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2006年12月 5日 (火)

日韓近代史考

[反戦老年委員会復刻版]

【朝鮮、韓国の呼称】
 1897年(明治30)2月、朝鮮国王・高宗は約1年ぶりにロシア公使館から王宮に戻った。高宗がロシア公使館に逃げ込んで政治を執ったいきさつについては、前回に述べた通りである。そして称号を「王」から「皇帝」に格上げし、あらためて即位の儀式をあげた。同時に国号を「朝鮮」から「大韓」に改め、外交上の国書には「大韓国皇帝陛下」の尊称記載を求めた。

 ロシア公使館からでてきていきなり、では唐突の感を免れ得ないが、言わんとしていることはわかぬわけでもない。今や清の冊封をはなれ、ロシア皇帝や日本の天皇と同格であるという宣言である。日本がかねて求め、また同国の憂国の士が期待した「自主独立」であるが、もはや3度目のチャンスにするには遅すぎた。

 現在、同国は「大韓民国」と「朝鮮人民民主主義共和国」に2分されている。わが国にはその両国と民族を表現する適当なことばがない。このシリーズは「日韓近代史考」としたが深い意味はない。日韓併合時は「韓国」になっていたのに、戦時中の子供の頃は「韓国人」とはいわず「朝鮮人」といっていた。逆をいえば、明治のはじめ「朝鮮国に対し『征韓論』というが如し」である。

 そもそも「朝鮮」は、有史以前から半島の付け根部分など北方で主に使われた。また、「韓」は弁韓、辰韓、慕韓などの南の方の民族に使われた。日本が有史時代に入った頃の、高句麗、百済、新羅3国のうち、新羅が半島を統一した。その後国名は、高麗を経て朝鮮となったが、「朝鮮」の名称がが最も長い。

 国名として「韓」を使ったのは高宗がはじめてであるが、わずか3年半で日本に併合された。しかし『日本書紀』を見ると分かるが、日本人は朝鮮から渡来してきた人を、長い間「韓人(からひと)」と呼んでおり、「韓」とは日本史や文化の上で浅からぬ関係がある。

 今ドーハで開催中のアジア大会には、南北両国が半島をかたどった統一旗で入場行進をした。オリンピックをはじめ、既に恒例になっている。将来、両国が統一したら国名はどうするのだろう。英文表示の「コレア」であれば「高麗」の復活である。しかしこれも北方イメージがあるので、漢字は使わずハングルと英文だけの表示になるのか。全く大きなお世話ではあるが。

2006年12月11日

日韓近代史考

【日韓併合へ】
 李成桂が高麗を亡ぼしてから505年続いた「朝鮮」の国名を、高宗が「大韓」と改めた3年半後に日本に併合された。高宗は父大院君に似ずお坊ちゃんで、こと政治については無知無能であったらしい。うしろだてであった王后・閔妃が暗殺されたあとは、嵐を前に舵を失ったポートのような存在になった。

 国名を変えてから一年後の1898年2月、蔭で実権をふるう閔妃を排除するため、たびたび日本が利用してきた大院君が78歳で没した。高宗は父の葬儀に参列しなかったという(『閔妃暗殺』)。また、ロシアや欧米各国に対して、鉄道敷設権、森林伐採権、鉱業開発権などの切り売りが始まり、韓国人の対日感情悪化や、独立促進を求める義兵の決起などが相次いだ。

 さらに、日露間の緊張が高まった1904年に入ると、各国は軍隊を京城へ入れるなど異常な状態におちいった。そして2月9日、日本は仁川に大軍を上陸させ京城へ向けた。翌10日、仁川沖で護送してきた日本の軍艦とロシア艦の間で戦闘の火ぶたが切られた。

 「日韓議定書」が調印されたのは、それから3週間後の23日だった。韓国皇帝を守るという口実で軍事行動の自由を保障させるものだった。勝敗は5分5分とみていた日本にとって、この措置は欠かすことのできないものだった。

 日露戦争の詳細は、ここでは触れない。1905年9月、日本が勝利すると、11月に韓国の外交権のいっさいを回収するという「第二日韓協約」を締結し、事実上の保護国とした。これは、日露戦争中に高宗がアメリカに密使として李承晩(大韓民国復帰後、初の大統領)を派遣したり、ロシアへも密使を送ったことなどが不信をまねいたのかもしれない。

 この段階でもまだ日本には、韓国の自主独立推進派と併合促進派の両論があった。特に伊藤博文初代韓国統監は、併合による経費増大(韓国は多大な対外負債をかかえていた)より、自主独立で韓国を隆盛に導き、日本の安全をはかる方が得策、という考えを公言していた。

 07年4月、これに冷水をかけるような高宗の行動が発覚した。オランダのハーグで開かれた万国平和会議に信任状を持たせた密使を送り、反日を訴えようとしたのである。ロシアをはじめ、列強はすでに日露戦争の結末で日本の朝鮮への宗主権を認めており、新たな国際不安をもたらすような主張に耳を貸すものはいなかった。

 この事件は、高宗の国際感覚の未熟さを暴露し、また日本の名誉を傷つけることにもなった。さらに、伊藤総監がハルビンで安重根に銃撃を受け死亡したことにより、併合論を一挙に高め、10年8月22日の日韓併合条約締結へ向けての強引な誘導が始まるのである。

2006年12月18日

日韓近代史考

【結語(その1)】
 このシリーズは、「韓国近代史より」と題した投稿が始まりである。その内容は、現在両国民を隔てている歴史認識問題、特に日韓併合にかかわる部分で韓国の学者がどういう見方をしているのか、また共通・共有できる視点があるのかどうか、ということを調べているうち、韓国の歴史学者・姜萬吉氏の著、『韓国近代史』(小川晴久訳)の中から、意外なほど率直で真摯な論述を発見し、その一部をを紹介したものである。

 この記事をきっかけとして、幕末からはじまって日韓併合に至るまで、計16回にわたり「日韓近代史考」を掲載してきた。もとより歴史の専門家ではない私が、筋の通った史論を書けるわけがなく、もっぱら雑多な書籍から得た知識や記憶を頼りに、日韓関係の推移を中心に拾い出してみたものである。

 ここで、このシリーズを終了するにあたり、私なりの感想はあるのだが、それは後回しにして冒頭掲げた姜萬吉氏の論証を以下に掲げ、もう一度その主張に耳を傾けておきたい。

【第一章 国民国家樹立の失敗 序説】より

    清日戦争後約十年間維持されてきた朝鮮半島をめぐっての露・日間の勢力均衡は、英国と米国が日本を援助することによって壊れた。その結果は露日戦争、日本側の有利な条件での戦争終結、そして大韓帝国の日本による保護国化および植民地化としてあらわれた。専制君主国家としての大韓帝国が内部の国民革命によって崩れず、外勢の侵略で倒れた事実は、植民地化のその時までも国民国家を持つことができなかった歴史的限界性を示すと同時に、以後の歴史にも大きな負担を与えた。

【同上第五節 植民地への道】より

    「合邦」に対する国際的な反応も一般的に冷淡であった。英国と米国は英日同盟、タフト・桂密約、ポーツマス条約を通してすでに日本の韓国支配を承認していたので、当然「合邦」を支持した。英国政府は「日本が韓国においてその勢力を増加するのに対して英国政府は何等反対する理由がない」といいながら、ただ自国の経済的利益問題と関連して関税率の不変、開港場および沿岸貿易の継続を要求した。米国政府も「日本の韓国における行政が非常に善意に満ちており、韓国民の幸福のために力を尽くしている跡が歴然である」といい、ニューヨーク発行の『東洋評論』も「韓国に利益関係にある総ての外国は韓日合邦から生ずる変動に対してなんら不安な考えをいだく必要はない。日本政府は細心に外国の一切の利益を保護するだろう」と論評した。

 第三国としては一番利害関係の深かったロシアの新聞も「朝鮮の運命はすでに露日講和条約で決定され、日本は事実上朝鮮を併合し、今回ただ形式的にこれを発表しただけだ。併合が朝鮮と利害関係がある英国の同意を受けて断行され、ロシアもこれに反対する理由がない」といい、ドイツのある新聞は「朝鮮人がその愛国的精神によって内心では日本の情深い文明統治よりむしろ腐敗した旧政府を選ぶ意思があるのはきわめて自然な道理である」といいつつも、将来日本の支配による朝鮮の経済的発展は疑問の余地がない」といった。ただ清国の諸新聞は韓国の滅亡を憂慮して満州や蒙古が将来同様な運命になることを警戒した。

 大韓帝国の無能と腐敗、そしてそのような政府を倒し国民政府を樹立できない国民的・歴史的条件、日本の野蛮な侵略主義とこれに対する帝国主義列強の援助および承認が、この時機の我々の歴史が失敗することになった重要な原因であるということができよう。

2006年12月25日

日韓近代史考

仮想委員会レポート(1)

・平 今回は、「日韓近代史考」シリーズについて、各委員のレポートをお願いしましょう。まず硬さんから。

・硬 私は、「侵略」と「植民地」という発想が日本にあったかどうかの観点で考えました。結論からいうと、幕末から日清戦争に至るまでは、基本的にそういう発想がなかったと結論づけました。もっとも前回のエントリーにあるように吉田松陰などのような無責任発言があったにしても、志士の妄想をでるものでなく、とても主流とはいえません。

・平 いわゆる西郷隆盛などの征韓論についてはどうですか。

・硬 これまでいわれてきた「士族の不満のはけぐち」という見方を否定する説が多く出ていますが、全くない、とも言い切れないでしょうね。ただいろいろな文献をみていて感ずることが二つあります。 一つは日本の「開国」に対し、朝鮮は「鎖国」を強化するなど、伝統的な隣善関係・秩序に埋めようのない溝ができたこと。これは、日本の政権交代の国書に「皇」とか「勅」などの字があるから受け取りを拒否するというようなところに現れます。日本もまだ成熟した「国民国家」というより、アジアにおける「華夷意識」が抜けきれていない段階にあると思います。したがって「領土」とか「侵略」などということはあまり考えていない。
 もう一つは、米英やロシアなど、昔から往来がある中国・朝鮮に開国を迫る列強、朝鮮の言葉でいえば「洋夷」ですが、日本は特にロシアを幕末のころから警戒していた。南下してきて領土を拡張しむしり取ろうとしている事を知っています。また、岩倉欧米視察団の帰朝もあって、国際公法や軍事力行使に対する知識が格段に高まった時期でもあります。したがって西郷を含め「大義名分」の立たない侵攻は避けるべきだ、という考えになったと思います。

・停 それが変わってきたのは?。

・硬 日本が公然と中国大陸への侵攻を露骨にするのは第一次大戦後で、すでに朝鮮併合は終わっていた。そして日清戦争当時は朝鮮・中国に対する領土的野心はまだなかった。その分かれ目になったのがやはり日露戦争ですね。

・停 「もし、日本を韓国が併合しなければロシア領となり、今の北朝鮮と同じの水準の国になっていた」という人がいるわね。

・乙 良識のある人なら、歴史に「イフ」を持ち込んではいかん、ということぐらいわかっているが、あえて乗ってみようか。ロシアが占領してもその後のロシアの帝政崩壊、社会主義革命の隙に乗じてバルト三国のように独立を果たしただろうね。その後の政体として、アジア最初の社会主義国になった可能性はかなり強い。しかし、それならば日本も満州国独立とか、日中戦争・太平洋戦争に進む必然性もなかったわけだ。

 チョット待って、その前に「日韓併合がなかったら」という「イフ」が既におかしい。日本が日清戦争に勝って、日韓ともに次の段階に進めることに失敗した。日本が日露戦争に向かわざるを得ない状況ができ、さらに日韓併合を強行する道のりにも他の選択肢はなく、一本道だったというか、追い込まれたのだと思えるね。その間に「戦争」が介在する。戦争では暴力装置が機能する。あらゆる“無理”を合法化して見せる装置だ。

・平 では、次回はそのあたりをまた。

2007年1月7日

日韓近代史考


仮想委員会レポート(2)

・平 前回は硬さんの「日清戦争に勝利する前は日本に領土的野心がなく、大陸侵略の意図が露骨になるのは、日韓併合後、第一次大戦のあと」というレポートがあった。歴史にイフは禁物だけど、もし日韓併合をしないですませればそれが最高だったと(笑)。それでは次ぎに、停さんにお願いしましょう。

・停 わたくしは、「事大主義」ということと、「嫌日感情」について感じたことをいいます。まず『広辞苑』でじだい【事大】を引くとこうでてきます。

 『孟子』にでてくることばで、弱小の者が強大な者に従い事(つか)えること。―しゅぎ【事大主義】自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って自分の存立を維持するやりかた。―とう【事大党】朝鮮で、1882年から日清戦争に至るまで、伝統を守って宗主国である清国への臣属を主張した保守派。

 とあります。こういった発想は、古代から大陸の勢力と対峙ししたり、冊封を受けて朝貢国になったりする歴史を繰り返し、李朝支配の朝鮮になってほぼ定着した保身術になったように思います。しかしそれだけではなく、儒教を国教としてとりいれたため、身分の固定化、差別が進み、家系重視の風習が進みました。

 「薫のハムニダ」さんに聞いてみないとわかりませんが、親族のなかで誰かが特別えらい高官とか、大金持ちになると、そこに集まってきて寄食したり公然とたかったりするんだそうですね。北朝鮮の「主体(チュチェ)思想」は、事大主義からの脱却のように見えますが、将軍さまへの絶対服従とか、「成分」という新しい身分制度など、李朝時代の伝統が堅持されているといった方がよさそうです。

・硬 明治政府は、そのじだい主義がじたい遅れ(笑)だ、といって改革を迫ったわけですね。改めないと日本の安全が脅かされるのだと。

・乙 その改革の目玉に「宮廷改革」があったため、王朝はうかつに乗れなかったし反発し続けた。

・平 日清戦争に日本が勝ったから強大な日本に事えるということにならずに、ロシアに行っちゃったというのはどうしてだろう。

・停 やはり日本は特別な目で見られていたみたい。つまり長い事大主義の歴史的発想は、華夷思想のなかで冊封を受けている朝鮮、冊封がない島夷の日本、という序列意識が強いので、ロシアに頭をさげても日本には頭を下げたくはない、ということじゃない?。ひとつの「嫌日感情」でしょ。

・乙 まあそんなに単純ではないだろうけどね。

・停 それでなくとも、いつの時代でも加害者は圧倒的に日本なんですよ。近いところからいくと、豊臣秀吉。その前が高麗王朝崩壊の原因にもなった長期間の倭冦襲来、4世紀にもその前にもあった。その点は、きらわれても仕方がないわね。

・硬 江戸時代の通信使は日本の方が上だとか、元寇は朝鮮の日本侵略だとか、倭冦は敵情視察だとかつまらないことをいう人があるが、双方の文献などをつきあわせて調べると簡単にボロがでるからやめたほうがいい。

・乙 上とか下とかが差別を産み蔑視につながる。そういう意識のない若い人とかおばさん連中には韓国ブームや韓流が生まれるわけだし、これからは対立点より共通点に目を向けるべきなんだろうけどねえ。

・平 ということで、一応今日の結論としましょうか。

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