2017年1月17日 (火)

官営「明治150年祭」

 「明治150年」関連施策各府省庁連絡会議というのが内閣官房「明治150年」関連施策推進室にできる。

 

 平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から起算して満150年の年に当たります。
 明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。
 このため、「明治150年」に向けた関連施策を推進することとなりました。

 

 だとさ。まあ、年を区切って歴史を考え研究する、大いに結構なことだ。だけどお役所がしようとしていることは、記念事業として箱ものづくりとかイベントとかを通じた選挙活動のようなことをしようとするたくらみだろう。

 

 大いにくさしてやろうと思ったが、「明治100年」に際し、歴史学者・色川大吉が自著『明治の精神』の中で、すでに講演でのべたことを書いている。まずそれを紹介しておこう。

 

私は明治維新をまず考えます場合に、のっぺらぼうに百年が連続したという考え方、これは歴史的なものではないと思います。先ごろ佐藤首相が自分の選挙地盤である山口県に遊説にまいりましたときに、選挙民に対して、

 「自分は明治百年の記念の準備をやっている責任者である。わが山口県、長州は偉大な明治の指導者を生み出し、日本の近代史の成功のために非常な恩恵をもたらした郷土である。たとえば高杉晋作は多くの明治の指導者を鍛えたではないか。しかし昔は昔、今は今、昔晋作、今栄作()、栄作の世代が晋作の世代をたたえるときがきた。土地をあげて喜ぶべきではないか」

 「今晋三」にしてもこんな程度だろう。色川は経済の発展や近代化を祝いことほぐ前に、維新は戊辰戦争をはじめ西南戦争で日本人同士が殺し殺される中で生まれ、アジアを舞台に日清・日露・第一次大戦・満州事変・支那事変・太平洋戦争と悲惨な戦争の歴史を繰り返してきた歴史がなかったような扱いにしてしまうお祭り騒ぎを嘆いているのだ。

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2017年1月15日 (日)

《危》、天皇はずし

 大統領大荒れの韓国とアメリカ、日本の首相は兆単位のおみやげをぶら下げて外遊三昧。そんな中で気が付かないような危険極まりない「天皇はずし」が進んでいる。天皇の退位に関する「有識者会議」なるものがあって近く結論を出すという。

 安倍首相は「有識者会議」を多用する。「安倍首相の独断ではないよ」という煙幕を張る道具で結論は最初から決まっている。想像通り、現・天皇一代に限った特別立法で対処し、皇室典範は附則でそれを認める、というようなことだ。

 それも、平成30年を区切りとし、2019年元旦から新元号にする。それが、天皇や皇太子の意向であるのかどうかもわからない。皇室に関する重要事項は皇族代表2名を含む「皇室会議」の議を経ることが法律で決まっており、有識者会議などとは権威が違う。

 ここでは、皇室会議を開催せず、退位問題に皇族を参画させないという意見が出ているとされる。天皇は内閣の助言に基づき、自分自身に関する法案を、何の相談もないままサインだけさせられる。その理由が、憲法に「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるから、国権の最高機関である国会が決めることで、それ以外の意見は不要、というものだ。

 皇族の意見、天皇の意向は斟酌されない。かつて前例を見ない不遜・不敬な扱いで、人権無視の極みである。国賊と言っていいほどのレベルである。さきの戦争でも、開戦・終戦の際、それぞれ複数回の御前会議が開かれた。

 旧憲法下では国の意志を決める最高機関である。しかし憲法の趣旨に従い、天皇の積極的発言を控えていた。開戦前は「戦争やむなし」の機運が支配していたが、昭和天皇の意向は「反対」だった。その気持ちは明治天皇の御製で示された。

 よもの海
 みなはらからと思ふ世に
 など波風のたちさわぐらむ

 終戦の時の御前会議は、敗戦を意味するポツダム宣言受諾派と徹底抗戦派が同数となり、天皇の裁定を求められる中で、終戦を決めたのは昭和天皇の決断だった。

 新憲法第一章は「天皇」である。それにかかわる重要事項の変更について、国会だけで決めるという。それも紛糾回避のため、特別立法とし、皇室典範は附則改訂で済ますという姑息な手段を考えている。

 そうまでして安倍首相の思うままに政治を操ろうとする。また、過半数を握っているから当然だと思っている。首相は、自らを「立法府の長」と言い間違えた。

 自民党総裁だからという錯覚からか、あるいは本気でそう思っているのかも知れない。憲法改正に向けたトレーニングだとすればあまりにも危険だ。これに対して民進党も不感症的対応しかできない。議論を避ける情けない日本になったものだ。

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2017年1月13日 (金)

パソコン、苦戦

 新パソコンに思った以上の苦労をしています。

 便利になったのでしょうが、新機能が理解できない。私にとっては古く慣れた方が便利なので、新しい方に慣れるまで古い方を処分せず、当分は両刀使いで行きます。

 テーマを探す苦労の方が楽でした。トホホo(;△;)o

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2017年1月11日 (水)

パソコン乗り換え

 本日、使用中のパソコンを別メーカーのウインドウズ10搭載の新機に乗り換えます。引っ越しなどの理由で更新が遅れるかも知れません。

 あらかじめご了承ください。m(_ _)m

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2017年1月 9日 (月)

新時代、国連は不要?

 一昨年が戦後70年だった。去年は日米開戦75年。安倍首相がハワイに出向いた。それで、時代の区切りをつけたつもりになっている。マスコミもそういう観点で大きく報道していた。

 折から、アメリカのトランプ大統領の出現やヨーロッパ政界の地殻変動気運もあって、時代の劇的変化の始まりとする論調が巾を利かす。これを、前回の「超楽観年頭所感」として取り上げ、果たしてそのような即断をしていいのかどうか、疑問を呈した。

 終戦の年は、8月15日をはさんで6月26日に「国連憲章」がサンフランシスコで調印され、10月24日に発効したが、「それから70年」という報道は大きく取り上げられなかった。同様に、国連憲章そのものもこれまで広く知られているとは言い難い。

 前回の記事の付録として、以下にその「前文」を記録する。

     ----------------------
われら連合国の人民は、
われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、
基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上を促進すること、
並びに、このために、
寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、
国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、
共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び経済的発展を促進するために国際機関を用いることを決意して、
これらめ目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われらの各自の政府は、サンフランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機関を設ける。
     ----------------------

 気が付かれた方も多いと思うが、「日本国憲法」の前文とどことなく似ているのである。最初に出てくる「戦争」という文字は、以後憲章全文を通じて一切出てこない。第一次大戦後に制定された不戦条約が生きているという前提に立つからである。

 その後の戦争は、もっぱら自衛という名目をつけて行われた。これは、機会を見て別にとり上げたいが、「日本国憲法」はアメリカから押し付けられたというより、このできたばかりの国連憲章を下敷きにしていると見る方が当を得ている。

 現在、加盟国は193か国に達する。安保理を中心とする国連改革などの要請は強い。しかし、常任理事国5か国の拒否権で機能不全と言われた時代も、変化のきざしがある。加盟国が地球規模に達したため、総会の3分の2以上という数の前には大国も抵抗しがたくなっているのだ。

 安保理以外の貢献も無視できないだろう。仮にトランプ新米大統領が「新時代になったから国連は不要」などとコモン・ディーセンシー(市民の良識)に逆らう発言をすれば、世界の笑いものになり、そこでアメリカも終わりであろう。

 アメリカが主導して作られた前文の否定は、即国連の否定につながるからだ。

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2017年1月 7日 (土)

超楽観年頭所感

 活字離れというが、塾頭は毎朝新聞を見るのを楽しみにしている。正月休み中は、今年の予測、抱負とか希望的観測といった「おめでたい」記事が通例となる。ところが今年は違う。まず「トランプ」の名が大津波のように紙面を覆う。

 同時にヨーロッパ、アジアでも何十年来経験したことの無い「大変化」がありそうだと不安をあおり、お屠蘇気分もすっ飛んでしまう勢いだ。

 その原因は、世界を覆う「反・グローバリズム=孤立主義」「ポピュリズム=衆愚政治、大衆迎合主義」「右傾化」などであり、それを動かしているのはマスコミを凌駕したSNSなど、無責任な過激情報だとする。

 これは、マスコミ媒体の「敗北宣言」である。そういった意味で、当初ブログに殺到した匿名、無責任、過激発言を旨とする「ネット・ウヨ」は、同じネット論陣でもブログから離れてしまったようだ。それを嘆くべきか喜ぶべきかは別として、一条の希望の光がないわけではない。

 戦後、民主主義・議会主義・自由主義、言論・討議の在り方を勉強する中で、中庸とコモン・センスが重要な位置を占めることを知った。「コモン・センス」は和製英語っぽいが、「コモン・ディーセンシー(市民の良識)の勝利」と呼ばれている状況が去年の暮れにあったのだ。

 それは、オーストリアの大統領選である。難民の排斥を訴えた極右政党の候補が46%、EUを堅持し、従来続けてきた安定への努力を訴えたファン・デア・ベレン氏の得票率は53%(いずれも出口調査)で、ヨーロッパにおける右翼大躍進の流れを僅差で破ったのだ。

 これから、フランスの大統領選があるが、極右である国民戦線のマリーヌ・ル・ペンが女性候補として浮上してきた。仮に彼女が当選すればEU瓦解に拍車をかけることになる。大戦後、ヨーロッパに恒久平和をもたらすため、叡智を集めてスタートしたのが欧州共同体だ。

 これが、国家本位のトランプ流に傾けば、これまでの努力が水泡に帰すことになる。オーストリアは小国ながら、欧州での戦争と平和に大きく影響してきた国だ。同国のコモン・ディーセンシーは、共同体の発起人であるフランスはもとより、その他の国々に波及するはずだ。安倍首相のいう「戦後レジームの脱却」などとは比較にならない重みがある。

 もちろん、トランプのように大方の予想が覆るということはあり得る。しかし、トランプ自身、大統領就任後は、コモン・ディーセンシーから大きく離れた政策はとり得ないだろう。それがなければ、与党や議会の混乱はもとより、暴動を警戒しなければならなくなる。

 そうすると、混迷を極める東アジア情勢も、ナショナリズム依存体質から脱却し、軌道修正を迫られるのではないか。塾頭の超楽観年頭所感である。

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2017年1月 6日 (金)

准高齢者

 どういう人の集まりか知らないが「日本老年学会」というのがあって、この度、高齢人口の増加に伴い、その肉体的・精神的能力を見直す必要から、高齢者を3段階に区別する提言をしたのだそうだ。

 それは、65歳から74歳までを「准老齢」、75歳から89歳を「老齢」、100歳以上を「超高齢」とするものだ。

 「後期高齢者」という言葉を当局が決めた時も、さんざん非難を浴びたものだが、今回提案した用語は、より無知・無感性というしかない。

 いつからそうなったのかわからないが、正看護士に対して准看護士、助教授は准教授になった。最初に聞いた時なんとなく耳障りな言葉だと思った。

 「准」とは「なぞらえる」というような意味で、「本当は資格がないのにそれに準じた扱いを認める」というとらえ方だ。昔の漢和辞典をひくと単語は「准后」があるだけだった。

 准后は、皇后以外の女性が皇子を生むと母親は「准后」と呼ばれた。どう見ても「正式ではない」という意味が込められており、呼ばれる方もなんとなく嬉しくないだろう。

 「超高齢者」もひどい。老齢者人口の1%ぐらいらしいが、高齢者のレベルを飛び超えた特別な存在で、「高齢者の枠外」にあると言われているような気がする。

 そういう分類は必要かも知れないが、呼ばれる人たちの気持ちもよく考えて名づけてほしい。パート・ワン、パート・スリーなどとした方がよほど気が利いていると思う。

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2017年1月 4日 (水)

宗吾霊堂

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  17世紀中ごろといえば完全な近代。それなのに真相は闇の中で、伝承だけがが独り歩きしている。その人の名が「佐倉宗吾」。

 農民の窮状を救うため将軍に直訴して目的は果たしたものの、厳しい詮議を受け刑死した義民である。その一部始終は巷間にいろいろな形で伝えられ、芝居にもなった。

 関東では、反権力の代表格で平将門がいて人気も高い。初詣では必ずマスコミで紹介される神田明神に祀られている。

 この宗吾霊堂も伝統的に庶民に愛されている。しかし、すぐ近くの成田山新勝寺などメジャーな参詣スポットがあり、そこから足をのばすにはやや遠く、至って静かなたたずまいである。

 塾頭の地元といっていい場所だが、反権力とはいえ、今回の初詣が初めて。

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2017年1月 3日 (火)

「獣の道」

 去年の最後に、不安な今年の世界の要素として、「テロ」→「イスラム」→「悪」という短絡思想を掲げておいた。もうひとつの短絡思想は、安倍首相がよく使う「共通の価値観」である。昔の「自由陣営」「共産陣営」の対立を念頭に置いて、「民主主義」→「自由主義」→「議会主義」を共通の価値観と表現したものであろう。

 ところが、この3つはそれぞれ異なる概念で、史上深刻な対立を生みながら17~18世紀頃、すでにルソーやヘーゲルなど、西欧の哲学者や思想家たちが論じてきたことである。

 北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」である。「民主主義」は飾りにつけているのではない。自由がないにしろ、為政者を人民投票で選び各段階の議事を経て決定していくという手続きは民主主義に沿っている。自由主義でないから民主主義でない、という理屈は成り立たない。

 民主主義は、多数を以て勝者とする。したがって少数者にとっては、自由が奪われる結果を生み、自由主義は侵される。だから、民主主義は時として独裁者の恰好な道具とされることもある。そのためのテクニックが情報操作・宣伝・教育であり、ヒトラーもその顕著な例にあげられる。

 中国では、人民や軍は党の指導を受ける対象であり、マスコミも党宣伝部が指導する。また北朝鮮のテレビ映像が日本でもよく流れるが、国民向け宣伝に向けた努力は涙ぐましいと言っていい程だ。

 そういった矛盾を解決する方法として、議会主義がとり上げられるわけだが、これも日本の現状をから見て、三者一体の価値観を構成するには程遠い。それについて、一時ヒトラーを支えたことのある法学者・カール・シュミットは、1988年に公刊された『現代議会主義の精神的状況』
(樋口陽一訳・岩波文庫)の中で議会主義の陥穽を次のように指摘している。

 やや難解だが、内閣支持率を高めながら、民主主義の破壊に余念のない安倍政治(「獣の道」)への危険信号として、年頭に打ち上げておきたい。

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 公開性と討論というこれらの二つの原理のうえに、立憲主義的思考と議会主義が、きわめて首尾一貫した包括的な一つの体系をなして基礎づけられている。それらは、一つの全時代の正義感情にとって、本質的で不可欠的なものと見られていた。公開性と討論によって保障される均衡が本来的に実現すべきはずのものは、まさに真理と正義それ自体にほかならなかった。公開性と討論によってのみ単に事実上のものである力と権力――自由主義法治国家にとって、それはそれ自体として悪であり、ロックが言ったように「獣の道」(way of beasts)である――が克服され、法のみが力を手にするのだと考えられていた。「力(forse)にかわる討論(discussion)」。これこそ、かような思考様式を特に特徴づけることばである。
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2017年1月 1日 (日)

賀詞

20172


 開塾 12年目 へ m(_ _)m

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