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2006年9月14日 (木)

国名考

[反戦老年委員会復刻版

 わが国の隣近所とは仲良くしなれればならない。こんな当たり前のことが「嫌韓」だとか「媚中」などといって攻撃対象にするとは、全く倒錯した嫌な世の中だ。こんな時、相手の国名をどう表現するのかについて考えてみたい。

【朝鮮】このブログでは、地域としての半島、そこに住む民族、言語について「朝鮮」を使ってきた。その根拠は、子供の頃から使い慣れているというだけで深い意味はない。それ以外の用語にすると(例えば韓半島など)どうもしっくりこない。また、韓国内でも「朝鮮日報」という新聞名が使われているので、違和感はないと思う。

【北朝鮮】正式国名は「朝鮮民主主義人民共和国」である。イギリスなど正式国名は一行で書ききれない。寿限無じゃあるまいし、略称がほしいところ。同国内では「共和国」を慣用しているようだが、これでは外国に通用しない。中国は正式略称として「朝鮮」「韓国」というようだが、これも分断を固定するようで使いにくい。すると「北朝鮮」しかないのではないか。

【韓国】太古からみると、「朝鮮」の名は北方にその起源があるのに対し「韓国は」南に多い国名だった。「朝鮮」の名称は統一国家として500年以上使われたが、「大韓」にしたのは日韓併合前の3年前1907年からである。

【Korea】西欧に通用するものの、あくまで英語である。935から457年続いた高麗国からきている。

【倭】律令の完成を間近にした701年、粟田真人を代表とする遣唐使が派遣され、「日本国」の国号を使った。これについて新旧唐書ともに、「倭」の卑字を嫌って「日本」と称した、と好意的に書いている。以来、「倭冦」などと使う場合は別として、公文書から「倭」の字が消えている。なお、日本では「倭」を「やまと」と読んで、『万葉集』などでも盛んに使っていた。

【日帝】北朝鮮や韓国で盛んに使われる。いやな響きを持つ言葉だが、終戦までは、誇らしげに「大日本帝国」を自称していたのだから、当時のことをいうのなら仕方がないのかも。なお、「倭」は近現代に至るまで、中国より朝鮮の方で多用されている。

【日本】「ニッポン」か「にほん」か。「ニッポンに統一しよう」という意見が過去2回起きている。最初は日本が国際連盟を脱退した翌年の昭和9年3月、文部省の国語審議会が案を政府に提出したが、なぜかこの時は正式決定に至らなかった(拙『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』)。

 次は日韓共同主催のサッカー・ワールドカップ応援で、ニッポン・コールが国民の一体感を増したということで、新聞の投書欄などに現れた。いずれもナショナリズム昂揚時の現象だ。ひとことでいえば、「ニッポン」というのは中国(漢文)読みで、促音のない「やまとことば」では「にほん」となるのだろう。

【中国】「中華人民共和国」その前が「中華民国」。ことばとしては、中華思想などといわれるようにその起源は古い。しかし現在は正式国名の公式略称になっている。

【支那】石原都知事発言で有名になったが、「中共」(中国共産党)とともに右翼が使いたがる表現だ。それをいうなら「支共」にしなければおかしい。シナ(チャイナ)の音は古代の秦からきているといわれる。「支那」の字はかつて中国人自身使ったことがあるとされているが、意訳すれば「ばらばらに分かれた国」になるので、嫌っている。

「倭→日本」を奈良時代に受け入れてくれた中国に、わざわざ相手が嫌う表現を使う幼児性は、日本にとって恥というべきだろう。

2006年9月20日

韓国近代史考

 このタイトルでのシリーズ化を考えているが、最初に姜萬吉著、小川晴久訳『韓国近代史』を引用して、日韓の歴史認識問題への手がかりを得ておきたい。

【第一章 国民国家樹立の失敗 序説】より

 清日戦争後約十年間維持されてきた朝鮮半島をめぐっての露・日間の勢力均衡は、英国と米国が日本を援助することによって壊れた。その結果は露日戦争、日本側の有利な条件での戦争終結、そして大韓帝国の日本による保護国化および植民地化としてあらわれた。専制君主国家としての大韓帝国が内部の国民革命によって崩れず、外勢の侵略で倒れた事実は、植民地化のその時までも国民国家を持つことができなかった歴史的限界性を示すと同時に、以後の歴史にも大きな負担を与えた。

【同上第五節 植民地への道】より

 「合邦」に対する国際的な反応も一般的に冷淡であった。英国と米国は英日同盟、タフト・桂密約、ポーツマス条約を通してすでに日本の韓国支配を承認していたので、当然「合邦」を支持した。

  英国政府は「日本が韓国においてその勢力を増加するのに対して英国政府は何等反対する理由がない」といいながら、ただ自国の経済的利益問題と関連して関税率の不変、開港場および沿岸貿易の継続を要求した。米国政府も「日本の韓国における行政が非常に善意に満ちており、韓国民の幸福のために力を尽くしている跡が歴然である」といい、ニューヨーク発行の『東洋評論』も「韓国に利益関係にある総ての外国は韓日合邦から生ずる変動に対してなんら不安な考えをいだく必要はない。日本政府は細心に外国の一切の利益を保護するだろう」と論評した。

 第三国としては一番利害関係の深かったロシアの新聞も「朝鮮の運命はすでに露日講和条約で決定され、日本は事実上朝鮮を併合し、今回ただ形式的にこれを発表しただけだ。併合が朝鮮と利害関係がある英国の同意を受けて断行され、ロシアもこれに反対する理由がない」といい、ドイツのある新聞は「朝鮮人がその愛国的精神によって内心では日本の情深い文明統治よりむしろ腐敗した旧政府を選ぶ意思があるのはきわめて自然な道理である」といいつつも、将来日本の支配による朝鮮の経済的発展は疑問の余地がない」といった。ただ清国の諸新聞は韓国の滅亡を憂慮して満州や蒙古が将来同様な運命になることを警戒した。

 大韓帝国の無能と腐敗、そしてそのような政府を倒し国民政府を樹立できない国民的・歴史的条件、日本の野蛮な侵略主義とこれに対する帝国主義列強の援助および承認が、この時機の我々の歴史が失敗することになった重要な原因であるということができよう。

【第二章 反民族運動の展開】より

 朝鮮王朝の専制君主体制が国民革命によって崩壊せず、外勢の侵略で倒れたことは、以後の我々の歴史の大きな負債となったことは勿論、見方によっては二〇世紀初期のわが歴史が植民地に転落することになった第一次的な原因は国民革命が実現できなかった点にあり、またその原因中の一つがブルジョア運動としての愛国啓蒙運動の非戦闘性・非革命性にあったともみることができるのである。

 このやや長い引用をしたのは、この著述が、歴史を美化することではなく、自国の知識人に向けて統一国家への展望ができるような近現代史を構築する、という立場をとっていること、さらに日本人読者を意識せずに書かれたものであるということが、訳者解説などてわかるからである。

 当然、これをもって韓国の歴史学を代表させるわけにはいかない。しかしその行間から学び取れるものは決してすくなくない。以上の引用は、それぞれの章、節の結語として現れたもので、反日闘争や反権力闘争などに多くの文面を割いているにもかかわらず、王朝や自国民の犯した失敗に冷静な反省の目を向けていおり、日本における歴史評価と相反するものではない。

 わが委員会では、日韓関係は日中と違って「靖国問題」ひとつに問題点を凝縮するようなわけにいかず、明治にさかのぼる歴史問題のすりあわせが必要であり、たとえ立場によって違う見方があっても学術・文化の交流、共同研究などの道は開けている、と主張してきた。相互の差を縮めることは可能である。

 ただ、日本に対する韓国人の民族としての感情を読みとり、それに反感をもつのではなく理解していく態度が必要であろう。上記引例で「清日戦争」「露日戦争」など2国を列記する場合は、どんな場合でも必ず「日」を下に置くとか、2番目の引用にあるドイツの新聞の解説のように「日本の支配下に入るくらいなら腐敗した宮廷のもとにいた方がましだ」と考えていたことなどである。

2006年9月23日

日韓近代史考

征韓論以前 1

 日頃交流を頂いてているVIVAさま主宰の「本を読もう!VIVA読書!!」に、「取材学」に関する書評があった。そのコメントに「慣れればやさしい」と書いたが、歴史に関していえば、古代、中世などは、参考にすべき文献、資料が限定され、研究者の手で叢書や資料集にまとめられているので、たしかにそれをたどることはやさしい。

 しかし、近現代になると文字に普及による文書の増加、対象分野の多様化、埋もれている資料など、すべてを完璧に点検することなど思いも寄らない。専門の学者が時間と金と人手をかけて調べるようなことを、素人がやれ、といわれてもどだい無理なのである。

 ただ、一部の評論家やジャーナリストと称する人が、あいまいなソースの資料を誇らしげにかかげて、さも史実めかして発言するのは信じない方がいい。たとえ原資料でなくても、文献として多くの専門家の目に触れ、批判に耐えうるものに準拠するのも正しい態度であると言えるのである。

 さて前回、姜萬吉著『韓国近代史』を手がかりとした記事を書いて、ここから日韓近代史を眺めていきたいとした。以下、すでに発表されている既知の事柄で(前置きで予防線を張っておいたように(^^))オリジナルな史論ではない。しかしこれから日韓の近代史を考える上で、その底流にあるものとして考えていきたい。

 このブログでは、李王朝下の朝鮮にダメージを与えた豊臣秀吉の朝鮮侵攻は省略し、江戸時代からの「朝鮮善隣時代」と明治維新当時の「巨文島」を既に記事にした。そこでもう一度、日本のペルーによる開国前後のアジアの国際状況を年表にしてみよう。

・1840  清国、アヘン戦争でイギリスに敗れ、南京条約締結。これに続いてアメリカ、フランス、ロシアも侵犯。
・1844 フランス船琉球に来て通商を要求。以降毎年のように各国船わが国に近づく。
・1854 幕府ペリーと和親条約締結。
・1858 幕府、日米通商条約、蘭、露、英、仏各国と条約締結。

・1860 桜田門外の変。ロシア沿海州を領有、ウラジオストック港を築く。
・1861 ロシア軍艦対馬に上陸、一部を占拠。
・1866 朝鮮、大同江を遡行したアメリカ船を焼払い、江華島占領軍を撃退。
・1867 幕府、朝鮮に使節を送ろうとして失敗。

・1868 江戸開城。天皇、東京遷都。
・1876 日鮮修好条規締結(江華条約。

 以上の中で、「1867 幕府、朝鮮に使節を送ろうとして失敗」というのに注目したい。これは大政奉還を決意する徳川慶喜の前、家茂の時代の66年2月に計画されたもので、明治新政府になってからも朝鮮に対しさかんに外交接触を働きかけていた。その事情については、次回触れることにする。

2006年9月25日

日韓近代史考

征韓論以前 2

 このシリーズを始めるにあたり、韓国の知識人に向けた啓蒙的な史書として、姜萬吉氏の『韓国近代史』の一部を引用した。またその内容が、客観的な史料の分析から日本が植民地としたことを攻撃することに終始するのではなく、その要因が結果的に自国内部にあったとする結論を導いていることを紹介した。

 にもかかわらず文中に「日本の野蛮な侵略主義」など、過激な形容詞が説明抜きで現れる。また、最近では、韓国の『中央日報』06/05/08付のコラムで、パク・ミョンリム延世(ヨンセ)大政治学科教授が次のような表現をしている。

 独島問題が見せるように、領有権の欲望に加え、恐るべき日本の武力進出まで許される場合、北東アジアの平和秩序は大きく脅かされるだろう。

 街頭デモのスローガンや政界のプロパガンダではない。知識人の最先端に位置する人ですら、そのDNAに「日本の侵略の野心」が刷り込まれているように見えることである。それがどこに始まるのか、倭冦や秀吉の時代はさておいて、前回年表を組んでみた明治維新の頃をふりかえろう。

 嘉永6年(1853)、ペリーの黒船が浦賀にやってきた年である。安倍晋三氏が信奉する吉田松陰が『獄是帳』でこういっている。

「魯・墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り信を夷狄に失うべからざる。但し、章程を厳にし、信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮、満州、支那を切り随え、交易にて魯・墨に失う所は又土地に鮮満にて償うべし」

 なんとも強国にはしっぽを振って、貯えた力で弱者に襲いかかろうという豺狼そこのけの露骨な盗賊精神である。もっとも安政6年(1859)刑死する直前になって、西欧列強に対抗するためには朝鮮、満州、支那およびジャバ、ボルネオ、オーストラリアを訪ね、航海通市以外にない、と力づくの表現は訂正している。

 松蔭の過激発言が、朝鮮に伝わったわけではないが、同国から見れば、後世松蔭が予言したとおりになったではないか、というかも知れない。では、幕府は実際にはどういう対朝鮮政策をとったか、前回予告したテーマに入って見よう。

 慶応元年(1865)には、香港の新聞が、「日本名儒八戸順叔先生」の談話として、日本はすでに蒸気軍艦を80余艘ももち、近く朝鮮を征伐しようとしているという趣旨のことをのせたが、それが清朝政府から朝鮮政府に密報され、おおいに朝鮮の対日疑惑を生ぜしめたこともあった。

 幕府は翌慶応2年5月、朝鮮にたいしてその流説を公式に否定し、かつ朝鮮の幸福のために使節を近日派遣すると通告した。朝鮮では、幕府がなぜにわかに使節を派遣するのかその真意を疑い、使節接待の用意ができないとの口実で、幕府の特使来航を拒絶した(9月)。(以上、井上清『日本の歴史』中公文庫)

 使節に予定されていたのは外国奉行平山図書頭で、その後も繰り返し折衝を求めた。しかし当時の朝鮮は、日本同様西欧列強の外圧を受け、徹底的な鎖国政策をとっていた。しかもその年の9月にはアメリカ船焼き討ち事件まで起こし、極度の緊張状態にある。そこへアメリカの軍門に降った日本が接触したいといってきても、そう簡単に受け入れるわけにいかない。拒否するのが当然だっただろう。

【参考文献】『日本の歴史20』中公文庫、金達寿『朝鮮』岩波新書、呉善花『「日帝」だけでは歴史は語れない』三交社、池田諭『吉田松陰』、大和書房

2006年9月28日

日韓近代史考

征韓論以前 3

 幕府の使者派遣を朝鮮から断られたまま、慶応3年(1867)12月、王政復古の号令が発せられた。摂政・関白・将軍らの官は、総裁・議定・参与にとってかわった。微妙な立場にいるのが対馬の宗家である。中世以来日本と朝鮮の間で双方の利益や体面を調整することで、特殊な大名の地位を保ってきた。

 つまり、宗家が朝鮮王朝に臣従することで釜山近くに「倭館」をもうけ、許可された範囲の貿易や日本との事務連絡に当たるというものである。新政府も政治体制変更を伝えたいが、ルートはここしかなく、対馬藩にその任務を課した。

 その時の日本の文書に「皇」とか「勅」の字があり、朝鮮側が「この字を使えるのは清の皇帝だけだ」といって受け取らなかった話は有名だ。対馬藩の使節は1年近く文書を受け取るようねばったが、応じなかった。日本を宗主国・清と同等におく気はないということである。

 日本にしてみれば、長年にわたって将軍交替の折に朝鮮通信使が来朝、幕府に挨拶したではないか、それが天皇に変わったからストップするというのは、無礼千万と考えた。いわばどっちもどっちなのだが、文字の問題がなくても「征韓」の意思があったことは、木戸孝允日記などで明らかになっている。

 文書で硬直状態になったため、政府は改めて朝鮮政策を確立する(「征韓」の可否を含め)ため、明治2年(1869)12月、対馬と朝鮮へ4名の調査員を派遣した。その調査項目は、従来の交際様式、独立の程度、ロシアとの関係、港湾や軍備の状況、内治や経済の状況などである。

 その調査項目の中に「竹島・松島が朝鮮付属になった理由」という注目すべき1項がある。松島というのが、いま領有権問題でもめている竹島のことである。ある人は、「日本側資料で現・竹島が朝鮮領であることを認めているではないか」というが、「以前は日本付属だった」という裏があればこその話で、どちらが有利とはいえないと思う。

調査報告は、即刻攻略すべしという過激なものと、順序をふんで正常な国交を結ぶよう説得し、それでもだめなら国際公法の権利を行使して攻撃するという2通りのものがでたが、征韓論を肯定する立場には変わらなかった。

 このあと、西郷隆盛などのいわゆる「征韓論」につながるわけだが、ひとつ付け加えておきたいのは、米英当局や両国の商人は、日本が朝鮮や台湾を支配することは別として、軍事攻撃により開国させることには賛成で、さかんにけしかけていた傾向が見られる。死の商人の暗躍は、日本の内戦、戊辰戦争の中でもあったことだ。

2006年9月30日

上海

 洒脱な書評を展開するVIVAさまのブログに『上海ベイビー』が取り上げられた。VIVAさまは、「上海には行ったことがない」というが、私もそうである。「上海」で想起することといえば、最近では中国政界の上海閥を代表する要人が汚職で追放されたこと、大戦前まで上海租界の公園に「中国人と犬入るべからず」という立て札がかかっていたこと、それに「上海事変」である。

 「上海事変」といっても今や知らない人の方が多いだろう。歴史認識を云々する人にとってこの史実を外すことはできない。以下、当時の新聞紙上いっぱいにおどる主な見出しと記事を見てみよう。

●我軍を悩ました猛烈な市街戦・我軍の死傷七十三名・上海五日の総攻撃・夕刻警備境界線まで後退(以上4段抜き。見出しと小見出し
●敵機飛来し我軍に爆弾投下・けふ根拠地爆撃に決す(同上)
●敵陣地爆撃の艦上機墜落・搭乗三将士惨死す(2段抜き。見出しと小見出し)

●邦人殴打さる(2段抜き見だし。以下はその記事)上海東方製氷社員岡田昂氏(三五)、熊本県出身結城健士氏(三七)は北京路を通行中支那人約二千名の群衆に包囲殴打され顔面、頭部等に瀕死の重傷を受けやつと馳せつけた英国軍隊により群衆を追つ払い折柄通りかヽつた邦人のトラックに救はれて篠原病院にかつぎ込まれたなほ同地方の民衆はいきりたち形勢不穏である

●邦人行方不明
●豊田紡保護の陸戦隊引揚
●十数名の敵を倒す・内藤一等水兵の殊勲(以上一段見出し

●多門師団司令部 堂々ハルビンに入る・各機関、歓迎に忙殺・我軍死傷八十余名(4段抜き。見出しと小見出し)
●各戸に翻る日章旗・邦人婦女子の歓喜
●爆撃また爆撃 輝かしい空の殊勲(以上3段抜き見出し)

 以上の記事は、上海で軍同士の衝突が起きて8日目の模様である。また、破線以下は別の地域で、満州の奥地、ハルビンを侵攻し、満州事変の軍事行動に終止符をうつニュースである。そこでこの時期の時事解説が必要になってくる。日本が管轄する満鉄線の柳条溝で爆破され(実は日本の関東軍が謀略で爆破)、満州事変が勃発したのは、この4カ月余り前の昭和6年(1931)9月18日のことであった。

 この上海事件にも関東軍の謀略があった。板垣征四郎高級参謀は、上海駐在武官の田中隆吉少佐を満州に呼び、2万円の工作資金を与えて上海に騒動を起こすよう依頼した。田中は麗人スパイ川島芳子を使って中国人を買収し、托鉢中の日本山妙法寺(平和活動で有名)の僧侶ら5名を襲わせた。

 その結果2名が死傷し、日本人、中国人市民の対立が一触即発の状態に発展していったのである。また、かねて日本の満州政策に疑問を持っていた諸外国の目をここに集中させ、その間隙を縫って満州全体の軍事制覇を遂げたのが、上のハルビンの記事である。

 最近櫻井よしこ氏などが、「張作霖爆殺事件を日本軍の謀略でなく、ロシア諜報機関の仕業だった」などという説をたて、日本がそのようなことをしなかったという心証にしようとしているが、まともに相手にされていない。歴史全体を読む力を疑われても仕方がない。

 上の新聞は、昭和7年2月6日付「東京日日新聞」である。実は、わが反戦老年委員の誕生日に当たる。新聞はかつて娘が誕生祝いがわりに、同紙をコピーしてくれたもの、因果応報これにつきるものなしというべきか。

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