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2006年10月 1日 (日)

日韓近代史考

[反戦老年委員会復刻版]

【征韓論】

 西郷隆盛、板垣退助、江藤新平など明治新政権武断派が、維新後の処遇に不満を持つ士族の「内乱を冀(ねが)う心を外に移す」発想から熱心な征韓論を唱え、準備を進めていた。しかしこの時、世界に通用するような新政権を立ち上げるため、右大臣岩倉具視をはじめ大久保利通、木戸孝允、伊藤博文など政権幹部一行が欧米視察に出発し、留守中のことだった。

 留守を守る西郷らは、三条太政大臣のもと閣議決定にまで持っていった。しかし帰国した岩倉、木戸、大久保らの内治優先派は辞職をちらつかせるなど、猛烈な巻き返し運動を展開し、ついに西郷の辞職にまで追い込んだ。これを明治6年10月の政変という。

 この政争の真相については、いまだに多くの議論がある。閣議決定までしながら、国民はおろか陸海軍の卿までその事実を知らなかったことから、士族に配慮する武断派と官僚支配派の権力闘争だったという解釈が有力になっているが、その詳細は他に譲る。

 次の勝海舟の談話は、25年もあとのことだが、それだけに真相をついている部分があるはずだ。欧米視察から帰ってきた大久保らやすぐ判を押さなかった天皇も、征韓論は経済、外交、軍事、内政いずれをとってみても現実性にとぼしく、メリットのない冒険主義だと断じたのだろう。またそこには、領土的野心の入る余地もないと判断できる。

 今の伊東[祐亨]ネ。この間も来たから、話して笑ってやったのだが、アレが、軍艦に兵粮まで積み、すっかり用意をして朝鮮征伐に行こうというのだ。もう五、六日で行くというようになった。すると三条[実美]から、「お前は知っているか、どうだか、こういう訳だ」というから、『ナニ、私が海軍卿だから、安心して任せていらッしゃい』というてやった。それから、内へ五、六人呼んで、『お前達は、朝鮮征伐をやらかそうというそうだが、それは男らしくて面白い、お遣んなさい。だが、その跡はどうするのだ』と聞いてやると、みンな弱ってしまった。

 「それではどうしましょう」というから、『それよりまずシナから台湾の方へ行って見ろ』と命じてやった。「それが出来さえすればありがたいが、どうでしょう」と言うから、『ナニ、己が許すのだから、構うものか、行け』と言った。その頃は、まだあの辺りへ行くことは出来なかったのだからネ。それでみンなが喜んで、行って、初めて外国を見て、驚いてしまって、朝鮮征伐は止んだよ。それから帰って来たから、みンな賞めてやって、官を上げてやった。すると、勝はどうひッくりかえるか知れぬというのて、大層嫌われて、己は引込んだよ。(巖本善治編『海舟座談』ワイド版岩波文庫)

2006年10月5日

日韓近代史考

【国権外交】 前回は「征韓論」だった。これは明治6年10月、西郷隆盛らの主張が破れて、無期限中止しいう結末になった。今回は、それに続く近隣外交をとりあげる。当時日本の領土、守備範囲はまだ確定していなかった。政府は、琉球・台湾(7年10月)と樺太・千島(8年5月)問題を短期間で決着させた。そのあと、朝鮮開国のきっかけとなった江華島事件(8年9月)が起きる。

 大久保利通らが欧米視察をして痛感したのは、明治革命で発足した新政権は、即、「国民国家*」でなければならないということと、国際問題は国際法と軍事力をバックとした国力がすべてを規定する、という2点でなかったかと思う。多難な内政改革と同時に、これだけの外交問題をわずか2、3年で解決した手腕は、現在の政治家とは比較にならない。
(*封建制の身分制的枠組みを破り国民的同一性を基礎として成立した近代的中央集権国家。近代国家。民族国家)

 なお、ここで「明治維新」といわずに「革命」といったのは、「万世一系」「王政復古」をいいたい保守派と、共産主義の定義にはまらない「革命」を認めたがらない左派、いずれも「維新」で逃げているが、私は実質「革命」だったと思っている。(拙著『「浪士」石油を掘る』所載)

【樺太】南樺太は、幕末の頃には奥蝦夷として漁民などが進出していた。そのころ北樺太に進出したロシア人が逐次南下して紛争を生じるようになり、日・ロ雑居状態が続いた。両国の国境交渉はあったものの進展せず、ロシア軍の投入が進んだ。これを見て、北海道開拓使の黒田清隆は、樺太全土を放棄しかわりに千島全島を確保して北海道防衛に全力をあげる案が現実的であると考えた。

【千島】国論はさまざまであったが、明治8年5月、政府は榎本武揚を特命全権大使としてロシアに派遣し、樺太・千島交換条約を締結させた。当時の国力から見てこれで精一杯だろうが、樺太の漁民を見捨て、樺太に比べ経済的価値が格段に劣る千島を押しつけられるようにして領土と確定したのだ。したがって千島はどこから奪ったものでもない。

【琉球】琉球は古来独立国で、中国に朝貢し冊封を受けていた。徳川家康が大御所として実権を振るっていた1609年、島津藩に琉球を与えるとしたため、同藩は軍隊を差し向け属国として支配した。幕末に至ってもこの体制は変わらず、琉球は中国の冊封国であるとともにアメリカやフランスと和親条約を結んだりしていた。

【台湾】明治4年11月、琉球の漁民66人が台湾に漂流し54人が殺されるという事件が起きた。政府は清国に責任を問うたが「犯行は化外の民の蛮族の行為で政教の及ばぬところ」という責任回避の態度だった。それをいいことに、「それならこちらで行ってこらしめてやりましょう」とばかり、7年2月に日本政府は台湾征討を決定し、6月には犯人達を降伏させた。

【清国】清国もそこまでされては、心穏やかではない。日本はすでにアメリカなどに根回しをして琉球が領土であることの了承を得ていたので、清国と事後処理の交渉に入った。その結果、「台湾は清国の領土」、「日本の行動は住民保護の義挙」という了解が成立し日本軍は撤退した。これにより日本は琉球が日本領であることを清国が認めたものと解釈した。

【沖縄県】7年10月に清国との協定が成立した後も、琉球藩王や高官・士族は清国との関係を維持する独立志向が強く、清国に援助を求めた。そのため、政府は12年4月に400人の兵と160人の警官を送り込み、強引に沖縄県設置を公布した。

2006年10月17日

日韓近代史考

【日清戦争まで】 このシリーズの「征韓論以前 1」に書いた年表の続きである。(シリーズについては、カテゴリ「東アジア共同体」をクリックの上さかのぼってください)

・1876 (明治9)日鮮修好条規締結(江華条約)
 鎖国政策の強硬政策をとった大院君から、実子・高宗の即位で王后・閔氏系の開化派に権力が移ったことと、清国の意向にそって不平等条約を受け入れた。

・1882 壬午の軍変
 軍の不満分子が大院君を担いで反乱、宮廷や日本公使館を襲う。逃亡した閔妃はひそかに清軍の出動を要請。首都を制圧した清軍が大院君を拉致して天津に監禁。

・1884 甲申の政変
 在日経験豊富な金玉均が、明治維新を手本に朝鮮の改革を目指して蜂起。事大派(大きい強い方に仕える派)と開化派の権力闘争。日本軍も高宗の要請をたてにこれに関与。優勢な清軍の攻撃を受けクーデター失敗。金玉均らは海外逃亡。

・1885 天津条約
 日清が朝鮮出兵する際に相互に連絡、調整しあうことを協定。またこの年、ロシアの朝鮮進出を警戒してイギリスが巨文島を占拠。各国の力が均衡したこの時機が、朝鮮の中立と自主的な改革をめざす、1882年に次ぐ2度目のチャンスだった。

・1894 東学党の乱・日清戦争
 宮廷の腐敗に自浄能力なく、農民等の反乱が10年ほど前から各地で発生。首都を脅かす規模のものが発生してまたもや清国に出兵を要請。日清戦争のきっかけを作る。

 詳細に触れる余裕はないが、明治新政府が軌道に乗りはじめてから日清戦争までの朝鮮の動きは、以下の繰り返しであった。すなわち、決断力に欠け飾り物的な国王をよそに、その父・大院君と、頭脳明晰で美貌の王后・閔妃の血みどろの権力闘争。支配層である両班(ヤンパン)官人の無能と功利優先主義。それらが民衆の不満を組織化できず、外国の力を頼りに目的を遂げようとする主体性のなさ。などである。

 作家・金達寿氏がなげく「李朝名物党争」に明け暮れした期間で、結局日韓併合直前までこれが続く。こういった状態は日本の安全にとっても憂慮すべき問題と考えられていた。清国の宗主国意識とは違った意味で日本もその都度軍事的圧力を加えたり干渉をしてきたのである。

2006年10月18日

北朝鮮の将来

仮想委員会レストタイム

・平 北朝鮮、核爆発再実験は、明日かも知れないしそのあとどうなるのか誰にも予測がつかない。

・停 安倍新内閣は、支持率70%で理由は「清新な感じがする」が最高だって。

・硬 ブログの中の汚辱にまみれた「不道徳感」とはまったく逆だな。スキャンダルがらみの爆弾がいつ爆発してもおかしくない。内外ともにえたいの知れない爆発物だらけで落ち着かないね。

・平 ということで、今日は北朝鮮の将来について茶飲みばなしをしよう。皆さんどう?。

・乙 日本が目標とする北朝鮮の核武装放棄と拉致問題完全解決は、金正日体制の崩壊以外にありえな感じになってきたね。

・停 「拉致問題は解決済み」と何度もいっているのに「ごめんなさい生きていました」とはいえないでしょう。

・平 アメリカの金融制裁措置もそうだ。「ニセ札、ニセたばこ、麻薬。もうしませんから制裁解除してください」と詫びを入れることもできない。それで、核兵器を持つことでそれら一切を不問にできる、と思ったのかなあ。

・硬 国連の制裁決議に対する落としどころとして、6カ国協議復活があるが、それで北朝鮮が核廃棄に応ずる可能性はまずない。アメリカと直接対話しても妥協できる話はもうないね。だって北朝鮮はルビコン川を渡っちゃったんだもん。引き返す所がもうない。

・乙 経済制裁は承知の上でやったことだ。2度目の実験で制裁強化しても、それも「想定の範囲内」で効果がない。最大の効果は、日本の強硬派を元気づけることだけということになる。

・停 一番怒っているのは中国だと思うの。血の盟約があるなどといっいたが、今度はちょっと違うみたいね。独自の制裁にも力がこもっている。

・乙 共産国同士などという、古い発想しかできない人がいるけどもうそんなのはない。中国としては難民がどうのこうのじゃあなく、国境付近の勢力バランスに大きな変化があることを恐れているだけだ。だから核兵器をかざして周辺を不安定にすることに反対するのは当然だし、アメリカの介入や影響力行使のスキを与えたくない。6カ国協議が唯一の砦だったわけだ。

・平 その6カ国協議が機能しなくなると?。

・乙 中国はNPT(核拡散防止条約)復帰などを持ち出す手はあるが、インド・パキスタンの核保有、また半ば公然化しているイスラエルなの条約不参加を黙認しているアメリカのダブルスタンダードがある限り説得はできないだろう。

・平 すると北朝鮮は、暴発?、崩壊、孤児さんどこへ行くんだろう。<br />・乙 昨日のエントリ「日韓近代史考」ではないが、どうも李朝末期の朝鮮に似てきたような気がするんだな。

・停 というと?。

・乙 今は「先軍主義」だそうだが、長らく「主体(チュチェ)思想」をいっていた。これは李朝の中にあった「事大主義(大きいものに仕える)」の裏返しで、唯我独尊の精神だ。それが世界に受け入れられないとなると、また新たな事大主義にもどるのかも知れない。

・硬 李朝末期では、日清の狭間にあって双方から改革圧力を受けていた。そこで宮廷の権益を保護してくれそうな……。そうか、ロシアに逃げ込んだのだ。

・乙 アメリカが相手をしてくれなければ、もうひとつの核大国、ロシアと組む手がある。ロシアの南進欲望は遺伝的なものだし、東アジアでの発言権がますことで悪い気はしないだろう。アメリカもロシアが核をコントロールしてくれるなら黙殺するかもしれない。

・平 ううーん。そもそもがソ連と組んでできた国だものな。だけどやはりここだけの「茶飲みばなし」だよね。

2006年10月24日

日韓近代史考

【日清戦争 1】
 日清戦争がなぜ起こったか、端的にいえば、日本の政界が朝鮮をめぐって清国との戦争は避けられない、と思い込み始めたからである。1876年(明治9)の日鮮修好条規締結は、日本が砲艦外交という、相当強引な手を使って朝鮮を開国させた。しかし、前回述べたように朝鮮が清を宗主国と仰ぐ意識に変化はなかった。

 政治の刷新や制度改革などはそっちのけで、閔氏や大院君の暗闘が繰り返され、叛乱が手に負えなくなると清に出兵を要請するのが常であった。条約上の「朝鮮国ハ自主ノ邦ニシテ日本国ト平等ノ権ヲ保有セリ」は、日本が勝手に期待しただけで、拘束力は全くない。

 日本政府が決定的な危機感を抱いたのは、巨文島事件以来で「朝鮮国に当事者能力なし」と判断してからではないかと思う。これは以前記事にしたことがあるが、1885年、イギリス軍が朝鮮海峡にある巨文島に突如上陸し、砲台を築いて約2年間占領したことである。

 動機は、朝鮮宮廷が日・清の横暴な干渉から逃れるため、ロシアと極秘で進めていた密約がばれたことである。日本海に面した元山近くの港を貸すかわりにロシアの軍事的保護を受ける、という内容であった。当時、ロシアとアフガニスタンで鋭く対立していたイギリスが、すばやくこれに反応したということである。

 イギリスの行動は、清との間の了解事項とされ、その解決についても英、ロ、清の問題として朝鮮は蚊帳の外に置かれていた。清は、宗主国といってもかつての冊封関係の続きで、法的には属国でも植民地でもましてや同盟国でもない。いざとなれば「われ関せず」と逃げをうつこともできる。台湾でも琉球でも同じような外交をしていた。

 24年前、ロシアの軍艦が対馬に勝手に上陸し、一部を5カ月ほど占拠したことがあった。指呼の間にある朝鮮に当事者能力がなく、無責任な清の判断で大国が朝鮮や周辺を荒らしまわる。これは日本の安全にとって放っておけない事態である、こう政府が考えたのも無理のない話であろう。

 まず、清の影響力を完全に断ち切る。そのうえで朝鮮の改革を断行する親日政権を樹立する。これが理想だったはずだ。本当は腐敗した宮廷を排除したいのだが、天皇をいただく日本からは、言い出しかねるだろう。また民衆の力に期待できればいいが、それも「斥倭洋倡義」の排日・排洋運動に凝縮され、思惑通りには行かなかった。

 開戦のきっかけと結果については次回以降のこととしたい。

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