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2005年5月 1日 (日)

国民学校低学年

[反戦老年委員会復刻版]

 「あほうばか間抜け ひょっとこナンキンかぼちゃ おまえの父さんシナ人か 1銭5厘の月給で 3銭5厘の靴はいて・・・・」

 某掲示板の中味ではない。昭和1?年、関西の某校庭でケンカ相手をはやしたてている。そして教室で、先生「いいかあ、朝鮮の子と仲ようせんなあかんで、みんな、かしこくも(ここで生徒とっさに椅子をガタガタさせ、背筋をピンとのばす。強制されたのではないが上級生がそうするのを見ていて)天皇陛下の赤子(せきし)やさかいになあ」

 大詔奉戴日(毎月8日)恒例の神社参拝の道すがら、

悪ガキ「朕がプッと屁をふれば なんじ等臣民臭かろう」

 引率の先生、聞こえないふりをしている。

2005年5月2日

国民学校高学年

 昭和18年、国民学校高学年になるとそろそろ先のことを考えなくてはならない。いずれ兵隊にとられることは決まっているが。

 ♪兜をこがす炎熱を 敵の屍と共に寝て 泥水すすり草を食み>戦時歌謡から

 ああいややなあ、きたなくてしんどそう。陸軍はやめとこ。海軍はええけど、潜水艦は困るな。故障で沈んだら息もできへん。やっぱり予科練かなあ。服はかっこうええし、飛行機で体当たりしたら、痛い思うてる間もなく死ねるからなあ。

 ♪海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ

 20過ぎても生きていくことなど考えられなかった。

2005年5月4日

戦時の中学生

 好きな兵科を志願するためにも、中学(義務教育ではない)の入試突破は必要だった。入試は口頭試問(面接)だけで筆記試験はない。そして軍人が立ち会うことになっていた。すぐ回答できないときはぐずぐずせず「わかりません」と大声で答えた方が合格する、という噂だった。

 都会で入学し、すぐ田舎の中学に転校する。その町には連隊があり、軍事教練も厳しかった。整列した生徒の前を、教官がひとりひとりなめまわすように点検していく。悪い予感のとおり、用意のない私の前でピタッと止まった。

 「おまえはなぜ脚絆をしとらんか」。「ボクは・・・」。「なにい~、ボクう~。自分といえ、自分と」

 今考えると、自分=集団の一員、ボク=個人といった印象になるのだろうか。軍隊の予備校化した中学では、まず「個」をとりあげることから始まる。マインドコントロールの第一歩はすべて同じだ。

2005年5月7日

風船爆弾

 明日から大相撲夏場所がはじまる。61年前の昭和19年の夏場所は、国技館が風船爆弾の製造工場として接収された(『20世紀年表』小学館)ため、後楽園球場で開催されることになった。

 紙とこんにゃくのりで作られた風船を偏西風にのせ、アメリカ西海岸をねらったもので、ふ号作戦と呼ばれた。なんとも頼りない爆弾だったが、何発かは到達し山火事を起こし数人の死者もでたという。

 今や北朝鮮はアメリカに到達するミサイルを持ち、核弾頭もあるというが、被害がでればふ号作戦どころでない。進歩どころか、金正日が世界にまき散らす頽廃以外の何ものでもない。

2005年5月14日

星と錨に闇と顔

 戦時に幅をきかしていた階層を、抑圧されていた庶民が表現したことばである。衣料は切符制、主要食糧は配給、その他は公定または協定価格だが、贅沢品をはじめ手に入りにくいものが多い。

 それらとは縁のうすいのが陸海の軍人、闇商人、顔役をである。いずれも厳しい規制をくぐり、融通がきく特権を手にしている。「顔」は定義しにくいが、古顔の町会長とか元役人とか軍の出入り業者などの中にいる。

 横流し物資を手に入れ、高価で売る闇屋の行為は犯罪だが、軍のトップクラスになると、身内や知人の兵役をさけたり、安全なところに配属するだけではなく、意に添わない人は、わざと危険地域に配属するなどの融通?がきいた。

 その不公正さは、闇屋の比ではない。敗戦直前、情勢を察知した上級将校が、激戦地からいちはやく逃げ帰っていたことも、庶民はあとで知った。終戦により、なにかというと天皇の威をかさに着て威張りちらした軍の抑圧がなくなったことに、ホッとした人はすくなくない。敗戦はくやしいけれど、このまま軍部が続くよりましだ、と考えたのだ。

2005年5月19日

中学生の終戦前後

 中越地震のあと、この冬は記録的な大雪に見舞われた。昭和19年も暮れから軒に接するほどの雪が積もった。冬は中学低学年が担当する田植えなどの勤労動員がない。そのかわり、何日もかけて体育館などの雪下ろしをした。

 雪のとける頃、もう教室での勉強はほとんどしなかった。豚皮製の軍靴、毛布、飯ごう、非常食など軍の物資が各教室に山積みになり、入ることもできなかった。勤労動員がない時は、国語の先生が講堂で歌唱指導をしたり、体育館で鬼ごっこをしたりして過ごした。

 生徒の服装は、形も色もまちまちで金ボタンは瀬戸物、帽子の記章は金色にした紙をプレスしたものだった。大人達が「戦争は負けらしい」と噂するのを耳にするようになったのも、この頃からである。すこし前なら引っ張られたはずだ。

 本土決戦といっても、なにか現実性に欠け、悲観にくれるということもなかった。ただいつも空腹に追い回されているようで、暇さえあればごろごろしていることが多かった。

2005年5月20日

中学生の終戦前後②

 昭和20年、夏休みに入った。8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下された。報道は単に「新型爆弾」といっただけで、詳細は知らされなかった。「マッチ箱ひとつの大きさで戦艦が轟沈する、原子爆弾を発明すれば戦争に勝てるんだ」こんな話は前からあった。

 終戦の日15日は、いくらか空腹を満たせる祖父の家にいた。ラジオの詔勅は、小学校長である祖父と一緒に聞いた。変なイントネーションが耳に残っただけでよくわからなかったが、あとのアナウンサーの解説では「休戦」という言葉が何度もでていたように思う。祖父はいつまでも無言のままであった。自転車で外に出てみたら、米やの中で女性が泣いていた。「多分、負けたんだろう」という気がなんとなくした。

 20日は、最初から決められていた登校日であった。ただし集合場所は汽車で三つほど先の山間の駅で、そこからさらに奥にある国民学校へ向かった。山でブナの木を掘り返し、ソバの種を蒔く開墾作業に動員されていたのだ。

 夜、校庭で火を燃やし、大鍋でジャガイモの多いカレーライスを作った。生徒たちは夏の夜空に向けて大いに気勢をあげた。「俺たちは負けてはいないぞー」。考えてみればキャンプファイアーの初めての経験だった。

 誰かがいった。「こんなに火をもやしても大丈夫か」。そうだ、灯火管制を忘れていた。事実、16日以降にも艦載機が飛んでいた。炎のせいか、かくれて酒を飲んでいたせいか、先生は赤い顔で、恥ずかしそうにただうなずいただけだった。

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