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2005年5月 3日 (火)

郭沫若記念館

[反戦老年委員会復刻版]

 昨年9月、市川市が郭沫若記念館(くわしくは→)http://www.city.ichikawa.chiba.jp/bunka/matujaku/index.htm

をオープンさせた。郭氏は著名な文人で毛沢東の時代、政務院副総理までつとめた。その前昭和3年から10年近く、国民党に追われて日本に亡命、市川に蟄居した。

 亡命といっても共産党に近い人である。日本の官憲の厳しい監視のもとにおかれた。しかし亡命中の旧居周辺の住民は、同氏を暖かく受け入れわけへだてなく近所づきあいをした。

 同氏はこれを懐かしみ、後に感謝の長歌を詠んで地元に贈っている。

 現在、中国には反日につながるような記念館がたくさんできていると聞くが、困ったことだ。昔の中国にくらべると経済は大きくなったが、政治家は小粒になったように見える。

2005年5月8日

歴史の見方

 隣国との間で歴史問題が焦点になっている。政治的発言で「過去の歴史はこうだ」と物知り顔に説く人限って、知識の未熟さが目立つ。歴史を知る要件は3つある。

 ①我が身をその時代に置いて見る。いろいろな周辺情報を知ることでより真相に近いものが見えてくる。②古代なら数世紀、近代でも最低2世紀にわたる歴史の流れの中から歴史を把握する。③見る位置、立場を明確にする。内から見た歴史か外から見た歴史か、政治的主張を含んだものか庶民の実感か、マクロかミクロかなど。

 逆に禁じ手も3つあげておく。

 ①あらかじめ結論を決めておいて「歴史」にするな。仮説はいいが、好き嫌い、思想信条、身びいきで「史実」を作ってはならない。②1つの資料で有頂天になるな。その反対や否定を意味する資料もさがせ。資料の評価ほどむつかしいものはない。③自説がまちがっていたら常に訂正する勇気をもて。憶測をもとに「史実」をねつ造するのが、もっとも罪が深い。

 歴史は立ち話で語れない。日、中、韓どの発言もご用学者や評論家などの受け売りが多く、合格点のつくものはない。

2005年5月9日

三酔人経綸問答

 「中国などは、その風俗、風習から言っても、また地理的に言っても、アジアの小国としては、いつもこれと友好関係をあつく、強くすべきで、たがいに恨みをおしつけあうようなことのないよう、努力すべきです。中国こそ、われわれの大きな市場であって、利益の源泉です。この点を考えずに、国威発揚などという考えにとりつかれて、ささいな言葉のゆき違いを口実にして、むやみに争いをあおりたてるのは、とんでもないゆき方です。一方、こういう議論をする人もある。中国はもともと、ずっと前から日本に恨みをはらそうと思っている。こちらがたとえ礼をあつくし、仲よくしようとしてみても、いつも怒りの心を持っている。機会さえあれば、ヨーロッパの強国と共謀し、わが国を排斥し、強国の餌食にして、自分の利益をはかろうとする・・・」(中江兆民『三酔人経綸問答』岩波文庫より一部を要約)

 今のことではない。なんと明治20年、約120年も前の議論だ。もっとくわしく調べたい方は、本を見てほしいが、この間一歩も進んでいない。逆説的に言えば将来を見越していたわけで、当時の方が進んでいたというべきか。歴史問題では、このあたりも研究してほしい。

2005年5月17日

靖国と国益

 16日の衆議院予算委員会で、首相が靖国参拝継続に強い意志を示したという。実況も見てないし議事録もないので、即断になる愚を避けたいが新聞報道によると、答弁の要旨は次の二点のようだ。

 ①参拝の可否について外国からいわれる筋合いはない。②戦没者を追悼するのがなぜいけないのか。ということで、従来の論点をはぐらかした弁明と変わっていない。 この際、A級戦犯合祀とか宗教的活動といった議論はすべて棚上げにして、首相としてこれからどう行動すべきかだけを考えたい。

 まず首相の参拝について、国内世論が割れていることである。だからこそ、参拝について外交問題として口をさしはさまれるのは、賛否双方にとって迷惑な話で、内政干渉のおそれなしとはいえないのだ。

 世論調査にはいろいろな数字が出ているが、どれも参拝強行が圧倒的支持をえているとはいいかねる。しかし中国、韓国の反日デモを見て、「不当な要求に屈してはいけない」という、新たな参拝支持者をふやす傾向もある。

 次に各国の状況である。中・韓両国政府の政治的思惑は別として、報道によると両国の民衆の圧倒的多数は、日本に対して不信感を持っている。つまり東アジア全体では、小泉首相の靖国参拝に反対が数の上で支配的ということになる。そうした中で、参拝を強行すればこの地域に不安定要素を作ることになるので、アメリカをはじめ他の各国も日本に慎重さを望んでいる。

 首相は外交の頂点にいる。その任務が国益を最優先させることにあるのは、自明の理である。かりそめにも個人的なこだわりや政治権力維持のため、将来への道を誤ることは許されない。郵政民営化とは違うのだ。もう結論は出ている。靖国公式参拝はどうか見合わせてください。

2005年5月23日

サキグロタマツメタ

 アサリの殻に穴をあけ、中味をえさにするサキグロタマツメタ貝の被害により、塩釜沖の潮干狩りが中止に。この貝の原産地は中国・朝鮮の沿海で、日本の生態系破壊が深刻。(テレビ報道)

 ツメタ貝「生態系破壊?、よくいうよ。潮干狩り用に輸入アサリをまくからそうなるのだろ」

2005年5月25日

『靖国問題』を読む

 小泉首相の発言がきっかけで、日中関係のぎくしゃくはおさまりそうもない。一週間前にhttp://masima-ik.mo-blog.jp/rhi/2005/05/post_9e37.html指摘しておいた靖国参拝と「国益」について、昨日も記者から同趣旨の質問があったようだが、例により人ごとのような感想を述べただけで、正面からの回答は聞かれなかった。

 折から、高橋哲哉氏の『靖国問題』(ちくま新書)が、参拝の賛否にかかわらず必読に値するという評判を知り、近所の書店を4軒まわってやっと手に入れることができた。以下は当時の空気を吸った者としての読後感である。

①<strong>悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ。「遺族感情」が180度逆のものに変わってしまう「感情の錬金術」を靖国が果たす。戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望する。</strong>という効果を期待した者はいただろうが、実際には、感情が手品のように反転するということはなかった。

 出征兵士を送り出す時は、うぶすなの神に「武運長久」を祈願し、慰問袋に「千人針」を入れて弾に当たったり、戦死をしないよう祈った。喜んだのは戦死したからではなく、死者が天皇の主宰する国営葬儀場で特別に祭ってもらえるということからである。これは全国民からくやまれるということを意味し、近親の死をあきらめさせるのに役だったまでだ。今の北朝鮮のような異常さ(マインドコントロール)はあったにしろ、死を悲しむという人間の本能的な感性まで変えたとは言えない。たてまえはたてまえ、本音は本音である。(つづく)

2005年5月26日

『靖国問題』を読む② 

 靖国に祭られない「銃後の国民」を含む多くの犠牲者をはじめ、営々と築き上げてきた資産や領土を失って戦争は終わった。戦没者は犬死だったのである。しかし遺族を中心に、そうは思わない、または思いたくない人が多勢いたことも当然である。

 叔母の例をあげてみよう。叔父は昭和19年、3人の幼児を残して出征した。終戦の報を聞き、「まもなく帰ってくる」と日々希望に胸をふくらませたのは、叔母だけではなかった。指折りその日を待った甲斐もなく、一片の戦死公報が無惨にもその夢をうち砕いた。

 フィリピン戦線でというだけで、遺骨もなにもない。葬式を出す気にも墓をたてる気にもなれない。戦後5年以上たったある日、上京した叔母は靖国に案内を請うた。「お参りする所、ここしかないのよ」。ひっそりと静まりかえったきざはしの前で、お参りをすませた叔母の心境を、外からうかがい知ることはできなかった。

2005年5月26日

『靖国問題』を読む③

 この本でも「植民地支配」とか「侵略戦争」という言葉がしばしば使われる。その定義のしかたはわからないが、明治以来、先人が意識してそのような政策をとり続けたとは思えない。むしろ西欧のそういった暴力から、東亜をどう守るかが喫緊の課題だったのだ。しかし、結果はミイラ取りがミイラになってしまった。いずれも戦争は国外に出兵して行われているので、どう強弁してみても「侵略」を完全に否定することはできない。

 また、高橋氏は侵略行為に荷担したとして、一般の国民や兵士の戦争責任を問題にしている(第2章)。この論理は実態から離れており飛躍しすぎてはいないか。海外出兵はそれなりの名目をつけて、何度も繰り返されている。一般人には、これを侵略と認識する材料がなにも与えられていなかった。かりにそう認識したにしても、治安維持法が猛威をふるい、言論も封殺されていてほとんど拘束状態にあったといっていい。

 したがって一般国民は、終戦が軍部からの解放に他ならないことをまず実感した。負け戦に駆り立て、国民に塗炭の苦しみを味わあせた指導層の責任が厳しく追求されるのは当然の成り行きである。連合国の極東裁判がなくとも日本国民が自主的に同様の裁判を起こす気運すらあったのだ。この点、日本の一般国民は戦争の被害者とする中国政府の見解に、より合理性を認めたい。

2005年5月27日

『靖国問題』を読む④

 靖国問題は百花斉放の状態が続いている。26日、森岡厚生労働政務官が「国際法論」を持ち出してA級戦犯を擁護した。これに対し細田官房長官は「事実関係に誤りもあり、論評する必要はない」とした。 "http://masima-ik.mo-blog.jp/rhi/2005/05/post_f5d5.html賢明というべきか。政治家は偏狭な学説にとらわれるのでなく、広い視野をもった言動をしてほしい。

 さて、このテーマを4回にわたって書いてきた。その中で著述に対するいくつかの疑問点もあげた。しかし全体を通じて共感する部分の方が圧倒的に多く、特に複雑な問題を五つに分類して論点の整理がはかられた点、意欲的な資料収集に支えられている点などを大きく評価したい。

 また、靖国に代わるべき国立追悼施設の計画にも疑問を投げかけている。無名戦士の墓であろうと、無宗教であろうと、海外の例であろうと、国が関与し続ける限り第二の「靖国問題」は起きる、と警告している。

 ややたとえは悪いが、北朝鮮との国交回復に意欲を燃やした小泉首相が、仮にそれが実現したとして、抗日戦線の英雄であり、拉致を計画実行させたと見られる金日成の顕彰施設に献花するのだろうか。「死んだ人に罪がない」で国民感情がなっとくできるのか。

 「EU統合の進展で国民国家同士の対敵感情が薄れたこともあり、第二次世界大戦後のヨーロッパでは戦没者祭祀は衰退した」(同書199頁)という指摘がある。人類は、このような仕掛けに頼ることから、そろそろ卒業しなければならない時期なのかも知れない。あらたに得られた観点である。

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