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2006年3月 3日 (金)

嫌中の深層

[反戦老年委員会復刻版]
(以下2編はコメントの一部を末尾に付加します)

:  反戦とか脅威を論述していると、どうしても避けて通れないのが、今の日本人に多い嫌中意識である。これは嫌韓も同じだが「意識」より「感情」と言った方がいいのかも知れない。戦前は、あきらかに「蔑視」があったが「嫌中」ではなかった。プチ右翼がさかんに使いたがる「支那」だって、昔は、屋台ののれんに「支那そば」と書かれていた懐かしい味と親しみある表現だった。今の「ラーメン」では味わえない。

 一般民衆の蔑視はあったものの、明治以来政治家、学者、芸術家あるいは、右翼壮士に至るまで、中国との関係を重視し、中国の指導者層と親交を結ぶ人が多かった。また、日本に亡命中の共産党支持者・を近隣住民が暖かく受け入たり、漢詩のひとつもひねれないようでは、教養人といえない、といった感覚もあった。したがって、周恩来氏などの日本留学経験のある指導者は、おおむね日本人に好感を持っていた。

 過去の蔑視が下敷きにあったとしても、最近の嫌中は全く新しいものである。それはどこからきたのであろう。政治を抜きにして考えた場合考えられることが二つある。ひとつは来日中国人による犯罪報道である。その中味が九州であったような家族惨殺といった凶悪犯罪とか、ピッキングといった日本にかつてなかった窃盗犯罪の続出である。統計上はごく一部の人達によるものだろうが、決定的なイメージダウンにつながった。

 もう一つは経済問題で、生産拠点の中国移転にともなう空洞化現象である。家電製品から衣料品まで、身近な商品がすべてMade in Cainaに占領されてしまった。ちょうどバブル崩壊とも重なり合い、一種の被害感情がでたことである。中国人にも、段違いな経済発展を遂げた日本の経済進出に対する抵抗感があるとすれば、勘定摩擦でなく相互の感情摩擦であろう。

 麻生外相は「民主党の前原代表が中国の脅威をいったら、首脳との会談を断った。だから靖国の問題を解決しても必ず違う問題を持ち出してくる」(『Voice』)といった発言をしている。中国の反日世論に迎合するため、といいたいのかも知れないが、こちらがそう考えれば当然先方もそう考えてもいいはずだ。だから、ことさら日本の嫌中感情をあおるような政策・行動をとらないようにするのが、外交の要諦ではないか。今はその逆を行っている。

COMMENT:
: 飲兵衛トシ

 最近の歴史学者の研究で、中国人や朝鮮人に対する日本人の差別意識の源泉がどこにあるのかを研究テーマにした論文がいくつか発表されています。まったく180度違う立場からも、例えば西尾幹二氏や藤岡信勝氏らの「新しい歴史教科書を作る会」でも別の角度から論じているようです。それらを概括すると、凡そ、江戸期の佐藤信淵、平田篤胤、藤田藤湖、佐久間象山、吉田松陰、江戸末期から明治にかけての西郷隆盛、福沢諭吉、板垣退助などに起源を求めている論文が多いようです。

 しかし、歴史学者の研究レベルではないにせよ、庶民レベルでの中国人・朝鮮人差別がどこで、どのように醸成されてきたのかを研究することは意味があると思います。例えば、1923年の関東大震災の際に、自警団や憲兵隊が意図的に流した「朝鮮人が井戸に毒を撒いた」というデマで数千人もの在日朝鮮人が犠牲になったことは、その根底に何らかの差別意識がすでに形成されていた証左でもあります。
 
 少なくとも江戸時代には、明・清との交易は平戸や長崎で継続されていたわけだし、朝鮮に至っては、「朝鮮通信使」という国賓級の外交団を受け入れていたわけなので少なくとも江戸時代の幕府に対中国・朝鮮への差別意識があったとは考えられません。

 西郷隆盛らの「征韓論」は余りにも有名ですが、西郷らに思想的影響を与えたということでは、吉田松陰や福沢諭吉あたりがそのルーツになるのかナ?と僕は睨んでいます。そして、それを決定付けたのはやはり日清・日露の二つの侵略戦争だったと思います。

 朝鮮半島や満州を戦場にしたこの二つの戦争で、日本軍は現地の人々を軍人か民間人かを問わず殺戮しています。そして、復員した侵略兵たちは自慢話として中国人や朝鮮人をいかに多く殺したかを滔滔と聞かせたのです。そういう「武勇伝」を聞いて育った世代が「満州事変」以来のアジア太平洋戦争の全期間を通して各地で蛮行を抵抗無く働く原動力となった、と僕は見ています。

COMMENT:
: locust72

 こんにちは。
 嫌米というのは結構前からあったと思うのですが、ここ最近の嫌中嫌韓の勢いはそれを遥かに凌ぐものがありますねえ。
 しかし、冷静に考えると差別意識を持つにも足りぬほど彼の国々のことを知らないなあと自省。
 雨降って地固まるといいんですけどね。
 

COMMENT:
: ナイトトレイン

 いつも子供の頃の話し位しか無くて深みの無い投稿ですが、田舎の町で育った頃(’60年前後)遊び仲間の一人にM本くんという子供がいました。散々一緒に遊んで何年も後になって彼が本名は違う子供(朝鮮の金くん)だったことをぼくの母親から聞きました。
 何故近所の人もぼくの母も子供の頃にそれをぼくに教えなかったのか、時々考えています。(認識が無ければ差別も無いのか、差別しなければ認識も必要ないのか、、、?)

 それから、高校生だった頃、たまに小遣いがあると駅前の「老虎(ろうこ)」という中華飯屋で友達と連れ立って¥50円也の“学割ラーメン”を食べるのが愉しみでした。店主はたしか劉さんと言ったように覚えています。’66~67年ごろの事です。
みんな近所の人たちで、子供だったぼくは特別な関心も感覚も無いまま育ちました。

 今の子供たちは感じ方や接し方が違うのでしょうかねえ。

COMMENT:
: 飲兵衛トシ

ナイトトレイン 様
 僕の田舎の隣家も在日朝鮮人(「林」さんという日本名を名乗っておりましたが、とても優しい方でした)でしたが、僕の父親の乳母だった人がその方の奥さんでした。その奥さんは福島の会津若松出身の気丈な人でしたが、在日朝鮮人のご主人と結婚されて苦労の連続だったと子供心に覚えております。
 そして、僕の周囲にも同い年か、その前後ぐらいの在日の子供たちがいて、いつも一緒に遊んでいました。でも時々、僕たちの「縄張り」以外の連中が来ると「朝鮮人!朝鮮人!」と露骨に差別するのです。僕の親友だった金(金山君)や李(山田君)はその度に悲しい顔をしていました。その時、僕はその連中が「敵」に見えてケンカしたのを覚えています。僕は子供の頃は一番体格が良くて、ガキ大将でしたから、僕がビンタを張ると一目散に逃げるだけでしたが、何故、僕が在日朝鮮人と何ら分け隔てなく一緒に育ったかと言うと、多分、父親の影響があったと思います。
 父親は1920年生まれで7年前に脳梗塞で死亡しましたが、大学の工学部冶金学科に在学中に「学徒出陣」となり、1943年秋に横須賀にあった陸軍重砲学校に入隊し、その後、ソ満国境にあった要塞基地の重砲の測距手として、計算尺ひとつで仰角・俯角の弾道計算をして薬量を決めて発射する係りだったようです。この父親が1945年の8月9日のソ連参戦でそれこそ第一撃を喰らった部隊にいたのですが、それは半藤一利氏の「ソ連が満洲に侵攻した夏」(文芸春秋社刊)にも詳しく描かれています。口径20サンチ(cm)以上の重砲は海軍だけの専門技術で、そのために陸軍重砲の教育部隊が横須賀という海軍の街にあったそうなのですが、ソ連軍参戦時、その重砲(戦艦大和の主砲クラスを配置していたようです)を一発も打たずに、ソ連軍の手に渡らぬよう粉砕したそうです。それは、砲身を水平にして砲口から砲弾を装填し、あとは普段どおりに砲尾からも装弾して発射すると砲身がラッパ状に粉砕されて二度と使えないようにしてから、今度は歩兵として戦ったそうですが、8月15日の玉音放送を受信した通信兵の報告を父親の大隊長は「神国日本が降伏するなどあり得ない!」と一喝し、そのまま戦闘を継続したそうなのです。要塞基地とはいえ補給もないままにソ連軍の重戦車部隊と重砲部隊に完全に包囲され、夜陰に乗じて脱出し、ゲリラ戦を展開している時に、数人の朝鮮出身の「脱走兵」と遭遇したそうです。その時、父親の中隊長が「軍規」を理由にその朝鮮出身の「脱走兵」(単に、父親の集団には中隊長という中佐がいただけで、彼ら朝鮮出身のグループには下士官クラスしかいなかったというだけなのですが・・・)を処刑するよう命令したそうです。いつも威張り散らしていた小隊長の幹候上がりの少尉(僕の父親も大卒なので幹部候補生として将校になるよう何度も上官から説得されたようですが、父親は拒否したために筆舌尽くしがたい制裁を受けたそうです)がガクガクと膝を震わせてだらしなかったので、僕の父親(当時は兵長)と数名が、その朝鮮出身者を斬首したそうです。この真実は僕の父親が亡くなるまで僕ら兄弟に話し続けてくれました。そして、その部隊もやがてソ連軍に包囲され、コウリャン畑に逃げ込んだ時に、ソ連軍部隊の迫撃砲の一斉射撃で僕の父親は吹き飛ばされ、朝鮮出身の衛生兵の手当てを受けて、さらに脱出を試みた時にソ連軍歩兵の「マンドリン」の一斉射撃に遭い、僕の父親の横にいたその朝鮮出身の衛生兵は「ウツ!」と呻ったきり絶命したそうです。そして、僕の父親はソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留され言語を絶する生き地獄を4年間も過ごして1949年に舞鶴に復員したのです。
 今日は土曜日で仕事も休みなので朝からビールを飲みながら書き込んでいます。少し長くなってすみません!
 僕の父親は、1949年に復員してから、「何故、無謀な戦争をしたのか?」「戦争責任は誰にあるのか?」を真剣に考え、悩んだそうです。村の友達も、先輩も後輩も何十人もの戦死者を出して、「いったい、戦争とは何なのか?」ということを現象面だけではなく、哲学的にも考えたそうです。
 そして、その結論は、おそらく僕自身だったのです。つまり、憲法9条を絶対的に守り抜こうとする2世を作ったことだと思います。

2006年3月4日

反日の深層:

 このテーマは本当は荷が重い。膨大な日中関係史を誰かが完成させたとしても、中国人の対日感情なり国民性の違いなどを抽出し特化することなど不可能にちがいない。結局、中国の広大さと、双方に共通する東洋の遺伝子が、その時々で融合しまたは反発するという結論になりそうな気がする。

 最近の中国の動向を見ると、基本原則はあくまでも変えないものの、対日強硬策を微妙に変化させつつあるように思える。オリンピックの荒川静香選手の活躍ぶりを特別扱いで報道していることはともかくとして、最近の中国の論調は、中国でいう「区別論」(1972年の戦争賠償請求放棄に際し、周恩来総理が「日本政府指導者と一般国民・兵士は区別して考える」という発言ong>)を持ち出し、「小泉がそれをほごにした」という点に重きをおいているように見える。

 これは、首相の任期切れをにらんで、後継者を牽制するとともに、日本国内の靖国参拝支持勢力を孤立させ、あわせて次期オリンピックに向け国際的な信用力を高めよう、という意図からだろうが、「反日は国益に寄与せず、解消すべきもの」という方向性も感じられる。「靖国を解消しても必ず次の要求をしてくる」と説く麻生外相の敵対的な発言が何を意味するのか、それこそ理解に苦しむ。

 しからば昨年4月の反日デモは何だったのか。その後いろいろな解析や報道がなされたが、その詳細は省略する。ただ、中国人の反日感情の深層について日本側の理解は全く進んでいない。当時も中国政府の反日教育だとか、当局の誘導があったという、理由を先方だけに帰す解説が多かった。

 今、中国人は「日本はそのうちきっとアメリカと組んで中国に攻めてくる」と心の底で思っている。日本人が、「平和憲法はあるしそんなはずはない」といっても、信用しない。首相が靖国参拝にこだわり、戦争肯定派や核武装までいうタカ派を勢いづけているではないかと疑う。日本人でさえ最近の風潮に危惧の念を持つのに、台湾という不発爆弾を持っている中国が過敏になるのはある意味でやむを得ない。「今になってなぜ、ではなく、今だからこそ」いいたくなるのだと思う。

 次ぎに歴史認識である。南京虐殺の人数に誇張があるとか蘆溝橋でどっちが戦線を拡大したかなどは枝葉末節である。要は日本がなぜ、どういう方法で中国を侵略し続け、中国人民を苦しめたかである。

 よく、日本軍が謀略をもって満鉄線を爆破し、満州事変および15年にわたる戦争の発端とした過去をあげる。これに対して、中国への帝国主義的進出は欧米各国が競って行ったことであり、日本はむしろ東洋の植民地解放に向けた行動を起こした、などという人がいる。

 歴史修正主義者からの軽率な受け売り発言だろうが、残念ながら満州事変よりはるかに前、第一次世界大戦の結末をつけるためのパリ平和会議(1919年・大正8)で、戦争による惨禍の反省から、国際連盟創設、民族自決などを討議し、帝国主義的植民地獲得競争自制の方向が話し合われていたのだ。しかし日本だけ火事場泥棒よろしく中国での利権を主張し、暗殺、買収を含む謀略や強引さをもって中国での勢力拡張に走った。

 北京で学生による反日デモが起き、日貨ボイコットとなったのはこの時期である。そして最後まで中国主要部に居座ったのは日本だけで、中国人の心の深層に、深い恨みを買う相当の理由があったことに気がつかなければならない。

COMMENT:
針尾三郎

皆さんのコメントを読ませて頂いて、あの満州での事などから、昔の映画ですが、仲代達也主演の〝人間の条件〟を思い出しました。
私なども、あの時代に兵隊として、満州や中国に行っていた人たちから随分と、色々な話を聞きましたが、確かに一部の人たちの中には、満人や中国人を人間扱いをしなかった人たちがいたのは、事実のようです。
そして数年前に、私たち昔の海軍の同期の者たちで、中国の上海へ行った時、当時日本の租界地であった地区の入り口に架かっていた橋に〝支那人と犬、此処より入るべからず〟と言う看板が、立てられてあったことを聞いて、言葉がありませんでした。
その看板に書かれていたという文言が、当時の日本の中国人に対しての〝対し方〟が如実に表われていると思いました。
ですから今に至るも、中国の人たちの、日本人に対する〝怨念〟は、一部の人たちの間では、抜きがたいものが、あるだろうなと思っております。

OMMENT:
アッテンボロー

 2月の19日なのですが、日系企業が中国でおこなっている非人間的な労務管理について書きました。現在の日本企業の多くが中国を生産基地にして欧米に間接的な輸出をしているわけですが、それを支えている中国では本当に酷いことがおこなわれています。昨年春の抗日運動は過去の戦争における侵略問題と今日の経済侵略とが二重写しになっている点があると思います。

COMMENT:
笹野権三郎

初めまして。
たまたまの検索の流れのなかで、このブログ、そしてひと月前になる、このお話を読ませていただきました。

わたくし自身、日本と中国、あるいは日本と韓国、北朝鮮との関係に興味とある考え方を抱いております。ブログ主さんとは、おそらく反対側に位置するようなところで。

それはさておき、中国人の日本に対する根深い感情の一例として、昨年4月の反日デモをあげられていたように感じます。わたくしは、もちろんその現場に居合わせたわけではなく、テレビニュースでその模様をみていただけなのですが、ブログ主さんはデモをし、投石をする若者たちの表情を覚えていらっしゃるでしょうか。

残念ながらわたくしには、彼らの表情から「反日」というものを感じることができませんでした。むしろレクリエーションのひとつであるかのように、ただ騒ぎに盛り上がっている楽しげな顔であるかのように、わたくしの目には映りました。

要するに「反日デモ」とはいわれているものの、彼らの目にも表情にも日本に対する激しい怒りを、わたくしは感じることができなかったのですが、ブログ主さんはいかがだったでしょうか。

ただ立ち寄っただけに過ぎないわたくしがこのブログを拝見して思いましたのは、ブログ主さんが「中国人」と表記している箇所のすべては中国人ではなく、「中国政府」だということです。

また、わたしのような無学文盲の者は、日中戦争当時、さも中国はひとつの中国であったかのように勘違いをしてしまうのですが、果たして当時、中国はひとつであったのでしょうか。国共の激しい内戦があったという前提をなくして「日中戦争」と解して過去の日本をみていくのは乱暴かとも思います。

さらに、現在中国に進出している日系企業の悪行を紹介するかのようなコメントもありましたが、多くの日系企業がいかに中国人ワーカーと「人的つながり」を持つことに腐心し、努力をしているのか、果たしてご存知なのだろかと思いました。

長くなってしまいました。申し訳ありません。また折りがあれば、触れて読ませていただきたいと思っております。

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