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2007年2月 4日 (日)

日中関係史考

[反戦老年委員会復刻版]

【対華21ヵ条要求】
 前回、「中国から見た日本」をはさんだため、「対華21ヵ条要求」についての言及がおくれてしまった。もう一度前2回を復習すると、中国には、清朝を崩壊に導いた1911年の辛亥革命が現代史のはじまりという視点があり、「建設」(近代化)と「統一」(統一国家の形成)という辛亥革命以来の2大目標を未だ実現していない中国にとって、最大の障害は日本らよる中国侵略であったという認識があること、一方、第二次世界大戦の動乱の中で日本が突きつけた「対華21ヵ条要求」こそ、日本の中国侵略意図を露骨に示すものであったということである。すなわち、日中間の歴史認識に対するすりあわせは、ここから始めなければならない、ということになる。

【辛亥革命始まる】
1912.2.12 清朝滅亡
1914.07.28 第一次世界大戦始まる。日本、中国は中立宣言
   .08.07 英国、商船等の保護のため日本に参戦要請
   .08.14 中国、対独宣戦布告
   .08.23 日本、対独宣戦布告
   .09.02 日本軍、山東半島に上陸開始
1915.01.28 対華21ヵ条要求提出

 新聞を見ると、最近またセルビアとかボスニアという文字を多く見るようになった。第一次世界大戦の発火点もここである。同地を訪れたオーストラリア皇太子の暗殺をめぐって、ドイツ・オーストラリア-ハンガリー・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商両陣営が勢力圏拡大でのるかそるかの戦いをはじめた。

 遠く離れた日本にはかかわりのないことで、大隈内閣はまず中立宣言をした。ところが元老・井上馨の「今回の欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑」といった方向に引っ張られた。折から、中国の青島を基地にして英国商船を脅かすドイツ軍艦を追い払って欲しいという英国の要請があった。

 日本は、これ幸いとばかり青島を攻略して、ドイツの中国における諸権益を奪取する計画をたてた。驚いたのは英国である。そこまで頼んだ覚えはないので、あわてて要請を取り消したほどだ。

 中国もこの動きを見て、ドイツに宣戦布告し、膠州湾租借地に関する契約などを無効にさせた。ドイツが租借地を直接中国に返還すれば日本の介入余地がなくなる。日本の参戦理由はあくまでも同盟国イギリスへの情誼ということになっている。租借地をドイツから取り上げて中国に戻す、という口実を使った。

 大戦の主戦場、欧州では戦線の膠着状態が見られたが、極東では日本の参戦で秋から冬にかけ青島や南洋諸島の占領が終わった。そして対華21ヵ条要求を北京政府につきつけるのである。その詳細は省くが、山東省のドイツ権益は日独両国で決めたことを中国が受け入れる、日露戦争で日本がロシアから接収した旅順・大連などの租借権や鉄道の管理権をさらに99年延長する、満州や内蒙古での日本人の資産獲得などに便宜を与える、政治、経済、軍事などに日本顧問を招くなどが含まれている。

 中国はドイツに宣戦布告した。したがって最終的には戦勝国に入っている。しかし日本は軍事的圧力のもと、あたかも中国が敗戦国であるかのような要求をでつきつけてきたのだ。中国国民にしてみれば「どうしてこうなるの/なんでやねん」といいたくなる気分だろう。当然、各国から同情や抗議・介入があるものと期待した。

 アメリカをはじめ、それぞれ日本の行動に対して問題意識は持っていた。しかし、イギリスなど連合国側は、ヨーロッパでの総決戦に手いっぱいで極東に関心を持つ余裕はなく、また日本も同盟国としての協力を示しながら、巧妙に各国に根回しをすることを忘れなかった。それに中国自身が南北の対立などで辛亥革命後の政権基盤が固まっておらず、統一国家としての力量を発揮できなかったこともあろう。

 こういった、火事場泥棒的な行動は、日本国内でも意識されており、中国人の爆発的な排日運動を引き起こすもとになった。日本の要人の中にも、この結果を憂慮していた向きがなかったわけではない。しかし、日清、日露戦争で多大な犠牲をはらい戦費を負担したのにもかかわらず、十分な見返りを得ていないばかりか、いつ押し返されるかわからないという不安を、この際解消しておきたいということと、欧州列強を中国から排除してやったのに、中国人はこれを理解せずいつまでも仲間同士で抗争を繰り返している、という中国人蔑視の風潮が後押ししたのではないかと考えている。

2007年2月7日

日中関係史考

【帝国主義の変貌(パリ講和会議)】
 日清・日露そして日中・太平洋戦争にくらべて第一次世界大戦は、日本人にとって印象が薄い。しかし中国人にとっては、国内で外国同士が戦争をし、その結果日本から懲罰的ともいえる21ヵ条要求を押しつけられた。それ以来、駐留部隊の軍事的圧力のもと中国の独立・統一をさまたげ、また大衆を戦火に巻き込んだのが日本であった、という歴史感を背負っている。

 こういっても、まだ右翼陣営には、欧米列強の帝国主義的侵略からアジアを守るため、とか「帝国主義はお互い様」といった弁解がましい意見が巾をきかしている。たとえば「当時のアメリカは、シナ大陸に進出することを最大の目的にしていた。ハワイ、グアム、フィリピンと西進していったアメリカにとって、最後の“フロンティア”というべき場所がシナ大陸であった」(渡部昇一『かくて昭和史は甦る』)などという。

 わが委員会ではかつて「松岡洋右」という記事を掲げた。その中で、第一次世界大戦の決着をつけるパリ講和会議(1919年)で日本の全権大使に随行した松岡が記者会見し、日本の要求(山東半島の利権など)は、泥棒は他にもいるのだからこっちも泥棒してもいいというのと同じで「野暮(やぼ)」な話、と他の参加国の雰囲気を伝えた。

 もう戦争の果実として領有権を競うのは時代おくれ、というわけだ。アメリカの外交がどう変わっていったかを、西崎文子『アメリカ外交とは何か』の引用で示すが、同時にパリ講和会議の模様からも日本のたちおくれが推測できる。

 モンロー教書から70年余りを経て、20世紀への転換期を迎えた頃、アメリカは、領土的にも経済的にも世界有数の強国に成長していた。大陸の征服を終え、急速な産業化を経験したアメリカは、ついに海外へとその拡大の目を向けることになる。植民地から独立国家への道を歩んだ歴史を持つ国家は、19世紀末には自ら植民地を持つ国へと転身した。

 しかし、いわゆる帝国主義の時代の中にあって、アメリカの帝国主義は一つの際だった特徴を見せることになる。それは、アメリカが、植民地政策においても自由、平等、人民主権といった価値を掲げ続けたことである。アメリカの目的は、被支配者たちが秩序ある社会を形成し、自立してやっていけるよう助けることなのだ――。

 このような考え方の結果もたらされたのは、アメリカの意思に従う政権を「民主的」なものとして樹立、保護していくという「家父長的」な帝国主義支配であった。

2007年2月14日

日中関係史考

【第一次大戦後(大正末まで)】
 戦争と戦争の間の日中関係は、次の年表で見るように決して平和な時代とはいえない。はっきり言って方向性のない混迷の時代である。その傾向は次の満州事変まで続くが、この年表で見てとれるのは、

①日本が満蒙を「生命線」と位置づけ、その権益を譲らないこと。
②中国が群雄割拠で統一されておらず、日本がそれらの勢力抗争にたびたび介入していること。
③中国、朝鮮民衆の反日運動および日本との衝突が連続して起きていること。
④国際連盟発足やロシア革命の影響があることなどである。

赤=反日運動・日中関係。青=中国国内。緑=その他国際)

・1915・大4 (大隈重信)
 対華21ヵ条要求提出
 東京の中国人留学生、抗議大会開催
 上海・漢口・広東で日貨排斥運動
 対華21ヵ条要求受諾、中国国恥記念日

・1916・大5(大隈・寺内正毅)
 吉野作造の民本主義=大正デモクラシー
 閣議、袁世凱排撃、民間による南方援助黙認
 中国奉天省、鄭家屯で日中両軍衝突

・1917・大6(寺内正毅)
 ロシア革命
 閣議で段祺瑞内閣援助、南方勢力不支持
 孫文、広州に軍政府樹立

・1918・大7(寺内・原敬)
 米騒動発生
 シベリア出兵
 第一次世界大戦終結

・1919・大8(原敬)
 パリ講和会議
 朝鮮独立示威運動(3.1運動・万歳事件)
 北京の学生山東問題決定に抗議(5.4運動)
 中国東北の寛城子で日中両軍が交戦
 中国福州で排日学生示威運動(福州事件)

・1920・大9(原敬)
 国際連盟発足
 言論弾圧(森戸辰雄筆禍事件)
 シベリア尼港事件で多数の死者
 戦後恐慌始まる
 日本が支援する段祺瑞の安徽派と米英が支援する呉佩孚の直隷派が戦闘開始。
 安徽派敗北
 間島省日本領事館が馬賊に襲われる

・1921・大10</strong>(原・高橋是清)
 上海で中国共産党結成
 原敬首相、東京駅で刺殺される
 ワシントン会議開催

・1922・大11(高橋是清・加藤友三郎)
 孫文、北伐失敗
 張作林の奉天軍と直隷軍武力衝突、奉天軍敗北
 関東州租借地回収運動が盛んになる
 閣議、張作林の中央進出に反対方針決定

・1923・大12(加藤智三郎・山本権兵衛)
 孫文、ソ連接近。第3次広東政府発足
 21ヵ条条約廃棄通告、6月排日抗議運動最高潮
 関東大震災。朝鮮人・中国人の殺害が頻発

・1924・大13(清浦奎吾・加藤高明)
 第1次国共合作成立
 ソ連、対中特殊権益放棄
 孫文、第2次北伐開始を宣言
 第2次奉直戦争。呉佩孚、敗走
 孫文来日、神戸大で大アジア主義演説

・1925・大14(加藤高明)
 ラジオ試験放送開始
 孫文、没
 デモ隊に英国側が発砲。各地で反帝運動
 郭松齢事件。郭軍、張作林を破り、奉天へ
 各地で排日運動激化

・1926・大15(若槻礼次郎)
 広東で国民党大会。王兆銘・蒋介石実権掌握
 蒋介石北伐開始

 大正天皇死去

2007年2月20日

日中関係史考

【満鉄とアジア主義】
 前回は第一次世界大戦後を大正時代に区切って年表を書いてみた。それによるとこの時代、戦争は終わっていても、日本が得た中国国内の利権をめぐって紛争が絶えず、反日運動や日本軍との衝突が繰り返し起きていたことがわかる。

 日本政府、および日本人は大陸に対してどういう感触を持っていたのだろうか。日清、日露の戦勝は、安全保障・自衛の範囲から、次第に大陸おける地歩確立という帝国主義的植民地主義が一般に受け入れられるようになった。

 その裏には、戦争による人命や財産の莫大な損耗には、相応の見返りが必要、という国民感情も関係する。またそれに反抗する中国、朝鮮人に対しては、関東大震災の際の居留民殺傷のような差別と蔑視と脅威を根づかせることにもなった。

 そこで植民地政策の先兵となった南満州鉄道株式会社(満鉄)の存在と、西欧の植民地主義排除を唱え、日本人の道義的深層心理に重なっていると見られる「アジア主義」の二つをとりあげ、この時代を考えてみたい。

 通常、1931年(昭和6)の満州事変やその翌年の満州国独立をもって、日本の中国侵略開始と見られることが多い。しかし中国側から見れば、日露戦争でロシアが持っていた不平等権益を日本がそのまま手に入れ、さらに対華21ヵ条要求などでそれを拡張強化させる方向を示したことで、「侵略」と受け取られても仕方がない面がある。

 満鉄は1906年(明治39)、日露戦争のポーツマス講和条約とその内容を承認した日清条約により、ロシアから日本政府に引き渡された権益のうち、大連~長春、奉天~安東県間の鉄道とその支線、鉄道付属地および撫順・煙台炭坑などの付属事業経営を目的とした株式会社である。

 当初資本は2億円。その半額は政府の現物投資、残りは年6%配当の政府保証つきの民間公募で細分化されていた。また所要資金は社債に頼ることにしたので、政府は金をかけずに事実上自由に動かせる国営会社を手にしたことになる。民間会社の体裁はとるが、当初から満州・華北の植民地経営をにらんだ国家の出先機関としての機能を隠そうとしていなかった。

 鉄道付属地は年々拡張を続け、1931年には当初の3倍以上、現在の横浜市の面積を上回る480平方㎞に達した。また鉄道10㎞につき15名の駐兵権を持ち、租借地同様中国の主権を排除した。満鉄は大豆など農産物と石炭を輸出し、日本からの輸入品・綿布などを運賃操作したり、エネルギー源を独占して利益をあげた。さらに多くの産業開発に出資したほか、資源調査、情報収集など植民会社の機能をフルに発揮した。優秀な人材を集めた「満鉄調査部」の名は今に残る。

 こういった西欧型植民地主義に抵抗し、中国の改革推進者で革命の父といわれる孫文がアジアの連帯と自決を目指す「大アジア主義」を唱えていたことが知られている。それに共感し、日本の侵略的行動に批判的立場をとっていたのが、国内の大物右翼であった。その代表格である玄洋社の頭山満が、1924年(大正13)来日した孫文に語ったとされる言葉を次に掲げる。(藤本尚則『巨人頭山満翁』山水書房、松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読』岩波文庫、所載)

 貴国四億の国民を以てして、外国の軽侮と侵害を甘んじて受くるが如きは、苟も国家を愛する志士豪傑の之を憤るのは当然である。嘗て満蒙地方が露国の侵略を受けし時の如き、幸にして我が日本が相当の実力ありたればこそ、多大の犠牲を払って、唇歯輔車(相互に助け合う)関係にある貴国保全の為め之を防止するを得たのである。

 依って同地方に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還附すべきであるが、目下オイソレと還附の要求に応ずる如きは、我が国民の大多数が承知しないであろう。

 これをもって「日本がロシアの侵略から中国を守った」とする俗説は誤りである。頭山に、日本がとっている行動を正当化しようという気はなく、むしろ逆である。しかしこれを聞いた孫文は一縷の望みを絶たれた思いがしただろう。このあと、孫文は神戸大学で「日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか、はたまた、東方王道の干城となるを欲するか」と日本に迫る悲痛の演説をするのである。

 この前年、孫文は一人の日本人の死に対し上海で追悼大会を開催した。孫文の意気に感動し、身を挺して協力した熊本県出身の大陸浪人・宮崎滔天に捧げたものである。現在の中国でも、「宮崎は中国人民の真の友人、傑出した国際的友人であり、同時に中国人民の革命隊列の中で思想が堅く、不屈であった一人の外国人革命戦士であったといえる。彼は中国人民の革命事業に対し、また中日両国民の友情あふれる交流に対して貴重な貢献をなした」と、最大級の賛辞が寄せられている。(『中国人の見た中国・日本関係史』編者:中国東北地区中日関係史研究会、編訳者:鈴木静夫・高田祥平、東方出版)

2007年2月22日

北朝鮮政策

 安倍内閣の北朝鮮政策が完全に行きづまっている。6カ国協議がひとまず打開に向けて動き出し、新たな展開が期待されるなかで、やや時間をおいて拉致問題などに新方針が打ち出されると思ったのにそれはなく、制裁強化一本槍のままでお手上げ状態だ。

 国会で前原前民主党党首が質問していたが、例により、核北の核ミサイル所持がわが国にとって最も危険という脅威論から、他の5カ国と歩調を合わせ、そこから拉致問題の糸口をさぐるという、間合いの抜けた意見だった。

 安倍首相は、中国問題で両国間の国交正常化を予想外の早さで実現させたが、中国側にもそのタイミングをはかっていたという幸運にもめぐまれていたのだと思う。金正日氏にはそんな必要がとり立ててない。経済支援に期待はするものの、体制維持が最大の目的である。

 北朝鮮にしてみれば、韓国、中国、アメリカからの援助、それも頭をさげてもらったのではなく、核所有の威力で獲得したものだ。国民にそれを誇示できればさしあたりそれで満足、といったところだろう。拉致問題は無視するか、敵視政策を続ける唯一の国として政治宣伝に使えれば当面それでいいといえよう。

 つまり、小泉訪朝の頃からの硬直した安倍・対北朝鮮政策が破綻しようとしているということだ。国連制裁決議で点数を稼いだのもつかの間、TVで見るボルトン元・国連大使と同様、完全に浮き上がってしまった。

 この際、拉致問題解決でとれる方法は、外交の基本に立ち返り、二重外交であろうが密室外交といわれようが、あらゆる手段を講じて相手との信頼関係を構築することだ。きれい事の外交などあり得ない。そして、最初にすることは、拉致被害者の消息を生死を含め再確認することだ。

 科学的な問題を提起されためぐみさんの遺骨問題など、もつれた糸を丹念に解きほぐすことから始めなくてはならない。首相やアメリカの正・副大統領と横田夫妻が面会するだけでは何も解決しない。拉致問題を国内政治に利用する期間はすでに去った。留守家族の心情に反する結果が出ようと、未解決のまま北朝鮮崩壊を気長に待つということは、留守家族の望むところではないはずだ。

2007年2月27日

日中関係史考

【「田中上奏文」の怪】
 昭和のはじめ、中国は幾多の軍閥、政治勢力が覇を競い合い、恒常的な内戦状態にあったといっていい。曰く蒋介石、汪兆銘、張作霖、毛沢東、張学良などなど、そしてそれぞれの勢力は時には手を結びあるいは反発しあい、諸外国に援助を求めたりまたは特権の放棄を要求するなど、文字通り「麻のように乱れていた」といえる状態だった。

 その中で、日本は遼東半島と満鉄などを足ががりに「満蒙は日本の生命線」と称してじわじわと勢力範囲を拡張し、居留民保護などの名目で山東省への出兵を3回も繰り返した。当然、中国人民の激しい抵抗や反発を受け、衝突による死傷者の増大は避けることができなかった。

 鉄道爆破による張作霖爆殺事件が起きたのはこういった時期のことである(1928年・昭和3)。また、これが関東軍の謀略であるということも時を経ずしてわかった。時の田中義一首相といえば、この事件の責任追及を完遂できなかったため天皇の不興を買い、内閣総辞職するはめになったことで有名である。

 今回のテーマ「田中上奏文」はこれと関係ない。最近1史料をもとに、張作霖謀殺はソ連諜報機関のしわざ、と主張する人がでてきた。あとで1史料が出てきたからといって、歴史が書き換えられるわけではない。史料の普遍性や幾多の傍証に支えられるものでなければ、創作か怪文書扱いである。

 怪文書とは、ある目的をもって偽造、捏造された文書のことを言う。最近は文書に限らず映像までこれに加わった。怪文書はあくまでも怪文書であり、「歴史」とは無関係である。9.11の爆破自作自演説なるものもあるらしいが、通常ならこれは歴史になり得ない。しかし、世界各国の多くの人がこれを真実と信じるようであれば、その現象の背景にあるものを探索する意味はある。

 「田中上奏文」も、これと似た位置に置かれている。日本では戦前すでにこれが偽作であるということで決着しており、東京裁判でも「にせもの」という判断が下されている。歴史書でも全然触れないか触れてもわずかでしかない。そこでまずその概略を説明しておこう。

 昭和2年4月田中内閣が成立し、6月に外務・陸海軍当局者で構成する東方会議を開催して、対中国強硬策を決めた。その内容を天皇に上奏するためと称する厖大な文書がそれある。これには宮内大臣宛の代奏要請書簡がついているが、元来その任務は内大臣の担当であり、これが偽書説の有力な理由となっている。

 文書の内容は、満蒙政策を中心に21項目2万6千字にわたるもので、もし本物なら異例のボリュームと内容になる。そして問題になったのは、「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ず先ず支那を征服せざるべからず」という文言があり、その後の日本の行動がほぼその線に沿って進んだことである。

 このような露骨な征服野心丸出しの方針が、天皇を含めて昭和のはじめからあったとすれば、「追い込まれたためやむをえず戦争にまきこまれた」などという口実などスッ飛んでしまう。そして間もなく中国語、英語、ロシア語に訳されたものが出回りはじめ、各国の新聞にも掲載されだした。

 無論、日本の外務省はその存在を否定し、米国などでは偽作であることが次第に理解され始めたが、中国、ロシアでは本物とする向きが多く、仮にそうでないにしても、日本のしかるべきところで作成された指針には違いないという解釈が根強く残っている。

 この文書の作成者や流出ルートなど、いろいろ研究されているが、これにもソ連の諜報機関関与説や中国人商人の暗躍など、怪文書にふさわしいいろいろな情報が交錯している。日本でも、その文脈から、日本人の手になる部分があることを否定しきれないと考えられている。

 張作霖爆殺後、期待?に反して後継者の張学良などが冷静で、反日騒動などの動きに出なかったことを陸軍の中枢が残念がった、という話があるぐらいなので、あるいは軍部の過激派が中国を挑発するために偽作したという線もなきにしもあらずである。陸軍出身の田中でさえ陸軍を抑えきれないという現象は、この時期に始まる。

 いずれにしても、日中両国の研究者にとってこの文書の持つ意味は大きく、今後、両国関係史を検討する中で単なる怪文書として捨てきれないものになると想像される。(参照文献『国境を越える歴史認識』ほか)

(このシリーズのバックナンバーをご覧になる場合は、カテゴリ「東アジア共同体」で遡及してください)

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