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2007年2月 1日 (木)

戦争神経症

[反戦老年委員会復刻版]

 最近、『日本帝国陸軍と精神障害兵士』を引く形で、「逃亡兵」「思想要注意兵」の2題をエントリーしたが、肝心の戦争が直接原因となる「戦争神経症」については、問題を要約するのに困難を感じていた。調査対象となった国府台陸軍病院では、患者総数約1万余名うち約6%が痴愚、魯鈍などと分類される知的障害患者で、約42%の精神分裂症が第一位、以下ヒステリー、外傷性てんかん、精神衰弱そして知的障害の順となっている。

 当然、米軍のイラク派兵などで問題にされている心的外傷後ストレス障害(PTSD)という分類はなく、戦争によるトラウマ関連の研究もなかったように見える。その裏には「皇軍の精鋭に精神障害者などいない」という建前と、兵士自身にも「こわさ」とか「おびえ」は、口が裂けてもいえなかった事情もありそうだ。

 しかし太平洋戦争激化にともなう入院患者の増加もあり、「戦時神経症」の名で追跡調査がはじまったが、特に「平時」の症例と異なる対症療法があったわけではなかった。その中に、中国戦線で上官の命により多数の住民や、自分の子と同じ年頃の子まで銃殺したことに対する自責の念が起因、という記録も残されている。

 戦争神経症は、目黒克己氏の調査によると、第二次世界大戦での精神障害の中で戦争障害の占める割合は、日本21%、ドイツ23%、米国63%であるという。また、国府台病院では、終戦直後に患者の病像に変化が見られ、約29%が早期恢復を示したという。同書はさらに訴える。

 戦後初期、戦傷病者は「未復員者給与法」によって療養の給付を受けた。その後、援護法制は変わったが戦傷精神障害元兵士の多くは「精神病」にたいする偏見・差別もあって、精神的・社会的にいわば<未復員>状態が続いたようである。2005年3月末現在、「戦傷病者特別援護法」等による入院精神障害者は全国で84人(平均年齢80代半ば)である。

 上記のように<未復員>状態に置かれたまま、遂に祖国に戻れなかった韓国・朝鮮の元兵士・軍属そしてBC級戦犯もいた。また、徴兵ではないイラク派遣自衛隊員も、表面化しないだけで決してらち外あるわけではない。「戦争神経症」は過去の話でなく、まさに現在の問題なのである。

2007年2月2日

娑婆

 昭和20年(敗戦の年)、高見順『敗戦日記』より。

二月二日
戸を開けると雪景色。
 昨日もそうだつたが、電車が通ると、時に車輪の音にまじつて、バンザーイ、バンザーイという声が聞こえる。海兵団に入る若者が窓から叫んでいるのだ。外の道を誰も通つてなくてもそう叫んでいるのだ。海軍の言葉でいえば「娑婆」――「娑婆」にそうして別れを告げているのだ。

 この日の日記はまだ続く。鎌倉の文士・島木健作宅へ出かけたこと、途中顔見知りの美少年の駅員に会い「五日に入営することになりました」と言われたこと、警報が1回あったことなどがある。ここで上の情景について、現場をご存じない方のためにすこし解説する。

 電車は現在のJR横須賀線で東海道本線の大船駅から鎌倉、横須賀方面に分かれる。その次の駅が北鎌倉で、現場はその駅にさしかかろうとするあたりだろう。海軍の本拠地・横須賀まではあと30分ほどである。片側は深い林で、反対側は道に沿っているが駅近くにきても人通りはほとんどないところだ。

 雪の積もった凍てつくような朝、走る電車の窓をあけ、大声で万歳を叫ぶ心境はいかなるものであろう。あとわずかで娑婆(世間)にお別れ、ことによると一生の別れになるかもしれない。いや当時ならその可能性の方がはるかに大きいのだ。

 もちろん酒を飲んでいるわけはない。道路に、木々に、電信柱に向かって真剣に叫んでいるのだ。あるいは見えないけど近くにある名刹、円覚寺か建長寺に武運を祈っているのだろうか。いずれにしても「靖国で会おう」などのキザなせりふでないだけ、よけいに涙をさそう。

2007年2月6日

文明の衝突

 非常に深く広く、かつ多様な解釈と今日的な意味合いを持つ言葉だが、終戦直後占領下に置かれたとき、まさに「文明の衝突」が引き起こされたわけである。別に筋立てて文明論を展開する気はなく、非常に狭い範囲ながら当時の世相を観察したことを書いてみよう。

 学校の若い意欲的な授業をする先生の話。

 「間もなく進駐軍が入ってくる。そうすると必ずスリー・エス(3S)政策をとる」といって黒板にSports、Screen、Sexと書いた。さらに「アメリカがフィリピンでとった政策だ。それでフィリピン人を骨抜きにすることに成功した」といった。しかし、そのように感じたことはなかった。

 日本の軍人のように軍刀や短剣を持たず、丸腰で大きなお尻の線が出る軽快なミリタリー・ルックで街に出てきたのには驚いた。兵舎の便ツボをのぞいてきた奴がいった。「緑色で細かったよ」。緊急出版したポケット英会話集が飛ぶように売れた。

 民主主義や自由主義は戦時中よくないこと、として抑圧されていただけで、別に違和感はなかった。かわりに、封建的とか家とか、義理・人情はいけないとされた。「義理・人情」がどうしていけないの?、という声は多かった。漢文のテキストから孔・孟が消え、「忠・孝」など儒教関連がなくなった。

 いわば急速な改革・開放が実施されたわけだが、天皇を人間でないことにしたかったのは為政者の方で、象徴というのはチョット変だけどそれで落ち着けばいいんじゃないの、という感じだった。反対は共産党だけだった。奨励された労働運動なのに2.1ストがGHQの指令で禁止されたのはちょっと意外だった。

 それから数年後、食うに困らなくなるとジャズがはやり、クリスマスイブに馬鹿騒ぎする風習ができ、若年層はにプラグマチズムが普及した。

2007年2月9日

『蟹工船』ブーム

  1933年、逮捕されたその日のうちに警察の拷問で虐殺された小林多喜二の小説、「蟹工船」が今マンガでかくれたブームになっているという。(写真は毎日新聞・千葉西北版=省略)>

 この小説は、戦後まもなく解禁された「プロレタリア文学」の代表作として、青年の間で必読書のように読まれたものだ。しかし、やがて高度成長が始まるとともに、その過酷で暗いイメージが敬遠されたのか忘れられてしまった。

 それがこのほど、マンガに再現された『蟹工船』としてお目見えした。同書は“資本主義社会の矛盾としての「格差社会」を鋭く批判した内容が分かりやすく描かれており、高校生や大学生らの評判になっている(毎日新聞)”という。

 そのほか、がいろいろなブログなどでも取り上げられ、密かなブームなってるようだ。そこには「人間」より「蟹の捕獲」が大切と堂々と宣言する資本家の手先を、現代の「ワーキング・プア」と結びつけて考える下地がありそうだ。

 同書の復権は、嘆くべき現象なのだが、現代のゆがんだ経営倫理や労働者が持つべき権利意識を健全化する方向に向かえば、注目すべき社会現象のひとつといえよう。

 「30分で読める大学生のためのマンガ・蟹工船」
  原作:小林多喜二   作画:藤生ゴオ
 企画:白樺文学館(我孫子市) 発刊:東銀座出版
       定価:600円(税込)

2007年2月23日

「イエ」のあり方

 戦後、捨て去るべきものとして封建思想、全体主義、国家主義などとともに「イエ(家)中心の考え方」があった。「家名に傷がつく」とか「家の誉れ」とか「家筋」「家柄」といった考え方である。われわれの親の代には、まだ「あの家は士族だから嫁ぎ先として申し分ない」などという会話が生きていた。

 江戸時代の武士は、それぞれの人に録(給与)がつくのではなく、「家」に定められたものを世襲するわけだから家を守り、もり立てるのは大変である。不義不忠ものがでて家名をけがすと、それが代々の収入に影響するからだ。

 したがって一家そろって、世間体をつくろっていくための連帯責任がある。親は子を育て、子は親を養い世間とは身分相応のつきあいをする。したがって家を嗣ぐ長男には、2、3男と違って特別の権利と義務があり、徴兵でも配慮された時代があった。

 明治から昭和になり、昔の身分制は表面上なくなった。しかし民法、刑法、戸籍法その他、まだまだその名残をとどめていた。そんな制度上の問題は別として、いま考えると親が子を殺し、子が親兄弟を殺すなどという人倫にそむく悪逆無道ぶりは、想像の範囲を越えるもので、通常あり得ないことだった。

 戦後、福祉国家の実現は日本国民の夢であった。しかし、親が子を育てず、子は親を養なわなくてもいい世界を望んだわけではない。老人福祉も子孫繁栄もイエが支えてきたのだからと言って、いままた旧にもどすわけにもいかない。

 かつてのイエの概念は、一種の「護送船団」方式であった。それを破壊し尽くすことには、慎重でなくてはならなかったのだ。いま、日本人にあった家族のあり方を、もう一度さぐりださなければならない時期にきているのではなかろうか。

 ただし、いまだに「女性は産む機械」などと言ってしまう人がいるので、まちがっても「イエ中心主義」が「美しい日本」、などと取りちがえないようにしてほしい。

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