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2005年5月

2005年5月 3日 (火)

憲法記念日

[反戦老年委員会復刻版]

 「憲法解釈で許容できる範囲」を模索するのと「憲法が定める精神」に則るのでは、180度の違いがでてくる。改憲議論のさかんな今日の記念日だが、両者を結びつける妙案はない。

 自衛隊に関して、憲法解釈に相当無理を重ねてきたことは、首相自身が認めている。9条2項改正にそれを解消させる仕掛けがあるとすれば、大いに警戒する必要がある。

 なぜならば、改正された次の憲法も、拡張解釈がまかり通り、9条1項が事実上空文化するのは火を見るより明らかだからだ。

 国論を無視してイラク派兵を強行したような手口を見せつけられ、また過去に戦争を起こした時の政治家や民衆の動きを知れば、9条2項のようなハードルがなぜ必要かがわかる。

2005年5月10日

最初の犠牲者

 イラクで大量破壊兵器が発見されなかったことにより、開戦の動機が誤った情報、または加工された情報によるものであることが明らかにされた。しかし、当局がその情報をとりあげたことを失敗と見るのか、あるいは期待にそった内容だったと評価するのか、まだ深く追求を受けているようには見えない。

 戦争と情報操作に関しては、バイブルともいえるフィリップ・ナイトリー氏の大著『The First Casualty』、(芳地昌三訳『戦争報道の内幕』)がある。読破できなくとも、原本の題名が第一次世界大戦にアメリカから参戦したハイムラ・ジョンソン上院議員が語った The first casualty when war come is truh  (戦争が起これば最初の犠牲者は真実である)からきていることを知るだけでも有益だ。

2005年5月12日

勝ち組

 「勝ち組」とは、もともと日本の敗戦直後、正確な情報をつかめなかったアルゼンチンの日本人移民の中で、敗戦を信用せず「勝ったのだ」と主張する組と、敗戦を現実として受け入れる「負け組」に分かれた当時、使われたことばだと記憶している。

 昨今は、結婚、就職その他の生存競争で勝者、敗者を差別する(「勝ち組」と「負け犬」のような)醜悪な使われ方をしている。その点、マスコミにも全く自制の意識がないようだ。

 最近気になるのは、前者の意味での「勝ち組」がふえてきたことだ。たとえば「東京裁判は国際法に反した魔女狩り裁判だ」とか「大東亜戦争は植民地解放をうながした正義の戦いだ」というような発言をする。

 年代によって違いはあるが、戦争を知っている世代だが戦争の被害より戦後の共産主義発展に反感を持った人とか、中国・朝鮮の反日感情に対抗するするため、日本の過去を美化する言説やパワー・ポリティックスにのりやすい若者に多い。

 上記の主張に一面の真理はある。しかしその一面だけを善悪、正邪の判断基準にすることはできない。それよりなによりも、「日本は負けていないんだ」というワンパターンの発想が蔓延することがこわい。

2005年5月13日

菊と葵

 戦争も後半に近い昭和18年、緊張した世相とは裏腹に、侠客をテーマとする新歌謡曲が生まれた。題して「勘太郎月夜唄」。この歌は、ややおくれて開放感あふれる戦後の数年間に大流行した。

 その三番の歌詞は、「菊は栄える、葵は枯れる」で始まる。菊は天皇家、葵はご存じ徳川家である。作詞家は意図していないだろうが、徳川家を「軍部」とみなすと、時代にピッタリの風刺になっている。

 天皇は戦争責任の追及をまぬがれ、軍部や旧財閥などが没落した。天皇は、新憲法により改めて「象徴」という形で地位を保証されることになった。

 最近、民主党の菅野氏や岡田氏が「昭和天皇は退位すべきだった」などといっているようだが、あとだしジャンケンの感がする。もっとも当時は占領政策もあって、天皇は開戦に反対した平和主義者で、終戦も天皇の聖断で実現したという俗説の方が優勢だった。

 昭和天皇も没後17年、軍に対する法的な地位はもとより、新資料の研究も進んできて、戦争責任はまぬがれえないのではないか、という見解が多くなってきたようだ。

2005年5月14日

星と錨に闇と顔

 戦時に幅をきかしていた階層を、抑圧されていた庶民が表現したことばである。衣料は切符制、主要食糧は配給、その他は公定または協定価格だが、贅沢品をはじめ手に入りにくいものが多い。

 それらとは縁のうすいのが陸海の軍人、闇商人、顔役をである。いずれも厳しい規制をくぐり、融通がきく特権を手にしている。「顔」は定義しにくいが、古顔の町会長とか元役人とか軍の出入り業者などの中にいる。

 横流し物資を手に入れ、高価で売る闇屋の行為は犯罪だが、軍のトップクラスになると、身内や知人の兵役をさけたり、安全なところに配属するだけではなく、意に添わない人は、わざと危険地域に配属するなどの融通?がきいた。

 その不公正さは、闇屋の比ではない。敗戦直前、情勢を察知した上級将校が、激戦地からいちはやく逃げ帰っていたことも、庶民はあとで知った。終戦により、なにかというと天皇の威をかさに着て威張りちらした軍の抑圧がなくなったことに、ホッとした人はすくなくない。敗戦はくやしいけれど、このまま軍部が続くよりましだ、と考えたのだ。

2005年5月14日

記者の暴言

 JR西日本の事故にかかわる記者会見で、読売新聞の記者が暴言をはいたとして、同新聞社が謝罪したという報道を見た。現場を知らないのでよくわからないが、記者が暴言をはいて相手を挑発し、本音をひきだすという手を使うのは、昔からよくあったことではないか。

 かつて「無冠の帝王」といわれ、一般の人並みの礼儀をわきまえていない記者が多かったのは驚くにあたらない。それが、テレビカメラが会見場に入るのが当たり前になってから、ややおとなしくなったのだろうか。

 JRも国鉄時代の駅員は横暴で無愛想だった。民営化の進展する今日、ひとり新聞記者だけいばりちらす時代が終わったのなら、こんな結構なことはないのだが。

2005年5月16日

遵法闘争

 「見切り発車」とか「遵法闘争」という言葉は、もう死語になっているかと思ったら、いくつかの国語辞典にちゃんと残っていた。辞書には書いてないが「見切り発車」は、超満員で電車のドアが閉まらないのに、見切りをつけて発車させてしまうことから始まっている。

 よくしたもので、揺さぶられているうちにわずかな隙間が埋まり、ドアが閉まる。これで振り落としたとか落とされたという話はあまり聞かない。やや時代が降るが、スト権を奪われた国鉄労組が「遵法闘争」というのをやった。

 運転手も車掌も決められている法や規則を厳密に守る。見切り発車や制限速度超過などとんでもないということだ。これだけで、電車は次々と遅れをだし、ダイヤが麻痺した。通勤者には、電車は混むし遅刻はするわで、本当のストより評判がよくなかった。

 フリーターとかニートという言葉もなく、まだ生活に精一杯の時代だが、精神的にはむしろ余裕があったような気がする。今遵法闘争をすれば、JR西日本の脱線事故や東武鉄道の踏切事故の原因を作った不合理が表にでてくるわけで、過ちを事前に防げるかも知れない。

 年に一回、遵法闘争の日を設けてもいいのでは。

2005年5月18日

「勿体ない」引用に前例

 ワンガリ・マータイさんの「もったいない」が注目をあびているが、この日本語を紹介しながら節約の演説をしたのは、マータイさんがはじめてではなかった。その人は第31代アメリカ大統領・フーヴァー氏である。直接資料ではないものの、日本における昭和初頭の空気も伝えている『銀行業務改善隻語』(一瀬粂吉氏編・近代セールス社)から、やや長い引用をさせてもらう。

 米国大絶(統の誤植か)領フーヴァ氏が一九一九年頃食糧大臣たりし時、節約宣伝の演説中に、日本語を以て「勿体ない、冥加が尽きる」と言える言葉を引用して、称揚したることあり。知らずその本家本元の現状如何、なお忠孝の二字を某国に向かって問うが如し。顧みれば、凡そわが国民ほど奢侈に流れ、金銭を軽んじ、何者も粗末にし、華に馳せて実につかず、労せずして収入の多きを望む等、本末転(眞に頁)倒せるもの宇内に比なし。況や大借金国たる国状において、殊に反省せざるべからず。

2005年5月21日

国際法の権威

 わが国最初の小学校が136年前(明治2年)の今日、京都に民営で開校した。その最上級生には、平方根の学習、英・独語の暗記などとともに、「万国公法」(国際法)の読解が課せられたという(毎日新聞・余録)。

 万国公法の概念がわが国に伝わったのは、ペルーの黒船来航時までさかのぼる。榎本武揚が箱館戦争で敗戦を覚悟した時、戦火にまぎれることをおそれて敵将・黒田清隆に贈ったのが、オランダから持ち帰った『海律全書』であった。黒田は志に感動して礼状に酒5樽を添え、陣中に届けさせた。

 明治4年、岩倉具視など新政府の要人を総動員した米欧視察団を派遣する。一行は、途中ドイツでビスマルクから次のように教えられ、目が開く思いをした。

「万国公法なるもの列国の権利を保全するとはいうものの、大国の利にそう時だけのもので、いったん不利となれば、公法に代わる武力をもってするのである」。

 イラク元大統領・フセインのパンツ姿を写真公開するのは、国際法違反。さあ世界はどう裁きをつけるか。明治維新の頃のように、国際法についてもっと真剣に勉強しなくてはならない。

2005年5月22日

ライシャワーの日本史

 「日本が指導的な役割を果たすうえではもちろんのこと、世界がかかえるもろもろの問題解決に参画し、役立っていくためには、これまで以上に意志疎通に熟達し、心底から他国民との共同体意識をもつことが日本人に求められているのである」

 これは、1986年にしるされた『ライシャワーの日本史』(國弘正雄・訳)の最終章にある一節である。日本人以上に日本に造詣が深く、もっとも日本を愛した元駐日アメリカ大使が、今日を鋭く見通していたように思えてならない。20年たって読み返す価値のある一書である。

2005年5月30日

忘れられた飢饉

 6月まであと1日なのに肌寒く、発芽温度を25度とする家庭菜園用の種が蒔けない。昔ならまちがいなく飢饉が心配になる気温だ。天気予報のお姉ちゃんのように、「すがすがしく過ごしやすい天気です」などとはいっておれない。

 有名な天明や宝暦の大飢饉では、東北地方の藩でほぼ5人に1人の餓死者がでた。そのほか明和・享保など名に残る飢饉はいくらでもある。近いところでは昭和9年の大凶作で、欠食児童、娘の身売り、行き倒れ、自殺者の増大などがあった。

 戦後になっても食料の確保が大変で、子供でさえその年の作柄が気になり、豊作を祈ったものだ。それを気にしなくなったのはほんのここ50年そこそこ。テレビでは飽食番組を繰り返し大喰競争も復活した。天罰必ずや日本にくだる日がやってきそう。

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郭沫若記念館

[反戦老年委員会復刻版]

 昨年9月、市川市が郭沫若記念館(くわしくは→)http://www.city.ichikawa.chiba.jp/bunka/matujaku/index.htm

をオープンさせた。郭氏は著名な文人で毛沢東の時代、政務院副総理までつとめた。その前昭和3年から10年近く、国民党に追われて日本に亡命、市川に蟄居した。

 亡命といっても共産党に近い人である。日本の官憲の厳しい監視のもとにおかれた。しかし亡命中の旧居周辺の住民は、同氏を暖かく受け入れわけへだてなく近所づきあいをした。

 同氏はこれを懐かしみ、後に感謝の長歌を詠んで地元に贈っている。

 現在、中国には反日につながるような記念館がたくさんできていると聞くが、困ったことだ。昔の中国にくらべると経済は大きくなったが、政治家は小粒になったように見える。

2005年5月8日

歴史の見方

 隣国との間で歴史問題が焦点になっている。政治的発言で「過去の歴史はこうだ」と物知り顔に説く人限って、知識の未熟さが目立つ。歴史を知る要件は3つある。

 ①我が身をその時代に置いて見る。いろいろな周辺情報を知ることでより真相に近いものが見えてくる。②古代なら数世紀、近代でも最低2世紀にわたる歴史の流れの中から歴史を把握する。③見る位置、立場を明確にする。内から見た歴史か外から見た歴史か、政治的主張を含んだものか庶民の実感か、マクロかミクロかなど。

 逆に禁じ手も3つあげておく。

 ①あらかじめ結論を決めておいて「歴史」にするな。仮説はいいが、好き嫌い、思想信条、身びいきで「史実」を作ってはならない。②1つの資料で有頂天になるな。その反対や否定を意味する資料もさがせ。資料の評価ほどむつかしいものはない。③自説がまちがっていたら常に訂正する勇気をもて。憶測をもとに「史実」をねつ造するのが、もっとも罪が深い。

 歴史は立ち話で語れない。日、中、韓どの発言もご用学者や評論家などの受け売りが多く、合格点のつくものはない。

2005年5月9日

三酔人経綸問答

 「中国などは、その風俗、風習から言っても、また地理的に言っても、アジアの小国としては、いつもこれと友好関係をあつく、強くすべきで、たがいに恨みをおしつけあうようなことのないよう、努力すべきです。中国こそ、われわれの大きな市場であって、利益の源泉です。この点を考えずに、国威発揚などという考えにとりつかれて、ささいな言葉のゆき違いを口実にして、むやみに争いをあおりたてるのは、とんでもないゆき方です。一方、こういう議論をする人もある。中国はもともと、ずっと前から日本に恨みをはらそうと思っている。こちらがたとえ礼をあつくし、仲よくしようとしてみても、いつも怒りの心を持っている。機会さえあれば、ヨーロッパの強国と共謀し、わが国を排斥し、強国の餌食にして、自分の利益をはかろうとする・・・」(中江兆民『三酔人経綸問答』岩波文庫より一部を要約)

 今のことではない。なんと明治20年、約120年も前の議論だ。もっとくわしく調べたい方は、本を見てほしいが、この間一歩も進んでいない。逆説的に言えば将来を見越していたわけで、当時の方が進んでいたというべきか。歴史問題では、このあたりも研究してほしい。

2005年5月17日

靖国と国益

 16日の衆議院予算委員会で、首相が靖国参拝継続に強い意志を示したという。実況も見てないし議事録もないので、即断になる愚を避けたいが新聞報道によると、答弁の要旨は次の二点のようだ。

 ①参拝の可否について外国からいわれる筋合いはない。②戦没者を追悼するのがなぜいけないのか。ということで、従来の論点をはぐらかした弁明と変わっていない。 この際、A級戦犯合祀とか宗教的活動といった議論はすべて棚上げにして、首相としてこれからどう行動すべきかだけを考えたい。

 まず首相の参拝について、国内世論が割れていることである。だからこそ、参拝について外交問題として口をさしはさまれるのは、賛否双方にとって迷惑な話で、内政干渉のおそれなしとはいえないのだ。

 世論調査にはいろいろな数字が出ているが、どれも参拝強行が圧倒的支持をえているとはいいかねる。しかし中国、韓国の反日デモを見て、「不当な要求に屈してはいけない」という、新たな参拝支持者をふやす傾向もある。

 次に各国の状況である。中・韓両国政府の政治的思惑は別として、報道によると両国の民衆の圧倒的多数は、日本に対して不信感を持っている。つまり東アジア全体では、小泉首相の靖国参拝に反対が数の上で支配的ということになる。そうした中で、参拝を強行すればこの地域に不安定要素を作ることになるので、アメリカをはじめ他の各国も日本に慎重さを望んでいる。

 首相は外交の頂点にいる。その任務が国益を最優先させることにあるのは、自明の理である。かりそめにも個人的なこだわりや政治権力維持のため、将来への道を誤ることは許されない。郵政民営化とは違うのだ。もう結論は出ている。靖国公式参拝はどうか見合わせてください。

2005年5月23日

サキグロタマツメタ

 アサリの殻に穴をあけ、中味をえさにするサキグロタマツメタ貝の被害により、塩釜沖の潮干狩りが中止に。この貝の原産地は中国・朝鮮の沿海で、日本の生態系破壊が深刻。(テレビ報道)

 ツメタ貝「生態系破壊?、よくいうよ。潮干狩り用に輸入アサリをまくからそうなるのだろ」

2005年5月25日

『靖国問題』を読む

 小泉首相の発言がきっかけで、日中関係のぎくしゃくはおさまりそうもない。一週間前にhttp://masima-ik.mo-blog.jp/rhi/2005/05/post_9e37.html指摘しておいた靖国参拝と「国益」について、昨日も記者から同趣旨の質問があったようだが、例により人ごとのような感想を述べただけで、正面からの回答は聞かれなかった。

 折から、高橋哲哉氏の『靖国問題』(ちくま新書)が、参拝の賛否にかかわらず必読に値するという評判を知り、近所の書店を4軒まわってやっと手に入れることができた。以下は当時の空気を吸った者としての読後感である。

①<strong>悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ。「遺族感情」が180度逆のものに変わってしまう「感情の錬金術」を靖国が果たす。戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望する。</strong>という効果を期待した者はいただろうが、実際には、感情が手品のように反転するということはなかった。

 出征兵士を送り出す時は、うぶすなの神に「武運長久」を祈願し、慰問袋に「千人針」を入れて弾に当たったり、戦死をしないよう祈った。喜んだのは戦死したからではなく、死者が天皇の主宰する国営葬儀場で特別に祭ってもらえるということからである。これは全国民からくやまれるということを意味し、近親の死をあきらめさせるのに役だったまでだ。今の北朝鮮のような異常さ(マインドコントロール)はあったにしろ、死を悲しむという人間の本能的な感性まで変えたとは言えない。たてまえはたてまえ、本音は本音である。(つづく)

2005年5月26日

『靖国問題』を読む② 

 靖国に祭られない「銃後の国民」を含む多くの犠牲者をはじめ、営々と築き上げてきた資産や領土を失って戦争は終わった。戦没者は犬死だったのである。しかし遺族を中心に、そうは思わない、または思いたくない人が多勢いたことも当然である。

 叔母の例をあげてみよう。叔父は昭和19年、3人の幼児を残して出征した。終戦の報を聞き、「まもなく帰ってくる」と日々希望に胸をふくらませたのは、叔母だけではなかった。指折りその日を待った甲斐もなく、一片の戦死公報が無惨にもその夢をうち砕いた。

 フィリピン戦線でというだけで、遺骨もなにもない。葬式を出す気にも墓をたてる気にもなれない。戦後5年以上たったある日、上京した叔母は靖国に案内を請うた。「お参りする所、ここしかないのよ」。ひっそりと静まりかえったきざはしの前で、お参りをすませた叔母の心境を、外からうかがい知ることはできなかった。

2005年5月26日

『靖国問題』を読む③

 この本でも「植民地支配」とか「侵略戦争」という言葉がしばしば使われる。その定義のしかたはわからないが、明治以来、先人が意識してそのような政策をとり続けたとは思えない。むしろ西欧のそういった暴力から、東亜をどう守るかが喫緊の課題だったのだ。しかし、結果はミイラ取りがミイラになってしまった。いずれも戦争は国外に出兵して行われているので、どう強弁してみても「侵略」を完全に否定することはできない。

 また、高橋氏は侵略行為に荷担したとして、一般の国民や兵士の戦争責任を問題にしている(第2章)。この論理は実態から離れており飛躍しすぎてはいないか。海外出兵はそれなりの名目をつけて、何度も繰り返されている。一般人には、これを侵略と認識する材料がなにも与えられていなかった。かりにそう認識したにしても、治安維持法が猛威をふるい、言論も封殺されていてほとんど拘束状態にあったといっていい。

 したがって一般国民は、終戦が軍部からの解放に他ならないことをまず実感した。負け戦に駆り立て、国民に塗炭の苦しみを味わあせた指導層の責任が厳しく追求されるのは当然の成り行きである。連合国の極東裁判がなくとも日本国民が自主的に同様の裁判を起こす気運すらあったのだ。この点、日本の一般国民は戦争の被害者とする中国政府の見解に、より合理性を認めたい。

2005年5月27日

『靖国問題』を読む④

 靖国問題は百花斉放の状態が続いている。26日、森岡厚生労働政務官が「国際法論」を持ち出してA級戦犯を擁護した。これに対し細田官房長官は「事実関係に誤りもあり、論評する必要はない」とした。 "http://masima-ik.mo-blog.jp/rhi/2005/05/post_f5d5.html賢明というべきか。政治家は偏狭な学説にとらわれるのでなく、広い視野をもった言動をしてほしい。

 さて、このテーマを4回にわたって書いてきた。その中で著述に対するいくつかの疑問点もあげた。しかし全体を通じて共感する部分の方が圧倒的に多く、特に複雑な問題を五つに分類して論点の整理がはかられた点、意欲的な資料収集に支えられている点などを大きく評価したい。

 また、靖国に代わるべき国立追悼施設の計画にも疑問を投げかけている。無名戦士の墓であろうと、無宗教であろうと、海外の例であろうと、国が関与し続ける限り第二の「靖国問題」は起きる、と警告している。

 ややたとえは悪いが、北朝鮮との国交回復に意欲を燃やした小泉首相が、仮にそれが実現したとして、抗日戦線の英雄であり、拉致を計画実行させたと見られる金日成の顕彰施設に献花するのだろうか。「死んだ人に罪がない」で国民感情がなっとくできるのか。

 「EU統合の進展で国民国家同士の対敵感情が薄れたこともあり、第二次世界大戦後のヨーロッパでは戦没者祭祀は衰退した」(同書199頁)という指摘がある。人類は、このような仕掛けに頼ることから、そろそろ卒業しなければならない時期なのかも知れない。あらたに得られた観点である。

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2005年5月 1日 (日)

国民学校低学年

[反戦老年委員会復刻版]

 「あほうばか間抜け ひょっとこナンキンかぼちゃ おまえの父さんシナ人か 1銭5厘の月給で 3銭5厘の靴はいて・・・・」

 某掲示板の中味ではない。昭和1?年、関西の某校庭でケンカ相手をはやしたてている。そして教室で、先生「いいかあ、朝鮮の子と仲ようせんなあかんで、みんな、かしこくも(ここで生徒とっさに椅子をガタガタさせ、背筋をピンとのばす。強制されたのではないが上級生がそうするのを見ていて)天皇陛下の赤子(せきし)やさかいになあ」

 大詔奉戴日(毎月8日)恒例の神社参拝の道すがら、

悪ガキ「朕がプッと屁をふれば なんじ等臣民臭かろう」

 引率の先生、聞こえないふりをしている。

2005年5月2日

国民学校高学年

 昭和18年、国民学校高学年になるとそろそろ先のことを考えなくてはならない。いずれ兵隊にとられることは決まっているが。

 ♪兜をこがす炎熱を 敵の屍と共に寝て 泥水すすり草を食み>戦時歌謡から

 ああいややなあ、きたなくてしんどそう。陸軍はやめとこ。海軍はええけど、潜水艦は困るな。故障で沈んだら息もできへん。やっぱり予科練かなあ。服はかっこうええし、飛行機で体当たりしたら、痛い思うてる間もなく死ねるからなあ。

 ♪海行かば水漬く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ

 20過ぎても生きていくことなど考えられなかった。

2005年5月4日

戦時の中学生

 好きな兵科を志願するためにも、中学(義務教育ではない)の入試突破は必要だった。入試は口頭試問(面接)だけで筆記試験はない。そして軍人が立ち会うことになっていた。すぐ回答できないときはぐずぐずせず「わかりません」と大声で答えた方が合格する、という噂だった。

 都会で入学し、すぐ田舎の中学に転校する。その町には連隊があり、軍事教練も厳しかった。整列した生徒の前を、教官がひとりひとりなめまわすように点検していく。悪い予感のとおり、用意のない私の前でピタッと止まった。

 「おまえはなぜ脚絆をしとらんか」。「ボクは・・・」。「なにい~、ボクう~。自分といえ、自分と」

 今考えると、自分=集団の一員、ボク=個人といった印象になるのだろうか。軍隊の予備校化した中学では、まず「個」をとりあげることから始まる。マインドコントロールの第一歩はすべて同じだ。

2005年5月7日

風船爆弾

 明日から大相撲夏場所がはじまる。61年前の昭和19年の夏場所は、国技館が風船爆弾の製造工場として接収された(『20世紀年表』小学館)ため、後楽園球場で開催されることになった。

 紙とこんにゃくのりで作られた風船を偏西風にのせ、アメリカ西海岸をねらったもので、ふ号作戦と呼ばれた。なんとも頼りない爆弾だったが、何発かは到達し山火事を起こし数人の死者もでたという。

 今や北朝鮮はアメリカに到達するミサイルを持ち、核弾頭もあるというが、被害がでればふ号作戦どころでない。進歩どころか、金正日が世界にまき散らす頽廃以外の何ものでもない。

2005年5月14日

星と錨に闇と顔

 戦時に幅をきかしていた階層を、抑圧されていた庶民が表現したことばである。衣料は切符制、主要食糧は配給、その他は公定または協定価格だが、贅沢品をはじめ手に入りにくいものが多い。

 それらとは縁のうすいのが陸海の軍人、闇商人、顔役をである。いずれも厳しい規制をくぐり、融通がきく特権を手にしている。「顔」は定義しにくいが、古顔の町会長とか元役人とか軍の出入り業者などの中にいる。

 横流し物資を手に入れ、高価で売る闇屋の行為は犯罪だが、軍のトップクラスになると、身内や知人の兵役をさけたり、安全なところに配属するだけではなく、意に添わない人は、わざと危険地域に配属するなどの融通?がきいた。

 その不公正さは、闇屋の比ではない。敗戦直前、情勢を察知した上級将校が、激戦地からいちはやく逃げ帰っていたことも、庶民はあとで知った。終戦により、なにかというと天皇の威をかさに着て威張りちらした軍の抑圧がなくなったことに、ホッとした人はすくなくない。敗戦はくやしいけれど、このまま軍部が続くよりましだ、と考えたのだ。

2005年5月19日

中学生の終戦前後

 中越地震のあと、この冬は記録的な大雪に見舞われた。昭和19年も暮れから軒に接するほどの雪が積もった。冬は中学低学年が担当する田植えなどの勤労動員がない。そのかわり、何日もかけて体育館などの雪下ろしをした。

 雪のとける頃、もう教室での勉強はほとんどしなかった。豚皮製の軍靴、毛布、飯ごう、非常食など軍の物資が各教室に山積みになり、入ることもできなかった。勤労動員がない時は、国語の先生が講堂で歌唱指導をしたり、体育館で鬼ごっこをしたりして過ごした。

 生徒の服装は、形も色もまちまちで金ボタンは瀬戸物、帽子の記章は金色にした紙をプレスしたものだった。大人達が「戦争は負けらしい」と噂するのを耳にするようになったのも、この頃からである。すこし前なら引っ張られたはずだ。

 本土決戦といっても、なにか現実性に欠け、悲観にくれるということもなかった。ただいつも空腹に追い回されているようで、暇さえあればごろごろしていることが多かった。

2005年5月20日

中学生の終戦前後②

 昭和20年、夏休みに入った。8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下された。報道は単に「新型爆弾」といっただけで、詳細は知らされなかった。「マッチ箱ひとつの大きさで戦艦が轟沈する、原子爆弾を発明すれば戦争に勝てるんだ」こんな話は前からあった。

 終戦の日15日は、いくらか空腹を満たせる祖父の家にいた。ラジオの詔勅は、小学校長である祖父と一緒に聞いた。変なイントネーションが耳に残っただけでよくわからなかったが、あとのアナウンサーの解説では「休戦」という言葉が何度もでていたように思う。祖父はいつまでも無言のままであった。自転車で外に出てみたら、米やの中で女性が泣いていた。「多分、負けたんだろう」という気がなんとなくした。

 20日は、最初から決められていた登校日であった。ただし集合場所は汽車で三つほど先の山間の駅で、そこからさらに奥にある国民学校へ向かった。山でブナの木を掘り返し、ソバの種を蒔く開墾作業に動員されていたのだ。

 夜、校庭で火を燃やし、大鍋でジャガイモの多いカレーライスを作った。生徒たちは夏の夜空に向けて大いに気勢をあげた。「俺たちは負けてはいないぞー」。考えてみればキャンプファイアーの初めての経験だった。

 誰かがいった。「こんなに火をもやしても大丈夫か」。そうだ、灯火管制を忘れていた。事実、16日以降にも艦載機が飛んでいた。炎のせいか、かくれて酒を飲んでいたせいか、先生は赤い顔で、恥ずかしそうにただうなずいただけだった。

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