高見順の『敗戦日記』を久しぶりで手に取った。たまたま開いた頁が昭和20年7月26日の分である。その日彼は、内務省・情報局から「啓発宣伝事業に関して御懇談を致したく」という手紙で呼び出され、上京している。
集められたのは文士だけでなく、広く文化芸能団体関係者ということで、その場で配られた「紙」の全文を高見は日記にすべて書き写している。それが歴史上重要な意味を持つようになるということを、察知していたのかも知れない。
塾頭も、読み返してみて、この公文書を今あらためて記録しておくことの意義を感じた。それは、中国が攻めて来たらとか、北朝鮮と戦争になればなどと、気軽に話す手合いが多くなったからである。戦争宣伝や攻防の現実を知ってもらうため、やや長いが文末に主要部分を転載する。それほど”戦中・戦後”は遠くなったということである。
この会議には、机をたたき大声で叱咤する神がかりの意見を言う人、志気を昂揚させるなら、言論出版結社の自由を認めよとする「佐倉惣五郎」のような人、冷静で落ち着いた客観的意見を言う人など色々だったようだ。
そして、高見はこう書いている。
気違いじみた大声、自分だけ愛国者で、他人はみな売国奴だといわんばかりの馬鹿な意見が天下に横行したので、日本はいまこの状態になったのだ。似而非愛国者のために真の愛国者が殴打追放され沈黙無為を強いられた。今となってもまだそのことに対する反省が行われていない。
この時期、すでにポツダム宣言が発表され、最高戦争指導会議では天皇の指示で戦争終結の方向が打ち出されている。高見も国民も、まだそんなことは知る由もない。しかし、なんとなく負け戦となり、奇跡が起きたとしても日本が勝てる見込みのなさそうなことは、みんなが肌で感じている。
高見はかつて治安維持法で検挙され、いわゆる「転向作家」となり釈放させた経歴を持つ。このような日記を書いて、もし特高警察に発見されたら、今度は助かる見込みがないはずだ。だが、当局の士気高揚の呼びかけは、もはや断末魔の叫び声に聞こえたのではないか。人々は小声ではあるが一時よりは自由にものを言うようになっていた。
さらに下記の「要領」を見ると、開戦当時は、三国同盟の力強い盟友として賛美を惜しまなかったドイツが、負けたことによりその国民や軍をみそくそに罵倒し、反面反撃に成功したソ連・英国などをほめあげている。そのソ連が2週間後に突如対日宣戦布告をし、日本の敗戦を決定的にしたのは、何とも皮肉なことではないか。
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国民士気高揚に関する
啓発宣伝実施要領
(昭和二十年七月情報局)
第一 宣伝方針
一、本宣伝は沖縄戦局の我に不利にして敵空襲の激化並に本土決戦必至なるの秋軍官民を挙げて断乎戦ひ抜くべき決意の下、七生尽忠、一人以て国を興すべき熾烈旺盛なる戦意を昂揚するに在り
二、本宣伝においては左の諸点を強調徹底す
イ 今や本土決戦必至にして皇国の存亡を決するの秋なり、来るべき本土決戦こそは皇国の存亡を決する決定戦なり、本土決戦に敗れんか皇国他日の計を図るべき途絶対になし
我国民は一人を残さず惰性による無関心、安易感を断乎排除し全生活、全精力を挙げて本決戦に勝つの一点に集中し、如何なる危急困苦にも敢然耐へ抜くべき決意を固むべし
ロ 本土決戦をして大殲滅戦たらしむべし
この決戦により我は敵の大兵力を一挙に殲滅し去り最後の勝利獲得の好機たらしめんために一億結束して必至敢闘すべきなり
ハ 本土決戦に際し皇国民たるの自覚と衿持を遺憾なく振起すべし
本土は神霊鎮まります父祖伝承の地なり断じて敵の蹂躙を許さず、敵来たらば来よ、その時こそ徹底的に撃破すべしの気概を振起し、個々の生死を超越し身を皇国に捧げて悠久の大義に殉じ帝国の光栄と歴史を守り抜くべきこと
ニ 国民戦争の本義に徹すべし
本土決戦とならば一億国民一人残らず戦列に加わる、国民義勇隊結成の所以もまたここにあり、隊伍盛盛一糸乱れず生産に防衛に死力を尽くすべし
第二 宣伝の内容
一、敵の本土侵寇時期は切迫せり
沖縄地上作戦の終結の次に来るものこそは必然的の空襲激化に続いての上陸作戦による本土侵寇なりしかもその時期たるや数旬乃至数ヶ月の近きにありと観ずべし
二、本土戦場化必至なり
洋上及水際に敵を撃破すれ共、まぬがれての敵兵力の上陸も亦必至と考ふべし、従つて本土の一部は敵兵の蹂躙せられ全国土は敵の猛砲爆撃に曝され本土は挙げて戦場となるべし
三、本土作戦の有利なる点次の如し
イ 本土作戦は大軍集中及び補給の点に有利なり
我方は所要の地点に敵に数倍する兵力を迅速に集中且つ之に対する補給も敵に比し遥に容易なり
ロ 我は日本的特攻兵器の活躍に期待する所大なり、敵の空襲による航空機の減産は已むを得ずとするも戦場近接に伴ひ実動機数の増加は急激に上昇すめのみならず特攻基地は無数に整備せられありて同時常続的攻撃の可能なるを知るべし
ハ 敵米英の北仏上陸の場合はその大根拠として目鼻の間に英本土あり、我本土上陸に際してはかかる近接根拠地を有せず洋上長途の補給に敵の弱点あり
ニ 我本土には数百万の陸海精鋭部隊あり、その背後には更に数千万の義勇戦闘隊顕在するあり
四、戦争放棄は国体の破壊日本民族の滅亡なり
イ 我国体と離れて我国民は存在せず、日本人に降伏なし
ロ 敵の野望は我国体を破壊し我国民一人残さず殺戮若くは奴隷化し皇国を地上より抹殺するに在り
ハ 戦争放棄は国民一部にのみ死と奴隷化をもたらすに非ず、如何なる階層、如何なる立場を問わず一人を残さずかかる非惨(註=原文のママ)なる運命に導くべし
ニ 降伏後のドイツの現状よりも遥かに苛酷なる条件下に置かるべし
五 敗戦的思想の徹底的払拭に努べし
イ 徒に敵の物量におびえるは誤りなり
ロ 目前の空襲被害其他の状況により我戦力を過小評価するは誤なり
ハ 敵陣にも苦悩の色濃厚なり
ニ 重要生産施設の疎開復旧も着々進捗しあり
六、戦争は意志と意志との闘争なり
イ 戦争は全精力を集中し右顧左眄するなく、遮二無二突き捲り押し捲り、最後の一瞬まで頑張りぬく方が勝つ、本土決戦は我らに課せられたる未曾有の大試練なり、これに耐へて耐へ抜く場合我々は勝つ、戦局急迫の余り「どうともなれ」の気持が微かにでも動くとき我等は敗る、強靭不屈、精神的にも肉体的にも徹底的に頑張り通し貫き通すべし
ロ 欧州戦線における「スターリングラード」「ダンケルク」を見よ、前者に在りてはソ連が実に千数百万を戦没せしめつつもその強固なる意志と団結により最後の土壇場において、破竹の勢いにて無人の野を行くが如き独逸の大軍を一挙に押し返し、究極の利を占めたる好適例、後者は敵英の大軍が仏国戦場にて一敗地に塗れ、独空軍の縦横無尽なる猛爆に曝されつつその本土正に危殆に瀕せるにかかはらず英国民は老幼男女を問はず見事なる秩序を保ち、屈せず撓まず遂に独逸を屈服せしめたる実例を冷静に考察すべし
七、我国と「ドイツ」は根本的に異なる
イ 我国体は万邦無比なり
ロ 「ドイツ」き軍隊三百万の捕虜を出だせる事実に比し、我が皇軍将兵悉く特攻隊なり
ハ 「ドイツ」の指導者はその信念と態度に欠くるところあり
ニ サイパン、硫黄島、沖縄何れにいても我官民は常に一体協力し来たり、「ドイツ」にその例を見るを得ず
八、敵の思想謀略の激化を厳戒すべし
イ 敵は同時に我国民の戦意の低下、軍官民離間等を狙ひ、伝単、放送等あらゆる手段による思想謀略を激化せしむるは当然予想せらるるも、我は皇国民たるの自覚に徹しその企画を破墔すべし
ロ 和平希望の思想及戦争傍観的態度は敵謀略の乗ずべき間隙なり
九、我々は一に戦ふのみ
畏くも第八十七臨時議会に賜りたる勅語において
「爾有衆ノ忠誠武勇ニ信■(にんべんに奇)シ共ニ難苦ヲ分チ以テ祖宗ノ遺業ヲ恢弘セムコトヲ庶幾フ」と仰せられたる御聖旨を畏み、我国民は如何なる難苦にも堪へ、臥薪嘗胆、一人の戦争傍観者あるなく軍官民真に一致結束一切の不平不満を排除し、以て各職任において決死体当りを敢行すべし
第三 宣伝の対象(省略)
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塾頭補注) ほかに「航空機等特定兵器緊急増産に関する啓発宣伝実施要領」があり、家庭工業で木製飛行機を作ったり、松根油増産を指示しているが、「飛べぬ飛行機」生産に「叱る指導」をしてはいけないなどと書いてある。
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