2008年5月17日 (土)

地方自治

 1947年(昭和22年)4月17日に地方自治法が公布され、今日で61年と1カ月たつ。この間、同法は242件の改正があるが年平均して4件に当たる。ところがここ10年だけを取ると毎年18件改正されているという勘定になる。このところ、地方自治のありかたが大きく変貌しつつある。効率優先の道洲制なども取りざたされているが、地方自治の憲法の理念は大切にしなければならない。

地方自治法
第1条 この法律は、地方自治の本旨に基いて、地方公共団体の区分並びに地方公共団体の組織及び運営に関する事項の大綱を定め、併せて国と地方公共団体との間の基本的関係を確立することにより、地方公共団体における民主的にして能率的な行政の確保を図るとともに、地方公共団体の健全な発達を保障することを目的とする。

憲法
第93条②地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。

 東京都奥多摩町の町長選挙は、明日投票日を迎える。果たせるかなというか、昨日あたりから公金の使途不明問題に関連して、一方の陣営が自殺した元町総務課長の遺書なるものを街頭演説で暴露したことにより、選挙戦は泥仕合の様相を呈してきたようだ。

 投票率は伝統的に高い地域だというが、有権者は地方自治の原点に立ち、是非悔いのない投票をしてほしいものだ。

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2008年5月15日 (木)

漂流する「安保」5

 60年安保の頃と現在の保守系政治家の間では、外交感覚に大きな違いがあるように見える。私は当時、安保そのものはともかく、岸首相が強引な国会運営を指揮し、戦後国民が手にした民主主義を破壊するという危機感からデモの後尾についた口であった。

 国会の混乱は、衆参ねじれ現象で3度も再議決をくりかえす今の方がひどいかも知れない。しかし、岸首相があえて強行突破をはかったのは、困難な日米交渉をのりこえ、今こそ妥結させる潮どき、とみたからではないか。昨今の国会混乱は、外国でもない国民でもない、全く政治家のみの責任である。

 ソ連崩壊で、保守陣営にとっては「結果オーライ」になったが、岸としては日本の国際的地位向上と国益確保のため渾身の力を振るったにちがいない。外交交渉の現場は見ることができない。しかし、アメリカ外交は長い歴史の中で、いつも国益を最優先させ、時には強硬に、時には柔軟に対処してきたことが知られている。

 岸には戦前からのキャリアがある。日本の国益とアメリカの国益が一致しないことは当然わきまえている。しかし、対等であることを前面にだして、主張すべきことは主張するのが外交であるという信念もあっただろう。前回は、条約に有効期限を設ける主張をしたことを例に挙げ、「無期占領ではない」という意思を示したことを言った。

 政治家の日米関係のありかたが大きくかわったのは、なぜかソ連崩壊後である。2強時代が終わってアメリカ一極支配の時代が来たので、世界の帝王にひれ伏すのが国益と考えたのだろうか。特に小泉政権以降それが顕著になった。

 日米安保の軍事同盟的色彩をぼやかすのが政府の方針だった。だから「日米同盟」という言葉は反対派の方で使っていたのだ。それを逆に「日米同盟」を強調、マスコミまでそれに乗ってこっちの方が一般に通用するようになった。北朝鮮の脅威まで持ち出す情報操作のこわさがある。

 それから、関岡英之氏の『拒否できない日本』を引くまでもなく、アメリカから日本政府あて「年次改革要望書」などという指図がましいレポートのあることもわかった。そして、安倍内閣に至るまで「アメリカと共通の価値観」などと、あたかも両国の国益が完全に一致するような姿勢さえ示すようになった。

 憲法改正に執念を燃やした安倍前首相は、祖父の遺志を継ぐつもりだったかも知れないが、根っこの部分の違いをどれほど認識していたか、はなはだ心許ないと言わざるを得ない。アメリカの一極支配構造はすでにかげりを見せている。これを先取りするような政治家を期待するのは、果たして無理なのだろうか。

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2008年5月14日 (水)

自衛権ということ

 憲法9条を考える上で、いつも自衛権という言葉が気にかかります。どこから考えたらいいのか、いつも迷ってしまいます。「自衛権は人間誰しもがもっている自然権だから国がそれを持っているのはあたりまえだ」という考えがあります。個人と国を一緒にしてしまうのは乱暴な話ですが、それはひとまずおいておきましょう。

 個人が持っている自然権というのは、正当防衛のことだと思います。いきなり乱暴されたりおそわれたりしてそれを防ぐのは当然です。そのため相手がけがをしたとしても、過剰防衛でない限りはしかたのないことです。それが武器を持つとどうでしょう。アメリカ人のピストルにしても日本の武士の刀にしても、正当防衛のため使われたということはむしろ少ないのではないでしょうか。

 次に先制攻撃の問題です。相手が明らかにおそってくることがわかっているばあい、先手をとって先に一発やってしまうのはどうでしょう。ピストルでも日本刀でも一瞬の早業で勝負がきまります。これは「自衛権」ではないですね。不意打ちではなく決闘の場面だからです。

 泥棒など悪漢をせぐため、防犯カメラを置き防犯ベルや二重鍵を設ける、これは攻撃兵器ではないが自衛のための当然な行為です。そういったことをを全くしない聖人君子もいるかも知れませんが、それならば何を盗ってもいいのだ、またそうすることが正しいのだとさえ思わせてしまいます。「泥棒にも3分の理」というわけですね。

 こういった悪漢をふやす手助けになるようなことはことは、やはり避けなければなりません。むかし再軍備の議論があったとき「戸締まり論」というのがありました。これにも、国と個人を一緒にした暴論という批判がありました。

 しかし残念ながら、ニセ情報で弱小国に攻め込んだり、核を公然と脅迫の材料にする国が現存します。軍縮も思うに任せません。過去には自衛の努力をせず、強大国の保護をあてにして国が滅んだ例もあります。戸締まりは必要ないとはいえません。

 また、悪漢の家まで押し掛けていき、そこに居座って見張ることまで自衛といえるでしょうか。どんな家でも武器をもった他人があがりこみ、「守ってやるから」といって居座られ「飯ぐらいはだせ」と言われたらどうでしょう。だれだっていい気がしませんね。一刻も早く出ていってほしいと思うのが人情でしょう。

 その気はなかったのに、すっかりたとえ話になってしまいました。別にアメリカのことをいっているのではありません。日本が出ていっても同じことになります。おせっかいをやいて大失敗した過去の経験を無にしないことが大切なのではないでしょうか。

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2008年5月13日 (火)

護憲的改憲論にひそむ危険

 「護憲的改憲論」、あるジャーナリストが使っていた言葉だ。わがブログもなにかそれに入りそうだが、まず憲法に対するいろいろな姿勢を私なりに分類してみた。

 1.占領下に押しつけられた憲法だから自主憲法を作り、自衛隊を正規軍として認める。(自民党のほとんどと民主党の極右)
 2.自衛隊の存在を憲法上認知する(自民党および民主党の過半)
 3.9条をそのままとし、時代の変化等で必要になった事項を付け加える。(加憲論=主に公明党)
 4.憲法に不具合なところはない。自衛隊は段階的に縮小する。(主に社民党、共産党)

 ここで言えば2.と3.だ。私も9条を守るという前提で、漠然とそう考えていた。しかし、安倍改憲指向内閣の崩壊、海自のインド洋給油活動の継続や自・民で恒久法の実現ををさぐる動きなどの中から、第5の考えを抱くに至った。それはすでに申し上げたことがあるが、9条に次の第3項を加えるほかは全く手つかずでいいということだ。

 ③公務員は、法律に定めがある場合をのぞき、武器を携行し、または利用して外国または日本国領土以外の地域で行動してはならない。

 なぜそうなるかを説明したい。現行憲法は、前文、第1章 天皇、第2章 戦争放棄、第3章 国民の権利と義務、第4章 国会、第5章 内閣、第6章 司法、第7章 財政、第9章 改正、第10章 最高法規、第11章 補足となっている。明治憲法もほぼ同じ構成だ。

 これをさらに整理すると、前文から第2章までが、日本のアイデンティティおよび国民統合の象徴としての憲法理念をうたっている部分だ。それが主権在民であり、天皇であり、平和であるという密接不可分の関係にある。その次から憲法の中味に入っていき、最も重要な部分である「国民の権利義務」、三権分立の「立法」「行政」「司法」といった国家の機関、7章以下は、手続きと補足で、大きく言って3つのブロックから成り立っている。

 自民党の改憲案を見てみよう。第2章を「安全保障」と題を変え、第1項の戦争放棄条文を残したまま、それとは全く異質の「自衛軍」条項を盛り込んだ。そのため、最初の憲法理念はずたずたになり、国民の権利義務など、最も基本的な条項の前に自衛軍の任務や行動規範をもってくるなど、法文としての体裁が全く狂ってきた。

 かりに、後ろの方の章に持ってくるにしても、憲法には他省の所管業務である警察や海上保安庁や消防などの組織について触れている部分などない。新憲法を作るといいながら、現憲法をいじくり回したあげくの奇怪な案が自民党案だ。

 民主党の方も、小沢理論により、国連の決議があれば自衛隊の海外派遣をする、そのためには現9条1、2項のあとに3項を付け足して、などという案が聞こえてくる。これも上と同じような矛盾を抱え込む危険があり、依然として解釈改憲に道をひらく可能性も残している。

 国連は見ての通り、いつも公正公平な神の決断を下すわけではない。またそれが我が国の国益や憲法の精神に合致するとは限らない。国際情勢や国際環境はこれからも激変する可能性がある。そのような予見不能なことを憲法にうたっておく必要はない。より改廃しやすい一般法にゆだねる方が現実的だ。

 9条により厳密なしばりを加えて、自衛隊は専守防衛に徹すること、その上で、国際貢献などに武力行使あるいは武力による威圧を排除して何かできるかを検討する、というけじめを明確にしておくことが必要だ。それには、憲法違反状態をつくりだした日米安保の運用方針を改めることからはじめなくてはならない。

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2008年5月12日 (月)

花の命は短くて

 林芙美子の詩の意味は全くない。シュロはなぜか観葉植物としてあまり花を愛でる人はいない。だけどなかなか堂々として色鮮やかで立派ではないか。花の命も決して短いとはいえない。2008_05110005

 ところが、造園業者などのプロは「花は早く切り落としなさい」という。観葉植物としての「葉」の成長を妨げるからだそうだ。

 そこでシュロの嘆きの一首……、

 花の命は短くて 葉のみ見る目の 多かりき 

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2008年5月10日 (土)

漂流する「安保」4

 このシリーズの3を書いてから半月近く間をあけてしまった。続けて書いた方が見ていただけるような気がするのだが、現・安保条約へのステップには非常に奥深い物があり、無手勝流の当ブログで簡単に要約するには手に余る問題だ。

 現在、安保を肯定する側も否定的に考える側も、単純に「日米同盟」と言うだけで、生まれる前から(祖父である岸総理の前で「安保、ハンタイ、安保、ハンタイ」とはしゃいだ幼児がこの前まで総理大臣だった)存在する与件、つまり、その出発点として議論の余地のないものという扱いを受けているように思える。

 岸が、駐留の事前協議を含め改定の3大要点とした中に、「条約の有効期限を定める」と言う1項があった。旧安保には期限が定めてない。つまり、国連がアメリカに変わって安全措置をとるまで、条約は無期限に有効ということになる。岸は、占領を無期限に続けるという印象になることを恐れていたのだ。

 米側は、これですらオーストラリアその他の各国との条約もそのようになっていることや、議会対策の困難などの理由をあげて当初は応じなかった。しかし、結果として10年の有効期間と、その後は1年の予告期間を置いて条約終了ができる旨変更された。

 岸は、旧安保を改定する理由に国連加盟と日本の国力アップをあげた。現在、その頃にくらべても比較にならないほど国際環境が変化しており日本の地位も高まっている。1970年を過ぎているので、38年前からいつでも安保の改定や終了通告ができるのだ。この点、岸の遺志が全然生かされていないことを、草葉の陰でどう思っているだろう。

 岸は、占領の継続とさして変わらない旧安保を、アメリカと対等な立場に立つ独立国にふさわしいものに改めるということに執念を燃やし、アメリカ国内の改定不要論に真正面から立ち向かって、現在の形のものにこぎつけたという功績者である。しかし、日本では歴史的ともいえる猛烈な締結阻止運動を受け、条約発効と同時に議会混乱の責任をとって岸内閣は総辞職せざるを得なかった。

 岸の戦後レジーム脱却(安倍のそれとは違う)の願いは、愛国的動機だったかも知れない。しかし、東西対立の中でアメリカが戦争をすれば、ただちに巻き込まれるという国民の恐怖心があったことと、岸が「いずれ自前の憲法を持ち、再軍備しなければ真の独立を達成できない」という考えの持ち主であり、開戦を決めた東条内閣の閣僚をつとめ、A級戦犯でもあったことから、「戦前回帰を目指すもの」として反対運動の火に油を注ぐことになったことも否めない。

 アメリカ側もそうだが、岸は当初議会承認に手間取る条約改正より、旧安保に付属させる協定を変更して条約改定と同じ効果を得ようと考えたことがあるようだ。つまり、官僚による手抜きである。しかし岸はあえて困難な途を選んだ。

 たしかに条約改定にはいろいろな困難が伴うことは事実である。そこで改定を棚上げしたまま、協定、共同宣言、指針、ガイドラインなどいろいろな形で安保を変容させ、自衛隊の憲法違反状況を作ってきたのだ。これも、岸の望んでいたこととかけはなれているように思えるのだが。

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2008年5月 9日 (金)

なぜ日本は戦争に突入したか②

 以下のテキストは、アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・化学部報告の冒頭にあるもので、『日本における戦争と石油』奥田英雄・橋本啓子訳編(c)石油文化社、による。(前回の続き)

 1941年(昭和16年)中頃には事態は絶望的となった。アメリカの輸出制限措置が効果をあげるにともない、同国からの石油輸入は急速に低下しはじめた。その間にも、日本の陸、海、空軍は増強され、1935年(昭和10年)から数年間にわたって慎重に積み増しされてきた石油備蓄を食い潰しつつあった。

 日本の内閣はこうした情勢を深刻に受けとめた。この重大な時期に、どのような討議が内閣で行なわれたかについて、日本の最後の戦争内閣の陸軍省次官であった若松(只一)中将は石油・化学部調査団の質問に対し、次のように答えた。

 “1941年(昭和16年)の夏には、日本の政府にとって、急速に減少しつつあるアメリカからの石油輸入の復活はとうてい期待できないことが明らかとなった。唯一の代替策は石油の新規供給源を獲得することであった。この面では、あらゆる指標からみて、オランダ領東インド(現・インドネシア)が入手可能な唯一の実質的な石油供給源であった。

 しかし主としてアメリカからの、次いでイギリスからの外交上ならびに商業上の圧力のために、東インドの供給源を交渉による妥当な条件で手に入れることは全く不可能と考えられた。事実、オランダ政府との交渉は1941年(昭和16年)6月に完全に決裂した。

 日本が採りうる最後の手段は、武力をもってこれらの諸島を奪取することであった。しかしこうした行動を採れば、3大強国、すなわちアメリカ、イギリスおよびソビエト連邦のうちの1国、またはそれ以上の諸国と交戦状態に陥ることは、日本の内閣にとって明白であった”。

 若松中将がさらに述べたところでは、ソビエトを攻撃することについても検討されたという。政府指導者のうちの幾人かは、“極東地方でソビエトを攻撃すれば、アメリカとイギリスは双方とも一致してこれを支持するであろう。そしてこの2大強国は、日本がソビエトをあいてとする大作戦に必要な燃料を得るために南方の石油資源を占領する副次的作戦を理解かつ是認するであろう”と確信していた。

 アメリカがすでにさまざまな島々を占領していること、イギリスも他国の属領に軍隊を派遣していること、そしてこれらの行動が(世界で)大目に見られていることなどが論議された。

 これに対し他の政府指導者は、“そうした推論は誤りである。アメリカとイギリスは南方油田の占領を侵略行為そのものとみなし、日本の大規模戦争計画、すなわち、対ソ戦争との関連を考慮することなく、個別のものとして対応するであろう”と主張した。

 最終的に、この後者のグループの意見が通った。すなわち、ソビエトに対する攻撃は南方油田占領の口実にはならないと判断された。採るべく途はアメリカとイギリスを攻撃することであった。若松中将によれば、これが真珠湾攻撃を決定するに至った政府内討議の経過であった。

 実際に行なわれた真珠湾攻撃は、シンガポール、グアム、ミッドウェーその他の米英基地――そこからアメリカとイギリスの艦隊は、日本が本土と南方との間に確保しなければならない輸送船護衛ルートに対して作戦を展開できる――を叩き潰すためのものであり、占領を目的としたものではなかった、と若松中将は強調した。

 1941年(昭和16年)12月にアメリカとイギリスを攻撃したとき、日本は、本土の石油備蓄がなくなる前に南方の石油供給源を占領して採取し、そして生産された石油を日本に運ぶための海上ルートを確保する能力がある、と過信した。その後の3年間にわたる事態の推移は、それがいかに誤算であったかを暴露した。

(本項の引用終わり)

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2008年5月 8日 (木)

なぜ日本は戦争に突入したか①

 原油の先物価格が、食料品などをまきこんで果てしない暴騰を続けている。もはや世界の経済秩序を破綻させる寸前まで来ていると言えば過言になるだろうか。これを機会に、「アメリカ合衆国戦略爆撃調査団・石油・科学部報告」の冒頭にある「なぜ日本は戦争に突入したか」の部分を読み返してみたい。

 以下のテキストは、『日本における戦争と石油』奥田英雄・橋本啓子訳編(c)石油文化社、による。

 “何が日米間の戦争の最後の引き金となったのか?”という質問に対して、海軍軍務局長保科(善四郎)中将は1945年(昭和20年)にこう答えた。“石油の輸入停止である。石油なくして日本は生きることができない。石油なくしては、中国との戦争を成功裡に終結させることもできず、国として生き残ることもできない。ゴムやボーキサイトの供給も絶たれたが、いずれもなくてはならなぬ物資であった。1941年(昭和16年)11月26日にアメリカから最後通牒を受け取ったとき、われわれはもはや一国家として存続することができないと決断した。そこでわれわれは戦ったのだ”

 ほとんど石油のない日本は、すでに1939年(昭和14年)に外交的には解決できない石油ジレンマに直面した。なんなく征服できると予想したいわゆる“支那事変”は、勝負のつかない消耗戦という膠着状態に陥っていた。この年(39年)日本の内閣は、中国における作戦が日本の総生産の40%を消耗し、高価な原材料(とくに石油)の在庫を危険なまでに食い潰しはじめていることを知らされた。

 一方、ヨーロッパでも戦争の危機が迫っていた。そしてアメリカでは、石油を日本に無制限に販売することに反対する世論が高まりつつあった。こうしたアメリカの犠牲の上に成り立っていた日本の近代の戦争体制は、アメリカからの石油供給が切断されると、もはや身動きができなくなり、何もできなくなるにちがいなかった。

 日本の1937~38年(昭和12~13年)間を特徴付ける矢継ぎ早の緊急対策や立法措置は、送ればせながら日本がこの窮地(石油ジレンマ)に気付いたこと、そしてその解決のために、いささか狂気じみた対策を採りはじめたことを物語るものであった。

 まず最初に支那事変の解決が試みられたが、中国は日本軍の同国からの撤退なくしては、平和条件に応じるはずがなかった。一方、日本は面目を失うことなく、中国から軍隊を引き揚げる術がなかった。そこで日本は中国へこれ以上侵略することを辞めて、すでに占領している地域の安定を強化することを決定した。

 しかしこの作戦は、現実には石油消費を増大させる結果となった。かくて日本は総合的な生産力増強を目的として、5カ年計画、兵器増産のための6カ年計画、人造石油生産設備増強のための7カ年計画など、一連の政策を設定し、1938年(昭和13年)には日本を完全な戦時体制下におくための国家総動員法を制定した。

 とはいえこれらの政策は、いずれも日本の石油ジレンマを解決するものではなく、石油備蓄は1938年(昭和13年)以降目立って減少した。オランダ政府との間にオランダ領東インド(現インドネシア)からの割当量増加を要請する交渉が行われたが、成功の見込みはほとんどなかった。(以下次回に続く)

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2008年5月 7日 (水)

中国思想

 胡錦濤国家主席の来日が、今後の日中関係にどういう影響をもたらすか未知数であるが、すくなくとも日本人が中国および中国人をどう見るかについて、考える機会を作ったことだけは間違いがない。これまでも中国要人の来日はあったが、オリンピック、チベット、餃子など比較的国民に身近でセンシティブな問題が続発したこともあって、単なる外交儀礼的あるいは、友好促進を超えた効果が期待できるのではないか。

 中国で大昔からある教訓、「和而不同」を題名としたエントリーを先月初めに掲載したが、これが検索にヒットしコンスタントなアクセスが続いている。中国・朝鮮を特殊化し、鬱憤のはけ口にしようという流れは依然としてネット上などで優勢だが、それではなにも解決しないという考えも定着してきた。中国を敵視するならば、まず「己を知る」ことから始めなくてはならない、これも中国の有名な兵法、孫子の言葉である。

 『中国思想を考える*未来を開く伝統』(中公新書)という本がある。2年前の5月5日になくなった金谷治博士の書で1993に書かれ、やや古典に属するという見方があるかも知れないが、上に掲げた諸事件の推移や処理をあてはめてみると意外に符合している内容があることに驚かされる。

 最近、中国政権が盛んに用いる合い言葉は「和諧」であり、胡主席来日でもキャッチフレーズのように使われている。日本ではなじみのない言葉だが、「和」は日本語の解釈通り、「諧」も似た意味だが「調和」というニューワンスを持つ。まずその辺りを同書で見てみよう。

 『論語』の「和而不同」も中庸の精神を説いたものだが、『左史伝』に晏子(あんし)の言葉として「和は羮(あつもの)の如し」というのがある。これも有名なたとえで、羮を日本で言えばちゃんこ鍋のような料理の、おいしいスープの作り方を説いている。

水のなかに酢や醤油、塩や梅をまぜて熱を加え、魚や獣の肉をぐつぐつ炊きます。そうして「和して味を調え、不足を増して過ぎたものを減らす」のです。料理のことを考えていただけば宜しいのです。水だけ、あるいは塩だけでは、よい味はできません。鹹(から)いもの甘いもの酢っぱいもの、いろいろな味をまぜ、雑多な具を煮てこそそこによい味かげんが得られます。材料は多すぎたら減らす、足りなければ増やす、――中庸ですね。そうして得られるのが味の調和です。(以下略)

 また「それは遠い古代のことで、今の共産中国は違う」という人がいるかもしれない。これについて同書では中国共産党創立にかかわったマルキシズムの理論家・李大釗(りたいしょう)の論文を紹介している。

李大釗は血気にはやる青年を抑えて、むだな争いはするなと言います。ある意味でたいへん中国的だと思うわけですが、相手を倒そうとしてつっかかるばかりでは犠牲を多くするだけだ、そこで調和の法則に従えというわけです。調和ということがたいへん実践的に考えられています。李大釗はこういうのです。調和というと、一般にはたがいに譲りあうことだと考える、おたがいに自分を抑えてへりくだって相手を立てて、それで全体が調和してゆけるというようにです。しかし、それは間違ってはいないが、それだけに止まっていてはいけない。「両譲に始まって、両存に安んずる」で、調和の境地は我も人も生かされるところにある。競争といえば調和を妨げるというように考えるのは誤りで、それでは全体の進化とか活発な組織はみな滅びてしまう、自分は両存の調和を愛する、また競立の調和を愛すると、こういうように申しております。

 もちろん中国の人全員が古典や賢人の論文に精通しているわけではない。また解釈も考えもそれぞれ違って当然だ。ただし、指導層は激しい権力争いの中で、中国の伝統に基づく方策に活路を見いだそうとしていることはたしかだと思う。こうした中で、媚中だとか嫌中だとか反日だとかの硬直的発想にとらわれている限り、進歩に取り残されるのは日本の方になる、ということを心すべきだろう。    

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2008年5月 6日 (火)

奥多摩町長選挙

 東京都奥多摩町は青梅線の終着駅である。そこから登って、大菩薩峠の方から来る水源を小河内ダムでせき止めてできたのが奥多摩湖であり、都民の手近な憩いの場である。町の面積は都下どの自治体より広大だが、人口は9千人弱、伊豆大島や八丈島と同程度である。

 そこで任期満了にともなう町長選が、5月13日告示、18日投票で行われる。現在立候補を表明しているのが、
  河上文夫(63)現
  室川定義(67)新
の2人である。

 山口2区の衆院補選などと違ってマスコミで報道されることは少ない。通常なら対立候補なしで現職が無投票当選するケースだったらしい。ところが、なかなか「わけあり」の選挙になってきたようだ。一昨年の6月、同町総務課長(58)が山梨県の山中で手首から血を流して倒れているのが発見され、間もなく死亡したことに端を発する。

 近くに登山ナイフが落ちており、自殺とされたが、同日公費流用に関連し警視庁の事情聴取を受けることになっていた。この公費というのは、「都立奥多摩湖畔公園・山のふるさと村」の雑草刈り込みやトイレ清掃などの運営を都が町に委託し、それを更に「奥多摩湖愛護会」というところへ再委託する課程で発生した約5100万円の使途不明金である。

 この詳細を記す材料はないが、町の調査などで98年度頃には既に発生していたことが明らかになっている。また、当然のことながら100条委員会が設けられたが、当初7人だった委員会を、課長の自殺?などがあって急遽全議員参加の会に切り替えた。

 委員会は、前収入役など複数の職員の関与をほのめかしたものの、真相は司直の手にゆだねるとし、都への返還金支払いを急いだ。この課程で議員や周辺企業などに利権にからむ噂が飛び交ったり、町長以下の責任回避に対する批判が潜行した。

 潜行というのは、町全体が町長を敵に回すと町で商売ができなくなる、とか町の体質を変えるのは無理といった雰囲気があったことを示す。しかし、さすがに与党を構成した議員の中にも「くさい物にはふた」は限界だとする有志がでてきて、固辞する室川氏を擁立するに至った。

 室川氏は、社会党結成に参加した故・山花秀雄代議士の私設秘書を務めたことのある人で、普通なら擁立にまわった保守系議員とは肌合いが違うと思われるはずた。しかし、町政刷新の為にはこの人しかない、という懸命な説得があったに違いない。報道はされないが、このようなケースは全国で決して少なくないのではなかろうか。

 

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