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2006年8月14日 (月)

東京裁判異伝 1

[反戦老年委員会復刻版]

 これから書こうとしていることは、歴史的事実とか実録とかといったものではありません。かといって根も葉もないことではなく、これまでに解明されてきた各種の研究や、当時の世間の流れから考えて「こんなこともあったんじゃないか」とか、「今考えるとこうに違いない」と感じていることが中心です。

 「東京裁判は勝者による一方的な裁判で、公正を欠く」とか、「国際法上公判手続きに疑問がある」という意見をよく聞きます。まず、最初の問題から取り上げて見ましょう。「戦争犯罪人は日本人の手で裁かれるべきだった」という人もいます。

 そのような動きは実際にありました。ポツダム宣言の第10項には、<吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加えらるべし>とあり、これを受諾した日本は、当然その対策を考えていました。宣言ではその詳細に触れていませんが、当然厳しい追及があるものと予想し、処罰がすこしでも緩和されるよう日本側による「自主裁判」を検討、連合国側に打診してみました。

 連合国側では、準備に時間を要したものの、そのようなことでお茶をにごす気は毛頭ありません。GHQはそんな希望的観測をうち切るように46年3月、その可能性をきっぱり否定しました。一般の日本人は、「天皇や皇族が引っ張られるようなことはないか」と息を潜めていましたが、一番ホッとしたのは幣原首相ではないでしょうか。

 明治憲法では、「第五十七条 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ」とあります。天皇の命令で動いた軍人が、天皇の名で裁かれるということになり、天皇は苦境に立たされます。また、新憲法はようやくその姿が見えてきた頃ですが、連合国側が期待するような戦争犯罪を裁くとなればそのための法律が必要となり、主権在民の建前から天皇の立場が当然議論の対象になります。当時の共産党の勢いからみても、何が起きるかわかりません。

 戦後、保守陣営の最大の政治目標は、経済復興と並んで、天皇制の維持と戦争責任者の断罪による民心の安定だったといえます。そのためには、すでに天皇制の利用価値を知っているGHQ主導の裁判で天皇への波及を止め、同時に国論の混乱が回避できれば一石二鳥だったわけです。最近、「東京裁判はGHQと日本政府の合作劇」という評価がありますが、そういった痕跡は十分あるようです。

2006年8月15日

東京裁判異伝 2

 今日15日、小泉総理大臣は予想通り靖国神社に参拝しました。中国などでも、天皇メモの発見、政界での論争などを通じて、日本の国内事情を注意深く観察しており、「小泉首相は結局意地っ張り」という位置づけになっているようです。歴史の評価も、田中真紀子さんではないけど、稀代の「変人」首相だった、ということになりかねません。

 小泉首相特異(得意の転換ミス)のワンフレーズは、例えば「戦没者に哀悼の意」といい片方で「A級戦犯はA級戦犯」というように脈絡をつけず、二律背反することでもあえて説明をしないか、話を別な方に振ってしまうという変なくせがあります。これもあとしばらくのご辛抱ですが、彼の残した悪影響、つまり「復古右派」を元気づける政策だけは止めなくてはなりません。

 今日も東条英機元・首相の孫娘、由布子さんが複数のTV局に出演してました。おっしゃることは「国会決議でA級戦犯という言葉はなくなった」とか「合祀は国で決めた」という、復古右派がかつて唱えていた、事実に反する相当無理なこじつけだけで、少女時代にご苦労されているだけにいたいたしい感じがしました。

 そこで、東条由布子さんに申し上げたいと思います。お祖父様は学校の先生がいったような「泥棒よりもっと悪い人」などではありません。戦時中の国家指導者の中で、ただひとり全責任を一身に受けて最後をとげられました。自殺未遂も、あるいは深い考えがあってのことかも知れません。

 自己保身に汲々とする他の戦犯容疑者と違い、公判でも日本の開戦が道理のあるもので間違っていなかった、と綿密な論拠をあげて堂々と主張され一歩も引かれませんでした。他の被告が罪を転嫁しようとしていることを知っても、態度は一貫していました。

 つまり、強い罪状否認で裁判官の心証を悪くしておいた方が、自分に罪を集めやすいと考えたのかも知れません。家族の皆さんに「語るなかれ」とおっしゃったのは、無用な弁解をするな、という意味だと思います。もし、公判で戦争責任の所在が不明確になれば、当然天皇に類が及び、天皇を証人として喚問するということもになりかねない、と心配されたと思います。

 ただ、復古右派のいうように、いわゆる「東京裁判史観」がA級戦犯を悪者にしたという主張は間違いです。東条首相は、戦時中からすでに戦争指導のあやまりと、憲兵や特高を使った独裁体制、和平工作の妨害などで評判を落とし、退陣させられています。

 また、負ける戦争を始めたばかりか、終戦直前まで徹底抗戦を主張し、戦後は自ら戦陣訓で禁止していた「生きて虜囚のはずかしめ」を受けたことなどから、一般民衆の怨みを買っていたことは事実です。それは、東京裁判やGHQによる「真相はこうだ」など宣伝工作の始まる前からです。

 お祖父様の最後のお仕事は、お国のため悪者に徹することでした。そのお祖父様の名誉回復は、靖国神社に祀ることではありません。それを言い張ることは、お祖父様の遺志に反するばかりか真相からますます遠ざけることになります。名誉回復は、歴史修正主義ではなく、今後の正しい歴史の検証の中から生まれるはずです。

2006年8月17日

鴻毛より軽し

 旧盆で陋屋に押し寄せた孫軍団が次々と撤収し、今日は最後になった。中1と中3の孫娘が博多に帰る。たまたま狸便乱停さまの「軍人勅諭」を拝見し、中1当時の淡い追憶がよみがえった。

 初夏のさわやかな日、教練の時間は八幡神社への行軍であった。巻脚絆(ゲートル)と鷹匠(地下たび)だけで軍装なし。参拝の後、境内の一隅で折敷(地面に立膝で座ること)。教官は退役准尉殿。

 「お前たち、軍人勅諭というのを知っているか?」<br /> 「ハイッ」といって手をあげたのは、この反戦老年だけ。「よおし、言って見ろ」。「ひとつ、軍人は忠節を尽くすをもって本分とすべーし」。以下第1項全文をスラスラと口誦した。

 幼い日の幻に似ているのだが、最近でも同期生が証言するから本当なのだろう。実は都会の学校から転校して半月ほどで、転校前の最初の教練の宿題がこれだったのだ。その学期の通信簿、教練だけが「優」ほかはすべて「良」か「可」だった。

 その一節「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」。天皇が「命は地球より重い」でなく「おおとりの羽毛より軽い」と軍人に教えたのだ。明治16年、まだもと武士が大手を振っていた時代だったとしても、60年間そこから一歩も前進しなかったのが、帝国陸海軍である。それが子供にまで押しつけられた。

 しかし、鴻毛より軽い命は下級兵卒と敵方人民で、高級将校は禁止されている政治にかかわり、命に危険のないところにいることを、兵隊達は知っていた。<br /> 「ひとつ、軍人は要領をもって本分とすべし」。

 階下から声がした。「もう出かける時間だよー」。そう、もう時間がない。台風が近づいているそうだ。孫達の平安無事をひたすら願って送り出そう。

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