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2007年2月

2007年2月 5日 (月)

番組捏造

[反戦老年委員会復刻版]

 納豆を題材にした捏造番組が世間の話題になっているが、わかってみれば他愛のないことである。まあ最初からタカをくくって信用していないから腹も立たないし、これを機にあの手の企画が一掃されれば怪我の功名ということにもなろう。

 ところが案外見過ごされているのが、NHKがさもハイレベルの教養番組めかして放送する「歴史もの」である。例の、大騒動になった「従軍慰安婦問題」を扱った番組は、見ていないので論ずるわけにいかないが、史料の扱い方、時代背景の把握、総括の仕方など、番組を盛り上げるために一方的な解釈がさも真実であるかのように扱かわれていたとすれば、やはり問題だったのだろう。

 特にに現代史の場合、学術的に論争があるものは両論を示すなど慎重な配慮がなくてはならない。それなら古代史なら、ロマンだとして縦横無尽の空想や憶測のもとに筋書きを書いていいかというと、そうはいかない。明治以降、神話伝説をつまみ食いして非科学的皇国史観を築きあげた例がある。

 少し前に、蘇我入鹿は逆賊ではなく飛鳥朝廷を守った、という趣旨の番組をNHKが放映した。その筋書きの概略はこうだ。
 ①最近、飛鳥の入り口に位置する高台、甘橿丘の発掘調査で大規模な倉庫群を発見した。一帯を要塞化した蘇我家の兵器庫で、日本書紀の記事がこれを裏付ける。
 ②一方、石舞台古墳のある一帯は蘇我家の本拠で、東西を山に囲まれた板葺宮(朝廷)の南側を固める位置にあり、北側にある甘橿丘と蘇我の菩提寺飛鳥寺の要衝で敵の侵入を防ぐ態勢を作った。
 ③入鹿が恐れていたのは、唐の軍勢である。入鹿は遣唐使などを通じた平和外交と首都の防備で朝廷を守ろうとした。

 ①、②は日本書紀に書かれていることがそのまま考古学的に証明できる。ところが③は憶測だけで何も証明するものがない。「入鹿が逆臣であるという、これまでの定説をくつがえすもの」と解説するが、高名な学者を登場させ、書かれていないことが真実で、書かれていることが虚像であるかのような構成にしている。

 しかも、後世の「帝国主義的侵略」を唐が意図していたようなことをいう。こうなると明らかに弊害をともなった通俗化といわざるを得ない。津田左右吉教授が日本書紀批判で残した功績は不滅のものだが、ただ書記に書いてあることと反対のことを言えばいいという後進の先生方の多いことは、嘆かわしいことである。

2007年2月8日

反戦らくがき帳

【イラク撤退】
 ブッシュ大統領のいう「テロとの戦い」は戦争なのだろうか。日本は外交上の配慮もあって日中戦争を「満州事変」、「支那事変」と呼んで戦争でないことにした。だから宣戦布告もしていない。戦争とは、国(国民国家)と国が正規軍(暴力装置)をあげて戦うものとすれば、今イラクにアメリカが正規軍を増派するの何のためなんだろう。

 だいたい戦争の相手がいない。自爆テロの犯人?、スンニ派?、シーア派?、なんとなくイラク人?、イラン人、シリア人?、ムスリム?。それとも、ここにはいないウサマ・ビンラディン?、パレスチナのハマス?……。

 どうやら「テロとの戦い」は「戦争」ではなさそうだ。そもそもが大義のない出兵だった。すでに「戦争」以上の醜悪を世界にさらしている。そう、久間さんや麻生さんではないが「えらそうに言わず」に「失敗」を認めて、サッと撤退する方がいいですよ……、っていえないだろうな、安倍さんでは。

 イラクから撤退すると混乱し内戦状態になる?、もう十分内戦状態でしょう。イランの影響力が強くなる?、もうすでに強くなっており、それで平和になれればイラク人もホッとする。イランは事後処理の責任を負わされ、他国との摩擦激化をさけると思うよ。

 一番こわいのは、「アメリカは勝ったのだ」といいはるアメリカ人気質。それでベトナム戦争の反省がおろそかになり、ネオコンをはびこらせてしまった。そうです、アメリカは偉いのです。アメリカは世界一強いのです。だからこそ、反省すべき所はチャンと反省してくれなくては。

2007年2月10日

建国記念日

  明日は、建国記念日。なにがあったのでしょう。まず『日本書紀』から。

 辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮 是歳為天皇元年

次は『古事記』。

 凡此神倭伊波礼毘古天皇御年 壱佰参拾漆歳 御陵在畝傍山之北方白梼尾上也

 イワレヒコ(神武)天皇は2667年前の正月1日、ヤマトの侵略を終え、奈良県橿原市で即位されました。まだ暦のない時代なのに、中国風の暦でよく「明日だ」ということがわかったものです。明治のはじめ、お上がそう決めたのだからまちがいありません。

 しかしこの天皇、137歳まで生きられたとはやはり長寿国・日本ですね。いやいやそれで驚いたらいけない。この時代100歳以上はザラ、153、168というお方もいらした。その健康法も古事記に残っているといいんですがね。TVの捏造番組などはふっ飛んじゃう。なんともありがたいお話です。

 神武天皇のお墓、最初の天皇の墓にしては小さく、考古学者は後世になってから適当にあてがったんだといってますが。そんな不敬なことをいうから「おまえは皇賊の八十梟(フクロウ帥」だなんていわれるですよ。

「♪草も木もなびき伏しけん大御代を あおぐ今日こそ楽しけれ」。

2007年2月11日

憲法に罪はない

 お玉おばさん、&とくらさまからのおすすめもあり、昨夜NHKのETV特集「焼け跡から生まれた憲法草案」の放映を見た。一昨日も「日中戦争」関連の10時から始まる長時間番組を見たが、なぜか時々映像が先へ飛んでしまう。朝、目覚めの早い分だけ睡魔も早くいらっしゃるのだから仕方がない。

 さて、ヨタはいいとして、憲法制定の頃の話である。政府が進めていた、松本烝治国務大臣を中心とする官制の「憲法問題調査委員会」に対し、民間の学者、評論家の研究グループ(高野岩三郎、馬場恒吾、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵)で試案を作った「憲法研究会」の話が中心である。

 松本委員会が、明治憲法を出来るだけ温存する線で、前向きな姿勢を示さなかったことに業を煮やしたGHQが、革新的、民主的内容を盛った「憲法研究会」案にとびつき、後のGHQ草案に影響を与えた、という観測は以前からあった。

 その周辺を、証言や史料を使ってより克明にえがいたもので、現憲法が突発的、一方的に定められたものでないことを訴えている。それは、この憲法を高く評価する人もまた反対の立場の人も、当時の動きをくわしく研究した人なら常識になっている。

 この点、安倍総理のいう「戦後レジームからの脱却」や「占領下の押しつけ」など、改憲のレトリックが通用しなくなるのだ。これをわかりやすくいえば、戦前体制をできるだけ温存しておきたかった松本委員会(内閣)にとっては「押しつけ」だったが、国民にとっては「天皇の人間宣言」同様、驚きはしたものの決して「押しつけ」とは感じなかった、ということである。

 ただ、この話はあくまでも正史ではなく稗史(エピソード)である。これ以外の当時のエビソードは数多くあるし、GHQがなぜ憲法改正を急いだか、政策に微妙な変化が生じたか、また天皇をはじめ議会や政界、学界、あるいはマスコミ、一般大衆などがどう受けとめ反応したかなど、研究課題は沢山ある。そこから現憲法の生い立ちを再確認する作業がどうしても必要だ。NHKは、真摯な歴史検証でその権威を維持発展させていく任務が、これからもあるのではないかと思った。

2007年2月12日

菜の花忌

 今日は、菜の花が好きだった司馬遼太郎氏の命日で、「菜の花忌」というのだそうだ。当地でもこの暖かさで気の早い菜の花はすでに盛りである。そこで今日は、数十年も前に評論家・江藤文夫氏との対談で答えた司馬のことばを紹介しておきたい。(『手掘り日本史』文春文庫)

 歴史というものを見るについて、さまざまな奇談奇説というものがおこなわれます。その歴史を見るさいに、何よりもまず、奇談奇説を考えようとする自分、それにまどおうとする自分をおさえることが大事ではないでしょうか。義経が生きてジンギスカンになったとか、明智光秀が僧天海であったとか、そういう類の奇談奇説を信じない、という姿勢が大切だと思います。

 むろん、奇談奇説が真実のまとを射ていることがあります。しかし百に一つ、ほんとうのことがあるにしても、九十九に対する自分の目が曇ってしまって、奇談奇説好みの目になりますから、やはり九十九、普通でたいらかでありたいという気持ちで、歴史をみなければいけない。小説家の場合はとくにそうでしょうね。

 本文より長い引用などは、明らかに著作権侵害である。しかし、ここは「反戦老年委員会」全体の中での引用ということで、お目こぼしをいただきたい。また、小泉首相の靖国参拝このかた、小説家だけではなく、国民全体が「歴史をみる目」をきたえなければならない時期に来ている。

 私は、義経、光秀奇談奇説のほかに、最近はやりの「○○はなかった説」を加えておきたい。○○には「邪馬台国」、「聖徳太子」などもあるが、「南京の虐殺」「従軍慰安婦」「A級戦犯」「天皇発言メモ」その他もろもろ、とかく断定的にとなえる言説には、まどわされないよう用心が必要だと思うし、わが委員会の基本的姿勢でもある。

2007年2月15日

現代版・竹槍防衛

 防衛庁から防衛省に昇格、その意味もよくわからない国民は、昇格したことにより、より高度で国民のためになる防衛政策がうち立てられるもの、と期待している。毎日新聞は、人道的に問題のあるクラスター爆弾についてキャンペーンを張っているが、それによると自衛隊が保有するクラスター爆弾の現状は次の通りである。

 所有するクラスター爆弾は、87年に初めて米製のものを輸入して以来、20年間継続して購入してきた。現在は155㍉りゅう弾砲用に小松製作所が開発したものをのぞき、爆弾、ロケット弾用などすべてアメリカ政府またはアメリカのライセンスによる国内生産である。

 以前、わが委員会でも取り上げたが、専守防衛を掲げる自衛隊がなぜクラスター爆弾を所有するかについて、防衛省は「広範囲から一斉上陸してくる敵兵や装甲車を短時間で撃破するのに他兵器で代えられない威力があるため」としている。

 この攻めてくるという想定は、冷戦初期にソ連による北海道侵攻を考えて以来のものであろう。現実にはあり得ない話だ。北朝鮮や中国を考えたい好戦マニアがいるかも知れないが、秘密工作船ならいざ知らず、装甲車まで従えた大部隊が上陸してくるなど笑止千万だ。

 そのような部隊が上陸するためには、防衛監視システムが破壊され日本の制海権や制空権が奪われていなければならない。海自や空自にその能力がないのなら、高い近代兵器に金を使う意味がない。そしてクラスターでも竹槍でも準備するしかない。

 この22、23日にオスロで開かれる、クラスター爆弾禁止を目指す有志国会議への参加を日本は事実上拒んでいる。理由は、国連の特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)での議論とすべきだ、ということだ。アメリカなど常任理事国が乗ってこないから、せめて有志国だけでも、というのがオスロ会議の趣旨である。

 使い道のない日本は、率先参加していい会議である。まさか、07年時で450万発以上(イラクで使われたのは1万発超)と推測されるアメリカの過剰在庫消化に協力するためではないだろう。防衛省になろうが、国家安全保障会議をつくろうが、この程度の防衛政策さえたてられないようではお寒い限りである。その責任は、まっとうな議論さえできない野党にもあることをわすれないでほしい。

2007年2月16日

続・竹槍防衛

 昨日のエントリーは、「現代版・竹槍防衛」と題して次のとおりしめくくった。

 防衛省になろうが、国家安全保障会議をつくろうが、この程度の防衛政策さえたてられないようではお寒い限りである。その責任は、まっとうな議論さえできない野党にもあることをわすれないでほしい。

 どうも言いたいことが適切に表現できていない。そこへ夕刊が届いて、「これだ」というべき対談を発見した。連日のように毎日新聞の引用で気がひけるが、反戦《老年》委員が現場を踏んでる若い人と認識を共有できる点があるので、意見の相違点とともに是非紹介しておきたい。

 対談は、1975年生まれの中島岳志・北海道大助教授の質問に、1957年生まれの東京外大教授・伊勢崎賢治氏が答える形になっている。伊勢崎氏はインドなどでのNGO活動の後、東ティモール、アフガニンタンその他で、国連幹部や日本政府代表として紛争処理、武装解除に当たってきた。以下「」内が引用である。

【東ティモールでの体験】
 外務省の要請で、多国籍軍の文民統括をすることになった。「それまでは普通の日本人と同じく、私にとっても軍隊は大変に遠い存在でしたからとまどいました。しかし、私の下にいたオーストラリア軍の司令官が私を前に立てることで、現地の人にも私にも、文民統括とは何かを教えてくれた。この経験が、その後も非常に役立ちましたね。

【自衛隊派遣の評価】
 「ほかの先進国は、なるべく身銭を切らず人も出さずに、できるだけ大きな政治的影響力を及ぼせるか考えます。それが先進国の外交なんです」と、まず派兵ありきの日本の外交が特異であることを述べ、それが国内政治からきているとするならば「これは非常に不純。軍隊を出すというのは、一般市民を殺すかも知れない究極の外交選択なのに」という。

【今後の自衛隊海外派遣について】
 現状のように、国民も官もメディアも軍事に対する意識が低く、その体制すらない状態では絶対に出すべきではないと、次の例をあげる。<br /> 「PKF(国連平和維持軍)の部隊は国連の指揮下に入り、外交特権がある。現地で殺傷など何かの事件を引き起こしても現地の法からは免責という保護が与えられる。これが有志連合だと現地社会との契約はあやふや(中略)。軍法会議もない日本が、隊員が海外で罪を犯したときにどう対処するか。現地の法廷に突き出すのか。これでは、彼らはたまったものじゃない。宿営地に引きこもるしか身を守るすべはないでしょう」

【憲法と国際貢献について】
 伊勢崎氏は、現憲法9条は活かすべきで、自衛隊は国連が派兵する場合に限り参加すべきだ、としている。これは民主党の小沢主義に近く、98条(国際法規の遵守)で解釈すれば改憲の必要もないと主張する。

 この点は、わが委員会と意見の相違がある。氏がいうように自衛隊は外見上<軍>であっても内実は<隊>のままなのである。これでは<軍>として海外に派遣できない。それは度重なる解釈改憲のなせる業なのである。国連改革の道遠しの現状から見て、今<軍>を急造する必要はなく、<隊>のままでも自衛隊が国際貢献できる道があるはずである。それは国連の軍事力となることではなく、軍事行動を回避させるための行動である。また、解釈改憲の道をとざすため、自衛隊の任務の範囲を、9条とは別に明確化することも考えておく必要があろう。

【9条を活かす法】
 「保守はアメリカに寄りかかればいいという現場感覚なしの<現実論>だけ、左派も<9条さえ守れば>の非現実だけ。その両方に無理がある。だからこそ、あえて今、しっかりとした護憲論を考えたいんです」という中島の問いかけに対し、伊勢崎はこう答えた。

 「9条には国際貢献の面で積極的な意味があります。たとえば、アフガンの武装解除が成功したのは日本がやったからです。日本政府特別代表だった私はよく軍閥に“日本の指示だから従う”と言われました。彼らは日本が経済大国であると共に、戦争をしない人畜無害な国だと感じ取っている。この人畜無害さは9条がつちかったものです。なぜそのイメージをもっと利用しないのか。国際紛争の調停に、日本ほど向いている国はないのに」

【付け足し】
 伊勢崎氏は小泉首相(当時)に、東ティモールへのPKO(国連平和維持活動)派遣を「たとえ隊員が死んでも、それを理由に撤退してはならない」と進言したという。わが委員会も同感である。

 イラク派遣の際、わが委員会も当然反対で、デモにも参加したが、派遣隊員に犠牲がでるとか、携行武器の制限があって危ないからという理由づけには組みすることができない。警察でも消防でも危険と隣り合わせの仕事はたくさんあるのだ。

2007年2月17日

クラスター禁止会議参加へ?

 一昨日以来「現代版・竹槍防衛」として、わが国のクラスター爆弾禁止に対する姿勢を追求してきた。ところが、急遽5日後に迫ったオスロの国際会議にわが国政府も参加するという。これも、サイト上は毎日新聞にしかでていない。

 「毎日」が禁止に向けてキャンペーンを張っているにしては、1面2段抜きで扱いが小さい。政府は参加する気なかったのに、今になってノルエェー政府に頼んで招待状をだしてもらったようだから、なんらかの方針変更があったにちがいない。

 しかし、「禁止に賛成する」とまでは言っていない。ただ単に偵察のためだけで行くのであれば止めた方がいい。わが国外交の未熟さ、主体性のなさを世界にさらしにいくようなものだからだ。

 それならば、「毎日」の扱いが小さいのもわかる。いずれにしても、会議参加を急遽水面下で進めてかけつけるようなところが、いかにも安倍内閣らしい。そしてさらに、最大野党・民主党の得点にはなっていないところも……。

2007年2月18日

民間信仰 1

 狸便乱亭にお邪魔すると、なんやら神々しい雰囲気である。そこで、2拍手1礼とかなんとか肩の張ったことを問わない「民間信仰」に話を振ってみた。民間信仰というけど、そうじゃないのは何というのだろう。「官制信仰」?、「官製談合」なら聞いたことあるけど。だけど、終戦前は「別格官幣大社」とかがあり、中社から村社、郷社まで格付けがあった。

 神社本庁とか○○宗大本山の名簿にない礼拝対象が民間信仰かなあ。天神さまやお稲荷さんなど、もともとは民間信仰なんだろうけど、太宰府天満宮・亀戸天神・伏見稲荷・豊川稲荷などすっかりメジャーになられた。

 第1回は受験シーズンだし天神様からはじめよう。

 右の写真(省略)は前に一度使ったが、東京名所の湯島天神。右奥に絵馬やお札を売るところがあり、買う人が正面の本殿前を横切って並んでいる。看板の矢印のように進むのだが、売りさばく人は数人いるのだから、一列じゃなく数列に並ぶよう、時々神社の人が出てきて指導?する。

 左は、そんな混んだところへいかなくてもすむ田舎の自家用天神様である。よほど霊験あらたかだったと見えて、最近リホームされたばかりである。祭神の菅原道真は、学問の神様、雷よけの神様とされ、受験の神様というわけではなかったと思うのだが……。

♪通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ どうか通してくだしゃんせ

という里謡があるから、やはり試験に<通る>ようお願いする神様、ということでよさそうだ。受かった人、「おめでとう」。お礼参りも忘れずに。

2007年2月21日

民間信仰 2

【観音さまの巻】

 観世音菩薩。釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来など最高位の仏様とちがって、菩薩、つまりまだ修行中の身分であらせられる。しかし民間信仰の人気では疑いもなくトップクラスである。
(映像略)

 衆生(しゆじよう)の声を聞き、その求めに応じて救いの手をさしのべる慈悲深い菩薩というわけだが、鎌倉大仏・長谷観音の「美男におわす」をはじめ、柔和で均整のとれた仏像が人気を集める理由であろう。

 ところで、観音さまは男?。私にはまちがいなく女性に見えるのだが。男女を超えた理想のお姿という行司さばきもあるれど、やはり信者が勝手に想像するのが一番いい。

 東京は浅草寺の1寸8分金無垢のご本尊。推古天皇の頃、あたりの漁師の網にかかったものだというが、いまだ誰も見た者がいない。だから男か女か、あるいは本当に仏像があるのかないのか、誰も知らない。

 大火で本堂が焼け落ちてしまった時は、近所の榎の大木の梢あたりに避難されていたそうだが、もしそうなら情報公開の世の中、一度はお姿を拝みたいものだ。

2007年2月25日

残照と梅

(映像略)

夕映えに 残る梅花の 白さかな

2007年2月28日

「君が代」伴奏判決

 最高裁で、公立小学校のセレモニーにおける「君が代」のピアノ伴奏の職務命令は、憲法違反でない、という判決があった。裁判官の全員一致ではなく、1裁判官の「本件における真の問題は、入学式での伴奏は、自らの信条に照らし教諭にとって極めて苦痛なことであり……」という少数意見が新聞に出ていたが、この方に共感する。

 私も1950年に「代用教員」というのをやった経験がある。もし自分だったらどうしただろう。仮に君が代、日の丸に抵抗感を持っているとして、「起立、国歌斉唱」という号令がかかれば、立ち上がって歌わないでいるか、口をパクパクさせ、歌っているフリをするまでである。

 ただしピアノ伴奏はそうはいかない。楽器と言えば、ハーモニカしか親しんだことがない(戦時の少年はほとんどそうだ)のでわからないが、自分の信条(心情でもいい)に反していやいや弾くとなると、指がこわばったりしないものだろうか。

 子どもの頃、音楽の先生や図画の先生はみんな芸術家に見えた。そういった先生に業務命令を出すこと自体は、憲法違反でないとしても、懲戒処分にするというのは「強制労働」になるのではないか。

 憲法第18条[奴隷的拘束及び苦役からの自由]
  何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 に触れないのだろうか。どなたか専門家の方にお聞きしたいものである。

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2007年2月 4日 (日)

日中関係史考

[反戦老年委員会復刻版]

【対華21ヵ条要求】
 前回、「中国から見た日本」をはさんだため、「対華21ヵ条要求」についての言及がおくれてしまった。もう一度前2回を復習すると、中国には、清朝を崩壊に導いた1911年の辛亥革命が現代史のはじまりという視点があり、「建設」(近代化)と「統一」(統一国家の形成)という辛亥革命以来の2大目標を未だ実現していない中国にとって、最大の障害は日本らよる中国侵略であったという認識があること、一方、第二次世界大戦の動乱の中で日本が突きつけた「対華21ヵ条要求」こそ、日本の中国侵略意図を露骨に示すものであったということである。すなわち、日中間の歴史認識に対するすりあわせは、ここから始めなければならない、ということになる。

【辛亥革命始まる】
1912.2.12 清朝滅亡
1914.07.28 第一次世界大戦始まる。日本、中国は中立宣言
   .08.07 英国、商船等の保護のため日本に参戦要請
   .08.14 中国、対独宣戦布告
   .08.23 日本、対独宣戦布告
   .09.02 日本軍、山東半島に上陸開始
1915.01.28 対華21ヵ条要求提出

 新聞を見ると、最近またセルビアとかボスニアという文字を多く見るようになった。第一次世界大戦の発火点もここである。同地を訪れたオーストラリア皇太子の暗殺をめぐって、ドイツ・オーストラリア-ハンガリー・イタリアの三国同盟とイギリス・フランス・ロシアの三国協商両陣営が勢力圏拡大でのるかそるかの戦いをはじめた。

 遠く離れた日本にはかかわりのないことで、大隈内閣はまず中立宣言をした。ところが元老・井上馨の「今回の欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑」といった方向に引っ張られた。折から、中国の青島を基地にして英国商船を脅かすドイツ軍艦を追い払って欲しいという英国の要請があった。

 日本は、これ幸いとばかり青島を攻略して、ドイツの中国における諸権益を奪取する計画をたてた。驚いたのは英国である。そこまで頼んだ覚えはないので、あわてて要請を取り消したほどだ。

 中国もこの動きを見て、ドイツに宣戦布告し、膠州湾租借地に関する契約などを無効にさせた。ドイツが租借地を直接中国に返還すれば日本の介入余地がなくなる。日本の参戦理由はあくまでも同盟国イギリスへの情誼ということになっている。租借地をドイツから取り上げて中国に戻す、という口実を使った。

 大戦の主戦場、欧州では戦線の膠着状態が見られたが、極東では日本の参戦で秋から冬にかけ青島や南洋諸島の占領が終わった。そして対華21ヵ条要求を北京政府につきつけるのである。その詳細は省くが、山東省のドイツ権益は日独両国で決めたことを中国が受け入れる、日露戦争で日本がロシアから接収した旅順・大連などの租借権や鉄道の管理権をさらに99年延長する、満州や内蒙古での日本人の資産獲得などに便宜を与える、政治、経済、軍事などに日本顧問を招くなどが含まれている。

 中国はドイツに宣戦布告した。したがって最終的には戦勝国に入っている。しかし日本は軍事的圧力のもと、あたかも中国が敗戦国であるかのような要求をでつきつけてきたのだ。中国国民にしてみれば「どうしてこうなるの/なんでやねん」といいたくなる気分だろう。当然、各国から同情や抗議・介入があるものと期待した。

 アメリカをはじめ、それぞれ日本の行動に対して問題意識は持っていた。しかし、イギリスなど連合国側は、ヨーロッパでの総決戦に手いっぱいで極東に関心を持つ余裕はなく、また日本も同盟国としての協力を示しながら、巧妙に各国に根回しをすることを忘れなかった。それに中国自身が南北の対立などで辛亥革命後の政権基盤が固まっておらず、統一国家としての力量を発揮できなかったこともあろう。

 こういった、火事場泥棒的な行動は、日本国内でも意識されており、中国人の爆発的な排日運動を引き起こすもとになった。日本の要人の中にも、この結果を憂慮していた向きがなかったわけではない。しかし、日清、日露戦争で多大な犠牲をはらい戦費を負担したのにもかかわらず、十分な見返りを得ていないばかりか、いつ押し返されるかわからないという不安を、この際解消しておきたいということと、欧州列強を中国から排除してやったのに、中国人はこれを理解せずいつまでも仲間同士で抗争を繰り返している、という中国人蔑視の風潮が後押ししたのではないかと考えている。

2007年2月7日

日中関係史考

【帝国主義の変貌(パリ講和会議)】
 日清・日露そして日中・太平洋戦争にくらべて第一次世界大戦は、日本人にとって印象が薄い。しかし中国人にとっては、国内で外国同士が戦争をし、その結果日本から懲罰的ともいえる21ヵ条要求を押しつけられた。それ以来、駐留部隊の軍事的圧力のもと中国の独立・統一をさまたげ、また大衆を戦火に巻き込んだのが日本であった、という歴史感を背負っている。

 こういっても、まだ右翼陣営には、欧米列強の帝国主義的侵略からアジアを守るため、とか「帝国主義はお互い様」といった弁解がましい意見が巾をきかしている。たとえば「当時のアメリカは、シナ大陸に進出することを最大の目的にしていた。ハワイ、グアム、フィリピンと西進していったアメリカにとって、最後の“フロンティア”というべき場所がシナ大陸であった」(渡部昇一『かくて昭和史は甦る』)などという。

 わが委員会ではかつて「松岡洋右」という記事を掲げた。その中で、第一次世界大戦の決着をつけるパリ講和会議(1919年)で日本の全権大使に随行した松岡が記者会見し、日本の要求(山東半島の利権など)は、泥棒は他にもいるのだからこっちも泥棒してもいいというのと同じで「野暮(やぼ)」な話、と他の参加国の雰囲気を伝えた。

 もう戦争の果実として領有権を競うのは時代おくれ、というわけだ。アメリカの外交がどう変わっていったかを、西崎文子『アメリカ外交とは何か』の引用で示すが、同時にパリ講和会議の模様からも日本のたちおくれが推測できる。

 モンロー教書から70年余りを経て、20世紀への転換期を迎えた頃、アメリカは、領土的にも経済的にも世界有数の強国に成長していた。大陸の征服を終え、急速な産業化を経験したアメリカは、ついに海外へとその拡大の目を向けることになる。植民地から独立国家への道を歩んだ歴史を持つ国家は、19世紀末には自ら植民地を持つ国へと転身した。

 しかし、いわゆる帝国主義の時代の中にあって、アメリカの帝国主義は一つの際だった特徴を見せることになる。それは、アメリカが、植民地政策においても自由、平等、人民主権といった価値を掲げ続けたことである。アメリカの目的は、被支配者たちが秩序ある社会を形成し、自立してやっていけるよう助けることなのだ――。

 このような考え方の結果もたらされたのは、アメリカの意思に従う政権を「民主的」なものとして樹立、保護していくという「家父長的」な帝国主義支配であった。

2007年2月14日

日中関係史考

【第一次大戦後(大正末まで)】
 戦争と戦争の間の日中関係は、次の年表で見るように決して平和な時代とはいえない。はっきり言って方向性のない混迷の時代である。その傾向は次の満州事変まで続くが、この年表で見てとれるのは、

①日本が満蒙を「生命線」と位置づけ、その権益を譲らないこと。
②中国が群雄割拠で統一されておらず、日本がそれらの勢力抗争にたびたび介入していること。
③中国、朝鮮民衆の反日運動および日本との衝突が連続して起きていること。
④国際連盟発足やロシア革命の影響があることなどである。

赤=反日運動・日中関係。青=中国国内。緑=その他国際)

・1915・大4 (大隈重信)
 対華21ヵ条要求提出
 東京の中国人留学生、抗議大会開催
 上海・漢口・広東で日貨排斥運動
 対華21ヵ条要求受諾、中国国恥記念日

・1916・大5(大隈・寺内正毅)
 吉野作造の民本主義=大正デモクラシー
 閣議、袁世凱排撃、民間による南方援助黙認
 中国奉天省、鄭家屯で日中両軍衝突

・1917・大6(寺内正毅)
 ロシア革命
 閣議で段祺瑞内閣援助、南方勢力不支持
 孫文、広州に軍政府樹立

・1918・大7(寺内・原敬)
 米騒動発生
 シベリア出兵
 第一次世界大戦終結

・1919・大8(原敬)
 パリ講和会議
 朝鮮独立示威運動(3.1運動・万歳事件)
 北京の学生山東問題決定に抗議(5.4運動)
 中国東北の寛城子で日中両軍が交戦
 中国福州で排日学生示威運動(福州事件)

・1920・大9(原敬)
 国際連盟発足
 言論弾圧(森戸辰雄筆禍事件)
 シベリア尼港事件で多数の死者
 戦後恐慌始まる
 日本が支援する段祺瑞の安徽派と米英が支援する呉佩孚の直隷派が戦闘開始。
 安徽派敗北
 間島省日本領事館が馬賊に襲われる

・1921・大10</strong>(原・高橋是清)
 上海で中国共産党結成
 原敬首相、東京駅で刺殺される
 ワシントン会議開催

・1922・大11(高橋是清・加藤友三郎)
 孫文、北伐失敗
 張作林の奉天軍と直隷軍武力衝突、奉天軍敗北
 関東州租借地回収運動が盛んになる
 閣議、張作林の中央進出に反対方針決定

・1923・大12(加藤智三郎・山本権兵衛)
 孫文、ソ連接近。第3次広東政府発足
 21ヵ条条約廃棄通告、6月排日抗議運動最高潮
 関東大震災。朝鮮人・中国人の殺害が頻発

・1924・大13(清浦奎吾・加藤高明)
 第1次国共合作成立
 ソ連、対中特殊権益放棄
 孫文、第2次北伐開始を宣言
 第2次奉直戦争。呉佩孚、敗走
 孫文来日、神戸大で大アジア主義演説

・1925・大14(加藤高明)
 ラジオ試験放送開始
 孫文、没
 デモ隊に英国側が発砲。各地で反帝運動
 郭松齢事件。郭軍、張作林を破り、奉天へ
 各地で排日運動激化

・1926・大15(若槻礼次郎)
 広東で国民党大会。王兆銘・蒋介石実権掌握
 蒋介石北伐開始

 大正天皇死去

2007年2月20日

日中関係史考

【満鉄とアジア主義】
 前回は第一次世界大戦後を大正時代に区切って年表を書いてみた。それによるとこの時代、戦争は終わっていても、日本が得た中国国内の利権をめぐって紛争が絶えず、反日運動や日本軍との衝突が繰り返し起きていたことがわかる。

 日本政府、および日本人は大陸に対してどういう感触を持っていたのだろうか。日清、日露の戦勝は、安全保障・自衛の範囲から、次第に大陸おける地歩確立という帝国主義的植民地主義が一般に受け入れられるようになった。

 その裏には、戦争による人命や財産の莫大な損耗には、相応の見返りが必要、という国民感情も関係する。またそれに反抗する中国、朝鮮人に対しては、関東大震災の際の居留民殺傷のような差別と蔑視と脅威を根づかせることにもなった。

 そこで植民地政策の先兵となった南満州鉄道株式会社(満鉄)の存在と、西欧の植民地主義排除を唱え、日本人の道義的深層心理に重なっていると見られる「アジア主義」の二つをとりあげ、この時代を考えてみたい。

 通常、1931年(昭和6)の満州事変やその翌年の満州国独立をもって、日本の中国侵略開始と見られることが多い。しかし中国側から見れば、日露戦争でロシアが持っていた不平等権益を日本がそのまま手に入れ、さらに対華21ヵ条要求などでそれを拡張強化させる方向を示したことで、「侵略」と受け取られても仕方がない面がある。

 満鉄は1906年(明治39)、日露戦争のポーツマス講和条約とその内容を承認した日清条約により、ロシアから日本政府に引き渡された権益のうち、大連~長春、奉天~安東県間の鉄道とその支線、鉄道付属地および撫順・煙台炭坑などの付属事業経営を目的とした株式会社である。

 当初資本は2億円。その半額は政府の現物投資、残りは年6%配当の政府保証つきの民間公募で細分化されていた。また所要資金は社債に頼ることにしたので、政府は金をかけずに事実上自由に動かせる国営会社を手にしたことになる。民間会社の体裁はとるが、当初から満州・華北の植民地経営をにらんだ国家の出先機関としての機能を隠そうとしていなかった。

 鉄道付属地は年々拡張を続け、1931年には当初の3倍以上、現在の横浜市の面積を上回る480平方㎞に達した。また鉄道10㎞につき15名の駐兵権を持ち、租借地同様中国の主権を排除した。満鉄は大豆など農産物と石炭を輸出し、日本からの輸入品・綿布などを運賃操作したり、エネルギー源を独占して利益をあげた。さらに多くの産業開発に出資したほか、資源調査、情報収集など植民会社の機能をフルに発揮した。優秀な人材を集めた「満鉄調査部」の名は今に残る。

 こういった西欧型植民地主義に抵抗し、中国の改革推進者で革命の父といわれる孫文がアジアの連帯と自決を目指す「大アジア主義」を唱えていたことが知られている。それに共感し、日本の侵略的行動に批判的立場をとっていたのが、国内の大物右翼であった。その代表格である玄洋社の頭山満が、1924年(大正13)来日した孫文に語ったとされる言葉を次に掲げる。(藤本尚則『巨人頭山満翁』山水書房、松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読』岩波文庫、所載)

 貴国四億の国民を以てして、外国の軽侮と侵害を甘んじて受くるが如きは、苟も国家を愛する志士豪傑の之を憤るのは当然である。嘗て満蒙地方が露国の侵略を受けし時の如き、幸にして我が日本が相当の実力ありたればこそ、多大の犠牲を払って、唇歯輔車(相互に助け合う)関係にある貴国保全の為め之を防止するを得たのである。

 依って同地方に於ける我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は、勿論還附すべきであるが、目下オイソレと還附の要求に応ずる如きは、我が国民の大多数が承知しないであろう。

 これをもって「日本がロシアの侵略から中国を守った」とする俗説は誤りである。頭山に、日本がとっている行動を正当化しようという気はなく、むしろ逆である。しかしこれを聞いた孫文は一縷の望みを絶たれた思いがしただろう。このあと、孫文は神戸大学で「日本は世界文化に対して西方の覇道の番犬となるか、はたまた、東方王道の干城となるを欲するか」と日本に迫る悲痛の演説をするのである。

 この前年、孫文は一人の日本人の死に対し上海で追悼大会を開催した。孫文の意気に感動し、身を挺して協力した熊本県出身の大陸浪人・宮崎滔天に捧げたものである。現在の中国でも、「宮崎は中国人民の真の友人、傑出した国際的友人であり、同時に中国人民の革命隊列の中で思想が堅く、不屈であった一人の外国人革命戦士であったといえる。彼は中国人民の革命事業に対し、また中日両国民の友情あふれる交流に対して貴重な貢献をなした」と、最大級の賛辞が寄せられている。(『中国人の見た中国・日本関係史』編者:中国東北地区中日関係史研究会、編訳者:鈴木静夫・高田祥平、東方出版)

2007年2月22日

北朝鮮政策

 安倍内閣の北朝鮮政策が完全に行きづまっている。6カ国協議がひとまず打開に向けて動き出し、新たな展開が期待されるなかで、やや時間をおいて拉致問題などに新方針が打ち出されると思ったのにそれはなく、制裁強化一本槍のままでお手上げ状態だ。

 国会で前原前民主党党首が質問していたが、例により、核北の核ミサイル所持がわが国にとって最も危険という脅威論から、他の5カ国と歩調を合わせ、そこから拉致問題の糸口をさぐるという、間合いの抜けた意見だった。

 安倍首相は、中国問題で両国間の国交正常化を予想外の早さで実現させたが、中国側にもそのタイミングをはかっていたという幸運にもめぐまれていたのだと思う。金正日氏にはそんな必要がとり立ててない。経済支援に期待はするものの、体制維持が最大の目的である。

 北朝鮮にしてみれば、韓国、中国、アメリカからの援助、それも頭をさげてもらったのではなく、核所有の威力で獲得したものだ。国民にそれを誇示できればさしあたりそれで満足、といったところだろう。拉致問題は無視するか、敵視政策を続ける唯一の国として政治宣伝に使えれば当面それでいいといえよう。

 つまり、小泉訪朝の頃からの硬直した安倍・対北朝鮮政策が破綻しようとしているということだ。国連制裁決議で点数を稼いだのもつかの間、TVで見るボルトン元・国連大使と同様、完全に浮き上がってしまった。

 この際、拉致問題解決でとれる方法は、外交の基本に立ち返り、二重外交であろうが密室外交といわれようが、あらゆる手段を講じて相手との信頼関係を構築することだ。きれい事の外交などあり得ない。そして、最初にすることは、拉致被害者の消息を生死を含め再確認することだ。

 科学的な問題を提起されためぐみさんの遺骨問題など、もつれた糸を丹念に解きほぐすことから始めなくてはならない。首相やアメリカの正・副大統領と横田夫妻が面会するだけでは何も解決しない。拉致問題を国内政治に利用する期間はすでに去った。留守家族の心情に反する結果が出ようと、未解決のまま北朝鮮崩壊を気長に待つということは、留守家族の望むところではないはずだ。

2007年2月27日

日中関係史考

【「田中上奏文」の怪】
 昭和のはじめ、中国は幾多の軍閥、政治勢力が覇を競い合い、恒常的な内戦状態にあったといっていい。曰く蒋介石、汪兆銘、張作霖、毛沢東、張学良などなど、そしてそれぞれの勢力は時には手を結びあるいは反発しあい、諸外国に援助を求めたりまたは特権の放棄を要求するなど、文字通り「麻のように乱れていた」といえる状態だった。

 その中で、日本は遼東半島と満鉄などを足ががりに「満蒙は日本の生命線」と称してじわじわと勢力範囲を拡張し、居留民保護などの名目で山東省への出兵を3回も繰り返した。当然、中国人民の激しい抵抗や反発を受け、衝突による死傷者の増大は避けることができなかった。

 鉄道爆破による張作霖爆殺事件が起きたのはこういった時期のことである(1928年・昭和3)。また、これが関東軍の謀略であるということも時を経ずしてわかった。時の田中義一首相といえば、この事件の責任追及を完遂できなかったため天皇の不興を買い、内閣総辞職するはめになったことで有名である。

 今回のテーマ「田中上奏文」はこれと関係ない。最近1史料をもとに、張作霖謀殺はソ連諜報機関のしわざ、と主張する人がでてきた。あとで1史料が出てきたからといって、歴史が書き換えられるわけではない。史料の普遍性や幾多の傍証に支えられるものでなければ、創作か怪文書扱いである。

 怪文書とは、ある目的をもって偽造、捏造された文書のことを言う。最近は文書に限らず映像までこれに加わった。怪文書はあくまでも怪文書であり、「歴史」とは無関係である。9.11の爆破自作自演説なるものもあるらしいが、通常ならこれは歴史になり得ない。しかし、世界各国の多くの人がこれを真実と信じるようであれば、その現象の背景にあるものを探索する意味はある。

 「田中上奏文」も、これと似た位置に置かれている。日本では戦前すでにこれが偽作であるということで決着しており、東京裁判でも「にせもの」という判断が下されている。歴史書でも全然触れないか触れてもわずかでしかない。そこでまずその概略を説明しておこう。

 昭和2年4月田中内閣が成立し、6月に外務・陸海軍当局者で構成する東方会議を開催して、対中国強硬策を決めた。その内容を天皇に上奏するためと称する厖大な文書がそれある。これには宮内大臣宛の代奏要請書簡がついているが、元来その任務は内大臣の担当であり、これが偽書説の有力な理由となっている。

 文書の内容は、満蒙政策を中心に21項目2万6千字にわたるもので、もし本物なら異例のボリュームと内容になる。そして問題になったのは、「支那を征服せんと欲せば、先ず満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲すれば、必ず先ず支那を征服せざるべからず」という文言があり、その後の日本の行動がほぼその線に沿って進んだことである。

 このような露骨な征服野心丸出しの方針が、天皇を含めて昭和のはじめからあったとすれば、「追い込まれたためやむをえず戦争にまきこまれた」などという口実などスッ飛んでしまう。そして間もなく中国語、英語、ロシア語に訳されたものが出回りはじめ、各国の新聞にも掲載されだした。

 無論、日本の外務省はその存在を否定し、米国などでは偽作であることが次第に理解され始めたが、中国、ロシアでは本物とする向きが多く、仮にそうでないにしても、日本のしかるべきところで作成された指針には違いないという解釈が根強く残っている。

 この文書の作成者や流出ルートなど、いろいろ研究されているが、これにもソ連の諜報機関関与説や中国人商人の暗躍など、怪文書にふさわしいいろいろな情報が交錯している。日本でも、その文脈から、日本人の手になる部分があることを否定しきれないと考えられている。

 張作霖爆殺後、期待?に反して後継者の張学良などが冷静で、反日騒動などの動きに出なかったことを陸軍の中枢が残念がった、という話があるぐらいなので、あるいは軍部の過激派が中国を挑発するために偽作したという線もなきにしもあらずである。陸軍出身の田中でさえ陸軍を抑えきれないという現象は、この時期に始まる。

 いずれにしても、日中両国の研究者にとってこの文書の持つ意味は大きく、今後、両国関係史を検討する中で単なる怪文書として捨てきれないものになると想像される。(参照文献『国境を越える歴史認識』ほか)

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2007年2月 1日 (木)

戦争神経症

[反戦老年委員会復刻版]

 最近、『日本帝国陸軍と精神障害兵士』を引く形で、「逃亡兵」「思想要注意兵」の2題をエントリーしたが、肝心の戦争が直接原因となる「戦争神経症」については、問題を要約するのに困難を感じていた。調査対象となった国府台陸軍病院では、患者総数約1万余名うち約6%が痴愚、魯鈍などと分類される知的障害患者で、約42%の精神分裂症が第一位、以下ヒステリー、外傷性てんかん、精神衰弱そして知的障害の順となっている。

 当然、米軍のイラク派兵などで問題にされている心的外傷後ストレス障害(PTSD)という分類はなく、戦争によるトラウマ関連の研究もなかったように見える。その裏には「皇軍の精鋭に精神障害者などいない」という建前と、兵士自身にも「こわさ」とか「おびえ」は、口が裂けてもいえなかった事情もありそうだ。

 しかし太平洋戦争激化にともなう入院患者の増加もあり、「戦時神経症」の名で追跡調査がはじまったが、特に「平時」の症例と異なる対症療法があったわけではなかった。その中に、中国戦線で上官の命により多数の住民や、自分の子と同じ年頃の子まで銃殺したことに対する自責の念が起因、という記録も残されている。

 戦争神経症は、目黒克己氏の調査によると、第二次世界大戦での精神障害の中で戦争障害の占める割合は、日本21%、ドイツ23%、米国63%であるという。また、国府台病院では、終戦直後に患者の病像に変化が見られ、約29%が早期恢復を示したという。同書はさらに訴える。

 戦後初期、戦傷病者は「未復員者給与法」によって療養の給付を受けた。その後、援護法制は変わったが戦傷精神障害元兵士の多くは「精神病」にたいする偏見・差別もあって、精神的・社会的にいわば<未復員>状態が続いたようである。2005年3月末現在、「戦傷病者特別援護法」等による入院精神障害者は全国で84人(平均年齢80代半ば)である。

 上記のように<未復員>状態に置かれたまま、遂に祖国に戻れなかった韓国・朝鮮の元兵士・軍属そしてBC級戦犯もいた。また、徴兵ではないイラク派遣自衛隊員も、表面化しないだけで決してらち外あるわけではない。「戦争神経症」は過去の話でなく、まさに現在の問題なのである。

2007年2月2日

娑婆

 昭和20年(敗戦の年)、高見順『敗戦日記』より。

二月二日
戸を開けると雪景色。
 昨日もそうだつたが、電車が通ると、時に車輪の音にまじつて、バンザーイ、バンザーイという声が聞こえる。海兵団に入る若者が窓から叫んでいるのだ。外の道を誰も通つてなくてもそう叫んでいるのだ。海軍の言葉でいえば「娑婆」――「娑婆」にそうして別れを告げているのだ。

 この日の日記はまだ続く。鎌倉の文士・島木健作宅へ出かけたこと、途中顔見知りの美少年の駅員に会い「五日に入営することになりました」と言われたこと、警報が1回あったことなどがある。ここで上の情景について、現場をご存じない方のためにすこし解説する。

 電車は現在のJR横須賀線で東海道本線の大船駅から鎌倉、横須賀方面に分かれる。その次の駅が北鎌倉で、現場はその駅にさしかかろうとするあたりだろう。海軍の本拠地・横須賀まではあと30分ほどである。片側は深い林で、反対側は道に沿っているが駅近くにきても人通りはほとんどないところだ。

 雪の積もった凍てつくような朝、走る電車の窓をあけ、大声で万歳を叫ぶ心境はいかなるものであろう。あとわずかで娑婆(世間)にお別れ、ことによると一生の別れになるかもしれない。いや当時ならその可能性の方がはるかに大きいのだ。

 もちろん酒を飲んでいるわけはない。道路に、木々に、電信柱に向かって真剣に叫んでいるのだ。あるいは見えないけど近くにある名刹、円覚寺か建長寺に武運を祈っているのだろうか。いずれにしても「靖国で会おう」などのキザなせりふでないだけ、よけいに涙をさそう。

2007年2月6日

文明の衝突

 非常に深く広く、かつ多様な解釈と今日的な意味合いを持つ言葉だが、終戦直後占領下に置かれたとき、まさに「文明の衝突」が引き起こされたわけである。別に筋立てて文明論を展開する気はなく、非常に狭い範囲ながら当時の世相を観察したことを書いてみよう。

 学校の若い意欲的な授業をする先生の話。

 「間もなく進駐軍が入ってくる。そうすると必ずスリー・エス(3S)政策をとる」といって黒板にSports、Screen、Sexと書いた。さらに「アメリカがフィリピンでとった政策だ。それでフィリピン人を骨抜きにすることに成功した」といった。しかし、そのように感じたことはなかった。

 日本の軍人のように軍刀や短剣を持たず、丸腰で大きなお尻の線が出る軽快なミリタリー・ルックで街に出てきたのには驚いた。兵舎の便ツボをのぞいてきた奴がいった。「緑色で細かったよ」。緊急出版したポケット英会話集が飛ぶように売れた。

 民主主義や自由主義は戦時中よくないこと、として抑圧されていただけで、別に違和感はなかった。かわりに、封建的とか家とか、義理・人情はいけないとされた。「義理・人情」がどうしていけないの?、という声は多かった。漢文のテキストから孔・孟が消え、「忠・孝」など儒教関連がなくなった。

 いわば急速な改革・開放が実施されたわけだが、天皇を人間でないことにしたかったのは為政者の方で、象徴というのはチョット変だけどそれで落ち着けばいいんじゃないの、という感じだった。反対は共産党だけだった。奨励された労働運動なのに2.1ストがGHQの指令で禁止されたのはちょっと意外だった。

 それから数年後、食うに困らなくなるとジャズがはやり、クリスマスイブに馬鹿騒ぎする風習ができ、若年層はにプラグマチズムが普及した。

2007年2月9日

『蟹工船』ブーム

  1933年、逮捕されたその日のうちに警察の拷問で虐殺された小林多喜二の小説、「蟹工船」が今マンガでかくれたブームになっているという。(写真は毎日新聞・千葉西北版=省略)>

 この小説は、戦後まもなく解禁された「プロレタリア文学」の代表作として、青年の間で必読書のように読まれたものだ。しかし、やがて高度成長が始まるとともに、その過酷で暗いイメージが敬遠されたのか忘れられてしまった。

 それがこのほど、マンガに再現された『蟹工船』としてお目見えした。同書は“資本主義社会の矛盾としての「格差社会」を鋭く批判した内容が分かりやすく描かれており、高校生や大学生らの評判になっている(毎日新聞)”という。

 そのほか、がいろいろなブログなどでも取り上げられ、密かなブームなってるようだ。そこには「人間」より「蟹の捕獲」が大切と堂々と宣言する資本家の手先を、現代の「ワーキング・プア」と結びつけて考える下地がありそうだ。

 同書の復権は、嘆くべき現象なのだが、現代のゆがんだ経営倫理や労働者が持つべき権利意識を健全化する方向に向かえば、注目すべき社会現象のひとつといえよう。

 「30分で読める大学生のためのマンガ・蟹工船」
  原作:小林多喜二   作画:藤生ゴオ
 企画:白樺文学館(我孫子市) 発刊:東銀座出版
       定価:600円(税込)

2007年2月23日

「イエ」のあり方

 戦後、捨て去るべきものとして封建思想、全体主義、国家主義などとともに「イエ(家)中心の考え方」があった。「家名に傷がつく」とか「家の誉れ」とか「家筋」「家柄」といった考え方である。われわれの親の代には、まだ「あの家は士族だから嫁ぎ先として申し分ない」などという会話が生きていた。

 江戸時代の武士は、それぞれの人に録(給与)がつくのではなく、「家」に定められたものを世襲するわけだから家を守り、もり立てるのは大変である。不義不忠ものがでて家名をけがすと、それが代々の収入に影響するからだ。

 したがって一家そろって、世間体をつくろっていくための連帯責任がある。親は子を育て、子は親を養い世間とは身分相応のつきあいをする。したがって家を嗣ぐ長男には、2、3男と違って特別の権利と義務があり、徴兵でも配慮された時代があった。

 明治から昭和になり、昔の身分制は表面上なくなった。しかし民法、刑法、戸籍法その他、まだまだその名残をとどめていた。そんな制度上の問題は別として、いま考えると親が子を殺し、子が親兄弟を殺すなどという人倫にそむく悪逆無道ぶりは、想像の範囲を越えるもので、通常あり得ないことだった。

 戦後、福祉国家の実現は日本国民の夢であった。しかし、親が子を育てず、子は親を養なわなくてもいい世界を望んだわけではない。老人福祉も子孫繁栄もイエが支えてきたのだからと言って、いままた旧にもどすわけにもいかない。

 かつてのイエの概念は、一種の「護送船団」方式であった。それを破壊し尽くすことには、慎重でなくてはならなかったのだ。いま、日本人にあった家族のあり方を、もう一度さぐりださなければならない時期にきているのではなかろうか。

 ただし、いまだに「女性は産む機械」などと言ってしまう人がいるので、まちがっても「イエ中心主義」が「美しい日本」、などと取りちがえないようにしてほしい。

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