退しないで、利用できるところはシッカリ利用するのだから利口と言えば利口だ。

 日本は、ありもしない「暴戻な支那兵」を鉄道爆破の犯人にし、アメリカは、架空の「大量破壊兵器情報」で軍事行動を起こした。満州では地方に跋扈する匪賊、イラクでは武装テロリストの攻撃から治安を維持するため軍の駐留を続ける。

 日本は、ラスト・エンペラー溥儀氏を連れてきて傀儡政権・満州国を樹立。アメリカもフセイン大統領と対立関係にあったシーア派主体の政権を作ったが、それなりに機能していない。このところ待ちきれずに軍を増派してテコいれをしている。

 日本の目標は「五族協和」と「王道楽土」だった。アメリカは「自由と民主主義」をこの国に定着させるためだ。どちらも現地住民にとってありがた迷惑な押しつけにしかすぎない。しかし、ここからがアメリカは違う――(と思いたい)。中間選挙で民主党が勝利し、ブッシュは軌道修正せざるを得なかった。民主主義が正しく機能するところを是非見たい。

 そう――。ひるがえって……ということになる。安倍政権がどこまで歴史の教訓をわがものとし、アメリカの強圧をはねかえしていけるか。満州支配に辣腕をふるった岸お祖父さまだけが教訓ではない。無理とは思うが、ここで真の「国益」が何かを見極めてほしいのだ。

2007年3月8日

従軍慰安婦問題

 いわゆる従軍慰安婦問題について米国議会の動きがあることに関し、読売、朝日、毎日の社説がでそろった。わが委員会はこの問題にふれてはきたが、正面から取り上げたことはない。その理由は、調査能力や取材能力が限られていることにもよるが、戦中戦後を知る者として、どうしてもお互いを傷つけあう、あるいは恥部をさらす話となり、建設的な議論から逸脱するおそれを感じたからだ。

 しかし戦争や歴史を叙述する1アマチュアとして、沈黙すればいいというものでもないので、社説を借りて感想を述べてみたい。それぞれの掲載日、および題名は次の通りである。

6日・朝日 「慰安婦」発言―いらぬ誤解を招くまい 
7日・読売 [慰安婦問題]核心をそらして議論するな
8日・毎日 「従軍慰安婦」問題「河野談話」の継承は当然だ

 それぞれ各紙の特徴が出ているが、結論からいうと、歴史認識では読売の解釈が最も正しいと思う。米国議会の議案に対し、

  日本軍が組織的に「慰安婦狩り」をしたしたかのように決めつけている。だが、日本政府の調査でも、これを裏付ける文書はない。歴史家の間でもこうした事実はなかった、というのが「定説」だ。この決議案を提出した議員らは、これらを覆すだけの確かな資料があるのか。といっている。

 河野談話のあいまいな表現が誤解を生む原因になっているから、自民党有志議員のいうように、不正確な談話を見直すのは当然、と結論づけている。ただ、これではちまたの兄ちゃんの喧嘩に買ってでるのと同じであり、朝令暮改は国の威信にもかかわる。

 河野談話のあいまいさは、募集の際、官憲等の関与があったにしても例外的なものとしながら「その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」などと矛盾を含む大雑把な表現に現れている。朝日の社説は、こういっている。

     募集や移送、管理などを通じて、全体として強制性を認めるべき実態があったことは明らかだろう。河野談話もそうした認識に立っている。細かな定義や区別にことさらこだわるのは、日本を代表する立場の首相として潔い態度とは言えない。

 河野談話のあいまいさをそのまま貼り付けている。歴史に対する無定見さは、大本営発表を無批判に報道する態度と変わりない。これは、日頃朝日が歴史に関して論及していることではないか。

 「河野談話」を継承すべきという主張は毎日新聞も同じだが、「要らぬ誤解を招く(首相の)発言は避けるべきだ」というだけで、歴史の真相や流れを無視した態度でいることが「潔い態度」だとするのは、読売の結論と五十歩百歩といわざるを得ない。

 毎日新聞は、「従軍慰安婦問題で謝罪してきたわが国の立場をていねいに説明すること」が必要とし、さらに談話があいまいなのは、政治決着をはかったことによるもので「この種の問題での政治決着には、あいまいな部分が残るのはやむを得ないと指摘している。そして史実を争うなら、歴史研究者に委ねるのが一番だ」という主張には妥当性があり、歴史の解釈を政治で改竄させることのないよう釘をさしている点を評価したい。

 ここで「総じて」のあいまいさを指摘しておこう。まず募集と移送・管理を一緒にしていることである。戦地において邦人の移送・管理に軍隊が安全の責任を負うのは当然である。二番目に募集は、女衒(ぜけん)と呼ばれる専門職の任務で、朝鮮を含む日本全国から女性を集めた。売春宿の経営も民間専業者でこのシステムは戦前から合法的に存在する。

 次に「性的奴隷」という表現についてである。戦時中の前線における環境の劣悪さ、危険性、不自由については言語に絶するものがあったと思う。しかし日本人(内地出身)慰安婦も同じ環境のもとにあったしそういった人も含めて奴隷扱いするのは、逆に人権無視である。公娼制度はかつて文化でもあった。

 最後に朝鮮人差別である。慰安婦要員を暴力的に連行したり、だまして勧誘したりすれば不法行為である。とぼしい知識ながら、当時の小学生は「朝鮮人も同じ天皇の赤子(せきし)」ということで差別をしないよう教わった。また、朝鮮人の部落があり、賭博など治安は決して良くなかったが「法」の秩序を最優先させるため、官憲は慎重な気遣いをしていたことなど覚えている。

 以上ではあるが、国内(朝鮮)での不法行為や戦地での不法行為が絶無だったとは思わない。しかし、国がこれを防止こそすれ政策として指示、奨励したことはないというのが結論である。なお、歴史というのは、自分がその時代に生きているような目で追っていく必要がある。戦前から戦中、そして敗戦から現在まで、日本、朝鮮を問わず生活・文化も含めた変遷が改めて問われるべきであろう。

2007年3月15日

日中関係史考

【南京アトロシティズ(残虐事件)】
 このシリーズも、前回の「満州」まで進めてきた。冒頭の回は、『国境を越える歴史認識』(東京大学出版会)のはしがきから劉傑教授の見解を紹介することから始めた。そこで、同書からジョージワシントン大学准教授・楊大慶氏の叙述「南京アトロシティズ」を一部を引用することで、シリーズの終回としたい。

 南京アトロシティズのような戦争犯罪であっても、歴史学的に理解を共有することは確かに可能である。単一の統一した見解を各国の人々に押し付けるという意味ではなく、歴史研究のための建設的な枠組みを構築することである。ここには歴史的な意味合いが含まれる。南京アトロシティズは日本の中国に対する侵略戦争のなかで起こった事件であると同時に、人類の歴史上発生したすべての戦争や組織的な暴力と犯罪に共通する性質を持っていることをまず認識すべきである。

 ここで重要なのは、南京アトロシティズのような戦争犯罪は、戦争と暴力の普遍性と特殊性の両方から考える必要があるということだ。つまり、南京アトロシティズに代表される、中国における日本の戦争犯罪の加害責任を十分に認識しながら、単に「中国対日本」の視点だけでなく、もっと広い視野で人間と戦争と暴力のレベルで考える必要がある。要するに、国と国の間の歴史認識の共有は、人道主義に基づく価値観の共有に繋がるだろう。

 そして、その事件がどのような名称で呼ばれようと、日本軍が南京で起こしたさまざまな形式の大規模な残虐行為であったことを認識しなければならない(組織的か否かは別として)。このような認識は、現在日本と諸外国の権威ある学問によって認められている。このような「暫定的な事実」を受け入れることは、新しい証拠の探求、及び現存の証拠(公式の記録と口頭の証言を含む)を批判的に評価することと矛盾しない。

 また、この事実をいましばらく受け入れることは、以前の解釈に対する責任ある再評価や、南京の真実を探求する努力を放棄することも意味しないのである。このような姿勢で研究に臨むことによって、中国人歴史学者が既定の結論を修正することに対する「心理的障害」を克服することを助け、国境を越えた歴史学者の真の対話が実現するだろう。

2007年3月24日

EUを知る 1

 あす25日は、EU(欧州連合)発足のもととなったローマ条約調印50周年に当たる。これに関連して毎日新聞が中1面をさいて平和への貢献を中心にした特集を組み、産経新聞も複数の見出しを立てて扱っていたが、他の全国紙では目立つものがなく、読売、日経からは見いだすことができなかった(それぞれ電子版)。

 わが委員会は、中国・朝鮮との対立軸を解くためには、究極的にEUを手本にした東北アジア共同体を目指すべきだと考えるので、よりくわしいEUに対する知識と情報を日本にもたらすよう、各マスコミに要望したい。

 ここに、かつて知遇をいただいたことのある元・西日本新聞論説委員長・小屋修一氏の著『欧州連合論』(非売品)があるので、それを引用させていただきながら、知識を深めるよすがとしたい。《 》引用部分。

 《欧州連合の理念は、ドニ・ド・ルージュヒンによれば、美王フイリップの顧問法学者ピエール・デュボアが欧州の全ての君主に、トルコ軍に対して団結するよう訴えた、一連の公開書簡を送った1308年に始まるとされる。》

 日本では鎌倉時代、強国・オスマントルコが勃興して間もない頃で、いかにも早すぎる。なぜならば王侯貴族が争い、民族・宗教間の攻防はあっても、主体となる近代国家、国民国家がまだ成立していなかった時代だからだ。しかし現在、トルコ加盟の是非をめぐって独・仏など西欧諸国民の間で、イスラム国に対する違和感がぬぐい去れないという。当時の皮肉な遺伝子を今に残しているからだろうか。

 具体的議論となるのはそれから数世紀先になる。第一次世界大戦後の巨大な人的・物的損害による勝者なき惨禍の中から、「欧州平和維持機構」としてのヴェルサイユ体制が築かれ、1929年の国際連盟総会にフランスのブリアン外相が「欧州統合」を提案した。しかしこれは、折からの世界恐慌勃発や英・独・伊の消極的態度で実現しなかった。

 第二次世界大戦は、またしても欧州を激しい戦火にさらした。そして世界の兵器庫の役割を果たしたアメリカが主導する「バックス・アメリカーナ(米国の軍事力により保たれる平和)」と、東欧と極東で領土を拡大したソ連軍事大国の二極化の時代に入った。

 反面、戦いには勝ってもかつて英・仏をはじめ世界に雄飛した欧州植民帝国の姿はすでになく、《「冷戦」の中で一定の発言権を確保するためには、バラバラの欧州ではなく、『統合された欧州』『政治的・経済的・軍事的一単位としての欧州』が必要であることは、誰の目にも明らかであった。》

2007年3月26日

EUを知る   2

 EU加盟27カ国首脳は昨25日、ベルリンで欧州統合の原点となったローマ条約調印50周年を祝い、結束を再確認する「ベルリン宣言」を採択した。今回は、もうひとつの組織で、最近麻生外相などが接触を深めつつある軍事同盟・NATO(北大西洋条約機構)をからめたクイズを出してみたい。(Yes,Noで答えてください)。
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 ① ローマ条約が契機となり、集団的自衛権をうたった相互防衛機構・NATOが誕生した。
 ② NATOの調印式は、本部のあるベルギーの首都・ブリュッセルで行われた。
  ③ トルコはEU同様、北大西洋から遠く欧州と見なされないのでNATO加盟を許されていない。
 ④ ベルギーに本拠を置く欧州連合軍総司令部の総司令官は、各国軍持ち回りで任命される。
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 NATO創設50周年首脳会議は、1999年4月、ワシントンで行われた。折からNATO初の軍事行動てあるコソポ紛争が長期化し、連日連夜のようにNATO軍によるユーゴ空爆が続行されている最中であった。

 前述からわかるとおり、EUの前身発足より8年も早い1949年、アメリカの主導でワシントンの国務省講堂に12カ国(米国、カナダ、英国、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベネルクス三国)を集めて条約調印したものである。さらにそのあと、ソ連封じ込め作戦として1952年ギリシアとトルコの加盟を実現させ、1955年に再軍備が認められた西独も加盟した。

 人事については、「米国人が、NATOの“征服組”のトップの欧州連合軍総司令官(SACEUR)のポストにつく不文律になっている見返りに、事務総長は欧州同盟国の少なくとも外相か国防相経験者というのが不文律」とされている。(谷口長世『NATO』岩波新書)

 以上のように、答えはすべて「No」である。わが委員会も関心を持たなければ正解率ゼロだったかも知れない。EUによる平和維持機能との関連で、イギリスを含む欧州各国は、冷戦後のNATOのありかたを大きく見直す気運にある。ここでもわが国がアメリカのメッセンジャー以上の意見を持てるのか、はなはだ心もとないといわざるを得ない。

2007年3月27日

EUを知る 3

 前回、思いつきでクイズを入れてしまったので、第1回とのつながりが途絶えてしまった。ブログ文のこわいところだ。そこでもう一度流れを作り直してみる。

 戦乱、抗争が絶え間なく続いたヨーロッパでは、中世から「王侯連合」を提唱するような発想があった。近代に入って、1847年に文豪ヴィクトル・ユーゴーが「欧州合衆国」の創設を提言し、悲惨な結果をもたらした第一次世界大戦後の1923年には、オーストリアのクーデンホーフ伯爵が「汎欧州運動」を開始した。なお同伯の母親は日本人・青山光子である。

 この趣旨が活かされ、動きが本格化したのは第2次世界大戦後である。元イギリス首相・チャーチルの提唱で1948年5月、オランダのハーグで19カ国およそ1000人の欧州統合推進論者を集めて決議を採択した。

 《決議は『国家主義を基礎にした欧州再建は不可能』だとしたうえで、欧州の安全保障、経済的独立と社会的進歩を確保するために「経済的・政治的連合の結成」を訴えるとともに『各国の主権の一部統合に同意することが肝要である』とした(ハーグ決議)。》

 NHKの「その時歴史は動いた」ふうに言うと、「欧州共同体の萌芽ともいうべき欧州石炭鉄鋼共同体(CECA)の誕生まであと3年、EEC(欧州経済共同体)設立のためのローマ条約調印まであと9年であった」となる。

 欧州石炭鉄鋼共同体の構想を推進したのは、フランスのシューマン外相である。欧州人にとって長年にわたる平和への悲願を、国家権力の中枢をにぎる1現職大臣が、理想実現のために行動したのだろうか。この計画は、次の趣旨でフランスの経済・設備投資官僚が慎重に検討していたものだった。

 《冷戦のメカニズムによって、東西ドイツの軍事力が、米ソ両陣営によって強化される事態を強く懸念し、『軍事化されたドイツによる脅威の問題を解決することが、欧州平和にとって必要』だとし、問題解決の一手段として、フランス、ドイツ両国の石炭・鉄鋼を「共同化」することを考えだした。当時は石炭と鉄鋼は、一国の経済力の「カギ」を握るとともに戦争のための武器生産に不可欠の生産財であった》

 こう見るとたしかに現実的な国家戦略がひそんでいるように見えるが、やはり根底には長い時間をかけて、欧州人が国の垣根を越えて平和を希求する、という土壌がなければ成立しなかっただろう。またそれが国家への圧力になっていたはずだ。

 CECA条約はその前文で高らかに宣言した。

 《古来の敵対に代えるに、諸国の本質的利害関係の融合を以てし、経済共同体の設立により、多年、血なまぐさい対立によって離間していた諸国民の間に、一層広く一層深い共同体の最初の礎石を据え、かつ将来の共通の運命を方向付けることのできる制度の基礎を気付くことを決意して、欧州石炭鉄鋼共同体を創設することを決定(以下略)》

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2007年3月 1日 (木)

民間信仰 3

[反戦老年委員会復刻版]

【地蔵さま&観音さま(その1)】(映像略)
 前回の観音さまの巻で、仏像の中で観音像が一番多いのではないかと書いた。ところがある本に、それは地蔵菩薩像である、とある。なるほど、お堂の中では観音さまが優勢のようだが、野仏、墓地まで含めるとやはりお地蔵さまかも知れない。なにしろ、百地蔵などとして周囲を圧倒する集団でおわすこともあるのだから。

 写真(上)の地蔵は、大正15年、湯島小学校の児童が遠足で近くに到着、川舟で川を横切る途中に転覆して3人が犠牲になったのを供養するため、のものだそうで立派な板碑がある。往時の交通事故死である。地蔵さまの専科は、なぜか子どもということになっている。丸顔禿頭のやさしいお姿のせいか人気は抜群。最近このあたりで見かけることが多くなった新しい石仏は、ほとんどが地蔵さまといっていい。

 もうひとつの写真、真新しい中央右のお地蔵さまは、片手に錫杖、もう片方は擬宝珠を持つ正統派 のお姿である。やはり最近多い水子地蔵は、擬宝珠の代わりに胎児を持つ。ドイツの匿名乳児ポストの話はショッキングだが、水子供養とどっちが人間的なんだろうか。

 もいちど写真に戻るが、左端の半跏思惟像は、各地で多く見られる代表的な美人・如意輪観音像である。こちら元禄は10年生まれで、19夜講に集まる女人たちの寄進による。観音石像はどこでも女性講中の発願によるものが多い。

 観音像は女性か男性かの議論について、眠り猫さまから「観音は男。理由は般若心経に登場する仏弟子であり、女性はいないはず」という理路整然としたご指摘をいただいた。江戸時代には立派なオッパイを彫った像もあったというから、当時の女性は自らを仏像に託すたくましさがあったのだろう。

2007年3月2日

都知事候補選びの醜態

 石原東京都知事に対抗する候補者選びで、民主党が混迷を深めている。関連ニュースを列記すると次のようになる。

①2月28日 前宮城県知事・慶応大教授の浅野史郎氏、出馬に意欲表明。ただし、民主党が独自候補を立てれば辞退する意向を示す。<br />②3月1日、民主党の海江田万里前衆院議員、「立候補に前向きな意向を党東京都連幹部に伝えたことが分かった」(毎日新聞)。

③3月2日、浅野氏TBS番組で「勝てるとか負けるとかで考えていいのかという気になっている」と述べ、同党の動きにかかわらず出馬の意向を示した。同党の推薦を受けるかについては明言を避けた。(mnsニュース)

 肝心の民主党は一応の期限としていた先のパーティーまでに決められず、混迷を深めている。そして小沢代表は選考委員の決定に従うとして動いていない。毎日新聞によると、選考は菅直人代表代行、円よりこ都連会長、小川敏夫都連幹事長(参院幹事長)、田中良都議団幹事長の4人で行われた。その中で、円氏と田中氏が党内候補を求め、菅氏擁立をせまったが菅氏は応じず、浅野氏擁立に動いていたようだ。

 小川氏も菅氏と歩調をあわせたため、円氏、田中氏が反発を強めていたところへ、これまで慎重姿勢だった海江田氏が乗ってきたと言うことだろうか。民主党都連としては、党としての選挙活動がそがれ、組織強化につながらないことや労働組合・連合の協力を得にくいことなどがあるようだが、外から見ていると組織論優先で勝敗はどうでもいいように見える。

 石原都政に引導を渡したい選挙民は、対抗馬にどうしても勝ってもらいたいのだ。善戦ではだめなのだ。民主党の自前候補といっても、衆議院落選候補を持ってきて世論調査の支持率以上の票が得られる保証はどこにもない。浅野氏でも「どうかなあ……」という激戦が予想されている。もはや海江田氏の擁立は、石原氏の当選に手を貸すだけの効果しかないと知るべきだ。

 あえて党内不一致をさらけ出し、当選の可能性にとぼしい自爆候補を出すのは、都議会で民主党が石原与党でいたいからだと思われても仕方がない。そして、最大の無党派層を敵に回すことにもなる。

 都民ではないが、浅野さんがんばってください。

2007年3月3日

民間信仰 4

【待乳山聖天(観音さま&地蔵さまその2)】(映像略)
 民間信仰のキワメツケといえばここである。観光で浅草へおいでの際は是非ここをお薦めする。浅草寺の雑踏をよそに静寂さと華麗さが同居する浅草らしい聖域である。簡単に道案内すると、地下鉄終点浅草駅を出て、細長い松屋デパートの右に沿った道を行く。あるいはもっと右の大川端まで行って隅田公園内を上流方向に5、6分歩き、体育館の手前で左に戻ったところの小山の上にある。

 散見する参拝者は、圧倒的に若い女性が多い。それに、なぜかガイジンさんも。やはり通(ツウ)なんだな、と思う。観光案内には「浅草のはずれ」などとあるが、どうしてどうして。江戸時代は交通の要衝だった。大川を舟でのぼって吉原に行くには、ここで降りて徒歩か馬で行く。また、寺の裏を流れる山谷掘も大門の前まで通じている。寺の前の通りは千住を経て日光街道に通じ「奥の細道」の玄関口だ。

 要するに浅草きっての粋な土地柄だったのである。祭神は十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」という。男女和合を祈るにはふさわしい神である。境内はこじんまりとしているが整備され清掃も行き届いている。山名が待乳(まつち)山であり、お供えには大根(左の写真・1本200円でわけている)というあたりも、なんとなくなまめかしい。

 大根は、男女、家内の和合と健康を意味すると言うが、江戸時代は周辺に田畑が多くそう高いものでもなかっただろう。庶民への配慮もあるのか。次の写真は、お百度まいりをする祠である。本堂をめぐって石畳があり、ここを願いが遂げられるよう、一心不乱でめぐる女性の姿が浮かんでくる。

 最後のお地蔵さん。写真には全部入りきれないのだが、赤い前掛け姿の団体でおられる。立て札に「歓喜地蔵」とあるから、死者の供養のためではない。多分、子宝に恵まれるよう願掛けをして願いが叶ったため、よだれかけをお供えしたものだろう。新しく色鮮やかで今も続いていることを示している。

 柳沢大臣!。おわびもかねて是非一度お参りしたら……。</p>

2007年3月7日

民間信仰 5

【庚申信仰】(映像略)
 庚申信仰には、なんとなく「農村」といったイメージがある。徒歩5分以内の道ばたや辻に、江戸中期頃の石造物が3カ所もあるのでとりあげることにした。その前にシリーズで3回登場してもらっ観音さまであるが、「男か女か」に明快な回答を発見したので紹介しておこう(坪内恭介『江戸川べりの野仏』崙書房)。

 六観音とは、聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、准提観音*、馬頭観音の六つのことであるが、そのうち准提観音だけは、インドのチュンディという女神で仏母とされている唯一の女性の観音である。(管理人注:広辞苑によると「准胝(じゅんてい)観音」)

 庚申さまの標準的絵姿は、憤怒の青面金剛像が邪鬼を踏みつけ、その周りに見ざる、聞かざる、言わざるの三猿が囲むというものだが、「青面金剛」と彫った字だけの碑やあるいは「庚申神」とか三猿が彫ってあるのでそれとわかるものも多い。

 庚申堂、庚申塚、庚申の森などという場所は大抵道の分岐点にある。道祖神の役割も受け持っているので石碑に「右○○」「左○○」などと彫ってあるケースが多い。ただし後世の民が無関心なのか変体仮名が読めないのか、勝手に向きを変えてしまうので、多くは道標の意味をなしていない。

 本来の風俗は、庚申の日の深夜、身体の中にいる目に見えない「三尸(し)」という虫が、眠っている間に抜け出して天帝に、悪事を密告する。すると寿命を縮められるので、そうはさせないようここに集まって徹夜で見張るのだ、という。

 三猿はどういう意味があるのだろうか。見ざる聞かざる言わざるは、なにか生活の知恵を示しているように思える。もしかして、過酷な年貢を取り立てる悪代官への態度をいうものだろうか。見て見ぬふりをし、知っても知らぬふりをする。庶民の悲しいさがである。

 いずれにしても、部落の欠かせない情報交換の場であったに違いない。「猿」は悪を「去る」の意もありそうなので、わが委員会も国や江戸の都に巣くう「悪」を「去る」よう、これから願掛けをしてみるとするか。

2007年3月9日

ミッチーJr行革相頑張れ

 公務員制度改革で、省庁による個別の再就職あっせんを全面禁止する基本方針を打ち出した渡辺喜美行政改革担当大臣、官僚はもとより、党からも反発を受けていたが、閣内の尾身財務相からも「あっせん全部を禁止するのは現実に合わない。人事の新陳代謝が進まなくなり、将来を考えると国家衰退の原因になる。賛成できない」と横やりが出た。

 これに対して渡辺担当相は「今のやり方を維持することは国民から見たらちゃんちゃらおかしい」と会見で発言し、基本方針を変更しない考えを強調した。(以上「」内の発言は3/9毎日新聞夕刊による)

 そうだ!、その通り。天下りのあっせん先がない民間会社が衰退してつぶれた、なんて話聞いたことがないぞ。民間では、偉くなれなければ定年までひらで我慢するか、いやなら自発的に転退職するかだ。国家が衰退するなんて、ちゃんちゃらおかしい。

 ベトコン議員とかミッチーと呼ばれたおやじさんの美智雄元厚相は、田舎で行商の経験のある庶民性が愛された。どことなく風貌やしゃべり方が似ている二世ミッチーじゃなくチッミーでもなくヨシミーか?。抵抗勢力に負けず頑張れ、頑張れ!。

 もっとも、奮闘空しくひっこめざるを得なくなれば、安倍首相の指導力がますます疑われ、参院選を前に支持率がた落ち。それもまたいいか。

2007年3月10日

辛夷

 はい、何と読むでしょう?。すみません、taniさまはちょっとだまっててください。 「しんい」?「からえびす」?。昔、東北を荒らした蝦夷(えみし)のことかしら?。

 違います。では、これは?。粛愼 「しゅくしん……」しかないわね。日本の古語では「みしはせ」と読みます。欽明天皇の5年、佐渡島に上陸した正体のわからない人たちで、地元の住民を拉致しました。

 へえー、北朝鮮みたい。くわしくは、左おびの本にも書いてあります。また、そのほかにも斉明天皇の時代に、飛鳥の将軍・阿倍比羅夫と粛愼が東北方面で戦争になりました。もし比羅夫が北海道まで行ったとすれば、大和朝廷が北海道に進出した最初になるわけです。

 で、最初の字は何と読むのですか?。では、ヒントを。『広辞苑』にはこう書いてあります。

 モクレン科の落葉高木。山野に自生、また観賞用に栽培。高さ約10㍍。早春、葉に先立ってにぎりこぶしを思わせる蕾をつけ、芳香白色六弁の大花を開く。葉は倒卵形で全緑。果実は秋に熟し開裂、白糸で赤い種子を釣り下げる。食べると辛い。材は木理緻密で器具・建築に、蕾は鎮静・鎮痛剤に、花は香水の原料に、樹皮・枝葉からはこぶし油をとる。ヤマアララギ。コブシハジカミ。(漢名「辛夷」は本来モクレンの称)。《季・春》。<名義抄> まだわからない人は、この写真を。(映像略)

 わあ~キレイ!。わたしの好きな「コブシ」じゃないの。なんか、ラシくない字だわね。

2007年3月11日

パート代表を議員に

 日本のことではない。中国の全国人民代表大会(全人代)の話である。中国憲法の規定によると、全人代代表は任期満了の2ヵ月前に選挙を行うことになっている。次期代表は2008年1月に選出されるが、それに対する問題提起は今回の全人代で討議される。人民網日本語版によると、8日の全体会議で、「全人代代表には農民工(農村からの出稼ぎ労働者)の代表を含むべき」とする新たな規定が草案に盛り込まれた。全人代常務委員会副委員長兼秘書長・盛華仁氏の説明は、次のようである。

 全人代の代表が広範囲な代表性を備えることは、全人代制度の本質的要求であり、社会主義民主の重要な体現である。近年の全人代の代表構成では、労働者と農業従事者の代表割合が減少傾向にある。中国では農民工の割合が増加し続けており、労働者の重要な構成要素となったことは注目すべき点であり、全人代においても適当な人数の代表を置くべきである。

 このような状況に対して、決定草案では労働者と農業者の代表人数を前期よりも増やすよう規定している。草案ではさらに「農民工の比較的集中している省・直轄市においては、農民工の代表を含まなくてはいけない」と特に規定している。

 日本の国会になぞらえていうと、「労働組合の組織率が低下し、労働者を代表する候補者・当選者が減っている。一方、自民党の金城湯池であった地方の農民票も都市化現象で期待ができなくなった。一方、正社員に代わるパートや派遣労働者の比率は著しく高まっており、この人たちを候補に立てなくてはならない。特に都市部では必ず当選者を出す」ということになる。

 そんな話は、与党からも野党からも聞こえてこない。日本の選挙は相変わらず地盤、看板、カバンそれにTVの出番と世襲がものをいう。首相と仲が良く、忠誠心有りと見れば筋をたがえてでも強引に候補者にする。アメリカと価値観を同じくする国、自由と民主主義の国、本当に「美しい国」により近いのだろうか。

2007年3月14日

民間信仰 6

【弁財天】(映像略)
 建物はお堂と祠の中間ぐらいの大きさしかないが、真っ赤な旗指物がぐるりと周囲をとりかこむ。名付けて「浮島弁天」。なかなかの人気が続いているようだ。弁天といえば琵琶湖の竹生島、湘南は江ノ島、上野が不忍池、みんな陸からわずかに離れたところに祀られ、観光名所の栄誉を保つ。

 この弁天も、説明版によるとかつては小さな川の中州にあり、橋を渡ってお参りしたが、河川改修でポンプ場ができてここに遷座したとある。そして「お日には縁日が立って殷賑をきわめた」のだそうだ。

 御利益は、ちょっと長いが我慢して見てほしい。「汚れを払い、富・名誉・福楽・食物を与え勇気と子孫を恵む。学問と技芸の神としても知られ、雄弁と知恵の保護神として高い地位を与えられ、人をして無礙の弁才をそなえ福知を増し長寿と財宝を得さしめ、また天災地変を除滅しかつ必勝を得させる天女」とある。>

 こんなにあるんなら信仰しない手はない。まして七福神唯一の美人女神である。なるほど、「汚れを払う」ためには水辺でなくてはならないわけだし、日本人の「みそぎ」好きの習性にも合っている。弁が立って技芸の守り神……、それで琵琶を持っておいでなのだ。今風に弾き語りもなさるに違いない。

 なにか派手な神様で、野仏のようにやささやかな庶民の願いを聞き届けてもらえるのだろうか。裏庭の隅、崖地の際に、最近建て替えられたばかりの延命地蔵のお尻を眺める、小ぶりな古い自家用弁財天碑を見つけた。

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