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2006年5月

2006年5月26日 (金)

公明党の功績

[反戦老年委員会復刻版]

 「共謀罪」法案、教育基本法改正案、国民投票法案は、今国会での成立がむつかしく、どうやらお蔵入りの気配が強くなったことが報道されている。これは、議席数の足りない野党ではなく、与党・公明党の功績ではないか。

 こういうと、いろいろな方面から沛然と批判がまき起きる(起きないか?(^^))ことはあらかじめ承知の上である。私は、公明党の加憲案という改憲の方法論には賛成するが、よって立つところの、「不施不受」とか「立正安国論」とか「国立戒壇」という発想は嫌いだし、独特な閉鎖性とか権威主義は相容れない。

 表向きは、首相が大幅会期延長に反対、ということになっているが、上記3案はもともと創価学会員が歓迎しない法案であり(「教育基本法」は、公明党が今国会成立を目指していたが、「継続審議になると参議院選挙が不利になる」という不可解な理由)、自民党原案に大幅な注文をつけやっと国会提出にこぎつけたものである。

 ここまで苦労や我慢をしてきた法案だから、本来なら自民党は強行採決してまでも通過させたいところだろうが、自民党の積極派も、例えば教育基本法案から狙いだった「愛国心」すら消えてしまい、熱意も失せて通す気がしなくなったのではないか。

 もちろん、ポスト小泉、さらには参院選まで公明党に花をもたせ、自公蜜月時代を維持しておかないと、票を回してもらえないという自民党の泣き所があることは、容易に察しがつく。

 なお、「共謀罪」に関連して「再出発日記」さんが書かれた「ブログには力がある」には、勇気づけられるものがあり、「賛成票」を投じたい。

2006年5月27日

宗教と戦争

 以下は、2002年『月刊現代』1月号に掲載された、哲学者・梅原猛氏と宗教学者・山折哲雄氏の対談からの抜粋である。

梅原 孔子の「仁」や、菩薩道の「自利利他」の精神というのも、つまりは弱者への思いやりですね。こうした生きとし生けるものへの思いやりが強い東洋の思想には、強い共感を覚えます。そういう思想をもつ私は、インディアンを虫けらのように殺していく西部劇を見てて不愉快になってくる。湾岸戦争も今回の戦争も、まさにそれです。私は一人のアジア人として、今回の戦争でも、おのずと殺される側から目線をそらすことができないんです。

山折 明治以降の国家神道は、伝統神道の一神教化、あえていえばキリスト教化であると思いますね。一面では、それも明治国家が近代化を遂げるためには必要だったかもしれませんが、そこで日本の伝統的な神道は完全に変質してしまった。第二次世界大戦が終わった段階で、もう一度、日本の伝統的な神道、すなわち「鎮守の森神道」を見直すべきだったのです。「鎮守の森神道」の根幹を成すのは、先程述べた「万物生命教」です。

 この対談が企画されたのは、前年、9.11同時多発テロが発生し、アフガニスタン攻撃が開始されて間もない頃だと思われる。それがイラクへ波及、これまですでに太平洋戦争の期間を上回ろうとしているが、完全な解決への糸口は見えてこない。

 対談は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という一神教の中でも、お互いの共存共栄を探るグループが出ていることに、かすかな期待を寄せてはいるが、こういった「文明の衝突」に、日本の叡智が果たせる役割があるのではないか、という問いかけが中心になっている。

 今でもその状況は全く変わっていない。しかし、アメリカへの傾斜が深まるにつれ、こういった「真の国際貢献」は遠のくばかりだろう。

2006年5月29日

超大国「唐」

私本・善隣国宝記
 隋は北シナを統一したものの、大運河の造営や高句麗攻撃の失敗などで国力を消耗し、クーデターで唐にとって変わられた(618年)。しかし隋が残した資産は生かされ、まさに世界一の文明国、超大国に発展した。西にはササン朝・ペルシャなど地中海をめぐる文化圏があるが、唐のスケールには到底及ばない。

 現在でも胡弓、胡麻、胡瓜、胡椒、胡蝶など「胡」のつく言葉が身の回りにいっぱいある。その全部が唐の時代とはいわぬが、胡人(北から来た蛮族)を通じて中国に流れ込んだ異文化に由来する。唐の首都・長安は、人口100万のうち1万がイランなどの異邦人で占められた。酒場では、ほりの深いエキゾチックな胡姫(こき)がサービスにつとめ、媚びを売っていたという。

 さきに小野妹子に引率されて隋に渡った南淵請安、高向玄理などの留学生は、引き続き唐の時代を22年間経験して帰国した。大化改新の立て役者である孝徳天皇、中大兄、中臣鎌足そして謀殺された蘇我入鹿など、世界の中心となった唐の新知識を、これらの留学生らから学び吸収した。

 それはに、中央、地方の政治、組織、財政、法務、都市計画、宗教、芸能、占術その他あらゆる知見が含まれていただろう。それを手本として大化改新を推進し、奈良時代には律令制度の完成を見ることになる。この間、200年近くかかるわけだが、その初期に皇極、斉明の同一人による2代の女性天皇の時代があった。これは、「天皇物語」として以前掲載したので、そこから一部を再録する。

 彼女は、基本的には「保守的」で「国粋主義者」のように見える。皇極紀冒頭に「天皇、古の道に順考へて、政をしたまふ」とあり、雨乞いの祈祷効果などは抜群だったというから、卑弥呼の再来を理想像に描いていたのかも知れない。

 新嘗祭などの祭祀にも積極的に対応している。また、朝鮮・中国との往来も卑弥呼以来の盛んな時期に入っていたが、中国(唐)と新羅はお気に召さなかったようだ。それは、新羅が貢ぎ物をケチるとか、中国帰りの僧が、本来は巫女の占いの領域である占星術に口を挟むなどが理由だったかも知れない。

 彼女は、基本的には「保守的」で「国粋主義者」のように見える。皇極紀冒頭に「天皇、古の道に順考へて、政をしたまふ」とあり、雨乞いの祈祷効果などは抜群だったというから、卑弥呼の再来を理想像に描いていたのかも知れない。新嘗祭などの祭祀にも積極的に対応している。また、朝鮮・中国との往来も卑弥呼以来の盛んな時期に入っていたが、中国(唐)と新羅はお気に召さなかったようだ。

 それは、新羅が貢ぎ物をケチるとか、中国帰りの僧が、本来は巫女の占いの領域である占星術に口を挟むなどが理由だったかも知れない。ここからもうかがえるように、改革を推進した彼女の息子である天智・天武の意志と違って保守的な「抵抗勢力」だったのではないか、とさえ思える。

 その証拠に、『書記』を見ると皇極、斉明の時代は、自然現象や怪奇現象の記事の多さにくらべ、政治改革などについての記載がこの期間だけ断絶しているのである。

 これは、女性天皇は単なる中継ぎで、実権は中大兄が握っていたという通説を否定することになる。次回掲載を予定している「白村江の戦い」に至った動機も、私は女帝の意向によるものではないか、と見ている。

2006年5月30日

素人の歴史学

 当委員会はは、随時掲載している「私本・善隣国宝記」をはじめ、カテゴリ「歴史」を記事にすることが多い。歴史に興味を持ち始めたのは、自宅の周辺に貝塚から万葉に歌われた頃までの遺跡が非常に豊富なこともある。しかし、感受性の強い少年期に戦争を体験し、戦後「どうして、こんな戦争を始めちゃったんだろう」という疑問を持ったことがより強く影響している。

 したがって、原始から近現代まで、必要を感じれば海外のあちこちまで、手当たり次第につまみ食いをする。おまけに政治から流行歌まで、分野は何でもいい。こんなのは「教養」というより、よくいっても「雑学」、どうかすれば「学問」に対する冒涜にもなりかねない。

 2000年11月に「旧石器捏造事件」という、考古学界を震撼する大問題が発覚した。日本考古学協会は、真相解明と学会の信頼回復のため調査委員会を設け、03年5月に最終報告を発表した。

 その中で、事件発生の原因として次のような文言がある。「旧石器は旧石器、縄文は縄文という時代割り、東北は東北、関東は関東という地域割りの細分化された専門領域の谷間に落ちている研究者の現状・・・・」

 これは学術の発達にともなって、ひとり考古学のみではなく、医学などを含むすべての分野の学者に共通するのではないか。全体をどう調和させるか、総合的に効果を上げるにはどうすればいいか、について早急に検討すべきだろう。そういったことを研究する専門分野なら、あってもいい。

 さて、素人の立場だが、学者のように多くの協力学生や豊富な資料、研究予算などがない。そのかわり、専門分野の枠にしばられたり、学者の名利にこだわらずにどこへでも飛んでいける。特に歴史の場合、時代の流れや国、地域にこだわらない観察で、見えないものがぼんやり見えてくることがある。あるいは、直感といってもいい。

 もちろん学者にも直感がある。例えばある文献の一部分をとりあげ、それを増幅するため広く検討されたことのない資料から、最初の直感に沿うものだけを狭く深く拾い集めて発表する。こうして発表される論考は、直ちに批判されることもなく、珍奇であれば珍奇であるほどもてはやされる。

 しかし、素人歴史学の直感で、そのあやしさを感知することはそんなにむつかしくはない。スパンが広ければ広いほど有利なのだ。たとえば「大東亜戦争」とか「東京裁判」だけを見ている議論と、幕末、明治、大正、昭和そして世界情勢を流れとして観察する場合の優劣は簡単につく。吉田茂じゃあないが「曲学阿世」の徒をはびこらせないため、世の素人歴史学者の奮起をうながす所以である。

2006年5月31日

国を守る

仮想鳩鷹討論会(出席:鳩、鷹、乙)

*鷹 日米の関係閣僚(2+2)会談でせっかく基地再編問題をまとめたのに、まだ沖縄ではぐずぐすいって納得していない。アメリカは日本に不信感を持つよ。

*鳩 事前に納得できるような説明がなかったからじゃないの。沖縄の要求は基地があることによる負担(騒音・危険・米兵による犯罪など)軽減だ。だから基地をなるべく県外に移してほしいということだろ。

*鷹 移される本土の方は、これまた反対、反対だ。地域エゴだよこれは。だってアメリカに守ってもらってるんだろ、日本は。

*鳩 ちょと待って。日本は日本が守るんじゃあないの?。世界有数の装備と中国を上回るレベルにある自衛隊があるわけだし。なんで戦後60年も米軍にいてもらわなくちゃあならないんだよ。

*鷹 日本は憲法9条があって・・・・。ま、はっきり言えば核の傘で守ってもらえるということ。

*鳩 守ってくれないねえ。核の傘がものをいう時というのは、どんな時?。

*鷹 北朝鮮の核開発が進み、ノドン、テポドンの開発で日本に向けて発射する可能性がある。中国も日本に向けたミサイル基地の配備をしている。しかし核攻撃に対して日本は報復能力がないじゃないか。

*鳩 じゃあ、アメリカに核爆弾で先制攻撃か報復攻撃をしてもらおうという意味?。日本には非核三原則があって、作らない、持たない、持ち込ませないだ。だから核武装施設を破壊するために核による攻撃を受けるというのは考えられない。もしあるとすれば誤作動、誤発射だ。それでも甚大な被害を受ける。これに対してアメリカが原子力潜水艦かなにかから、報復爆撃をしてくれる?。こんどは、発射したのがアメリカだとはっきりするから、アメリカに向けて報復攻撃をするだろう。アメリカは安保で日本を守る義務があったにしても、核戦争の引き金を引くようなことなどどこにも書いてないよ。

*乙 「核の傘」的な発想は、冷戦で米ソが核開発競争のさなかに、たしかに存在した。しかし大陸間弾道弾の数を競って実際に使ったら双方どころか世界の破滅につながるし、使えない兵器になってしまった。さらに今では3万発を持つといわれるアメリカに対抗できるところはどこもない。旧来型の核兵器は政治目的のかざりにしかすぎなくなった。アメリカもそんな古い核戦略にはこだわっていないと思うよ。

*鷹 たしかに恐れているのは、テロ攻撃に絞られてきているようだね。

*鳩 2014年までに、ドイツや韓国から7万人の米軍を撤退させ、沖縄から8000人の海兵隊をグアムに移転する。アメリカにとって日本を共産国の防波堤にするという必要はもうなくなったんだ。そこんところの頭の切り替えが完全にできていない人がいるね。

 安保条約(日米同盟)の背景がすっかり変わっていることだけは事実だ。したがってこの先、日本が国の安全についてどういう選択肢を持つか、日米関係から憲法、そして自衛隊のありかたまで白紙に戻して考えたいね。私は憲法9条の堅持と、日本は日本人が守り抜くという強い意志を示すことが、国の安全を保障すると信じているがね。

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2006年5月 9日 (火)

不審船 1

[反戦老年委員会復刻版]

私本・善隣国宝記
 前回、倭の五王の最後、雄略天皇の時代をもって中国の冊封関係を解消した、ということを書いた。しかし、これは日本がそれを必要としなくなるほど強くなったわけでなく、事態はその逆である。いろいろな事件が影響しているが、おおざっぱにいうと、朝鮮では高句麗(高麗)の力が強くなり、百済がおされて徐々に南下する。

 百済は、日本から隣接する任那の一部の割譲を受けて息をつく。残った地域も日本の保護意欲に不信感をいだき、その混乱に乗じて新羅も隣接部を領土に組み入れる。そのようにして6世紀前半で日本は任那からの撤退を余儀なくされるのだ。

 日本側にも、応神以来の王朝が衰退し、継嗣断絶の危機を継体王朝擁立で切り抜けるとか、九州で磐井の反乱が起きるとかで、厳しい朝鮮情勢に対応しきれなかった。しかし朝鮮三国、特に百済と新羅は、背後にある日本の潜在的に軍事力を意識せざるを得ない。中国からの冊封を続けるとともに、日本にも朝貢とか人質とか何らかのつながりを持っておく必要があったのだ。 ここから物語がはじまる。(以下、『日本書紀』および拙著より構成)

 欽明31年(570)4月、越の人江渟臣裾代が京にでて奏上した。「高麗の使節を乗せた船が難破し、越の浜に漂着しました。郡司がそれを隠しているので私が報告します」。天皇はこの思いがけない事態を、大いに喜んだ。百済や新羅の陸路を通らず、高麗が新たな外交ルートで接触してきた、ということは、任那で失った権威を取り返すいい機会になる、と見たのだろう。早速上京ルートを整備し、宇治川沿いの相楽に迎賓館を新築して準備した。

 ところが、欽明帝が病死したため、次の敏達天皇との会見が1年以上あとの、翌年の5月15日になってしまった。この間に第1の事件があった。政府高官の膳臣傾子を迎えに越へ派遣したところ、郡司・道君が傾子に平伏した。これを見た使節は、副使の側近にいった。

「おい、おかしいじゃないか。お前は天皇に貢ぎ物を捧げるといって道君に渡したではないか。彼は一平民にすぎないことがこれでわかったぞ」

 使節は、調物の返還を受け、ひとまずこの場を収めた。第2のハプニングは、国書の上程の際に起きた。うやうやしく上表文としてカラスの羽が日本側に手渡されたのである。「これにてご返事を」といったかどうかわからないが、判じ物をつきつけられて日本側は困り果てた。今で言う外交官や儀典局の役人は、3日たっても誰一人解くことができない。

 そこで百済出身の関税役人・王辰爾がピンチヒッターとして呼びだされた。羽を受け取ると言った。「ごはんの支度をお願いします」「それから上等な絹の布を1枚」。彼は湯気が吹き上がるのを待ってその上に羽をかざした。そして絹の布を慎重に羽に押しつけた。すると黒い羽に書かれた黒い墨の字が見事に浮かび上がったのである。早い話が熱転写式プリンターの原理である。

 これには天皇が狂喜した。王辰爾が直ちに側近に取り立てられ、外交関係の高官は「これだけ大勢いて何を勉強していたんだ」と大目玉をくらった。『書記』はこの件の最後に「朝廷のうち悉(ふつく)に異(あや)しがる」と付け足している。高麗には「威張っていても日本には、これがわかるか」といった文化文明上の優位を誇示しる意図があったのだろう。

 第3、第4の事件は次回につづく。

2006年5月10日

戦争とは

 いくつかのブログを遍歴するなかで、「戦争とは何か?」あるいは「国を守るとは?」という、わかっていそうでその定義もなく、また人によって発想が違う厄介な問題が提起されていることがわかる。

 いや、それには気づいていたのだが、当委員会としてそれにどう踏み込んでいけばいいのか、結局いろいろなケースを網羅的にあげてアピールするしかないのかな、という感じしかなかった。もちろん今でもズバリ解決策があるわけではない。そこでちょっと「ことばあそび」をしてみることにした。

 軍備を拡張し、戦争に立ち向かおうとしている国が使いたがることば。

▲自由、民主、人権、愛国、国家、正義、平和、団結、神、天皇、犠牲、名誉・・・・。その反対、敵側に対して使いたがることば。▼邪悪、悪の枢軸、脅威、犯罪、独裁、背徳、卑劣、暴虐、非道、圧政、野蛮、野望・・・・。

 ところが実際の戦争の現場で目にする戦争とは、

●殺戮、狂気、欺瞞、堕落、頽廃、醜悪、獣欲、不毛・・・・。そして一切の思考を停止した「浅薄」が支配し、「人格の尊厳」は嘲笑される。

 身内で「戦争」の話題がでても「戦争とは、殺さなければ殺される。だから何んでもありなんだ」としかいえないもどかしさがある。「国を守る」ということは、国民を、子孫を●のような境地に立ち入らさせないこと、それにはどうするのが一番いいか、自分自身で考えることしかなさそうだ。

2006年5月11日

不審船 2

私本・善隣国宝記
 
前回述べた、高麗の使節が提出したカラスの羽の上表文は、「鳥羽の表」と呼ばれ、歴史に残る怪文書事件だった。日本・高麗の外交第1ラウンドが無事終わり、使者一行が宿舎に落ち着いた所で第3の変事が起こった。副使ら、調物横流しにかかわった随員たちは、この間ひそかに陰謀をこらしていた。「帰国して王に犯行を告げ口されると死刑になる。口封じをするなら今夜しかない」。

 夕刻になって、この陰謀が大使の耳に入った。「逃げよう!」。衣装を着替え、屋外に出たものの逃げる方向がわからない。館の中庭でうろうろしていたところ、最初の族が現れ、杖で頭に一撃を加えた。次の族は頭と手をねらい打ちにし、血をぬぐっているところへ第3の賊がきて刀で腹を刺した。大地に伏して助けを乞う大使にかまわず、第4の賊がとどめをさして去った。

 この惨劇に気がついた日本政府は直ちに捜査を開始、まもなく副使らを下手人として逮捕した。彼らはこう供述した。「天皇から妻を賜ったのに、大使が受け入れない。こんな無礼は許されないので、私らが天皇にかわって成敗したのです」。政府はなぜかこれ以上の追求はしなかった。そして大使の格式をもって丁重に葬った。使節団はなにごともなかったように2か月後帰途についた。

 さて、その翌年の5月、再び高麗船が越の沿岸に漂着した。今度は多数の溺死者もでている。ただし、今回は政府の処遇が全く違った。「朝廷、しきりに路に迷うことを猜(うたがい)たまいて、饗たまわずして放還す」である。かわりに船2隻を修理し送使と属官2人をつけて、送り返すことにした。その理由を「わるだくみを防ぐため」としている。前回もそうだが、この使節団には不審な行動が多く、国交より密貿易、スパイ工作船といった動きを警戒しだしたのだろうか。

 送還船のうち1隻は高麗人の操船で、日本の属官2人が乗り込み、もう1隻は日本人が操船し送使のほかに高麗人2人が乗船した。第4のミステリーはここから起きる。離岸して大海にさしかかった頃、どうしたわけか送使の乗った船が奇怪な行動をとる。2人の高麗人を海に投げ込み、舳先を返して日本に戻ってきた。

 「海の中に大きなクジラが待ちかまえ、船と舵をかじります。船が呑み込まれる心配があるので、先にでられませんでした」。いかに古代とはいえ、こんなウソが通るわけがない。とりあえず謹慎を申しつけられた。

 その2年後、3度目の高麗船がやってきた。日本の属官2名を送ってきたので、冷たくするわけにはいかない。帰国した属官は正式の国使として厚く礼遇されたていたのだ。同時に前回のもう1隻の船の消息を聞いてきた。天皇は正式に陳謝し、任務を放棄して戻ってきた送使を、都の外に出さず、雑益に使う、という処分を決定した。陳謝が金正日なみで、殺人と任務放棄にしては軽い処分だが、英雄扱いなどはしていない。

 これが、不審船をめぐる高麗(北朝鮮)との古代外交史のひとこまである。

2006年5月12日

言論の自由2題

 毎日新聞より。

■2面ベタ記事
 日本商工会議所の山口信夫会頭は11日の会見で、経済同友会が小泉純一郎首相の靖国神社参拝自粛を求める提言を発表したことに対し、「勇気ある意見だった。なかなか言えないことをよくお決めになった」と同友会の対応を評価する姿勢を示した。【宇田川恵】

■6面「記者の目」
 5年前、小泉純一郎首相が自民党総裁に選ばれることが確実になった前夜、山崎拓前副総裁から聞いた小泉評は忘れがたい(もう時効と考え、山崎氏にはオフレコ解禁をお許しいただこう)。

 「いいか、君たちびっくりするぞ。30年も国会議員やっているのに、彼は政策のことをほとんど知らん。驚くべき無知ですよ」

 すぐにそれは証明された。記者会見や国会審議で、小泉首相は集団的自衛権とは何か理解してないことが露見したのだ。(以下、略) 興味あるかたは、是非全文をお読みいただきたい。

2006年5月12日

国際基準の亡霊

 湾岸戦争の頃、「ふつうの国」になろう、とか「国際貢献」のためという言葉がはやった。その後、「国際」というのはどうやら「アメリカ」と同義語のようになつてきた。また「ふつうの国」とはどんな国なのか、アメリカだけが突出してしまって「ふつう」であることの基準がわからなくなくなってしまった。

 11日付の読売新聞社説は、「共謀罪法案」成立をうながして、またぞろ「国際標準」という古びた殺し文句を持ち出してきた。2000年に国連総会で採択された「国際組織犯罪防止条約」にそった法律を作るべきだ、というのがその趣旨だ。

 日本も批准しているのだからその趣旨を尊重するのはいい。しかし同条約は、加盟国の立法や司法の主権を犯してまでも取り決めを守れ、とはいっていない。戦前の治安維持法のような恐怖政治を再現させないため、最大限の努力をはらうことになんの遠慮がいろうか。

 野党は教育基本法なとどともに、この法案も是非廃案に持ち込んでほしい。それとともに、国際条約が時として、憲法や国内法をないがしろにしかねない効果をもたらすことに、もっと注意を払っていただきたい。「日米安保条約」も決してその例外ではない。

2006年5月13日

なんでだろう

 1株だけ株づけして、「総会で質問するぞ」といって会社の担当者をおどし、わずかな駄賃をもらった総会屋が「利益供与罪」で検挙される。

 1億9千万株株づけして、「電鉄と野球と不動産をバラバラにするぞ」といって株価をつり上げ、膨大な利益を手にするファンドは、新自由主義の旗手としてもてはやされる。 これって、オカシイナアと思うのは、時代遅れの老年だからだろうか。

 「一人殺せば悪党だが、100万人だと英雄になる」といったのは、チャプリンが最初かどうか定かではないが、これと似ている。変な世の中になったなあ、とつらつら考える日々である。

2006年5月15日

国境 

私本・善隣国宝記
 6世紀後半、前回は高句麗のから来た不審船の話をした。今回は百済である。なんとかして任那の失地回復をはかりたい敏達天皇は、百済に若い頃から派遣してあった肥の国葦北(熊本県・八代海沿岸)の国造の子、達率日羅の意見を聞くため、日本に召還することにした。

 達率といえば、百済で次官に相当する高官である。最初の迎えには国王が反対して出国を果たせず、2度目の迎え羽嶋を出した。羽嶋が日羅の自宅近くで様子をうかがっていると、中から婦人が出てきて「汝が根を、我が根の内に入れよ」と、なんともきわどい合図をする。羽嶋が意を察して中にはいると、奥に通され日羅が待っていた。彼のアドバイスは、百済王に「天皇の意向である」と高圧的に告げることであった。

 ここで日羅の立場を考察しておきたい。諸伝の中には、日羅が混血児であったとするものもあるが、根拠がない。日本の宮廷にも人質と称する朝鮮各国の高位者や前回でも触れた王氏など大勢の渡来人がいた。常設された大使館などない時代のことである。各国間の円滑な外交には、外国出身者をかかえておくことがある程度常識だったのではないか。中国の文献にも百済の宮廷に、同国人や倭人がいたことが記されている。

こうして日羅は出国できたが、大勢の従者を伴い、日本側の受け入れ体制もまた懇切そのものだった。意見聴取は、阿倍、物部、大伴など政府高官が当たった。その返答は、

 1 天皇の政の要諦は黎民(おおみたから)を護り養うことである。
 2 この政策を3年続けて各層が富み栄えれば、自発的な国防意識が芽ばえてくる。
 3 そこで多くの船舶を造り、各港に連ねることで外国使節を威圧する。
 4 そのうえ百済王かそれに次ぐ高官の来日をうながす。
 5 これだけで服属はやむなしということで、任那滅亡の責任をとらせられるでしょう。

というものだった。

 そしてさらにこうもつけ加えた。
 「百済が300隻の船で人を運び筑紫に入植をはかりたい、といってきたらまず許可を与えて下さい。もし百済が新たな支配地をふやしたいという下心があれば、必ず女・子供を連れてきます。そしたら、壱岐・対馬に伏兵を置いてそこで殺すようにしなさい。あざむかれぬよう、常に要害のところに防塞を築いておくことです」

 これは島国日本が、開闢以来おろそかにしてきた「国境」の概念を、痛烈に指摘したものといえよう。このあと、推古朝あたりから『書記』に出入国管理に関係する記事が現れはじめる。

 百済政権に忠節を尽くさなければならない立場の者が、逆スパイを演じたとあれば生かしておくわけにいかない。日羅の従者達は最初から任務が与えられていた。それからほどなく、止宿先で日羅は従者に暗殺された。

2006年5月16日

暗黒社会

みんなこわがっている。
ブログが震え上がっている。
あっちでもこっちでも。
右も左も、老いも若きも。

共謀罪 こんなにみんなからこわがられる法律。
あってはならない理由は、それでもう十分だ。

5年先、10年先、きっと暗黒社会がやってくる。
その時になって悔やんでももう遅い。
そうならないうちに、戦争の悪魔がほくそまないうちに。
この法律を葬り去ろう。

みんな誇りをとりもどそう。
今ならまだ間に合う。

2006年5月17日

「知る」ということ

 狸便乱亭taniさまの頁で拝見した、岩波新書、湯川秀樹、平和という三題がヒントとなって、同じ古い新書である、豊田利幸著『核戦略批判』を引っぱりだしてみた。同書に湯川博士が巻頭言を寄せているが、そこに40年後の現在も生き続ける警句があるので、収録しておきたい。

 現代においては、世界平和を念願することと、一人々々の安全の保障を求めることは、不可分である。そうであればこそ世界平和を求める人の数が、人類史上にかつてなかったほど、大きくなったのである。平和を求める人が、どういう方向に向かって、どういう仕方で努力すべきか、自ら判断しようとする場合、先ず知らなければならないのは、核兵器開発が現にどのように進められつつあるかである。
 

  本書において豊田利幸氏は核兵器開発の実態と、それをめぐる諸問題について、冷静かつ詳細に、しかも問題の核心をつきながら、筆を進めておられる。豊田氏自身も「はしがき」に書いておられるように、書く人にとっても読む人にとっても、それは決して愉快なことではないかも知れない。しかしどんなに不愉快であっても、それを知る必要があると知った上で世界平和のための努力がなされねばならぬ。それによって、私たち現代人類の成員は、ヴェスヴィアス火山の噴火によって共滅した二千年前のポンペイ市民の運命から免かれうるのである。二十年前の広島・長崎の惨禍を二度とふたたび起こさないようにできるのである。

    一九六五年七月 京都下鴨にて  湯川秀樹

 「核兵器開発」を知ることは、たしかに不愉快であるばかりでなく、科学的知識にとぼしい一般人のにがてとするところである。かといって、少数の専門家にまかせておけばいいとはいえない。たとえ「庶民感覚」であろうと、その被害・危険性についての世論を高めておけば、チェルノブイリなどの惨事は防げただろう。その危険性を嗅ぎとるため最低限の知識はやはり必要である。旧ソ連にはそれすらなかったということだ。

 「知る」ためには「知らしめる」人が必要である。その役目を果たすのがオピニオンリーダーであり、各種メディアである。最近、この重要な役割がパフォーマンスや軽薄なノリのかげで軽視されているような気がしてならない。

 庶民がにがてとするのは、核兵器だけではない。日米軍事同盟の新戦略がどう組み立てられているかなど、専門化されている分野が多いこともあって、その中味は、ブッシュ大統領や小泉首相が握手したり手を振っている映像のかげに隠されてしまうのだ。もう一度湯川博士の警句をかみしめたい。

2006年5月18日

いろは歌

 昭和18年発行国定国語教科書「初等科国語・八」に、「修行者と羅刹」という、いろは歌の由来を書いたものがある。筋書きを簡単に紹介すると、

 雪道を歩いていた修行者が、どこからともなく「色はにほへど散りぬるを、わがよたれぞ常ならむ」という美しい声がきこえてきた。仏の声ではないかと喜んだが、「花は咲いてもたちまち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。無常は生ある者の免れない運命である」だけでは、まだ不十分である。

 そのあとが聞きたいと思ってあたりを見回すと、恐ろしい顔の羅刹がいた。もしかしてこの羅刹の声か、と思い続く仏のことばがあれば教えてほしいと懇願した。すると腹がへっていて教えられないという。羅刹の食糧は人の肉と血である。修行者は、教えてくれたら自らの身を捧げようといった。羅刹はそれにこたえて「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」と吟じた。

 修行者は、うっとりとこの声を聞き、近くにある木の幹や石にこのことばを書き写した。「生死を超越してしまへば、もう浅はかな夢も迷ひもない。そこにほんたうの悟りの境地がある」と、心はよろこびにあふれた。そして、羅刹の餌食になろうと木に登って身を投じた。すると妙なる楽の音が起き、羅刹は帝釈天の姿になって修行者の身を支えた。そして多くの尊者・天人が現れ、礼拝した。この修行者はありし日のお釈迦さまであった。

 という次第である。教育基本法で「愛国心」云々の議論があるが、上記のような教育を盛り込むとしたらどうだろう。平安時代以後にできた由来のあやしい説話だが、「朝に道を知れば夕に死すとも可なり」といった儒教的な考えや無常観など、日本人の伝統的な心情に沿っている面もある。

 しかし、特定の宗教を正規の教材にすることには抵抗があるだろう。また、その時期が時期だけに、国に殉ずる特攻精神と靖国行きを鼓舞しているようにもとれてしまう。日本を愛する心をはぐくむにしても、やはりキワモノの題材ということになりそうだ。教育の「基本」ではなく、せいぜい課題図書とか、そんなレベルのものだろう。

2006年5月6日

暗黒社会 2

 毎日新聞(5/20)から2題。

 【ワシントン共同】テロ容疑者に間違われ、米中央情報局(CIA)の秘密収容施設に5カ月間拘束されたとして、レバノン系ドイツ人男性が米政府に慰謝料の支払いなどを求めた訴訟で、米バージニア州連邦地裁は18日「国家機密保持という国益は個人の利益より優先される」として、訴えを却下する判定を下した。(以下略)

 ああ~。アメリカもここまで落ちたか!。原告の男性は旅行中のマケドニアで拘束され、アフガニスタンの秘密収容所へ送られてCIA係官の暴行を受けた。拘束の理由はテロ実行犯と名前が似ていたというだけである。5カ月にわたる監禁と暴行に対しCIA長官の謝罪と7.5万ドル(約830万円、なんとささやかな)の慰謝料請求が、審理もされずに却下された。

 国家機密をさらしたくないなら、わずかな慰謝料と謝罪をして和解すればいい。そうしないのは、原告の国籍がイラク戦争に反対したドイツで、中東出身者だからか。自由と民主主義そして人権の旗印がウソだということを天下に示したことにほかならない。ハワイ沖の宇和島水産高校訓練船を、米潜水艦が誤って沈没させた時の扱いとまるで違う。

 そう。アメリカは変わったのだ。狂気の中にいる。この変化を「共謀罪法案」が追っかけている。もう一度いう。「今ならまだ間に合う」。野党だけでなく、全国会議員に訴える。どうかアメリカを手本とせずこの法案を葬ってほしい。

 28面ベタ記事

 イラク南部のサマワで活動する陸上自衛隊の第9次人道復興支援群(群長名略)は19日、隊員の准陸尉(52)が拳銃の弾丸1発を紛失、発覚を恐れて武器庫にあった別の隊員の拳銃から弾を移して隠蔽していたとして、職務義務違反による停職5日間の処分とした。(以下略)

 遂にでました「員数合わせ」。帝国陸海軍では常識だったんでしょ。ただ違うのは、罰せられるのが盗まれた方で、「おそれおおくも天皇陛下から下賜された皇軍の兵器」を紛失した罪は、停職なんて楽そうな罰じゃあとても済まなかった。

 そりゃあ暇だらけのイラクとちがって、真犯人捜査なんかできるわけがない。盗られた奴が悪いのだ。「一つ、軍人は要領をもって本分とすべし」という軍人勅諭の読替は小学生でも知っていた。愛国心教育もここまでは及ばない。「戦争」では「要領のいいこと」が善なのだ。これも日本が負けた理由のひとつとして有力である。

2006年5月21日

日出処天子 1

私本・善隣国宝記
 前回は、任那を失うことにより、国境に厳しい認識を持たざるを得なくなった事情を話した。推古朝に入ってから、新羅の間諜を対馬で摘発(9年)、肥後葦北に漂着した百済船の処理(17年)、伝染病嫌疑者の入国阻止(20年)など、『書記』に出入国管理に関する記事が現れ始める。現代における国家にはほど遠いが、「国家」を意識し始めた最初の時代といえるだろう。そこで、「日出処天子」を自称し国交らしい国交が始まった「遣隋使」について観察してみる。

 推古天皇の15年、隋の大業3年(607)小野妹子を隋に派遣し、翌年妹子と共に隋の使節・裴世清が来日したことは、『書記』『隋書』の日中両史料の記述が一致する。その概要は次のとおりである。

【隋書】その王多利思比孤(たりしひこ)が遣使朝貢した。その国書に、「日出る処の天子、日没する処の天子に書を致す。つつかがなきや云々」とあり、隋帝は「蛮夷の書は無礼である。聞きたくない」といった。(この部分『書記』にはない。しかし偵察の意味もあってか、翌年返礼の使者を派遣することになる)

【書記】16年4月、小野妹子が大唐(隋)から使節・裴世清を連れて帰ってきた。そして隋帝の親書を途中寄った百済でかすめ盗られたと報告した。(親書が倭王の無礼をなじるものだったので、故意に破棄したという説があるが、その可能性大いにある)

【隋書】使節は、百済から対馬国、壱岐国を経て筑紫国に至った。また東に秦王国があり、住む人は華夏(中国)と同じだがもっとよく調べる必要がある。そこからまた十余国を経て海岸に達する。筑紫国より東はすべて倭に附庸する。(「秦王国」はなぞめいているが、位置を長門あたりとすれば、秦王朝出身と自称する秦氏などがいたのかも知れない)

 隋書は以上の記述の前に、倭国の位置、卑弥呼など過去の史書にあること、その風俗習慣などを記しているが、魏志倭人伝からのを引用が大部分である。それ以外の記述としては、

1.600年にも倭の朝貢があったこと(『書記』にはない)。
2.その際に聴取した倭王の姓名、政府の規模、官位、政務の状況(高祖は「未明に政務をはじめ、日の出とともにやめるのは理屈に合わないので改めるよう指導している」)など。
3.その他刑罰の方法、阿蘇山があること、新羅、百済が倭を大国とみなし朝貢していることなど。

がある。

 次回は、倭の都での使節応対の模様を見ることにする。

2006年5月22日

日出処天子 2

私本・善隣国宝記
中国から国使を迎えるとなると、これは卑弥呼以来の出来事となる。怒濤のように流れ込む芸術・文化・技術・仏教など、すべて高句麗、百済、新羅経由である。なんとか中国に直接ルートを持ちたい。「日出ずる処の天子」といって皇帝を怒らせようがどうしようが、とにかく使いが来ることだけで大成功なのである。

【書記】唐(隋)の客の為に難波に新館を造る。16年(608)6月15日、飾船30艘で江口に客等を迎え、新館に泊める。8月3日、75匹の飾馬で海石榴市(つばきち)の市街に迎える。(海石榴市は奈良県櫻井市の三輪山麓と初瀬川にはさまれた処に位置し、古くから商業都市を形成していたと見られる。パレードを華やかにするため、やや遠回りだがここをコースに入れたのだろう。数百人の儀仗隊、鼓笛隊、200余騎の騎馬隊など表現は違うが『隋書』でも歓迎ぶりを記す)。

【書記】次は朝廷における伝奏風景である。阿倍臣と物部連が導者となる。隋からの贈り物が庭中に積んである。使節・裴世清自ら書を持って、二度再拝して使の旨を言上する。中味はやや隋を上位においているものの友好的・儀礼的なものである。その書を阿倍臣が受け取り、大伴連がバトンを受け大門の前の机において奏上する(天皇の姿は見ることができない)。この儀式には皇族、豪族、百官が制定したばかりの五色の礼服や冠をつけて参列した。9月5日、難波で客らに饗応する。

【隋書】その王と会談した。大いに喜びこういった。「私は海西に大隋があり、礼儀の国と聞いたので使を出して朝貢した。我々は夷人であり海の片隅の僻地にあり、礼儀を知らない・・・・」。

【書記】9月11日に裴世清は帰国した。また小野妹子らを隋の客につけて再度派遣した。今回の親書の書き出しは「東の天皇、つつしみて西の皇帝にもうす」である。このとき8人の留学生を同行させた。(朝鮮経由ではない学問のレベルアップをねらったものと思われるが、その全員が朝鮮からの渡来人またはその子孫と見られるのは、識字率の違いでやむを得ない事情だったのだろう)。

 駆け足で推古朝の外交を見てきたが、こんなところが留意点である。まず、中国文献が日本人名を卑弥呼の時代に帰って、妹子=因高とするなど日本語の音で表記していること、日本側は、前述の文化の直輸入と、朝鮮各国には差をつけたいということだろう。

 そういった中で、隋書が王と会談したといっており女王としていないことから、推古女帝は存在しなかったとか、対馬から都までそれぞれを「国」といっているから、大和王朝が支配地域は一部に過ぎなかったとか、隋書の中に阿蘇山の記事があるから、大和ではなく九州に存在する王朝と交流したのだ、といった「とんでも史論」が依然として活発である。

 これらは、史料のほんの一部を拾ってあらぬ方向にエスカレートさせたもので、歴史を多面的、総合的に見る訓練が足りないのではないかとさえ思えてくる。古代版自虐史観、歴史修正主義といわれないよう、慎重に見ていくことが必要だ。

2006年5月23日

中空高く

 今年は連休後、まっとうに晴れたことがない。したがってたまに晴れ間がでると、つい目は青空に引きつけられる。舞い上がる凧、輪をえがくトビ、さえずるヒバリなどは、どうも追憶の彼方に追いやられたようだ。杉花粉が遠ざかれば、黄砂だとかオキシダントだとかろくでもないものが襲来する。

 ところがこの数日、珍しく美しいものを目にする機会があった。つい見とれてしまい、写真に撮りそこねたのが残念だ。そのひとつが虹、視覚いっぱい大きく半円形を描く鮮明な虹は、何十年ぶりかで目にしたような気がした。妻は携帯で近所の知り合いに見るよう知らせまくっていた。

 もう一つは、高窓から見た青空高くひらひらと螺旋状に舞い上がる長い白く輝く帯のような物。エッ何だこれは、天の羽衣?。外に飛び出て見るとさらに2本。右に左にゆらゆらと、さながら天女の舞そのものだ。

 真相はすぐにわかった。300mほど先の畑で見上げている作業途中の男女2人、茫然としていたがあとを追い始めた。新品で純白の農業用不織布を準備し、かぶせようとしていたところへ一陣の旋風が吹き抜けたのだろう。中空高く舞い上がったままゆっくりとかなたへ流れていく。おきのどくとしかいいようがないが、珍しく美しいものを見せてもらったのだ。

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2006年5月 8日 (月)

横田さんが心配

[反戦老年委員会復刻版]

 拉致被害者、横田めぐみさんのお父さん滋さんが、娘婿と判明した韓国の金英男さんの親族に会うため渡韓を準備していると聞く。その前にアメリカでブッシュ大統領と面会を果たして帰国したお母さんの方は、疲労からか体調をくずして休養中という報道もあった。

 余計なことかも知れないが、両親より年上であるだけに、ふたりが複雑な国際政治の中で翻弄されている姿に心を痛めている。被害者の家族や、それを取り巻く団体などが、解決の延引にしびれを切らして「経済制裁」を声高に叫ぶが、それが解決の早道になる、という保証はどこにもない。

 韓国の拉致被害者家族と連携して、ということも甘い空想に終わりそうな気がしてならない。子供を引き離された親の立場は同じでも、めぐみさんと夫とされる英男さんでは、異民族か同民族か、北朝鮮における政治的地位と使命感の有無その他で、被害者奪還の方法が全く違ってくる。

 その上、日本と韓国の北に対する政策は両立しない。現に、韓国の李統一相は、滋さんに会う必要はないといい、韓国人救済のために有効なら経済援助を増やすという、いわゆる太陽政策を前面に打ち出していると聞く。韓国から北朝鮮に行った行方不明者が全て拉致とはいいきれないということもあり、自由往来の促進こそ解決への早道、と考える点では、日本の制裁促進策とは相容れない。

 横田夫妻もアメリカや日本とは違うということは、十分承知しているだろうが、英男さんの親族とも、なにか気まずい関係しか残さなかったとすれば、滋さん自身にとっても心の傷になりかねない。政府は被害者家族の止むに止まれぬ行動を、ただ傍観しているだけでいいのだろうか。6カ国協議だけでほかにうつ手がないというのも、芸のない話だ。

2006年5月24日

蔑視の危険性

 「支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩はれ、朝鮮國に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計れば、枚擧に遑あらず」。

 これは、かの有名な福沢諭吉の「脱亜論」(1885/3/16『時事新報』社説)の一節である。この記事の評価や真意についてはいろいろな議論があり、書いたのは福沢自身でないという説もあるが、当時こういった蔑視が存在したことはくつがえせない。

 同様に、日清戦争の外交秘録である陸奥宗光の『蹇蹇録』には、「朝鮮人の特色たる猜疑深きの邪念と陰険なる手段を施すに憚らざるの悪徳」などという表現もある。ネット右翼やプチ右翼の諸君、「明治の昔からそうだったじゃないか」などと喜んでいてはいけない。

 両先覚とも、君たちの何百倍も中国・朝鮮の歴史や文化に精通しており、両国の安定を願い行方を心配していたのだ。陸奥は同書でこのようにも言っている。

 (前略)愛国心なるものが如何にも粗豪厖大にしてこれを事実に適用するの注意を欠けば、往々かえって当局者に困難を感ぜしめたり。スペンサー、かつて露国人民が愛国心に富めるを説きたる末、そもそも愛国心とは蛮俗の遺風なりといえり。

 これすこぶる酷評なりといえども、いたずらに愛国心を存してこれを用いるの道を精思せざるものは、往々国家の大計と相容れざる場合あり。(後略):岩波文庫・新訂版参照

 明治時代の指導者が、いかに東亜の開明を願い中国・朝鮮の現状に慨嘆して言ったにしろ、一般民衆の間では、形を変え姿を変えた両国民蔑視の風潮がいつしか定着し、ついには日中戦争にまで行き着いてしまった。

 蘆溝橋事件直後、近衛首相は「戦線不拡大、日中友好」を唱えたが、その後も抗日行動があとを絶たないため、政府は「支那軍の暴戻を膺懲(ようちょう)し、以て南京政府の反省を促す」という方向に向かっていった。「膺懲」、難しいことばを持ち出してきたものだ。「たたきこらしめる」、こんなに為をおもってやっているのにまだわからないのか、といった被支配者に対する侮蔑をこめた感触である。

 この蔑視がついに日本を抜け出せない泥沼に追い込み、果ては太平洋戦争につながって、何百万、何千万の犠牲者を出すに至った。民族間、宗教間の差別意識・蔑視という問題は、現在のアメリカをはじめどこの国にもある。人間が背負った業なのかも知れない。しかし、世界はこれを克服するため多くの犠牲と努力を払ってきた。戦前の右翼の大物も、北一輝をはじめ大アジア主義に立つ者が多く、隣邦を感情的に軽蔑するようなことはなかった。

 心ない小児病的な蔑視や差別、これを人気取りに利用しようとする政治家達が、どんな害毒を国内外にもたらすかはかり知れない。蔑視には必ず蔑視の報いがある。優越を信ずるなら信ずるほど、そのような言動をとらないはずである。

2006年5月25日

中国・韓国の違い

 中東・カタールで23日、日中と日韓の外相会議が個別に行われた。この中で両国の日本に対する姿勢が、関係改善に柔軟な中国と、強硬姿勢を貫く韓国という違いが見えてきたという。

 これまで、靖国参拝とか歴史教育問題、島嶼領有問題などで、首相のワンフレーズ発言をはじめ、国民世論、マスコミ論調など画一的な反応しか示してこなかったように思う。

 しかし、本来は靖国ひとつをとってみても、中国はさきの戦争の相手国、韓国は日本国の一部であったことなど、それぞれの国民感情に違いがあるはずで、その視点から議論を起こすべきことなのである。この点、偏狭なナショナリズムをあおる人も、首相も全く一方的でワンパターンの反応しか示さず、孤立状態を招いてしまった。

 中国が柔軟姿勢を示しているのは、いい機会である。個別にもっと中味に踏み込んだ議論を展開すべきである。当委員会が竹島問題について、盧武鉉大統領の発言が、平和解決を閉ざしているという記事を書き、某著名ブログにTBしたところ、即座に削除された。

 どういう立場にあろうと、中国・朝鮮の問題をワンセットにして硬直的に考えるのはよくない。問題解決をますますあと送りさせるばかりである。ましてや、わが国への脅威などと称して、軍事対立を浮き立たせようとするような陰謀は、断固排除しなければならない。

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2006年5月 1日 (月)

文化庁と愛国心

[反戦老年委員会復刻版]

 国立博物館で「最澄と天台の国宝」という特別展を見てきた。全国80ヵ寺から集めた平安・鎌倉時代の国宝・重文級秘仏、本尊を拝めるまたとない機会であった。平日の午後にもかかわらず、館内は年輩者はいうにおよばず、若いカップルや外国人を含め大勢の熱心な観覧者でにぎわっていた。空海、最澄が中国からもたらした仏教とその芸術は、しっかりこの国に根をおろし、独特の発展をとげながら日本の精神文化の礎を築き上げた。

 それをはぐくんだ土台が奈良時代、飛鳥時代である。高松塚の華麗な古墳壁画、キトラ古墳の世界最古の天星図は、伝承元である中国・朝鮮を驚かすほどの、世界的にも貴重な財産である。その財宝・高松塚古墳の壁画が発見されたのが昭和47年(1972)、その4年後に、カビの発生やムカデ、ダニ、ヤスデなど壁画保存上の問題が発見されていた。

 遺跡はできるだけ古来の状態のまま保存すべきであることはいうまでもない。高度成長により、かつてないスピードで遺跡が破壊されたことは、もはや取り返しがつかない。しかし、パンドラの箱はすでに開けてしまったのだ。現物は最善をつくして外部に持ち出し保存しなければならない。幸いに発見当初の模写があると聞く。古墳は特定の役人、学者が占有するのではなく、市民が見学できるように加工して公開すべきだ。

石油会社に勤務していた頃、「パイプは地下に埋設するより地上むき出しの方が安全だ」ということを知った。わずかなひびや漏れでもすぐに発見できるからである。文化庁が発見当初よりその保存に意を用いてきたことは当然である。

 しかしここにきて、手のつけられないほど状態が劣化していることや、過失による壁画損傷を秘匿していたことが判明した。またごく最近、キトラ古墳の天星図にもカビの発生が生じていることもわかった。

 この責任は重大である。緊急性は郵政民営化より劣る、などと誰がいうことができようか。一部局の問題とせず、本当に「我が国の誇りある文化を受け継ぎ発展させ、人類社会に貢献する」(新・教育基本法案)気があるのなら、なぜ一日も早い高度な決断ができなかったのだろうか。いまだに疑問を感じる。(写真は近所の遺構発掘現場:連休中は作業お休み?

2006年5月2日

本音を言おう

 明日は憲法記念日である。その日本国憲法をあざわらうように、ラムズフェルド、ライス、麻生、額賀の4人が握手した。曰く「日米同盟は新たな段階。対テロ戦争などに日米が共同対処する世界規模の同盟。米軍と自衛隊の一体化」。これで9条には泥と墨が塗られ、正面からテロ攻撃にさらされてもいい国になった。

 基地を抱える地域の自治体の首長が、それぞれコメントをだしている。曰く「複雑な気持ちだ」「基地の負担が減るとは思えない」「事前の了解もなく反対せざるを得ない」。これではどうもすっきりした意志が伝わってこない。こういった態度が小泉政権の独走を許してしまったのではないか。

 もっとはっきり本音を言おう。「騒音や米兵の犯罪などない方がいい。しかし、見返りの助成金はほしい」「本当は基地なしでもやっていけるのが一番いい」「なぜなら基地があるとこわい。いつミサイル攻撃やテロに襲われるかわからない」。

 基地のない地域でも声をあげよう。「国会での議論もなくこんな同盟に同意した覚えはない」「ニセ情報をあやつり、気に入らない国に先制攻撃をかけるような国に守ってもらうのはかえって危険だ」「日本は米軍のためにも膨大な防衛費を負担・支出している。これだけあれば自分たちだけで国を守る方法があるはずだ」と。

2006年4月6日

憲法と自衛隊

 新聞によると、昨日の憲法記念日は低調だったという。昨年、自民党の改憲案が発表されたり、国民投票法案の国会上程の動きなどから、もっと議論の高まりがあってもいいのに、というマスコミの思惑もあったのだろう。また、各界のコメントの中には、改憲の先送り、または後退を示唆する意見も散見した。

 断定的にはいえないが、右翼陣営に一時ほどの勢いが感じられないような気がする。なぜだろう。自民党改憲案は、その格調の低さと未完成な内容に改憲論者からも批判がでている。教育基本法案は、与党案でさえ念願の「愛国心」を明記できなかった。首相の靖国参拝はもう先が見えている。牛肉や基地問題などでアメリカの身勝手な一国支配体制に国民が気づき始めてきた。民主党は、結局タカ派の前原委員長を追い落とし、自民党にとって苦手の小沢氏で人気を回復した。などのことであろうか。

 「9条の会が」全国で4000を越えた。またこれとは別に様々な平和運動がローカルで行われている。しかし、これらの活動が効を奏したわけではない。じわじわと改憲抵抗勢力として力をためているように見えるが、政治を動かす力にはなっていない。ましてや共産党や社民党の力にあずかるところは皆無と言っていいだろう。

 世論調査によると、改憲論者のうち「現憲法が時代に合わないから」というのがいつも高位をしめる。しかし、その中で「9条を改正し、海外派兵できるようにする」となるとそこからさらに収斂する。冷戦終結後、イラクなどアメリカのいう「対テロ戦争」の成り行きを見ても、9条がかつてないほど「時代に合ってきた」といえるのが現状ではないか。

 「時代に合わなくなってきた」のは、安保条約の方である。安保条約の中で自衛隊が憲法違反である色彩を徐々に強めてきた。世界のアメリカ離れが進む中でより強い同盟を求められ、日本国憲法の方を改正しなければならなくなった・・・・これでは全く順序が逆である。

 憲法改正は、日本を60年前100年前に戻すことではない。50年後100年後を見据えて、国民がどういう国を望みそして目指すのかの議論がなくてはならない。それは全く手つかずのままといっていい。現在の状況として性急に変えなくてはならない理由はない。それより安保条約(同盟)の一環として、国民の同意を得ないまま自衛隊のあり方や行動を規定し、憲法を死文化させることを一刻も早く禁止すべきである。

 護憲勢力にとって、決して気の許せない状況が続いている。

2006年5月5日

倭の五王

私本・善隣国宝記

 5世紀から6世紀初頭にかけて、倭王5人が中国南朝に遣使・朝貢し、日本が約90年間にわたって中国の冊封体制に組み込まれていた時代があった。これは、中国文献『宋書』などに明記されているが、日本の文献『日本書紀』では朝鮮各国からの朝貢が激増したことは書いあっても、冊封のことは全く触れられていない。その前の『魏志』による卑弥呼の遣使は引用しているので、故意に省略した疑いが強い。

 朝鮮半島では、楽浪郡など中国の郡県支配を脱したのち、高句麗、百済、新羅が自立し、やがて中国政権による冊封という関係に入っていく。日本もそれと前後して冊封を求めるが、5王のあとはそこから抜けて、外蕃という位置づけになる。朝鮮は時期によって形に変化はあるものの、最後の李王朝(明治初期)に至るまで、中国による干渉を断ち切ることができなかった。これが同国の事大主義(大きなものに仕える、従う)とつながっているように思われる。

 5王には、卑弥呼など違い、それぞれ讃、珍、済、興、武という中国名がつけられる。それが日本のどの天皇に相当するのか、いまだに確定していないが、最後の武が雄略天皇だろう、ということはほぼ確実視されている。この武による上表文がかなりの名文で、教科書などでも冒頭部分がよく引用される。

 その内容は、先祖の時代から、東方の毛人55カ国、西方の衆夷66カ国、海を渡った北方(朝鮮)の95カ国を征服してきた大国であること、中国の天子に忠誠を尽くしてきたこと、朝貢を高句麗に妨害されて果たせないこと、同国を攻撃したいが父と兄が死に服喪中で実行できないこと、そして官爵を賜りたいという5項目である。

 官爵として望んだ称号は、使持節、都督百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七国諸軍事および安東大将軍・倭国王であった。この中から都督は百済をのぞく6カ国で認められた。百済はすでに朝貢実績があり、鎮東大将軍に任命していたので、空手形を切るわけにいかなかったのだろう。新羅もすでに独立国だったが、まだ朝貢実績がなく、任那、加羅、秦韓、慕韓は、百済、新羅をのぞく南部諸国を4カ国に水増しして申請したものである。

 この5王の時代は、上記のように高句麗との抗争があり新羅との間にもトラブルが見られるが、朝鮮半島からは大量の武具、金属製品、技能者、労働者などの移入があった。また呉からの使人や衣縫、呉織など職人の来朝も『書記』に表れるので、冊封の記事はないが南朝の代名詞である「呉」からそういった見返りの交流があったものとも考えられる。

 なお、『書記』には、百済の武寧王が雄略天皇の時代に筑紫の加羅島で生まれたことが書かれている。王の古墳は韓国の公州で発見され、被葬者が墓碑で証明されているという、日本でも例を見ないケースとなっている。この古墳については、以前記事にしているので参照していただきたい。

2006年5月6日

安保見直しの視点

 当委員会が3月末に安保条約改訂を提言してから、たびたびその主張を繰り返している。昨年7月に公刊されたチャルマーズ・ジョンソン著・屋代通子訳『帝国アメリカと日本 武力依存の構造』(集英社新書)では、この問題をアメリカに在住する国際政治学者の視点から論じており興味深い。

 その中から、序言の書き出しおよびその結語をとりあげて参考に供するとともに、いささかの私見をつけ加えておきたい。

 第2次世界大戦後アメリカ合衆国は、日本-とりわけ沖縄県-、韓国をはじめとする東アジア各地に軍事力を展開してきた。にもかかわらず朝鮮半島とヴェトナムにおける二つの大きな戦争を回避できなかったばかりか、台湾海峡や東ティモール、フィリピン南部の情勢を悪化させ、沖縄や韓国の人々に、巨大軍事基地と隣り合わせの過酷な生活を強いてきている。

 ソヴィエト連邦が消滅し、中国は商業戦略による経済発展に力をそそいでいるとあっては、世界各地に駐留するアメリカ軍は、冷戦の終結とともに縮小されていて当然だった。米軍は、東アジアに長居をしすぎている。いいかげん”家に”帰るべき時なのだ。

 日本人としてやや気にかかるのは、やはり朝鮮戦争の部分だ。北からの越境ではじまり、釜山まで侵攻してきた共産軍をともかく38度線まで押し戻したのは、米軍の存在なくして不可能だった。日本は特需景気にわいたものの、「戦争」への恐怖を身近に感じたこともまた事実だ。許されない「仮に」の話だが、半島全体が金日成体制に覆われて今日に至ったなら、現在の韓国はもとより、今日の日本の姿も考えられなかっただろう。

 教授は、米軍が抑止力にならなかった、といいたいのだろうが、大戦後、「冷戦」に至るまでの空間を埋める秩序をアメリカが負っていたことは、肯定すべきだと思う。しかしその後、特に冷戦終結後はアジアに限らず各地の米軍駐留の根拠、ならびに効果は失われているということだろう。そして、次ぎに掲げる結論においては、安保体制に疑義をなげかけた当委員会の問題提起と、視点を共通させることができる。

 アメリカはこの先何十年も、あさはかで拙速な軍事行動のつけの支払いを味わされつづけることだろう。イラク戦争による、思いもかけなかった悪影響がすでにあちこちに出てきている。

 西側世界の協力関係には深刻な亀裂を生じ。EU(ヨーロッパ連合)におけるイギリスの主導権を奪い、国連憲章を含む国際法を嘆かわしいほど弱体化し、日本が外交政策ではアメリカの傀儡にすぎなかったことを露呈し、大統領、副大統領、国防長官ら政府高官が、国際社会とアメリカ国民に嘘をついていたことが明らかになり、その信頼性を揺るがせた。

 アメリカは世界に手を伸ばしすぎている。この新書に収められたエッセイが日本で注目を集め、米国との時代錯誤の関係を見直して、アメリカの軍事拡張主義とは一線を画す外交政策によって平和を生み出す努力が必要であることを、あらためて見いだしてもらえれば幸いである。

2006年5月7日

デカンショ

 ♪デカンショ デカンショう で半年暮らす よいよい<br />あとの半年ゃ寝て暮らす よーいよーい デッカンショ

 親父親父と いばるな 親父 よいよい 親父息子の なれの果て よーいよーい デッカンショ

 息子息子と いばるな 息子 よいよい 息子親父の ひとしずく よーいよーい デッカンショ

 もとは丹波篠山の盆踊り歌だという。それが大正時代の三高(現・京都大学教養学部)の寮生のなかではやり、さらに生徒交流で一高(現・東大教養学部)でもはやって、若人の飲み会では高歌放吟の定番になった。カラオケもない、楽器も三味があれば上等、歌詞はその場で誰でも自由に替え歌が作れた。

 デカンショは、デカルト、カント、ショペンハウエルの略だ、という俗説もあり、なんとなく高等な感じがしたものだ。いま、小泉後継候補になっているお祖父さんの高校生時代のことでもあろう。そこには、なんとなく反体制、反権力をにじますような雰囲気があった。しかし、この世代には、戦争を防ぐどころかその先頭に立つような人も出てきた。

 今、ポスト小泉をねらうような政治家に求められるのは、高い洞察力と創造力、それに世情にこびた思いつきとか、短絡的発想ではない確乎たる止観に立つことだと思う。残念ながらデカンショ全盛時代より進んでいるとは到底思えないのである。

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