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2006年1月13日 (金)

天皇物語 1

[反戦老年委員会復刻版]

 皇位継承をめぐる議論は、国民が天皇制をどう考え、憲法上どう位置づけするかという問題にまで発展しようとしている。皇室の日常や今後のありかたについては、国民が考えていけばいい事柄だが、その前提になる歴史認識や評価について、人により大きな開きがあることも次第に明らかになってきた。ここに記そうとしていることは、「歴史」の研究や論評ではなく早く言えばアマチュアの特権としての「独断」である。天皇家の過去にも、いろいろな見方考え方があるのが当然で、硬直した固定観念から開放されなければ建設的な意見もでてこないだろう、ということを言いたい。

*『日本書紀』再検討* 保守復古派が唱える「皇紀二千六百余年」は『日本書紀』からきている。これが誤りであることは、暦が日本に伝来する前のできごとに暦をあてはめ、考古学では説明できない器物が登場するなどのことで、すでに歴史学上の評価が定まっている。

 にもかかわらず、復古派や神社系の人が公然とこれを唱えるのは『日本書紀』を無二の教典として絶対視していることによる。アメリカのネオコンとかキリスト教原理主義者といわれる勢力が、ダーウィンの進化論を学校で教えないように運動していると聞くが、これと同じようなことが日本で起きないとは誰がいいきれようか。彼らは全くナンセンスだと思ってはいないのだ。

 一方で私は、戦後の史学を風靡してきた「津田左右吉史学」も大幅な見直しが必要だと思う。同氏が身を挺した果たした皇国史観へのアンチテーゼには賛辞を惜しまないが、同氏の手法や言辞だけをまねしたと思われる『日本書紀』否定論や軽視論・無視論が続出した。いずれ具体的内容をとりあげてみたいと思うが、中国・朝鮮、特に中国の史書に書かれていることは正しくて、それと矛盾のある『日本書紀』は偽造・捏造されたものという、一種の日本書紀自虐史観といっていいようなものがある。

 『日本書紀』は、世界中で現存する国名を付した青史としては最古(720年)のもので、大いに誇りにしていいと思う。それだけに、外国文献との間に食い違いがあれば、そのどっちが正しいかという先入観念を捨てて、違いのよってくるところを解明することが求められるのではなかろうか。考古学とのすりあわせについても全く同様である。周辺国との歴史認識の違いを解明するには、まずこういったことがベースにならなければらない。

2006年1月16日

天皇物語 2

*天孫族の出身地* 天皇の大先祖は天照大神(あまてらすおおみかみ)という女性の太陽神で高天原(たかまのはら)すなわち天(あめ、あま)を支配していた。いわゆる天孫族が住んでいた「天」には天の岩戸、天の安河などがあり天の浮橋を渡って地上と行き来ができるようになっている。

 その接点に「日向の高千穂の峰」があり天孫降臨の地とされている。大分、宮崎、鹿児島県のどこかと考えられているが、確定できるところはない。また、出発地の「天」を宇宙空間と考えるのが素直な人だが、野暮な人はそれを地上のどこかだろうという。九州では筑後川上流の甘木市や夜須町のあたりが、地名(アマ、ヤス)の類似性や地形などから候補にあがっている。

 私が想像する「天」は、朝鮮である。天孫族とは朝鮮南部に本拠を置いた先進的な倭人で、すでに中国の影響をうけており、銅・鉄などの金属の使用、水耕稲作や土師器製造などの新技術の普及に貢献した弥生時代のエリートだった。

 『日本書紀』(以下、単に「書記」とする)を見ると、天孫降臨、神武東征より前に天孫族である素戔嗚尊が出雲(一書によると朝鮮の新羅ソシモリを経て)に渡り、韓国と交易をしていたような記事がある。また、大和の地にも饒速日尊が天の磐船に乗って先着している。磐船は頑丈な船を想像させるが、饒速日を祭る磐船神社は新潟県など各地に散在する。このように天孫族が広い地域に船で達したとすれば、九州の狭い山間部が出発点というのは不自然だ。「あま」は「海人」で海洋民族のことかも知れない。

 このほか、天孫降臨にまつわる「書記」の伝承は、朝鮮南部にある首露王伝説に似ているところがあり、意味不明のことばも、古代朝鮮語で解釈できることが多いという研究がすでに知られている。それらから「天」が朝鮮南部で、天孫族は「先進的倭人」と考えたのだが、別に倭人でなく朝鮮人(韓国人)であってもいい。なぜならばその頃国境という概念はなく、交易のルールさえ守っていれば誰でも往来自由で、現在よりよほどフリーだったからだ。

 あえて「倭人」というのは、朝鮮にも倭人が住んでいたらしい、ということからである。『魏志』倭人伝でも「ここからが倭国です」というようなことが書いてなく、「その北岸の狗邪韓国までやってきました」という表現だ。対馬の対岸だから韓国からみれば南岸にあたる。それだけなら誤記かな、となるが朝鮮の文献や伝承を総合してみても、風俗・方言などから倭人に分類される人々がその方面にいたことは確からしい(『倭人伝を読む』中公新書)。そこで、天孫族はその人達だったんだろうな、と思ったまでである。

2006年1月28日

天皇物語 3

 ○日ノ本は 大和神楽の昔から 女ならでは 夜の明けぬ国 (古川柳)
 ○元始 女性は太陽であった (平塚らいてふ)

 天の支配者、アマテラスから初代天皇・神武までは、男系相続など全くうかがえない。さらに神武もアマテラスの直系ではないらしい。まあ、排泄物や器物の破片から子供が生まれる神話の時代なのだから、そこらを詮索してもはじまらないだろう。男系による皇位継承は神武から、ということになるが、応神や仁徳朝の中国文化が日本に流入する前の日本の姿はどうだったのだろう。

 その時代がわかる貴重な文献が『三国志』のいわゆる「魏志倭人伝」である。女王・卑弥呼の擁立について、歴史学者・岡田英弘氏と考古学者・森浩一氏の間で次のような論争がある。(『倭人伝を読む』森浩一編)<br /> 岡田=「その国、もとまた男子を以て王となし、とどまること七八十年、倭国乱れ相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王となし」とあるから、もともとは男子承継が本来の姿。<br /> 森=長崎県平戸の根獅子遺跡で、頭に銅鏃の刺さった女性の人骨が出てきて、女が集団の先頭に立って戦っていた---そういうことが日本的な特色としてしられていたのではないか。

 これについては、日本の文献『日本書紀』で見る限り森氏に軍配を上げざるを得ない。すなわち、神武東征の途中紀伊から熊野にかけて二名の女賊(酋長)を破り、その翌年にも新城戸畔という女賊を誅している。崇神天皇の世には、武埴安彦の反乱があり、この軍を率いたのは妻の吾田媛だった。さらに景行天皇の熊襲征伐では、九州で5人の女性首長が記録されている。また、神功皇后紀には筑紫・山門の田油津媛との交戦記事もある。こうして見ると、この時代の地方首長は半分近くが女性だったのではないかと思わせるほどである。

 上述のことは、当然伝承に基づくものに違いないが、神功皇后自身の新羅親政は別として、誇張や粉飾で首長を女性にしなければならない理由はない。また、九州の女性を葬った墳丘墓や大和を中心とする古墳における女性被葬者の研究が進めば、もっと古代日本の女性の姿が浮かび上がってくることになるだろう。日本の男系天皇の承継は長い歴史を持つが、なにも神武以来の伝統と誇張することはないのではないか。

2006年1月31日

天皇物語 4

 天皇物語 3で、中国文化が波及する応神・仁徳以前は、地方の首長の半分近くが女性だったのではないか、と書いた。『日本書紀』の上では、神武以降すべて男性天皇が継いでいることになっているが、その間、天皇以上の扱いを受けている女性が二人いる。一人は神功皇后である。『書記』に天皇以外で1巻を割り当てられている人は他にいなく、妊娠中に新羅征伐をするなどの行動は、まさに自ら戦いの矢面に立つ古代女性首長の行動そのものである。

 もう一人はそれより前、崇神時代に活躍した倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)である。この人の墓が、箸墓という名で伝承され、奈良県櫻井市に現存する。全長280mの巨大前方後円墳で、古墳時代のはじまりを意味する重要な遺跡である。『書記』にはその建造過程まで記録さており、「天皇」とはいってないが、天皇以上の政治的実力者であったことはまず疑いない。

  さて、ここで問題なのがこの時代の謎の女王「卑弥呼」のことである。魏志倭人伝に符合するようなことは、『書記』にも『古事記』にも書いてない。卑弥呼の最後について、倭人伝は次のように記す。<br />  「(意訳)卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と対立していた。これを朝鮮半島の出先、郡役所に訴えてきたので支援することにし、詔書や軍旗とともに役人を派遣した。(以下読み下し文)卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径は百余歩、葬に徇ずる者は奴婢百余人」

 また、以下は『書記』の描くモモソヒメの墓の作り方だ。「(意訳)大物主との仲が破れ、後悔して箸で陰部を突きなくなられた。そこで大市に葬った。それで時の人は墓を箸墓と名付けた。この墓は日中は人が作り、夜は神が作る。大坂山の石を運んで作るため、山から墓まで人民が列をつくって手渡をする」

 双方とも建造する「墓」が大きなニュースとして取り上げられていることに注目しなければならない。やはり画期的なできごとだったのだ。問題は、墓が作られた時期と場所である。時期については、魏志倭人伝で卑弥呼の死が247年か8年であると特定できる。一方の箸墓は、周辺から出土する考古学上の遺物から造営時期が繰り上がる傾向にあり、3世紀中葉、260年頃である可能性も出てきた。

 これで、考古学者を中心に「邪馬台国論争は大和で決まり」、そして卑弥呼は大和王朝の先祖のひとり、という意見が勢いを得ている。しかし、九州説もなかなか根強く、まだまだこれからの研究と論争が楽しみだ。

2006年2月11日

天皇物語5

 一般に女帝第1号は、推古天皇であるとされている。だけどそれは『日本書紀』の上のことであって、私は実質天皇(最高権威者)第1号が卑弥呼(ヤマトトトモモソヒメ)、第2号神功皇后、第3号飯豊皇女、推古は4番目だと考えている。

 すくなくとも、天武天皇(686年没)の頃以前には天皇という呼称がなく、すべて大王(おおきみ)だったと考えている。あるいは、男性「たらしひこ」、女性「たらしひめ」だったかも知れない。大王は王の中でも特別な王という意味だから、「皇帝」的な響きではなく複数あってもおかしくない名称だ。万世一系といった意識もそんなになかったのだろう。

 推古天皇は、聖徳太子や蘇我氏の存在、遣隋使等の外交活動などもあり、興味深い女帝である。ところが「推古天皇は幻の天皇」とか「聖徳太子はいなかった」などの珍説をなす人が以外に多いのである。その全部を説明すると何冊かの本になってしまうほどだ。

 たとえば、隋から日本に派遣された特使・裴世清の報告が『隋書』にあり、同書でいう倭王・多利思比孤(たりしひこ)に世清が面談したことが書いてあるが、女王とは書いてないので推古女帝はうそ……、いった類である。また同報告に「筑紫から東に行くと秦王国があり住民は中国人と同じ」とあるから、日本はまだ分立国家で国の体をなしていない、などと説く人もいる。

 まあ、種々仮説を立てるのはいいが、これらは外国文献に絶対的権威をもたせ『書記』を粉飾の書と決めつける、いわば自虐史観古代版ではないか。世清が会ったのは聖徳太子で、「王」と呼ばれてももいい立場にあり、現に「法王」という記録も残っている。考古学上でも、推古が、死んだら先立たれたの竹田皇子の墓に合葬してほしい、と遺言したという『書記』の記述に合致する古墳があることが00年8月までの調査でわかった。橿原市の植山古墳である。

 ここで言いたいことは、推古の時代は、『書記』を編纂した720年前後から見ると祖父または曾祖父の時代である。たとえ伝承が不正確であったにしても、すでに豪族など有力者の家には「家記」とか「墓誌」が残せる時代になってきている。そのため、『書記』編者が実在した人を幻にしたりありもしない事跡をでっち上げたりすることはできないし、またあり得ないと考えるのである。

 この点、私は津田左右吉流を悪用した「歴史修正主義」は認めないし、まず『書記』の記述を尊重しその裏付けをさがしてみる、という立場の「国粋派」なのかも知れない。

2006年2月16日

天皇物語 6

*皇極天皇・斉明天皇* 推古天皇に次ぐ女帝は、皇極天皇である。この天皇の波乱に満ちた生涯も、古代史の中で特筆に値する。まず、ご本人の目の前で、わが子・中大兄皇子らが、蘇我入鹿を惨殺した乙巳の変。続いて弟の孝徳天皇への譲位。大化改新・難波遷都の後孝徳が病死し、大和に帰って二度目の即位により斉明天皇となる。そして北海道を版図に入れ、次いで朝鮮に出兵。このとき自ら筑紫の朝倉に遷座し、終焉の地となる。

 推古天皇の時の聖徳太子同様、この時代も中大兄にスポットが当たり、天皇としての実績評価があまりされていないが、決して「中継ぎ」のお飾り女帝ではない。それは『書記』を通読して見るとわかる。まず、皇位継承に前例のない新機軸を打ち出したことである。

 乙巳の変のショックだったのかも知れないが、「生前譲位」の敢行が第一、それに弟・孝徳の死後カムバックして重祚したことを第2とする。その点、むしろ孝徳の方が「中継ぎ」役だった。なお、中大兄はこの3代(20年)の間、皇太子であり続けた。

 天皇を彼女というの変だが、本名の天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)では寿限無になってしまうので、以後親しみをこめて「彼女」にさせてもらう。彼女は、基本的には「保守的」で「国粋主義者」のように見える。皇極紀冒頭に「天皇、古の道に順考へて、政をしたまふ」とあり、雨乞いの祈祷効果などは抜群だったというから、卑弥呼の再来を理想像に描いていたのかも知れない。

 新嘗祭などの祭祀にも積極的に対応している。また、朝鮮・中国との往来も卑弥呼以来の盛んな時期に入っていたが、中国(唐)と新羅はお気に召さなかったようだ。それは、新羅が貢ぎ物をケチるとか、中国帰りの僧が、本来は巫女の占いの領域である占星術に口を挟むなどが理由だったかも知れない。これに対して、そういった中国帰りから教育を受けた中大兄や中臣鎌足、そして孝徳は、革新派であり海外事情にも精通していた。大化改新はまさにその成果である。

 もうひとつ、彼女を特徴づけるのは、大型公共工事である。大木を切り倒し山を崩し、運河を掘って石の山や垣をめぐらすのに延べ10万人を動員し、しかも中途半端で終わらす。そういったことが庶民の怨嗟を買ったと『書記』に明記する。00年2月に発見された亀を通る水路の遺跡が評判になったが、その他の石造遺構とともに、当時あらたに支配地になった東北・北海道、奄美などの住民そして海外使節等へのデモンストレーション効果をねらったもの、と考えている。

 そんなところから、唐・新羅連合軍から百済を守る目的の朝鮮出兵は、通説に反するが彼女自身の発案に違いない思っている。でなければ、老躯をおして九州まで戦陣を進める理由がない。結局、敗戦の憂き目を見ずに死去するが、『書記』はこれを鬼神のたたりのように書く。以上を見ると冷酷で男勝りなイメージがするが、中大兄と皇后の間に生まれた男系男子の一粒種の孫・建王が夭折したときは悲しみに暮れて次のように歌った。

 飛鳥川 漲らひつつ行く水の 間もなくも 思ほゆるかも

2006年2月21日

天皇物語 7

*孝謙天皇・称徳天皇* 皇室典範に関連して古代の女性天皇を取り上げ、7回のシリーズになった。天武天皇の皇后で事跡を継いだ持統天皇など有力な女帝があるものの、全てを網羅するつもりは最初からなかった。しかし皇極・斉明と同様、生涯で二度天皇位についた孝謙・称徳女帝だけは、歴代に例を見ない特異な存在として、シリーズの最後にもってきた。

 まず、彼女が特殊な境遇におかれた最初は、女性でありながら皇太子であったことである。聖武天皇と藤原氏出身の光明子の間に生まれた子であるが兄弟に男が生まれず、ほかに腹違い(県犬飼氏)の男子が生まれたため、藤原系優先を理由に急遽強引な手段で皇太子にさせられた。その前後、いろいろな宮廷内勢力のクーデター騒ぎがあるのだが、詳細はとても書ききれないので、以後の大きな動きを年表に要約する。

・749年7月 聖武天皇、皇太子に譲位し孝謙女帝即位。
・756年5月 聖武太上天皇没する。
・758年8月 孝謙天皇譲位して藤原仲麻呂が推していた大炊王が即位、淳仁天皇となる。
・760年4月 光明皇太后没する。

 ここで藤原仲麻呂らは後ろ盾を失って、孝謙をコントロールできなくなる。看病禅師・弓削道鏡との怪しい関係がはじまったのは、その翌年のことだ。まず目障りとなる淳仁天皇(32歳)を廃して淡路へ流し、自ら復位して48代称徳天皇となった。そして仲麻呂を追いつめ処刑した。こうして、一切の障害を取りのぞき奔放に振る舞うことになる。

 早速、道鏡を大臣禅師という位につけた。以来彼女の道鏡に向けた「寵幸」が都人の口の端にのぼるようになり、紀伊への行楽にも同行させた。その翌年には「法王」の称号を与え、批判の芽を摘むために、あらゆる口実で皇族や貴族の処刑・殺戮が繰り返された。当然の事ながら行政は停滞し、寺院建造などで財政が逼迫した。

 このような暴政に取り入ろうとする取りまきがでてくるのも、世の常である。769年、「道鏡を天皇にすれば天下が太平になる」という豊前・宇佐八幡宮のご神託があった、と報告してきた者があった。彼女はさすがにこのまま神託を採用するわけにはいかず、和気清麻呂を勅使に立てて再確認させることにした。ところが清麻呂は彼女と道鏡の意に反し「天つ日嗣は必ず皇緒(皇族)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という神託があった、と報告した。彼女は激怒し、清麻呂の官位を剥奪して大隅に流した。

 この事件があった翌770年8月、彼女は後継者を指名しないまま53歳で病死した。後任には天智系の白壁王が就いた。光仁天皇である。天武系には処分された者が多く臣籍降下した者以外に候補がなかった。当然、道鏡は放逐され、清麻呂は復帰した。光仁は百済系帰化人の娘高野新笠を妻としており、次代の桓武天皇はその血をひく。ついでながら今上天皇が誕生日の記者会見でその話を持ち出し、韓国人を驚かせたという。

 さて、超駆足で彼女の時代を追ってきた。許されない「仮に」の話で恐縮だが、もし道鏡が天皇位についていたら、彼女の子は無理であったにしろ、男系の維持が危機にさらされていた可能性なきにしもあらずである。戦前、天皇の意に反した行動をとったにもかかわらず、和気清麻呂が楠木正成にならぶ忠臣に列せられていたのもむべなるかなといえよう。

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