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2007年1月13日 (土)

事大主義と国防

[反戦老年委員会復刻版]

仮想委員会対談編(対談:平・停両委員)

・平 停さんは「日韓近代史考」のしめくくり討論で、朝鮮の「事大主義(*)」についてレポートされました。事大主義(*)が機能しなかったことに気が付くのが遅すぎたというわけですね。

 (*)朝鮮は長い歴史のなかで、漢民族や北方民族から圧力を受ける位置にあり、最後の李王朝では中国を支配する強国から冊封を受け、臣属する形で領土の保全と民族の自立を維持するのがベターな選択である、という考え方がかなり定着していた。「事大」とは大に事(つか)えるという意味。欧米列強そして開国を果たした日本からの外圧に対処するため、宗主国・清の軍事力を頼りとする李王朝と「事大党」が日清戦争まで続いていた。

・停 欧米が接近してくるまで、世界の中心が中国だったのよね。その周辺や遠方に蕃夷がいて朝貢してくるという華夷秩序は、そもそもが蕃夷出身の清王朝でさえ、なかなか抜けきれなかった。「寄らば大樹のもと」もわかるけど、いつでまでも大樹のままで必ず助けてくれるとは限らないものね。

・平 小泉・安倍ラインのブレーンで、テレビにもよく出る評論家の岡崎久彦さん。「アングロサクソンについていれば100年は大丈夫」といったとかという話を思い出しちゃうんだよね。アメリカのいうことを聞いて核の傘に頼っていれば大丈夫というのは、まさに事大主義そのものじゃないですか。

・停 予想に反して日本が清国に勝っちゃったものだから、事えるべき大国がなくなったのね。留学経験のあるエリートの中には「日本の援助を得て」という一派もあったけど、宮廷改革を迫る日本が嫌いな王家は、ロシアについちゃった。勿論親日派は追放よね。それに軍隊も、民衆運動もバラバラ。ひとつとして強いものがないから、結局どこかを頼ろうとするくせが直らない。

・平 国内がまとまらず混乱をくりかえすから、よその国がチョッカイをだす。中国でもそうですよね。居留民保護とかいって諸外国が軍隊をだす。

・停 その点日本は明治維新でうまくやった。「尊皇攘夷」はあっても「事大主義」はなかったのよね。イギリスやフランスなど狙ってはいたけど商売をうまくやりたいという程度でしょう。

・平 それに函館とか西南戦役があってもすぐにかたずき、国内が一本になって「富国強兵」だ。やはり天皇中心の愛国心ですかね。

・停 チョット違うのじゃない。「尊王攘夷」は、まだ国のかたちができていない時のことでしょ。パトリオティズムというのかなあ、日本列島を守ろうという郷土愛的なものが潜在的にあって、それを幕藩体勢の上においた。

・平 島国という地勢状の優位さはあるけど、アジアで唯一欧米列強から浸蝕されずにすんだのはそういった国防意識も作用しているわけですね。

・停 国が割れていたり、侵略に手を貸そうとする人が中からでてきたりすると「じゃあいいんですね?」といって干渉する。よその国なのに「人権問題」とか「テロリスト逮捕」などといって侵入する手もある。だから国防に無関心だったり隙間だらけじゃあ野心のある国を呼び込んでしまう。あの国に手をだしたら手ひどい目にあう、と思わせる国民の強い意志を見せるものがどうしても必要だわ。

・平 ということは、自衛隊は必要、非武装中立はだめということ?。

・停 そうね。ブッシュ・アメリカや金・北朝鮮のような好戦国家がある限りはね。ただし、自衛隊は厳密に専守防衛。海外で戦うことはどんな口実をもってしても「だめ」に徹するの。だから普通の国の陸、海、空軍とは違った装備や編成にすべきで、それにお金がかかるのならそれも仕方がないわ。

・平 核の話などもあるし、それはまた別にやりましょう。

 参考:「日韓近代史考」シリーズはカテゴリ「東アジア共同体」でバックナンバーをご覧下さい。

2007年1月21日

日中関係史考

 わが委員会では、昨年9月20日以来「日韓近代史考」と題するシリーズを19回にわたって続け、日韓併合を以て終了した。それに次ぐものとして「日中関係史考」を考えたが、これもわが委員会にとっては前シリーズ以上の重荷になりそうだ。

 そこで、前シリーズを韓国の史学者・姜萬吉氏の著書『韓国近代史』を引用して「目のつけどころ」をさぐった前例にならい、『国境を越える歴史認識』(東京大学出版会)のはしがきから劉傑教授の見解を紹介することで始めたい。なお同書の紹介は文末に記載した。

 日本の戦後世代の間に確立した重要な歴史観は「1945年の視点」とでもいえるものであった。すなわち、1945年を境目に日本には根本的な変化が生じたという見方である。終戦からの60年間、日本は民主主義の平和国家を建設し、戦争のない時代を謳歌してきた。1945年以前の日本への逆戻りはもはや考えられない、これが多数の国民に共通した認識であると言ってよい。したがって、侵略行為を行った戦前の日本とを結びつけて語ることは、戦後生まれの人々にとってなじみ難いことのようである。(中略)

 これに対し、「建設」(近代化)と「統一」(統一国家の形成)という辛亥革命以来の二大目標を未だ実現していない中国にとって、現代を見つめるときの視点は「1911年の視点」といってよい。(中略)。しかもこの目標を目指す中国近代のなかで、最大の障害は日本らよる中国侵略であったと認識されている。

 現代社会を理解するにあたって、1945年の太平洋戦争の終戦は日本人にとって決定的な意味を持つが、近代化と統一を目指す中国の視点は近代国家の出発点となった1911年を自然に意識している。このように両国の戦後世代の視点の違いが両国の歴史をめぐる対話を難しくしていることは否定できない。

 上記の日本人の史観について、1945年をまたいで体験を持つわれわれ世代から見ると、やや乱暴な設定かなと思うが、中国のそれは、このブログでも同じような観点から「反日」を論じたことがあり、共鳴できるところがある。同様の発想をすれば、李朝の最後、大韓帝国が日韓併合で消滅した「1910年の視点」をとらないと朝鮮半島の現在を語れないことになる。

【備考】『国境を越える歴史認識・日中対話の試み』東京大学出版会、2006年5月刊。笹川平和財団の支援を得て「日中若手歴史研究者会議」が1001年10月に発足。その研究成果をまとめたもの。
(編者)劉傑・早稲田大学社会科学総合学術院教授
三谷博・東京大学大学院総合文化研究科教授
楊大慶・ジョージワシントン大学准教授
(執筆者)茂木敏夫・東京女子大学現代文化学部教授
川島真・北海道大学公共政策大学院助教授
服部龍二・中央大学総合政策学部助教授
樋口秀実・國學院大學文学部助教授
茨木智志・上越教育大学学校教育学部助教授
浅野豊美・中京大学教養部教授
村井良太・駒澤大学法学部政治学科専任講師
楊志輝・早稲田大学大学院客員講師

2007年1月23日

日中関係史考

 空車 「くうしゃ」でも「からぐるま」でも「あきぐるま」でもない。森鴎外は、古言を「むなぐるま」と読ませて小品にした。この言葉に空想を馳せた鴎外の作品を、一部だけ抜粋するのは適正を欠くが、雰囲気がわかれば、という意味で紹介する。

 車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道をせましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘たように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊であるように、大股に行く。この男は左顧右眄することをなさない。物にあって一歩をゆるくすることもなさず、一歩を急にすることもなさない。傍若無人という語はこの男のために作られたかと疑われる。(『日本の文学・森鴎外(一)』中央公論社)

 これが「東日」「大毎」の2紙に掲載されたのが大正5年(1916)5月である。日露戦争に勝利して世界の強国に伍した日本、しかし戦争で失った国民の生命・財産は容易に補いきれるものでなく、政治的な不安をかかえたまま明治から大正へと時代が移っていった。

 大正3年(1914)7月23日、欧州で第一次世界大戦が勃発した。日本が日英同盟を口実に対独宣戦布告したのはその翌月23日である。日本軍はすかさず山東半島に上陸を開始、ドイツの租借地のある青島を占領し、海軍は独領であった南洋群島を占領した。

 その翌年1月日本政府は、中国の対日感情悪化を決定的なものにした「対華21ヵ条要求」を提出したのである。第一次大戦参戦は、中国における権益確保のための好機とばかり便乗したものであり、対華21条要求は国際的に見ても「傍若無人」な振る舞いとしか見られないような内容を含んだものだった。中国では日本からつきつけられた最後通牒を受諾した5月9日を国恥記念日としている。

 日清戦争当時の、「隣国に対する義侠心」のような感情はすでに日本人の中から消えていた。日露戦争の勝利により、隣国は列強による帝国主義支配競争の対象地になってしまったのだ。出遅れた地歩をどう築くかが日本の関心事になった。そしてこの年の暮れに東京株式市場が大暴騰し、未曾有の大戦景気が始まった。

 森鴎外の一文がこの世相と関連している証拠はない。しかしこのさきの日本の軍事優先、大陸侵攻そして日米開戦と押しとどめるすべもなく流されていく日本の姿を予見しているように見えてしまうのだ。日本にとっても転機といっていい「対華21ヵ条要求」については、次回にふれることにする。

2007年1月30日

日中関係史考

【中国から見た日本】
 このシリーズは3回目になりまだ本論に至っていない。しかし、長い歴史の中で中国人が日本または日本人をどう見ていたか、両国の関係はどうだったかに思いをいたさず、近現代史の断片的史料だけで結論を得ようとする傾向が依然として強い。

 そこで「中国は嫌い」という人に是非見て欲しい欲しい本がある。このブログで読書評を掲げることはよくあるが、めったにお薦めまでしない。なぜならば自分にとって評価できる内容であっても、必ずしもすべての人に通用するとは限らないからだ。しかし、この本は日本史の理解を深める上でも大いに役に立つ。

 王勇『中国史のなかの日本像』(社)農山漁村文化協会、¥1950 がそれだ。王勇氏は中国における日本学研究の第一人者で、浙江省大学日本文化研究所所長をつとめる。同書の内容は、講義録の集大成だが、史料の写真や図版が多く、時代の流れの中で意識が継続しあるいは変化する様子をわかりやすく説明している。

 内容は、目次がその総てを表しているといっていいので、それを掲げる。

第一章 神仙の郷――幻想的な日本像
 日本の有史以前。徐福が目指した?、君子不死の国、蓬莱の国などのイメージについて。

第二章 宝物の島――実像と虚像の間
 魏志倭人伝から黄金伝説まで。

第三章 器用な民――虚像から実像へ

 飛騨工の伝承や、輸入される日本扇、日本刀など精巧な工芸品への驚嘆、賛辞。

第四章 礼儀の邦――モノからヒトへ
 呉人の後裔という考えや中国ですたれた(柏手による参拝など)遺風が守られているという考え。遣唐使の立ち居振る舞いのすぐれていることなど。

第五章 好学の士――華夷の壁をこえて
 唐代からあと、ことに仏僧を中心に、経典、書道、漢詩、絵画、彫刻などで日本の高いレベルが評価され、言語の障壁を乗り越えた相互の研鑽と交流が続いた。

第六章 白骨の山――日本像の豹変
 元寇で平和な関係が一転し、日本像が変わっていく。しかし、中国は日本への侵攻より敬遠、回避の道を選ぶ。

第七章 海彼の冦――海賊から妖怪へ
 元から明にかけての倭冦被害で、日本人の残虐性と狡獪性がクローズアップされる。狡猾とされるのは、南北朝時代や室町時代の日本政権が約束を守れず、また公式船と見せかけておいて略奪行為をしたことなどがある。また豊臣秀吉は妖怪・悪鬼の扱いをされていた。

第8章 西学の師――近代化の手本
 明治維新は中国近代化への先駆として注目された。

終章 幻想の破滅
 日本軍が中国本土に上陸し「義和団」を鎮圧してから今日まで。

 以上、第一章から第五章まで、非常に長い期間、中国は日本にある敬仰の念をいだいていた。日本との交流が深まるにつれ、すくなくとも蛮夷として見下すような風潮はなかった。紹介された中国文献を見ると「ほめすぎ」で、こそばゆい感じすらする。

 反面、六章以後には、日本人の常識にない暴虐な行為が、手のひらを返すように行われ、日本人の一面を現すような印象を与えてしまった。これを例外的なものとして理解を得るためには、まずどのような史実にも逃げることなく、忠実に対応することら始めなくてはならない。

 日中の本来の関係は、「白か黒か」「敵か味方か」といった硬直した発想で理解するのは間違いである。隣国の長い歴史の積み重ねの中で、双方の文化がはぐくまれ、また深層心理に刷り込まれているものが存在するのである。

 上記の「終章」に当たる昭和の初期、中国共産党のシンパで文人の郭沫若氏が国民党政権の追求をのがれて夫人の祖国である日本に亡命、東京郊外に住んだ。当局の監視はあったが地元住民は郭氏を暖かく迎え守った。郭氏はその好意を漢詩に託して感謝し、革命に挺身するため再び中国に向かった。現在、その旧居と漢詩の碑が記念公園として残されている(千葉県市川市)。

 「共通の価値観」と称し、反共を掲げてことさら中国を疎外しようとする一団の人たちがいる。長い歴史に抗し、流れに逆らおうとする努力は報われることがないだろう。しかし、しばしばこういったことが誤解を生み、両国民を危険にさらすことがある。心しなければならないことだ。

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