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2005年12月11日 (日)

拾った話2件

[反戦老年委員会復刻版]

*予科練*

法事の前の席で。

   住職 仏は軍隊に入ってなさったはずだなあ、陸軍かね海軍かね?(遺族の方を見ながら)。

    未亡人と施主の長男  「・・・・・・・」(顔を見合わせて首をかしげる)。

     故人の本家の老人  あれは「予科練」だったはずだがのう、たしか。

     隣の老人 そうだ、うちには写真もある。例の「七つぼたん」の。

     住職  それじゃあ海軍だ。家には写真も置きなさらなかったかね。

 ♪「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 ・・・・・」の歌と映画で日本中の少年が浮かされあこがれた予科練。その出身者であることを妻にも子にも話さず墓場まで持っていった故人の心境を、いまさら推し量るすべがない。

 出身者24万人のうち18万人が戦死したという事実、戦後、一部の出身者が「予科練くずれ」といって、闇屋や暴力団など暗黒街を闊歩したことなどがあるが、故人はそれらを完全に封印して幸福な家庭を築くことに専念し、最後は某流通関係の社長として社会に貢献した。次は続く宴席で出た話。

 彼は子煩悩で、物が出回り始めた頃、当時学校などにも置いてない高価な天体望遠鏡を長男に買い与えた。その一方、近隣校との間で集団による喧嘩があると聞き、息子を押しとどめるどころか、「しっかりやってこい」とばかりけしかけた(「無法松の一生」にあるような話だが)。そして、かげでこっそり包帯や薬どを持ってあとをつけたという。

*陸軍病院*

  イラクに派遣されたアメリカ兵のPTSD(ストレス障害)に関連して、旧日本軍の扱いをとりあげ、精神に障害を持つ軍人を集中的に収容したところが、国府台陸軍病院であることを記事にした。

 このたび終戦前後、国内の別の陸軍病院に入院していた元軍人(80歳)の方から、次の話を聞いた。「あの病院は、入ったら出られない病院として恐れられていました。精神病というより、左がかった人も送られていたんです」

 彼は声を落として、それ以上は語ろうとしなかった。それは入院仲間の間でかなり有名な話だったようで、同病院からの転院者の話もあったとすると信憑性より高いことになる。そうすると、昨今話題となっているアルカイダ等の捕虜収容施設を米国以外の各地に作り、ひそかに拷問が行われているのではないか、という疑惑をどうしても想起せざるを得なくなるのである。

2005年12月22日

暮れの豪雪

 関西で父を失った我が家の母子3人は、越後で同じ年の春(昭和19年)、出征した叔父の留守宅に住むことになった。叔母のもとには、乳飲み子を含む3人の子供がいて、合計7人の世帯である。

 越後では豪雪地帯のうちに入らないこの地域だが、一晩に80Cm~1mと降り積もる雪で家がきしみ、ふすまが動かなくなる。中学1年になった私は、唯一の男手として屋根にのぼり、初めて雪下ろしをした。瓦を傷つけないように、雪をすくいながら落とすのは結構重労働で、動けなくなるほど疲れる。その年は暮れまでに2、3回それを繰り返した。

 大晦日の深夜、叔母とマントをかぶるようにして家をでた。叔父の武運を祈る二年参りのためだ。玄関をでるとすぐ雪の階段を4、5段のぼる。人家が向き合っている狭い道は、落とした雪で軒に届く高さになっている。おまけに道の中央は凍り付いてすべりやすく、馬の背を歩くようだった。

 灯火管制下にもかかわらず、どの家からも明るい光がもれ、雪を照らしていた。鎮守の八幡様も人々でにぎわっていた。叔母の祈りには及ばぬものの、私も必死で祈った。6人の婦女子を守るというと大げさだが、不安だし正直なところ叔父に早く帰ってきてほしかった。

 その翌年、すでに戦争は終わっていた。雪も積もったが前年ほどではなかった。叔父の帰還も日々絶望に近づきつつあった。この年、二年参りに行った記憶はない。

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