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2006年11月 3日 (金)

日韓近代史考

[反戦老年委員会復刻版]

【日清戦争 2】
 この戦争について書かれたものは沢山あるので、ここでは推移を箇条書に要約する。「知っているよ」という方は文末の【日本の真意は?】まで飛ばしていただきたい。

【開戦までの背景】前回までのおさらい。
①日朝修好条規により、朝鮮を独立国と認め鎖国から開国への一歩となる。<br />②朝鮮王の父・大院君と王妃・閔氏の権力闘争が頻発、危機のたびに宗主国清の介入を期待。<br />③日清の干渉が続く中、国内改革も自主性なく不安定。英・ロの勢力衝突の舞台にもなる。

【開戦のきっかけ】
・1994年(明治27)2月 全羅道の農民蜂起を発端とする「東学党の乱」は朝鮮南部一帯に拡大する勢いとなる。<br />・6月1日 朝鮮政府は清国に出兵を依頼。翌日日本政府も派兵決定(双方事前通告、両軍は京城・牙山間で対立)。

【仕掛けたのは】
 日本である。両軍が朝鮮で対峙した頃、東学党の乱は沈静化し派兵の根拠を失った。日本は撤兵を拒み、朝鮮の改革を日清が協同してやることを清に提案した。清はもとよりその必要を認めず、応ずる気はなかった。日本はさらに大軍を派遣し、引退していた大院君をかついで清軍の撤退を迫った。こうして一触即発の状況に持っていった。

【戦争の経緯と結果】
・1994年7月25日 豊島沖の海戦で戦闘開始。
・8月1日 宣戦布告
・9月 陸軍が平壌を占領、海軍は黄海海戦に勝ち制海権握る。
・11月 中朝国境の鴨緑江を渡った陸軍が遼東半島を制圧。翌年にかけて山東半島威海衛攻撃、北洋艦隊全滅させる。

・1995年3月 台湾、澎湖島に進攻。
・3月20日 下関で日清講和会議。
・4月17日 講和条約調印(清国が朝鮮の独立を承認、遼東半島・台湾・澎湖島を日本に割譲、軍費賠償金2億両=約3億円の支払い、開市・開港の増加など)。

・4月23日 露・独・仏、日本の遼東半島領有に反対(5月5日日本政府これを受諾=三国干渉)。

【日本の真意は?】
 歴史を語る上で、例えば「さきの戦争は侵略戦争である」とか、「自衛のための戦争である」として反論を封ずることは、公正な歴史の判断を狂わせる非科学的な態度といわざるを得ない。しかし「後世の学者の判断にまかせる」といった無定見や逃避も、決して許されるべきではない。裁判と同じで、両論併記はしても、あくまでも判決はひとつしかない。

 日清戦争についてはどうか。厖大な史料を渉猟し、結論をだす能力もいとまもないが、結論から先にいうと、「日本の安全をはかる上で、朝鮮の独立と安定が確保され、中立地帯化することが必要。そのためには、まず清国の属邦体制排除が第一」であり、「朝鮮を占領し、領土化する意図」はなかったということになる。ただし、隣国で不当な軍事行動を誘発した日本を正当化することはできない。

 当時、個人的な心情あるいは扇動的な言動として朝鮮の領有、大陸進出への野心をあらわにする者があったことは事実だ。それは吉田松陰以来のことで、帷幕にあった山県有朋など、松下村塾門下生にその気が全くなかった、とはいいきれないだろう。

 そのあたりを、時の外務大臣・陸奥宗光は外交秘録『蹇蹇録』の中で、次の3通りの意見を「個々人々の対話私語に止まる」と切り捨てた。

①朝鮮の改革を名分に日本の版図を拡張、または保護国として権力の下に屈服せしめる。
②朝鮮の改革を進めまがりなりにも独立国の体面をそなえさせ、清・露の緩衝地帯にする。
③ベルギー、スイスのような列国保障の中立国とする。

 そして、社会凡俗の与論は「弱きを扶け強きを抑ゆるの義侠論」であるとし、これを利用し強引な開戦持ち込んだのである。しかし陸奥の真意は、「我が国朝野の議論が如何なる事情、源因に基づきたるが如きはこれを問うに及ばず、とにかくこの一致協同を見たるのすこぶる内外に対して都合好きを認めたり」としている。

 かいつまんでいうと、開戦について「いろいろ議論はあるが、そんなことはどうでもいい。与論が『義侠論』にあるのだからそれでいこう。それが内外に対して一番都合がいい」という、かなり無責任な言い方をしている。あとのことは「国益第一で考えればいいんだ」ということである。

 「内外に対して」というのは、戦端を開く1カ月前に、難航を極めた日英通商航海条約改定の調印にこぎつけ 海外からの非難の緩和が見込めたことと、その前に対外硬派から出されていた衆議院内閣弾劾上奏決議および衆議院解散による政府への攻撃をかわす意味があったのだろう。

 ところが、開戦前に朝鮮の行政改革を清と協同でやろうと提案、清からこれをこばまれたため、日本は単独で改革推進を引き受けるはめになった。「義侠論」に乗ったことと西欧の反応を気にした陸奥は、結果として上記②の方向に進まざるを得なかったのである。

2006年11月8日

日韓近代史考

【主権線と利益線】
 このシリーズを断続的に続け、前回で日清戦争までたどりつきました。その中で日本政府として、朝鮮を領土化しようという意思はなかったものの、朝鮮などへの領土拡張を夢見る日本人が、個人的とはいえいたことを否定できない、という観察をしました。

 日本陸軍の創設者であり、明治政権の富国強兵政策の軍事面を担ってきたのが、長州出身の山県有朋です。彼ががどう考えたていたかが、これからも大きな要点となります。そこで参考図書として、加藤陽子『戦争の日本近代史』講談社現代新書、をとりあげ追ってみたいと思います。

 1890年(明治23)3月、当時首相の地位にあった山県は、「外交攻略論」という意見書をまとめました。その中で、国家の独立を守るためには主権線・利益線という発想が必要である、ということを述べています。この考えは憲法発効後初の第1回帝国議会の施政方針演説に組み込まれ、有名になりました。

 主権線というのは日本の領土そのものであり、利益選というのは主権選の安全に密接な関係を持つ隣接した地域を指します。もしこの地域で他国の干渉により不利をこうむったら、これに「強力を用いて」すなわち武力でこれを排除する意思を持つこと、と説明されています。その上で「我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り」と結論づけました。

 この発想はどこから来たのでしょうか。実は、1889年にウィーン大学教授のローレンツ・ウォン・シュタインから指導されたもの、という史料が意見書の形で残されています。その中には、ロシア、イギリスの勢力争いをふまえた上「朝鮮を占領するのではなく、朝鮮の中立を保つこと」が日本の利益線を維持する手だてである、と明記されています。

 この発想は、日露戦争を経て朝鮮が領土化したことにより、「帝国の生命線」が満・蒙という拡がりを見せ、大東亜戦争では、共栄圏の生命線として南洋、東南アジアから豪州・インドにまで拡大しました。帝国主義的侵略の落とし子のようなものですが、日米同盟の「極東の範囲」とか「周辺有事」などの線引きも、軍事を想定する点では共通します。

 もうひとつ、この本に戦争を語る際に欠かせないことばがでてきます。それは「国民国家」という概念です。いろいろな定義がありますが簡単にいうと、区画された特定の地域に住む人を法の支配のもとで「国民」とし、他国に対応できる独立した存在で、「暴力装置」(常備軍)を持つということでしょうか。

 同書は日清戦争で、朝鮮と清の宗属関係がなくなったので、朝鮮がはじめて国際公法上の「国民国家」になったのだ、としています。19世紀前半の軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは国民国家が生まれた頃有名な『戦争論』を書き、「戦争は、政治目的を達成するための道具である」といった定義をしました。

 今でもこの論法を戦争肯定の論拠にしようとしている人がいますが、こんな古証文では近代戦争を語ることができず、ナンセンスです。東西冷戦が終了し、アメリカの一極支配体制やミサイル万能の世のもとでは、かつての「主権線」や「生命線」などは意味を失いました。

 さらに、いまやアメリカの敵は「国民国家」ではなく、ブッシュのいうように「テロリスト」ではないですか。イラクを攻撃したのも「国民国家」という亡霊にまどわされたのに違いありません。魔女のかわりとして、フセインが死刑の判決を受けたのです。

2006年11月11日

TITLE: 日韓近代史考

【陸奥宗光の心配】
 今回は日清戦争の進展にともない、陸奥が行き過ぎた「愛国心」を警戒するようになり、国の将来に悪影響を及ぼすことなく、諸外国の尊敬が得られるよう責任ある行動が必要、と考えたあたりを、『蹇蹇録』から抜粋する。

 平壌、黄海開戦以前において窃かに結局の勝敗を苦慮したる国民が、今は早将来の勝利に対し一点の疑いだも容れず、余す所は我が旭日軍旗が何時を持って北京城門に進入すべきやとの問題のみ。ここにおいて乎、(略)将来の欲望日々に増長し(略)、唯これ進戦せよという声の外は何人の耳にも入らず。この間もし深慮遠謀の人あり、妥当中庸の説を唱うれば、あたかも卑怯未練、豪も愛国心なき徒と目されたり。

 この頃、鴨緑江を軍馬で渡った第一軍司令官陸軍大将山県有朋は、明治天皇に意見書を書いた。北鮮の地一帯に日本人を移住させて永く支配する。釜山から新義州まで縦断鉄道を敷設し、支那を横断して直ちに印度に達するの道路する。これこそが「覇を東洋に振い永く列国の間に雄視せん」とするわが日本の道だ(色川大吉『日本の歴史』参照)。

 明治政権の中枢にあって陸奥とはここまで差が開いている。さらに陸奥の発言を聞こう。

 その愛国心なるものが如何にも粗豪尨大にしてこれを事実に適用するの注意を欠けば、往々かえって当局者に困難を感じせしめたり。スペンサー(略)そもそも愛国心とは蛮俗の遺風なりといえり。これすこぶる酷評なりといえども、徒に愛国心を存してこれを用いるの道を精思せざるものは、往々国家の大計と相容れざる場合あり。

 朝鮮を清の属邦から開放するという「義侠心」から、予想をこえた勝利に酔っていつしか「愛国心」論議にすりかわったことにより、陸奥の心配は現実のものになった。日本の侵略意図を警戒する諸外国の反発が、遼東半島放棄を迫るいわゆる「三国干渉」としてのしかかるのだ。

 以後、列強の仲間入りが実現するが、同時に領域拡大を目指す帝国主義国の一員の地位も得る。つまり、「領土的野心がない」という口実は、もはや意味をなさなくなったということである。教育基本法に「愛国心」を入れたがる皆さん、今からでも陸奥大臣の心配に思いをはせてほしい。

2006年11月21日

日韓近代史

【閔妃暗殺】
 日清戦争から日露戦争のまでの10年間に、日韓併合に至らしめる決定的な失敗が双方にあった。歴史は複雑で入り組んだ要因と、時として説明のつかない偶然のからみで進展する。だから1、2の事件だけをとりあげるためらいはあるが、象徴的なできごとして、日本側による「閔妃(ミンビ)暗殺」と、朝鮮側の「国王ロシア公使館遷座」をあげてみたい。そこでまず閔妃暗殺を取り上げる。

 以上にあげた2件はいずれも朝鮮王宮にかかわることである。これまでも王父・大院君と王妃・閔氏の権力闘争や、それを陰に陽に干渉しつづけてきた日清両国について書いた。もううんざりするほどだが、まだ続けなければならない。

 日本は日清開戦を前にして、1万の軍隊で京城を占領状態におき、いわゆる志士とか浪人と呼ばれる民間人を使って隠とん中の大院君かつぎだし、閔政権を倒して親日政権を作らせた(1894.7.23)。そして、内政改革の要求と戦争遂行を前提とした「日朝攻守同盟」を結ばせた。

 しかしその後改革に進展がなく、再蜂起した東学党と内通しているという口実で大院君をしりぞけ、国王を表にだして親日政権にてこ入れした。前述したように日本は清に大勝ををはくしたものの、三国干渉で後退を余儀なくされたことから、朝鮮王朝は日本の力をみくびりはじめ、閔妃がロシアに接近して、親日派の追放をし復権を果たした。

 そこで日本は公使館を中心にまたもや大院君に働きかけ、閔妃暗殺事の陰謀を進める。日本政府はこの頃、内外ともに相当追いつめられていたのだ。日清戦争の大義「隣国への義侠心」はものの見事に裏切られ、朝鮮の裏門監視の要衝・遼東半島も返還して、朝鮮の現状は戦争以前よりむしろ悪化していた。

 こうして95年10月8日、閔妃暗殺事件が起きる。時の公使は三浦梧楼で、外相経験のある大物公使・井上馨が脅迫や懐柔、それに札びらまでみせびらかせての工作が失敗したあとを受けて就任した。角田房子の『閔妃暗殺』によると、三浦は陸軍予備中将で、自ら「外交や政治は素人」だといい、陸奥なども反対したが、「剛気果断の人物」ということで任命された。

 犯行の黒幕は、公使自身と公使館員、領事警察に民間人が加わわっている。実行犯は軍人、警官を含む民間人計40人ほどであった。民間人は志士、浪人、壮士、暴徒などで、その狼藉、残虐ぶりから「ごろつき」とも呼ばれた。

 犯人たちは、閔妃の判別が出来ないため宮女をかたっぱしから斬殺し、死体を庭にに運び石油をかけて焼却した。報告書には「誠にこれを筆にするに忍びない」行為まであったとある。まさにごろつき以下の破廉恥ぶりである。この事件は多くの外国人に目撃されており、政府はあわてて公使以下を召還、逮捕の上裁判にかけることになった。

 しかし、処刑されたのは参加していたという3人の朝鮮人だけで、ほかの日本人は全員無罪か免訴とされた。後、伊藤博文がハルピン駅頭で安重根に暗殺されるが、動機は「国母虐殺の恨」をはらすためだったといわれる。

 この事件は、どう言い訳しようが他国の宮廷に乱入し、見るに耐えない狼藉を働いた上、実権を持つ王后を殺戮したということは、他に例を見ない言語道断の行為に違いない。そして、日本人として永久に頭の上がらない道徳的なひけめを残すことになった事件といえよう。京城に義士・安重根の銅像があるが、朝鮮人の心に残した傷を消し去ることも、また同様に不可能なことである。

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