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2006年6月

2006年6月19日 (月)

日露戦争

[反戦老年委員会復刻版]

 今から102年前のことです。1904年(明治37)年表より(『20世紀年表』小学館・準拠)。

2/6 日本政府、日露国交断絶を宣言。
2/8 陸軍先遣部隊仁川に上陸開始。連合艦隊、旅順港外の露艦隊を攻撃。
2/10 日本、ロシアに宣戦布告
2/23 日韓議定書調印。日本は韓国皇室の安全ならびに領土保全を図り、軍事上の便宜を獲得。
2/24 第1次旅順港封鎖失敗。

3/27 第2次封鎖失敗
5/1 陸軍第1軍が鴨緑江を越え、九連城を占領。
5/3 第3次旅順港封鎖実施。
5/5 陸軍第2軍が遼東半島上陸。
5/26 第1軍、金州を占領。日本側の死者4287人。旅順包囲を開始。第2軍は南山を占領。
5/30 大連を占領。

6/20 満州軍総司令部を編成、総司令官に大山巌参謀総長、総参謀長に児玉源太郎参謀総長山県有朋を任命。
8/10 露艦隊旅順を出撃し黄海で連合艦隊と海戦。露艦隊敗退、戦力の半数を失い旅順に逃げ込む。
8/19 乃木希典率いる第3軍、第1回旅順総攻撃、24日までに1万5860人の死傷者を出して失敗。
8/22 第1次日韓協約調印。韓国は日本推薦の外交・財政顧問を雇用。外交は日本政府と事前協議。
8/28 遼陽で開戦以来最大の会戦。9.4 一進一退の死闘の末占領。日本軍の死傷者2万3533人。

9/29 徴兵令改正公布。陸軍後備兵役を5年から10年に、補充兵役を3年間延長して12年4カ月に。
10/10 日露の大軍が沙河で会戦。
10/20 日本軍、弾薬不足で砲撃中止し、両軍対峙。日本軍の死傷者2万497人。
10/26 第2回旅順総攻撃失敗、31日までに死傷者3830人。
11/26 第3軍、第3回旅順総攻撃を開始。
12/5  203高地を占領、日本軍の死傷者1万6935人。旅順港内の露艦隊に砲撃開始。

 明けて明治38年

1/1 旅順の露司令官ステッセル将軍、降伏。
1/28 竹島を島根県に編入。
3/1 奉天に向けて総攻撃開始。
3/20 日本軍勝利、日本側死傷者7万28人。
5/27 日本海海戦で露バルチック艦隊を破る。
6/8 米、ローズベルト大統領、日露講和会議を呼びかけ。
9/5 日露講和条約調印。

 この戦争による死者・廃疾者は11万8千人、死傷者にするとその約倍にのぼります。民間人の死傷者は不明ですが、その十分一にも満たないでしょう。現在のイラクでは米軍の死者がこれまでに2500人、イラク民間人はその10倍を越えても不思議ではありません。

 日露戦争のような兵員消耗戦は、だんだん過去のものになりつつあります。しかし、それだけに新たな戦争は民間人に犠牲を強いるものとなるでしょう。日露戦争は、それまでになかったナショナリズムの昂揚と、その対極にある反戦の言論が公然と叫ばれた非常に示唆に富む時代でした。

 そして帝国主義的な野望を隠さない列強が、東アジアでどう覇権を争い合ったのか、それが後の時代にどんな影響をもたらしたのか、またそこから何を学ぶかについて、特に韓国をふくめ真摯な検討が必要な時期に来ていると思います。

 一と足ふみて夫思ひ ふたあし国を思へども
 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎ありや
                   (大塚楠緒子)

2006年6月29日

韓国と拉致被害者

 横田めぐみさんの元夫、金英男北朝鮮工作員と韓国の家族との再会、および同氏の記者会見の模様が報道された。再会劇の展開と会見の内容とが予想通りであったという点と、北朝鮮に韓国と日本の連携を分断しようとする意図が見える、という報道のコメントには全く異存がない。ただし、下記のような声はどうだろうか。(『毎日新聞』19日朝刊13版)

 家族会の飯塚繁雄副代表は「(桂月さんらは)怒っておらず、英男さんが拉致されていたことを忘れているようだ。犯人のところに行って『ありがとう』と言っている感じ。北朝鮮が譲歩したというのは間違いで信用していない」と語った。

 被害者家族の止むに止まれない感情が、つい口にでたというなら理解ができる。しかし新聞の1面に掲載されるとなると、これは「韓国と日本の連携を分断」という北朝鮮の意図に、まんまとはめられたことにならないか。

 拉致被害者といっても、日本とは全く事情が違うことをどれだけの人が意識しているのか、はなはだ疑問になってきた。まず、韓国と北朝鮮は同一民族であり統一が悲願になっていること。したがって金英男氏は洗脳されていたにしろ、祖国統一のためという職業意識で働いているかも知れない。

 次に最近までは(法的には今でも)交戦相手国で、工作員の侵入、拉致、誘拐、暗殺など双方ともに当然視されていた行為であったこと。現状のように双方の交流が深まっていけば、やがて解決に向かうと思われていること、などがある。

 これらのことからも、北はともかく韓国国民の心情を逆なでしかねないような発言はつつしむべきではないか。福田元官房長官ではないが、相手の心を傷つけておいて協力関係を、というのは成り立たない。相手国に対して「どうしてか、わからない」という前に、「どうして、わかろうとしない」ということの方が問題なのだ。

 拉致問題解決に今もっとも大切なことは、6カ国ほか各国が強調して北朝鮮を孤立させることであるし、政府もその方向で努力している。拉致被害者が、対中国、朝鮮強硬路線をつらぬく支援団体に振り回されているとすれば、それこそ悲劇である。

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2006年6月17日 (土)

自虐の効用

[反戦老年委員会復刻版]

 朝鮮の南北分断は日本に責任、という論調があります。そのひとつとして、山城幸松・金容権著『日本「帝国」の成立』(四「後は野となれ、山となれ」――南北分断の遠因)の内容を次に要約して見ます。

 日本の敗戦が間近になった1945年8月9日、ソ連が参戦して12日には朝鮮北部の清津に軍を上陸させた。

 アメリカは朝鮮半島全体がソ連軍に掌握されるのを恐れ、北緯38度線を境界とする分割案をソ連に提案し、ソ連は同意した。
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 戦後のパニックを恐れた朝鮮総督府は、声望のある朝鮮民族の政治指導者に行政権を引き渡そうとし、朝鮮建国同盟の呂運亭を適任者と決めた。そして、治安、秩序維持を委託、その他の行政権委譲の手続きも取り決めた。さらに9月6日には、同盟が「朝鮮人民共和国」の建国宣言をした。

 ところが8日にソウルに進駐したアメリカはこれを認めず、統治権がマッカーサーの率いる占領軍にあることを布告した。

 「これに対して、日本はアメリカ軍の干渉を退ける道義的な義務があった。人民共和国政権を保護し、南北統一した民族政権の樹立に協力することが呂運亭との約束を果たす道であったはずである」
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 以上を見てどう思いますか?。最後の「」内は原文のままです。「日本をどこまでも悪者にしたて、謝罪を迫る”自虐史観”だ!」でしょうか。違います。これは”歴史修正主義”の方です。当時のことを知る人の数はすくなくなりましたが、「敗戦」という現実を自虐的に考えないために、こんな偏った見方になってしまったのだと思います。

 終戦直後、朝鮮現地のことは知りませんが、在日朝鮮人の中には「俺たちは戦勝国民だ」といって威張りだすひとが大勢いました。敗戦国民である日本人は、ひたすらこれにさからわないようにし、無理難題もやりすごすようなところがありました。まして占領軍の指令なら絶対服従です。

 朝鮮総督府は、混乱回避のため考え得る最善の措置をとったわけだし、協力してもらった現地朝鮮人に感謝しなければならないということはあっても、「アメリカ軍の干渉を退ける道義的な義務」や「人民共和国政権を保護」するなどという大それた権限も能力もないことを無視しています。これがまちがいのもとです。

 再軍備論者や戦前復帰論者が目の敵にする「自虐史観」も、かつて国内が戦場と化し敗戦の憂き目にもあっているヨーロッパ各国では、それを捨象・成熟させ発展させる方向で議論が進められているように感じます。

 誤解をおそれずにいえば、一度も本土が戦場になったことがなく、原爆は止む得なかった、ベトナムも正義の戦争だったとするアメリカには、「自虐」史観が成り立つ余地がありません。このため、世界の大部分から支持のないイラク戦争を始め、多くの犠牲を重ねる愚を繰り返えしているのではないでしょうか。「自虐」も捨てたものではありません。

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2006年6月15日 (木)

好感度

[反戦老年委員会復刻版]

 前々回、「ベタ記事」と題した投稿をしたが、今日もベタ記事関連である。『毎日』の記事は「時事」経由で、米国の民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの発表によると、調査15カ国のうち米国の好感度がフランス、スペインなどで昨年より低下、好転したのは英国など4カ国だけである、と報じた。また、日本は02年の72%から63%に下落したとあるが、なぜ日本だけ02年との比較なのか疑問に思った。

 記事が短いので、他を探したが、『読売』(YOMIURI ONLINE)が特派員発で乗せたほかは見あたらなかった。ただ『毎日』との際だった違いは、好感度低下の傾向を伝える内容は共通していても、好感度の最高が日本であるとし、その低下について何も言及していないのは、ニュースとして奇妙な扱いだと思った。

 また、アジア、中東、欧州、アフリカの国が対象で、中南米、カナダ、豪州などがないことにも疑問を持った。これが入れば2000年当時との比較で、パクス・アメリカーナ(アメリカ式平和主義)が危殆に瀕していることが一目でわかるはずだと思った。

 そこで、英文による上記研究機関のデータを検索し、とりあえず1件だけ目にしたが、そこには本年実施した各国の数字が棒グラフで示されているほか、「日本のように近い米国の同盟国間で低下した」という、簡単なコメントがあるだけだった。

2006年6月16日

世間をお騒がせ

 零細企業の社長や、小役人の弁明ではない。日銀の総裁といえば国の信用をひとりで背負ってたつような大役を持つ人の記者会見だ。「世間をお騒がせ」なんていうのは、もともとサンマを焼いた煙が表にでて、世間で「火事だ!」と騒ぐ(例が古いなあ)ようなとき使うせりふだよ。

 だいたい世間は、村上ファンドに1000万出資していたなど、「金持ちはちがうなあ」と思っただけで、別に騒いでなんかいない。貴公が騒ぎになるのは「予想に反して公定歩合をどうするこうする」という時だけだ。

 今回の場合は、「うかつでした。これからは気をつけます」といえばいいのだ(ああ、こんな事まで教えてやらなくてはいけないのか・嘆)。それが「サンマを焼くのがどこが悪い」といわんばかりの口吻だ。反省や詫びの響きが全然伝わってこない。

 それじゃあやはり騒がなくてはならない。「物価の番人」には向かない。単に自分の財産と地位に固執するだけの小物にすぎなかったのかと。

2006年6月20日

安倍祝電の怪

 安倍晋三官房長官が先月、世界基督教統一心霊教会(統一教会)関連団体の集会に祝電を送っていた件である。この情報は、韓国在住のブローガー「薫のハムニダ日記」さんが韓国語版の「世界日報」翻訳を公表した6月5日以来、ブログの中を駆けめぐっていた。

 それが、今日20日になって始めて「各紙そろって」記事をだしはじめた。タイミングとしてはなはだ不可解である。各紙の記事は、共同、時事にどによる「19日に全国霊感商法対策弁護団が公開質問状を発した」というのは、確かに翌日の記事になってもおかしくない。

 しかし、「・・・祝電を送っていることがわかった」などという記事は、なぜ1月以上たった「今」なのだろう。うがった見方をすれば、最近週刊誌で取り上げられるようになり、「週間朝日」や「サンデー毎日」の発売日に、スクープしそこねた各紙が発表日を合わせたものなのだろうか。

 去年11月19日に起きたイラクのハディサの米軍による民間住民の虐殺事件が、今年3月にタイム誌が記事にしたのを機に、一般に報じられたというのに似ている。報道自粛があった、などとは決して思いたくないのだが。

 また、安倍長官の事務所では「私人としての立場で(祝電は肩書き付き)、地元事務所が送った。誤解を招きかねない対応で、担当者に注意した」というようなコメントをだしているという。これもまた腑に落ちない話である。

 地元事務所が私人としての行動を代行するというのも筋が通らないが、それよりも、安倍長官にとっては、総裁選を前にして最も気を遣わなければならない時期なのに、こんな報道の種を蒔いた地元事務所は、あえてイメージダウンを意図した敵対行動をとった、としてもいいくらいである。

 これが「注意」程度ですませてしまうということは、なにがしかの本人の了解が作用していると思われても仕方がない。もしそうなら、「統一教会など閉ざされた世界だから簡単にはばれない」あるいは「マスコミは黙殺してくれるだろう」ぐらいの、マスクに劣らぬ甘い考えからきているのではないか。だとすれば、マスコミもなめられたものだ。

2006年6月21日

規制緩和の終末

 国土交通省は、大都市のタクシー運転手に地理試験と接客講習を義務づけ、国に登録したもの以外雇えないようにするという法律を、来年度に提出するという。どうやら小泉改革もこれで終わり、ということで、政・官・財界の利権復活、天下り先確保、利潤確保期待組が捲土重来に動き出したようだ。

 改正道路運送法が施行されたのは02年からで、事業参入や車両台数増の要件が緩和された。このため、21万台前後で推移していた法人タクシー数が約22万4300台、率にしてコンマ6%余り増えたため、運転手の質が低下したということか。

 売り上げ減少による労働強化と賃金の低下、他産業の雇用回復で運転手の人材が集めにくくなったという話はきく。しかし私の体験では神風タクシーなとどいわれた頃に比べれば、こんなサービスのよかった時期は今までになかったように思う。

 今はカーナビ設置のタクシーもかなり多くなった。あれがあれば、客にしろ運転手にしろ地理を知らずに道に迷うことはない。この新制度は、試験合格者を減らして新たな台数制限をうみだす目的があると思われてもしかたがない。しかも前の台数制限より多くの経費がかかり、合理的根拠のない方法で。

 運輸と建設は、昔から最も利権がらみの規制が多く利用者の利益に背いてきた分野だ。小さい政府論に100%賛成するものではないが、改善ではなく改悪に向いた立法、その名を「タクシー業務適正化特別措置法」という。「特措法」には特に警戒が必要だ。イラク自衛隊派遣同様、いつの間にか特別措置が特別措置ではなくなる可能性があるからだ。

2006年6月22日

松岡洋右

 靖国神社のA級戦犯合祀というと、東条英機がよく例に挙げられる。開戦時から終戦の前年まで、首相・陸軍大臣として独裁的権力のもと国民をかりたてて苦難の道を歩ませ、おまけに敗戦にまで導いた張本人ということで、国民の恨みをかった。

 宮内庁がA級戦犯合祀に反対で、以来、天皇の参拝中止に至ったことは、知られている。その時、宮内庁があげた人物は、軍人ではなく、戦争指導者でもない、近衛内閣当時外相をつとめた松岡洋右だったとされている。なぜだろう。

 昭和天皇の死後、1990年代に入って昭和天皇は、几帳面で実直な忠臣・東条を好み、自己中心でパフォーマンスの多い松岡を嫌っていたということが、明らかになってきた。松岡が日独伊三国同盟加盟を主導し、アメリカとの和平への道を断ち切ってしまったことは確かである。しかし、御用掛・寺崎英成が記す『昭和天皇独白録』(文藝春秋)が表現する松岡嫌いは尋常ではない。

 (前略)松岡は2月の末に独乙に向かひ4月に帰つて来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになつた、恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思はれる。現に帰国した時に私に対して、初めて王侯の様な歓待を受けましたと云って嬉[喜]んでゐた。一体松岡のやる事は不可解の事が多いゝが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない。特別な性格を持っている。

 天皇は、松岡にだまされたとか、松岡をやめさせるよう近衛にいうなど、他に例のない程きらっていた。それもあって近衛内閣は、遂に総辞職して東条の時代に移っていった。また『ウィキペディア』によると、 米国で苦学した松岡は「道を歩いていてアメリカ人に衝突しそうになったら、絶対に道を譲ってはいけない。殴られたら殴り返さなければいけない。アメリカでは一度でも頭を下げたら、二度と頭を上げることはできない」を口癖にしていたという。

 山田風太郎は自著「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。という逸話をのせており、昭和天皇の松岡感がうかがい知れる。

 私の注目したいのは、アメリカで苦学しながら身につけた流ちょうな英語力で外交官として頭角を現しはじめた若き日の松岡である。第一次世界大戦の講和と国際連盟創設という世界史を画する重要な会議に、松岡は広報官としてパリに随行していた。松岡は全権大使に、日本が会議で認証を得たい「対華21か条」(中国での利権獲得)について、英米仏の記者たちの感触とともに、次の自説を開陳している。(加藤陽子『戦争の日本近現代史』・孫引)

 所詮我に於てこれを弁疎せんとすることすら実は野暮なり。我言う所多くは Special pleading にして、他人も強盗を働けることありとて、自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは、畢竟窮余の弁にり。真に人をして首肯せしむるや疑問。

 簡単にいうと、「第一次大戦のどさくさまぎれに中国に押し込み強盗に入ったようなもので、かつて人がやったから自分もやっていいんだ、というのと同じ、だれも納得しない”野暮”な話」といっているのだ。なお Special pleading は法律用語で自己に有利なことだけを強調する意味である。

 松岡は、満鉄勤務などの経験から中国事情にも精通しており、稀に見る有能な外交官だったと思われる。彼の性格からか、末期は、日本の命運をもてあそぶような結果を生んだのは慚愧のきわみだが、この時点で帝国主義的植民地主義が時代遅れであることを、若手外交官として喝破していることに注目すべきではないか。

 石原東京都知事のように、第二次大戦(大東亜戦争)まで帝国主義競争を戦争の根拠に持ち込んで、戦争を正当化しようという試みは、世界史上成り立たないのである。

2006年6月23日

国家の品格(席順編)

私本・善隣国宝記

  『国家の品格』という本がベストセラーになっているという。最近、あまりにもの評判につられて買ってみたら、まったく無駄遣いをしてしまったという経験が多いので敬遠し、まだ読んでいない。想像なのだが、書評などを見るとおそらく「国家の品性」の方が内容にあっているのではないかと思う。

 これまで書いてきたように、日本に国らしい姿が見えてきたのは、推古朝からである。そして、早速国書の書き出しをどうするか、遣唐使が他の諸蕃と比べて優位に立てるかなど国の格付に、神経を使っていたことがわかる。つまり、国家の(品)格である。奈良時代を『善隣国宝記』で見てみよう。孝謙天皇天平勝宝6年(754)正月条である。

 遣唐使大伴古麻呂が唐から帰ってきた。奏していうには、唐の天宝12年正月、蓬莱宮含元殿で百官諸蕃の朝賀の礼があった。この日は、私の席が西組の2番目で吐蕃(チベット)の次ぎなのに、新羅使は東組の第1番で大食国(東カリフ帝国)の上だった。早速抗議を申し入れた。「古くから今に至るまで、新羅は長年日本国に朝貢している。しかるに今東組の上に列し、我れはその下というのはどういうわけだ」と。
 玄宗皇帝の宦官・呉将軍は古麻呂の引きそうにもない顔色を見て、日本を東組第1、新羅を西組第2に入れ替えた。

 やれやれ厄介なことよ、相手が朝鮮(この頃は新羅が朝鮮を統一)だと絶対に許せないといわんばかりである。もっとも今でも各国の外交折衝の中で席順はなかなか難問題のようだ。靖国問題にこだわることが、国家の品格上譲れない一線だという意見もいいだろう。しかし、国際的に見て、前のエントリーで示した、松岡洋右の「野暮」外交にならないよう、外交官はいつの世でも心すべきだ。

2006年6月24日

国家の品格(書式編)

私本・善隣国宝記

 前回は、8世紀中頃の唐朝廷における諸蕃(諸外国)の席順について書いた。今回は、唐亡びて宋の時代1118年(鳥羽院元永元年)のことで、前回同様、『善隣国宝記』を現代語訳してみる。

 宋国の商客孫俊明・鄭清等に付託してきた書に曰く「いわんやなんじ東夷の長。実にこれ日本の国、人は謙遜の風をとうとび、地は珍奇の産に富む。かつては貢をおさめ、政治が行き届いていた(隋・唐をさすか)頃には帰順していた。長い空白の期間、朝貢を果たしていない。このように平和になったからには事大の誠(訳者註=大に仕えること。中国の冊封体制に対し、朝鮮の歴代王朝は事大主義をとって実利を追求してきた。北朝鮮の主体思想はこれを打破する革命思想ともいえる)をあつくすべきだ」

 この書式が過去の前例に合うかどうか有識者に勘考させた。4月27日、菅原在良が次のように答申した。

 推古天皇16年、隋の煬帝が裴世清を遣わした時の書は”皇帝倭皇(史料によっては倭王もある)に問う。天智天皇10年、唐客郭務そう(りっしんべんに宗)等が来たときは大唐帝敬みて日本国天皇に問う”天武天皇元年は客の上書の函に”大唐皇帝敬みて倭王に問うの書”。遣唐使・坂合部大分に託した(702年)書簡では”皇帝敬みて日本国王に致書す”であり、宗になってからは孫吉がもたらした、承暦2年(1078)の大宰府あてなど(訳者註=通商ビザのようなもの)が2通あった」

 したがって、上述の朝貢催促のような書簡には返事をださないことにした。しかし、宋の商人の来日や僧・栄西の渡航など民間交流は徐々に活発になってきた。平安時代も末期となりやがて武士の時代を迎える頃のことである。

2006年6月25日

議員の思想調査

 毎日新聞が「戦後60年の原点シリーズ」の総括として実施した、全国会議員を対象とする歴史認識などに関するアンケート調査の結果が25日付の紙上で発表された。私は、かねてマスコミなどが実施する世論調査の数字などを、データとして駆使することに疑問を持つ方だが、この調査は、価値がある。

 その理由は、回答議員の氏名をあげ、各質問項目全部について回答を網羅してあるからである。これで自民・民主という党別でははっきりしない、歴史認識や憲法問題に対する個々の議員のおおまかな「思想」をかいま見ることができるからである。

 「思想調査」という言葉は、戦後の日本にもあったマッカーシズムを想起させていい意味で使うことはあまりないが、本来「思想」のない人が議員になって人の上に立たれては困るわけで、議員の思想信条を比較検討できるこういった資料は、なかなか得難いものがある。本当は選挙前の候補者にやって欲しい内容だ。

 毎日新聞の分析には、核武装の検討を肯定する人を抽出して、歴史認識や中・韓との関係改善、首相の靖国参拝賛否を調べ、全体から出た結果と逆になっていることをグラフで示すなど、クロス調査に目新しさをだしている。また記事にないことでも、原資料からテーマを選びいろいろなことが調べられる。

 当委員会がもっとも気にしている憲法9条がどうなるかについてどうなるのかだが、1項、2項とも改めないが回答者の25%で、この点から見ると議員の3分の1に程遠く、9条擁護は絶望的である。しかし、「その他」というのが15%あり、2項だけを改めるという36%の中味も不明である。その不明分について、集団的自衛権の容認42%、禁止41%とほぼ拮抗していることを理由に、自民党改憲案のようなもので3分の2を確保するは至難であるという希望的観測もできなくはない。

 しかしこの調査では、憶測不可能というしかない。その理由は変則的な回収率にある。()内は全問無回答を含めた当委員会試算数字である。

自民 回収163人 全問無回答14人 回収率40%(37)
民主    120           5          (60)
公明     47    ;      1       85  ;(84)
共産     18          0       100
社民     13          0       100
その他         ;      0        59

 特に回答が半数に満たない自民党の存在がある限り、いかなる予断も意味ないものになる。ここで新聞の分析にない無回答分析をしてみよう。

・自民党の無回収は、総理以下重要閣僚、麻垣康三など大物、太蔵くんもそうですか?。
・民主は党内の意見統一に苦しむ小沢代表、渡部黄門。菅、河村たかしも代表と同じ気分?。
・公明はまあまじめ、共産・社民は100%でコメントできず。

2006年6月27日

戦争放棄

仮想定例委員会
・平 前回、毎日新聞の国会議員調査をエントリーしたが、憲法9条は1、2項とも変更すべし、という意見が全議員の13%、自民党だけを見るとその中で23%というのは、かなり高い数字だねえ。

・硬 第1項は、高々と「戦争放棄」をうたっている。そこで右傾短絡派は、アメリカが日本を弱体化するために押しつけた条文だから改正は当然、という主張をする。

・停 ちがうのよねえ。これをちょっと見てちょうだい。

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(パリ)不戦条約
1929 (昭和4)年7月25日 条約第1号
1929 (昭和4)年7月24日発効(昭和4年 外務省告示第64号)

戰爭抛棄ニ關スル條約

朕樞密顧問ノ諮詢ヲ經テ昭和3年8月27日巴里ニ於テ帝國全權委員ガ關係各國全權委員ト共ニ署名調印シ第一條中ノ字句ニ關シ昭和4年6月27日附ヲ以テ帝國政府ガ宣言スル所アリタル戰爭抛棄ニ關スル條約ヲ右帝國政府ノ宣言ヲ存シテ批准シ茲ニ右帝國政府ノ宣言ト共ニ之ヲ公布セシム
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・平 この条約は、多くの国で調印されて、国際法としてまだ生きているのよねえ。だけど「自衛戦争」は例外、という解釈をしだして、なんか有名無実になっちゃっているみたい。

・乙 そのとおり。日本以外にもこの「戦争放棄」を憲法に盛り込んでいる国はあるけど、戦後、日本が昭和4年に調印済みの不戦条約の内容を1項に盛り込んだのは、念を入れただけだけなのだ。それをわざわざ外すとなると、なにか「下心あり」と疑われても仕方がないね。

・硬 そういうことを考えずに改憲の旗を振るやつがいるから、中国や韓国の中に「日本は再び侵略を考えているんじゃないか」という心配をする。靖国問題だってそうだよ。

・平 自民党案も1項はそのままとしている。問題は2項だよね。現行は「軍」と「戦力」を持たないとしているのを、180度変えて「軍」を持つと変えた。

・硬 高校生の坊主がいうんだ。防衛庁を防衛省に格上げするんなら、自衛隊も外国から見れば軍隊なんだから自衛軍でもいいんじゃないの、というんだ。まあのんきなもんだ(笑)。

・平 前にも「軍」と「隊」の違いをとりあげたことがあったね。「軍」を辞書で引いたら、字形は、車を[で囲った戦車だって、それなら今でもイラクにある(笑)。海上保安庁は、航空機もあり、警備艇に武器も備えているが誰も軍隊とはいわない。国土交通省の所管だ。何度もいうが、軍隊とは「国の暴力装置」で警官隊、消防隊など「隊」とはシステムが根本的にちがう。政府は、自衛隊を「国民保護法」などを作って国民の権利を制限できるようにし、ジワリジワリと「暴力装置」に向けた体制づくりに熱心だ。

・停 憲法に手をつける前に外堀を埋めておこうという作戦だわ。法文だけ見ると万一にそなえて、いいことだけを書いているように見えちゃうのよね。

・乙 国に固有の自衛権があることは認める。だから自衛「隊」があっても9条2項に「暴力装置」に根拠を与える「軍」を設けることは、わが国の安全にとってかえって危険だ。

・平 大体現行憲法は、「第2章 戦争の放棄」と題して9条の1項と2項を設けているのに、章の名前を「安全保障」にかえた。1項は前と同じ趣旨のようだが、「戦争放棄」から「放棄」の字をこっそり削った。これでは、停さんが示した昭和4年の勅語より後退だ。そうして「自衛軍」をくっつけた。これでは、消火器と爆弾をくっつけて置くようなものじゃない?。

・全委員 全くだ!!。

2006年6月む28日

失われた10年

 日本の国際化を図ろうとするならば、日本のナショナリズムを捉え直すべきであり、政治の改革を求めようとするなら、戦後政治の本質を見るべきである。わがジャーナリズムが、こうした本質をみてとる鷹の目を取り戻せるだろうか。

 以上は1994年、すなわち12年前の雑誌『世界』2月号、「巻頭備忘」最後の一節です。この前年の夏、非自民6党連立の細川内閣が発足し、市一コンビ(市川公明党書記長と小沢一郎新生党代表)の暗躍で政界が動いている頃でした。

 それから、日本にどんな進歩があったのでしょうか。冒頭の引例は、現在にあてはめても何らおかしくない内容です。「自民党をぶっこわした」とする小泉改革も、戦後政治の本質に切り込んだ様子はありません。ただ、旧田中派を弱体化し、政治を知らないチルドレンをふやしただけのことです。

 ナショナリズムも、右よりの危ないハンドル操作だけが目立ちました。もっとも、55年体制の一翼を担っていた社会党が、旧弊を総括しきれなかった責任も軽くないと思います。国際関係については、一部外務官僚の怠慢があったにしろ、相対的、特にアジア外交では次元の低い問題で大きく退歩しているとしかいえません。

 この10年、政治もジャーナリズムも前進どころか、停滞し後退しつづけていると思います。最近は、オピニオン・リーダーと呼べる媒体の存在すら疑われるようになりました。

 ただ、経済だけは、長い長い平成不況から抜け出せる可能性があります。しかし、これもこの9月の各政党トップの改選で、何ら影響を受けないほどの力強さはなさそうです。

 日本の元気は、世界平和への貢献からしか生まれないのではないかと信じます。その舵取りをになうのは、やはり政治とジャーナリズムしかありません。ブログの片隅から、この先の10年に淡い期待を持ち続けたいと思います。

2006年6月30日

図書館

 私が利用する図書館は、市立図書館、区立図書館、都立図書館、大学図書館、国立国会図書館の5種類がある。このうち、もっとも利用頻度が高いのが拙宅所在の市の市立図書館である。10年前にはなかった比較的新しい施設なので、大きさ設備などまず申し分ない。基礎的な資料はまずここで間に合う。

 唯一の欠点は、ときどきひまつぶしおじさん(私も時にはそのひとり)と、冷暖房完備居眠り学生会館で閲覧席が埋まってしまうことである。こんな時は本を選んで2、3冊貸し出しを受ける。返却は徒歩2、3分の公民館図書室でいいことになっている。

 区立図書館は、(一部しか知らないが)お子さまお母様御用達のような感じで、基礎資料や蔵書で期待はずれになることは覚悟しなければならない。その点さすが都立図書館は、内容豊富な感じがする。「感じ」というのは、蔵書が日比谷、目黒など3カ所に分散しており、設備が古いので使いにくいということである。都は一カ所に統合して、区との役割分担を明確にした方がいい。

 以上は、すべて書架式で、本屋の棚と同じで目指したもの以外に思わぬ発見をする楽しみがあり、また目指したものでもパラパラと見て、「なーんだ」というケースもある。大学図書館、ことに私大は意外に閉鎖的である。出身者でも登録が必要で、いまだに「紹介者」などを要求するところもある。公共ではない、といわれればそれまでだが。

 国会図書館は、先週3年ぶりぐらいに訪れた。ここは、ほとんどの蔵書が書庫式で申請してくら出ししてもらわなければならない。しかしさすがは国立、刊行物はすべてここに入ることになっているから原則「ない本はない」。広く天井は高く大理石?の太い柱など、入ってしまえば別世界に来たようで、環境はいい。田中真紀子先生がエスケープ先に選ぶのももっともだ。

 ただ、まわりが国会議事堂、議員会館、社民党本部などで、暗い色の警察車両や警官の警備が目立ち、なれていないとしきいが高い場所だ。いつもプロの研究者のような顔をして入っていくのだが、先週はちがった。以前と様子がすっかり変わっているのだ。

 まず、見慣れた入館申請書を書くための用紙とテーブルが見あたらない。しかたなく「はじめての方へ」という掲示を読むはめとなった。壁際に利用者カード出力機があり、そこから住所、氏名、電話番号をキー入力する。終わるとR○○○などと番号を書いたカードがポロンと出てくる。

 中に入ると、様子を見られていたのか、きれいなお姉さまがいらっしゃって「ご説明いたしましょうか?」とサービス万全だ。おかげでプロ研究者気取りはかた無しである。以下、すべてこのカードがものをいうことがわかった。

 ズラーッと並んだ端末機にカードをのせ、図書の検索と選択した図書の出庫申し込みまでが一挙に完了する。あとは電光掲示板で番号が出てくるまで出庫を待つ。わずかだが待ち時間は短縮されたようだ。

 こんなすばらしいただで利用できる「図書館」、決して行政改革で切り捨てないでほしい。ひとつだけ注文をつけると、有人割高コピー・サービスだけはいただけない。おそらく専任者が5、6人はいるだろう。

 コンビニみたいにセルフにすればズーット経費削減になり、待ち時間も短縮される。もし取り扱いに不安があるなら、アドバイザーお姉さまが1、2人いていただければ、それで十分ではないか。

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2006年6月 1日 (木)

核武装すべきか

[反戦老年委員会復刻版]

仮想鳩鷹討論会(出席:鳩、鷹、乙)

*鷹 昨日の続きをやろう。乙さんの「役にたたない核兵器」はわかったけど、核武装すれば対立国へのプレッシャーになり、交渉が有利になるという現実はあるんじゃないの。だからインド、パキスタンが保有国になり、北朝鮮やイランが開発を急いでいる。

*鳩 逆に南アフリカやリビアは開発を放棄したし、先進国で十分開発の能力を持ちながら、核クラブの仲間入りをしようとしない国の方が多い。金はかかるし使えないとなると、パキスタンなどいずれはこっそり降りるかもしれない。

*鷹 アメリカなど敵はテロだから、そっちへ流されると困るというので核拡散防止に躍起になるが、自分の方は開発OKのダブルスタンダードでは、うまく説得できそうにもない。生物・化学兵器もそうだがね。イラク攻撃など、空振りでも強引にやってしまう。今の世界はそれで動いているのが現実だ。

*鳩 そう、時代遅れだとはいうけど、現実には核ブラフが利いているし、より強力な核戦力をつけたがっている軍国主義者が大勢いる。日本の政治家にも中国、北朝鮮に対抗して核兵器を持つべきだと考える人がいる。そうすると向こうはあきらめて止める?、日本は安心していられる?・・・わけがないよね。ますます警戒心を強めるだけでしょう。

*乙 日本が核武装しようとすれば、時間がかからない。材料も機材も技術もそろっていてすぐ中国、北朝鮮を抜くことは相手にもわかっている。そこでどうするかだ。

*鷹*鳩 核やミサイルの研究は国家事業として世界一の先端技術を手にすべきだね。もちろん兵器についても無知であってはいけない。そこで平和憲法が光ってくるよ。核軍縮、核廃絶、透明性確保に技術力を生かして主導権をにぎる。とてつもない国際貢献だ。

*鷹 それはおもしろい。核アレルギーの逆療法か。

*鳩 アメリカに今の共同軍事戦略は解消してもらったうえ、その構想に協力してもらえばいいんだ。

*乙 小泉・ブッシュのコンビでは白昼夢だろうけどね。だがアメリカにしても損はないと思うよ。それに、すでに建設された原子力発電所の廃棄物処理さえ道筋が立っていないし、安全性確保もおぼつかない。核兵器廃絶や安全性確保は、「唯一の被爆国である日本の神聖な義務だ!」と世界に宣言すべきなんだけどね。どうやって実現するかは別に考えよう。

2006年6月6日

緊迫

4/28 教職員会などを中心に沖縄県祖国復帰協議会結
5/14 安保改訂阻止国民会議、10万人が国会請願デモ。請願著名1350万と社会党発表。
5/16 パリで東西首脳会談開催。フルチショフ首相がスパイ飛行を非難、会談決裂。
5/19 自民党、衆院安保特別委で質疑打ち切り強行。衆院議長清瀬一郎、警官500人を導入、社会党議員を排除し本会議開会。

5/20 未明、新安保条約を討論なしで自民党単独で可決(以後国会は空転状態で連日国会デモ)。
5/21 都立大学助教授竹内好、強行採決に抗議して辞表を提出。
5/24 太平洋岸にチリ地震津波襲来、北海道南岸、三陸に大被害。(死者139人)。

5/26 空前の規模の国会デモ(17万人)。
5/30 東京工大助教授鶴見俊輔、強行採決に抗議して辞表を提出。
6/4 安保改訂阻止第一次実力行使(国労など早朝スト)。「誰でも入れる声なき声の会」の主婦・市民など300人が国会デモに参加。
6/10 米大統領秘書ハガチー来日、羽田でデモ隊に包囲され米軍ヘリで脱出。

6/15 安保改訂阻止第二次実力行使。警官隊との衝突で東大生・樺美智子さん死亡。
6/16 政府、米大統領の訪日延期要請を決定(19日、2時間の沖縄訪問に切り替え)。
6/19 午前0時、33万人が徹夜で国会を包囲する中、新安保条約自然成立。
6/23 新条約批准書交換・発効。岸首相、退陣を表明。

 以上46年前のちょうど今頃です(『20世紀年表』小学館より抽出)。岸の孫が何をしでかすかわかりません。まの方がもっと憂うべき緊急事態です。

 《与党、「共謀罪」民主案まる呑みで成立か》。まるで国民は詐欺ペテンにかかったよう。今朝一番で民主党支部に”激”のメールを発信しました。

2006年6月4日

対案路線の限界

 「共謀罪」法案は、稀に見る見苦しさをさらして今国会の成立を見送られた。悪法であろうとどうあろうと、政府与党案はそれなりに多くの人の手を経てねりあげてきたものだろう。自民党国対委員長にどんな権限があるのかどうかわからないが、一朝にしてその提案をほごにし、民主党案賛成といいだしたのだ。

 豆鉄砲をくらった鳩は、本能的に「怪しい」と感じたのだろう。また自民党内の「ワイワイガヤガヤ」も聞こえてきた。「審議に応じるわけにいきません」と宣言し、今国会では審議未了、継続審議ということになった。

 小沢代表は「こんな法案を通しても一文の得にもならない」といったそうだ。これも選挙のことしか頭にない代表が、法案の”世論の評判の悪さ”を敏感に感じ取ったことと、言外に「俺が作った案じゃないよ」といっているような気もする。

 ”評判の悪さ”を作り出し、同法案を傷だらけにするのに、いささかの効果を作るのにブログが寄与したとすればご同慶の至りだが、まだまだ攻撃の手をゆるめるられない。自民党総裁選や小沢民主党の出方ひとつで次期国会がどういう展開をするか、予断をゆるさないからだ。

 民主党の「対案路線」は、前・前原代表以来のものだが、教育基本法にしろ国民投票法案にしろ、一般国民の目から見れば、与党案と「さじ加減の違い」程度の差しか感じられない。そんなものを提示して「政権担当能力がありますよ」といってみたところで、インパクトがなく自民の宣伝戦略に到底勝てるものではない。

 国民の評判(世論)を観察し、「この療法は間違っていました。もう薬のさじ加減では追いつきません。ここは外科療法に切り替えが必要です」といった政策を提案するのが、野党にとって本当の政権担当能力ではないか。今後の民主党の動きが注目されるところである。

2006年6月5日

伊吉博徳の書

私本・善隣国宝記

 伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)は、当時の少壮外交官というだけで生没年もわからないが、『日本書紀』に多くの外交記録を残した。中でも、日本が唐に惨敗する白村江の戦い(663年)を前にした微妙な時期の遣唐使について詳細な記録があり、古代の外交参考史料としては第一級のものだろう。

以下は、岩波文庫版から、原典にできるだけ忠実に現代語訳したもので()内は説明である。

 伊吉連博徳書に曰く、同天皇(斉明天皇)の世に、小錦下坂合部石布連・大山下津守吉祥連等が二船、呉唐の路に遣される。己未年(659)7月3日に難波の三津浦(大阪市)を出航、8月11日に筑紫の大津の浦(福岡市)を出航、9月13日に百済の南の島に至る。島の名前はわからない。

 14日の寅の時(早朝4時頃)二船とも大海にのりだす。15日夕刻石布の乗った船が逆風を受けて、南海の島に漂着、島の名をニカイ(不明)という。そこで石布達が島人に殺されるが、5人(人名略)だけ島人の船を盗み、逃げて括州(浙江省麗水)に上陸、州の官人により洛陽へ送られる。

 16日の夜半、吉祥連の船は越州の会稽県の須岸山に至る。東北の強風が吹いて22日に余姚県に至る。そこに船と諸調度品を留め置いて閏10月1日に越州の本拠に着く。15日の日に馬で京(長安)に入る。

29日に東京(洛陽)へ行く。天子(高宗)は(今)ここにいる。30日に天子と会見、質問があった。

 天子 日本国の天皇は平安でおられるかどうかね。
 使人 天地の徳に合い、おのずから平安にございます。
 天子 大臣達はみんな達者かね。
 使人 天皇の恵みを得て達者でいることができます。

 天子 国内は平和かどうかね。
 使人 政治が天地にかなって、万民無事でございます。
 天子 ここにいる蝦夷の国はどの方向にあるのか。
 使人 国は東北にあたります。

 天子 蝦夷は幾種類あるのか。
 使人 3種類あります。遠い者を津加留(津軽)と名付け、次を麁蝦夷(あらえみし)、近い者を熟蝦夷(にきえみし)といいます。ここにいるのは熟蝦夷で、大和の朝廷に毎年朝貢してきます。

 天子 その国に五穀はあるか。
 使人 ありません。肉食で生活しております。
 天子 住宅はどうだ。
 使人 ありません。深山の中で樹木のもとに住みます。

 天子 朕は、蝦夷の異様な面相を見て、おおいに感動した。使人は遠くからきて辛苦を味わっただろう。さがって館で休め、そのうちまた会うことにしょう。

 博徳のレポートはまだ続くが、一旦中断して接見内容を見てみよう。まず、あまり儀式ばったことなしに簡単に会っている。その内容は挨拶程度の話し以外は、すべて「蝦夷」に話題を集中している。日本の意図は見え見えなのだが、高宗はさして意に介していないようだ。

 蝦夷を同行したのは、朝鮮のそのまた彼方の海を渡った日本が、如何に広大か、といったことを示したかったにつきる。蝦夷に弓矢を持たせ、後のアイヌのような風体でパフォーマンスにつとめたことは、中国がわの記録にもある。上記の問答にしても、津軽はこの時点ですでに農耕も始まっており朝貢もしはじめている。

 東北などに一部未開の部族が残っているのは事実だが、近畿の外側にいる熟蝦夷までが山窩のような生活を送っているように話すなど、高宗の関心を引くためいじらしいほどの演出をしたものだ。

2006年6月6日:

はた迷惑外交

 小泉首相がサミットに出席するついでに、イスラエルとパレスチナを訪問するという報道がされている。本人は任期の最後の晴れ舞台にするつもりかも知れないが、両国、特にパレスチナにとっては迷惑このうえもない。「戦没者の霊をなぐさめ平和を祈るのがどうしていけないのか、私にはわからない」というのと同じで、相手のことを考えず個人的感情で発言したり行動を起こす、悪い癖のように思えてならない。

 当委員会は以前から、いずれの宗教にも影響されず、中東問題でも手を汚したことがなく、平和憲法を持つわが国なら、問題解決に前向きに乗り出せるはずだということをいってきた。しかし、アメリカのイラク派兵に協力して自衛隊を派遣し、ブッシュを喜ばせたことにより中立的な立場を失ってムスリム、アラブ諸国の信頼を損ねた。

 両国を訪問して、「国連が示す方向で平和解決してください」では、提案にもプログラムにもならない。両国首脳、特にパレスチナのアッバス議長は忙しいのだ。民衆の支持を得ているハマスと穏健派のファタハが内戦状態になり、毎日のように死者が出る戦場と化している。アッバス議長は小泉どころではないのだ。外務省はもう「殿!、それはしばしご猶予を」といいだす元気もないのか。

 小泉首相がいけば、両首脳とも紳士だから会うだろう。それは「かね」を出してくれたところへの礼儀だ。「かね」、その手はアメリカが世界各地で使いまくった手だ。アフガニスタンのタリバン、イラクのフセイン、クルド族、最近ではソマリアの反ムスリム武装組織(これも失敗してイスラム勢力が首都を制圧という今日の報道あり)。

 「かね」は欲しいが、わけ知らずの「最後をかざりたい人」などには来て欲しくないのだ。もし本当にパレスチナ問題に取り組みたいなら、ブッシュのポチをやめるしかない。それ以外に奇手があるとすれば、まず日本国民に日本固有の外交理念を明らかにしてからにして欲しい。

2006年6月8日

虐殺への教訓

 イラクのアブグレイブ刑務所で発生したイラク人収容者への陵辱・虐待事件に続き、イラク西部ハディサでの駐留米軍海兵隊による民間人虐殺疑惑が、最近の新聞紙上をにぎわせている。昨年11月19日に起きた事件なのに、なぜ今頃問題視されるようになったのか。きっかけは、今年3月の米タイム誌の報道だという。

 ベトナムでは「ソンミ村虐殺事件」をはじめ多くの民間人が虐殺されているが、英国のジャーナリスト、フィリップ・ナイトリーの『戦争報道の内幕』(芳地昌三訳、時事通信社)にそのヒントが示されている。

(その1)アメリカ人特派員にとって、ベトナムではこの戦争の人種差別的性格と、それが同胞に与える影響を真っすぐ見つめる勇気が必要であった。戦争のこの重要な側面をきびしく非難する告発がアメリカ人特派員から出てこなかったのは偶然ではなかった。

 戦争にうまく勝利するには、敵を非人間的に見ることを将兵が学ばなければならないことは、あらゆる政府が気付いている。これを達成する最も簡単な方法は、国家主義的または人種差別的感情の一方、あるいはその両方を燃え上がらせることである。こうして、まず第二次世界大戦時に全国的規模で高まり、そして朝鮮で復活したアメリカの人種差別主義はベトナムで頂点に達した。

(その2)ジョーンズ・グリフィス(英国人写真家)に、どうしてこのことを書かなかったかと尋ねると――砲撃で攻撃される直前、女子こどもが集められたところを彼は撮影していた――彼は答える。「もし私がサイゴンに戻り、ある通信社に行って、『アメリカ兵によるベトナム市民殺戮の記事を書いた』といったとすると、こう言われるだけだ。『それがニュースか』。恐ろしいことではあるが、とくに珍しいことではなかった。ただニュースでなかっただけだ」

 そして、米本国でも大メディアの編集者が「大衆読者がこのような話を受けつけようとしない」とか、「進軍や攻撃中の報道の方が喜ばれる」という理由で、残虐行為の報道が締め出されたことも同書に書かれている。

 アメリカは結局ベトナムで敗退するが、ここから教訓を学び、二度とこのようなことのおこらないような政策をとるどころか、ベトナムの屈辱を覆い隠し、輝かしい勝利宣言をすることで世界に君臨しようとした。しかし、イラクでは開戦の名分にも疑いがかけられ、多くの民間人犠牲者について醜い恥の上塗りをしてしまった。

 アメリカ人のすべてがそうでないことは承知している。そしてその良識がいつかよみがえり、アメリカに真の栄光の日がやってくることを信じたい。すくなくとも、日本にとって戦争協力の片棒をかつぐようなことだけは、いますぐにでもやめてほしい。

2006年6月11日

無防備都市宣言 3

 ジュネーブ条約により、一切の兵器、兵員を排除した地域が、戦争による攻撃から保護されるという「無防備都市宣言」をする目的で、全国の20を越える市区町村で運動が起き、管理人居住地もそのひとつであったことから、過去2回(3/15および4/14)エントリーした。このたび、7日の市議会で本件が審議されたが「想定の範囲内」どおり否決された。とりあえずその概要を報告しておきたい。

1.総務委員会 採決は否決。賛成なし、棄権1人(共産党)、反対9人(新政1・2・3、緑風会、市民フォーラム)。しかし、署名を重くうけとめ、単に賛成/反対ではなく、付帯決議が必要・「恒久平和宣言」を市川市として行うべきであるなどの議論が出された。また、条例制定請求代表者など3人が、総務委員会の参考人として招請され意見陳述した。この措置は今までになく最初のケースである。

2.本会議 総務委員会報告ののち賛否それぞれ各1名が討論して採決

・賛成 2人(市川市民連合の小泉議員と石崎議員)
・棄権(退場) 5人(共産党議員団)
 *下記参照 
・反対 緑風会、新政クラブ第1・第2・第3、公明、フォーラム市川

 この運動を推進した事務局によると、これまでの条例制定運動(大阪・枚方・藤沢・荒川・西宮・京都・大津・高槻・奈良・品川など)において、共産党の議員は、積極的に議会で賛成討論に立っており、採決でも賛成していた。ところが市川市議会においては「棄権」、また他の地域においても「協力できない」などの立場の表明があるが、これは「上からの指示」との話も聞いている。

 また、無防備地域宣言全国ネットワーク、およびこの運動の呼びかけ人は、6月6日、日本共産党中央委員会に対して意見交換・懇談の場を設けるよう要請したという。共産党が賛否いずれの態度をとろうと自由である。だけど理由も示さず突然態度を変える「あまのじゃく」「独善」「ぶりっ子」ぶりの伝統はさすがである。同党の成長を期待してるだけにいただけない。

 その他の審議内容は、圧倒的多数の否決にもかかわらず比較的真摯な討議がおこなわれ、運動自体には共感をもって受け止められたらしい。

 市長の反対意見も、戦闘員や兵器の撤去などに地方公共団体の権限がなく、当該宣言を行えば地方自治法に抵触するおそれあり、という国の干渉にもとずく内容に集中していた。日本はこれに関連するジュネーブ条約に加入している。しかしそのための国内法を整備する気などさらさらなさそう。

 「共謀罪」法であれほど「国際条約、国際条約」といっていたのにどうしてここまで違うんだろう。ダブルスタンダードまでアメリカを手本にしているようだ。

2006年6月10日

白村江戦争 1

私本・善隣国宝記(バックナンバー=カテゴリ「歴史」)
 659年の閏10月、遣唐使は、同伴した蝦夷を唐の高宗に披露して国の広大さを印象づけようとした。高宗は、好奇心を持っただけで必ずしも遣唐使の目論みが成功したとも思えないが、その後各国代表とともに唐朝廷の冬至の会に招かれ、参加国(諸蕃)の中、倭の客最も(動作や風采が)勝れたり、として自画自賛している。

 ところが、ここで思わぬアクシデントに見舞われる。12月に入って突然宿舎に軟禁され、外出・往来を禁止されてしまった。理由は、来年朝鮮征伐の出兵が確実になったから、ということである。そして660年7月、渡海作戦をとった唐と新羅の挟みうちで百済が壊滅する。

 それが確認されたことにより9月12日に軟禁を解かれ、19日に長安から洛陽に居を移した。その後、11月1日には、唐の捕虜となった百済王以下王族13人、側近37人が引き連れられてきた。これを高宗は則天門の楼上から臨み、赦免した。そして19日、一行は帝のねぎらいを受け、24日に帰国のため洛陽をあとにした。往路の上陸地点である越州に着いたのは、翌年の正月25日である。

 この頃、斉明天皇は朝鮮出兵の指揮をとるため難波を出航し、熟田津(松山市)に寄港して道後温泉に逗留中であった。遣唐使一行が順風を見て大海にのりだしたのは4月8日早朝である。斉明天皇はすでに筑紫長津(福岡市)に到着していた。この日本の軍事行動を唐がチェックしていれば、遣唐使が帰国する道は閉ざされていたに違いない。

 まさに危機一髪のタイミングで唐を離れた遣唐使らは、5月23日筑紫朝倉の宮で斉明天皇に帰朝報告をした。それからわずか2カ月後、天皇は病を得て異境の地で世を去る。遣唐使の報告がどのようなものであったか、全く手がかりになる史料がない。天皇の遺志を継いだ中大兄王子もしかるべき情報が伝わっていたはずだが、憶測を避けて次の経緯を見ていこう。

 661年7月、中大兄は長津の宮で皇太子のまま軍政を見ることになった。8月に入ると兵士や物資を朝鮮に送り、9月に人質として日本に滞在していた百済の王子・豊璋を、百済再興のため送還した。そもそもこの朝鮮出兵は、1年前に百済が唐・新羅連合軍に撃破され、王以下が唐に拉致されたあと、敗残の将・福信がゲリラ戦で勢いを盛り返し、斉明に豊璋の擁立と援軍の派遣を懇請してきたことにはじまる。

 斉明は、「隣国の窮状を救うのは義にかなうことである」という、後の日清戦争開戦とそっくりな口実で兵を動員した。斉明の弟・孝徳天皇の時代は、中大兄や中臣鎌足そして中国帰りの顧問などがいて大化改新という政治改革を推進した。しかし斉明は、中国文明の導入より、かつて任那を軸に朝鮮三国に影響力を持っていた時代に郷愁があり、任那は失ってもその態勢を維持することに熱心だったと思われる。

 唐の文化と実力、さらに唐を中心にした国際情勢の流れを熟知している中大兄は、もともとこの軍事行動には消極的だった。しかし百済復興は、もはやナショナル・コンセンサスになっている。また、ここまで突き進んできた戦争準備は、押しとどめるには遅すぎた。戦争は古今東西、いつでもこのような状態で冷静な情勢分析を遠ざけて開始されるのだ。

 (つづく)

2006年6月12日

日本占領

仮想定例委員会(委員:硬、乙、平、停)
・停 わたし、近頃日本はもう一度アメリカに占領されるんじゃあないかって心配になるの。

・平 議題は「日米関係の現状」にするけど、今日は新聞社の社説みたいなのはやめて、議論を見えやすくするため過激発言「あり」ということにしようよ。

・硬 戦前・戦中の「愛国者教育」に、「神州日本は開闢以来外国に一度も侵略されたことがない」というのがあった。それが敗戦で連合軍、実質的にはアメリカ軍に占領され、総司令部、つまりGHQを東京に置いて施政権を行使した。停さんのもう一度占領というのは?。

・停 だってそうでしょ。今度アメリカのワシントン州にある「陸軍第1軍団司令部」といのがキャンプ座間に移ってくるんでしょ。アメリカ軍の司令部なのになんで日本にいなくちゃあならないのよ。アメリカの歴史は、インディアンの土地を奪ってどんどん東に移動、海をこえてハワイに、そして今度は日本を占領するんだって、誰かがいってたわ。

・平 なんでも作戦司令部で300人が移るとか。海・空軍を含めて実戦部隊を世界各地に派遣したり、必要物資を送り届ける統合任務があるんだって。日本に置くと「おもいやり予算」がもらえて本国より安くつくからかな(笑)。

・乙 これは、先月明らかになった日米安全保障協議会最終報告というのにあるというが、米国のテロ対策など新戦略に基づく米軍再編・再配置の一環ということらしい。いわゆる「不安定の弧」という、中東イラク・イラン・アフガニスタンから東南アジア、中国・北朝鮮に至るアメリカにとっての不安定要素がある地帯だな。ここにに最も近い前線として迅速な行動を起こしやすいということだ。

・硬 それだけじゃあ根拠がうすいよ。遠いといったってジェット機で10時間の差もない。なぜ日本なのか座間なのか、どうもすっきりしないなあ。

・乙 アメリカのもう一つの狙いは、イラクに協力したような国にできるだけ、兵員や費用などを分担してもらおう、ということがある。日本とは、共同作戦、情報の共有、自衛隊の共同訓練、基地の共同利用など軍事的一体化で合意があるというんだな。

・平 ううーん、やっぱり「おもいやり予算」は魅力なんだ。沖縄海兵隊のグァム移転などの3兆円もね。

・停 沖縄の負担を軽減したり、中国、北朝鮮への抑止力になってもらってるのだから費用負担は当然だ、というのが防衛庁あたりの決まり文句ね。

・硬 日米一体論だよな。抑止力って具体的になんなのだい。ただアメリカがついているよ、というだけじゃないか。それどころか情報の一体化だろ。日本が得た情報でアメリカは何でもできるようになる。ブッシュのイラクにせ情報だって「共有」だぜ。これじゃあ座間にペンタゴンができたと同じじゃないか。テロが日航か全日空をハイジャックしてキャンプ座間に突っこんだり、ミサイル攻撃の標的になっても文句いえなくなるのとちがう?。

・停 敵視政策などやめて、地域は地域で仲良くしましょうという共同体の話でもはじめた方がよほど抑止力になると思うわ。

・平 それはそうと、軍事的一体化といっても、安保条約や日本国憲法があるから、いわゆる極東の範囲をこえて軍事行動することができないじゃない?。アメリカはそれを無視した基地を作ろうとしているのかねえ。

・乙 そんなのはいまや建前だけになってしまった。これまでもどれだけ「解釈改憲」や「特別措置」で切り抜けてきたか。アメリカ側では「干渉する気はないが、そんなしばりはすでに時代遅れだね」といってとりあわない。ただ要求を受け入れるよう、プレッシャーをかけ続けていればいいという構図になっている。

・硬 「陸軍第1軍団司令部」というのは、たしかに厚木に降り立ったマッカーサー元帥に次ぐアメリカの日本占領のようだ。しかもその軍事目的や運用を見るとグローバル・パートナーという、クモの巣にかかったような危険を感じてしまう。下手をすると属国以下かも知れない。基地のある地域の住民もこのところその怪しさに気付き始めていようだね。

・乙 小泉退陣の影響で、危険な法案可決が遠のいているようだが、自民党の改憲促進派は窮地におちいるほど必死になってくる。アメリカもなにをしかけてくるかわからない。日本の運命の結節点にあるという表現は決してオーバーじゃない。

・停 ブログの皆さん!。絶対、「知らないうちに」にさせてはいけません。

2006年6月13日

ベタ記事

 13日の新聞は、サッカー不覚の敗戦で各紙面をにぎわしている。こういう日は、ベタ記事(広辞苑にはないが、紙面の最下段などに1段見出しで出る短文の記事。類語で、紙面が余りスペースを埋めるために採録する「埋め草」というのもある)がおもしろい。以下は、毎日新聞で見た本日のベタ記事(見出し、内容とも引用ではなく、紹介と説明)である。

〇世界の軍事費、約半分が米国

 スウェーデンのストックホルム国際平和研究所の発表によると、昨年の米国の推計軍事費支出は3.4%増しの1兆1180億ドル(約128兆円)で、世界総計の約半分弱、続いて5%前後の英国などが続く。記事の内容はそれだけで、われわれの関心が向く日本や中国には触れていない。

 記憶では、日本はかつて2位につけていたが、イラクや緊縮財政もあって英国に抜かれたのであろう。記事の5%前後諸国は、多分日、仏、中、独などだと思われる。100%信頼できる統計でなくとも傾向の把握には役立つので、もっと親切に報道して欲しい。

○さわらないセクハラ

 東大にある研究所で、某助教授が性的な話題を研究者同士で話すなどの行動を約1年間続け、女性に不快な職場環境を作ったとして、停職15日の懲戒処分にした。こういうのを「環境型セクハラ」というらしいが、わかる、わかる。やはり職場は神聖でなくてはならない。ところで、毎日何十通と殺到するスパムメール、環境型○○で根絶してくれないかなあ。

○民主、対案路線やめた?

 民主党の「次の内閣」法務担当・千葉景子参議院議員らが、杉浦正健法相に「共謀罪」を新設する組織犯罪処罰法案を撤回するよう申し入れた。法制化の必要性を再検討すべきだ、という主張らしい。ということは、民主党の対案も撤回するということで、当グロブがかつて提案したとおりになった。まさかそのせいではあり得ないが、ベタ記事には惜しい内容である。

○民団幹部、引責辞任

 朝鮮総連との和解という、歴史的な快挙の中心的役割をになった民団幹部の姜英之氏が、和解後の混乱(地方支部の強い反対などをいうのだろう)の責任を取る形で、自ら辞職を申し出て了解された。やはり機が熟していなかったというか、功をあせったというか、無理があったにちがいない。韓国の盧武鉉政権も同じ轍を踏むようなことがなよう、余計なおせっかいながら、もっと落ち着いてじっくり取り組んでほしい。

2006年6月14日

白村江戦争 2

私本・善隣国宝記

  661年7月斉明天皇は、唐、新羅連合軍の攻撃で壊滅した百済を立て直すため筑紫に全国から兵を集めた。ただし越の国の兵はその中に含まれていない。日本海沿岸から新羅に背後をつかれることを警戒したのだろう。この準備が整ったところで斉明天皇が筑紫・朝倉の宮で急死する。

 あとの采配は、皇太子・中大兄に預けられる。朝鮮出兵には消極的だった中大兄も、ことここに至れば兵力を渡海させ、新羅を牽制して百済の新政権樹立を支援するしかない。唐の本来の目的は、唐にしぶとく反抗する高麗の背後を絶つことである。それが実現すれば唐との衝突は回避できるはず、と見通したのか、第一陣を渡海させると中大兄は天皇の埋葬を理由に早々と大和に引き揚げてしまった。

 ところが、日本にとってとんでもない見込み違いがおきた。ゲリラ戦で百済復活まであと一歩というところまで追い込んだ国民的英雄・福信を、日本から帰ったばかりの新帝・豊璋が些細なことから殺してしまったのだ。これまで一進一退を繰り返していた新羅・唐連合軍は、これを機に一斉に攻勢に転じ、日本から増派されていた水軍と白村江(はくすきのえ)で衝突してしまったのである。

 この会戦は、教科書にもでているように、百済・日本側の軽率な行動と、待ち伏せ、焼き討ちといった戦術を予期しなかったため、全滅に近い一方的な大敗を喫してしまった。豊璋はいちはやく高麗に向けて逃亡、日本軍や百済の敗残兵は雪崩をうって南下し、筑紫に向かった。663年8月末のことである。

 さあ、ここで日本は国始まって以来、はじめて外国からの侵攻におそれおののくことになる。朝鮮半島の玄関口にあたる筑紫大宰府は、これ以前にもあったが、現在史跡に指定されている本格的な構造と施設は、この時期に構築されたものである。そこに行き着くためには、高さ13m、延長1.2kmの土堤と幅60m、深さ4mの溝からなる水城を越えなくてはならず、軍勢がそれを突破すれば、南北の山に築かれた山城からはさみ討ちされるという要害になっている。同時に門構えや建物は善美をこらした、豪壮なものだっただろう。これは、外交使節へのデモンストレーションとして必要な機能だった。

 対馬・壱岐などに新たにのろし台と防人を配置するなど緊張が続くさなか、664年4月に対馬から大宰府に緊急連絡が入った。唐の百済占領軍司令官・鎮将劉仁願の使者、郭務そう(りっしんべんに宗)など一行130余人が現れたというのである。そこで下級官僚を向けて用件をたずねさせたところ、将軍の牒書1通と献物を持ってきた、という。

 とりあえず使いを別館(場所はわからないが大宰府別館かも知れない)に呼び入れ、牒書だけを受け取った。その内容は公開されていないが、最悪の場合は日本攻撃の口実をつくるための無理難題かもしれない。当然牒書は早馬で大和に伝えられ、9月にはその返事も返ってきた。

 伊吉博徳ら三人(さきの遣唐使が筑紫に残り、太宰を補佐したものと見える)が客らにこう伝えた。 「牒は筑紫の長官に伝えた。長官がいうには、これは百済鎮将の使いとしてもたらされたもので、天子の意向を示すものではない。したがって入国も認めないし、書を朝廷にあげることも不可能である。ただ、この概略は口頭で奏上することになろう」

 この言い分は、手続き論として当然な回答である。敗戦国としては、やや強硬に思えるが、牒の内容が「唐の斡旋で新羅・百済の秩序を回復した。よって国交を回復したい」といった穏便なものであったため、一転して強気にでた可能性はある。使者もこのまま、はいそうですか、といって引き下がるわけにもいかない。「文書で出した返事は文書でいただきたい」これもまた当然の要求である。

 使者はここから待ち続けてさらに3カ月、12月に博徳から牒書1函を受け取った。表書きは「日本鎮西筑紫大将軍の牒」である。日本にこんな官名はない。鎮将・劉仁願に授ける、という形を取りたかったためだ。しかし手はちゃんと打ってある。天皇の返書がないかわりに、側近中の側近、中臣鎌足の名で土産物が届き、おそらく大宰府主催で送別会も開かれた。

 その翌年9月、再び唐の使者を迎えた。今回は総勢254人、使者の格式も高く上京して閲兵式にのぞんだり、政府との折衝もしている。また帰途には、送使という形で守君大石をつけ、唐の朝廷に挨拶させている。

 このような両国の融和が図られた裏には、遣唐使経験者や、国際感覚にすぐれた大宰府長官(私は阿倍比羅夫という説をとっている)や、中臣鎌足ら知中派の努力があったとともに、大宰府などで見るように日本の国防意識が強固であったことを使節に示せたからだと思っている。

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